第二章 波紋
ここは延暦寺大書院の一室である。柚木クリスティーンはその一室で天台座主渡辺利光と対坐していた。柚木の隣には轟太と島村瑠璃が並んで座っている。座主は轟が持参した白川久男の封書を柔らかな光を宿らせた表情で静かに読み入っている。照り返す日差しの夏空の下で蝉時雨に混じって声明が響きわたりさやけき早朝のひとときに厳かな彩をそえている。柚木は座主の体幹が強い一本の樫の木が着座しているかのようなその姿を黙って見つめていたのだが緊張感に押しつぶされそうな感覚を覚え目の前の煎茶に口を着けた。
ここに柚木が島村と轟と一緒に訪問しているのは白川から懇願されてのことである。日曜日に天台門徒のデモをリポートした柚木にその夜、白川から連絡があった。白川とは彼がICSSの代表を務めていたころ、当時柚木が所属していたメジャーなニュース配信局で一度インタビューを行ったことがある。柚木はインタビュー時に白川のその圧倒的なパワーや存在感に魅了された。インタビュー後、白川と何回か会う機会があったのであるが、その後柚木が退社することになり、また白川は代表を退いてICSSも外資の傘下となり接点がなくなってしまっていた。しかし柚木は圧倒的なパワーを有する白川のその後には常に気をかけていたところでもあった。その時に思わぬ白川からのメッセージが届いたのである。白川が極秘裏に会いたいということで彼の言葉を信頼してインディーズ・ウェブで会うことを決めた柚木に白川はそこで彼が計画している概要を説明したのである。毎日のように今までの暮らしが少しずつ窮屈なものに移り変わっていくことに違和感を覚えていた柚木にとっては、その白川への絶大なる信頼感も重なり即座に白川への協力を快諾したのだった。白川は京都でのデモを見て天台座主と協力できないかを考えたのである。渡辺座主と面識のあった柚木は木曜の朝七時にアポを取ることができた。表立って動きたくない白川は元妻の甥っ子である轟太を名代として京都に向かわせることにしたのだった。轟は長野の実家に戻っていたのだったがそこに農業体験という名目で長野観光に来ていた島村も轟からの懇願で同道することになり早朝の叡山に今座っているという次第だ。
長い封書を読み終えた渡辺座主は柚木に向かって話し始めた。
「白川さんの趣旨については大まかには理解した。その趣旨に賛同はするがいくつかわからんことがありますの」
「ありがとうございます。ご質問はどういったものでしょうか」
と柚木が応対する。
「まず、このAIでの政治の支配というものがよくわからんのですよ」
柚木は現在政府が進めようとしているAI支援による行政システムの改革について一通り説明した。それによると現在日本政府ではマザーと呼ばれるAI管理システムが提案する最適な行政の方針と従来の官僚が作成した政策とを比較しながら政権としての決断を人が行っている。マザーの提案というものはデータベース化された過去百年にわたる行政案件から深層学習により最適なものを導き出したものである。この提案がどのような考えに基づいてなされたものかの説明ができないことが政府側の大きな課題である。従来の慣習や既得権益側の圧力を押し返して行政改革を進めるためにはAIの行政支援が不可欠なのではあるが、政策決定の説明時点で既得権益側がメディアを使って攻撃してくるためにマザーの最適な運用が行えていないといったことが現状である。それで政府はAIマザーに説明責任を行わせようと現在東工大の石井琢磨教授とそのシステムを開発中である。この問題は米国政府が使用しているAI支援システム、グレート・イーグルでも同様で米国では白川が以前開発した人格形成モデルを使用してグレート・イーグルに人格を持たせAI自身に政策決定の説明責任を行わせようとしている。問題なのはこの米国のグレート・イーグルと日本のマザーを連携させようという動きが水面下で行われていることである。白川の予測ではAIマザーは人格を持たないシステムであるので人格を持ったAIシステムであるグレート・イーグルに最終的には支配されてしまい、日本そのものがアメリカというよりはその背後に蠢いている国際資本に完全に支配されてしまう将来に帰結することである。これについて当事者である、米国政府も日本政府も気づいていないことが問題なのである。当事者たちは日米連携を瞬時に行い、対抗するEUや共産圏との問題を有利に導くための手段としてしか認識していない。人格形成システムの生みの親である白川はその最悪の事態を避けるべくアメリカ側のそれより高位の人格形成システムを現在構築しているのである。それは日本人の代表的な心である、和の精神に基づいたシステムであり、その人格形成のため該当する人々の行動をビッグデータ化するためにインディーズ・ウェブは構築された。賛同者のそこでの行動一つ一つがデータベース化されてAIの人格を形成していくことになる。最終的にはそのAIによる賛同者のための自立した世界を構築することが白川の考えているインディーズ・ウェブの世界である。
渡辺座主は柚木の説明を静かに聞いていた。
「その人格とやらが完成した折には日本のマザーやアメリカのグレート何とかより強力なシステムになるのではないか?」
柚木が答える。
「そのように聞いております」
「しからばそれをもって日本の行政どころかアメリカをも支配しようと考えていらっしゃるのかな?」
今まで沈黙していた島村が割り込んだ。
「座主さん」
思わず渡辺が苦笑する。
「白川さんの目的はあくまでもインディーズ・ウェブ内に日本人が過ごしやすい仮想空間を作ることです。そこでお互いが和の心をもって協力しながら暮らしていける空間を作ることを目標としています。その中では現実世界と同じように香りや、味覚そして触感もあります。その仮想世界において現実世界で失われた和を大切にする世界を作り、そこで人々が満足に暮らしていける世界を構築することなんです」
「現実世界でも生きていかねばならぬことに変わりはなかろうに?仮想世界とやらで食べる感触はあっても現実に腹は膨れんだろうに」
天台座主の言葉に一同返す言葉がなかった。
「されど、白川さんの趣旨には賛同できる。拙僧は協力するにあたり何をすればいいのかな?」
柚木が口を開く。
「渡辺座主、ありがとうございます。白川のほうにその旨伝えます。おそらく今夜、白川からメッセージが届くはずですので、それに従っていただければインディーズ内で白川がより詳しく説明することになるでしょう」
「わかった。白川さんに伝えてくれ。お会いできるのを楽しみにしておると」
そう答えると渡辺座主は徐に席を立った。
「まことに済まないがこれにて失礼する。この後もう一人客人があるのでな。皆さんはごゆっくりしてください。今は百日紅や鬼百合が美しい季節じゃてな、盛夏の境内を十分に満喫してくだされ」
渡辺座主が立った後残された三人は大役を終えた安堵感に浸っていた。
「瑠璃さん、俺一言もしゃべんなかったすよ」
轟太が大きく息を吐きながらつぶやいた。
「島村さんでしょ」
一堂に笑顔が戻った瞬間であった。
席を立った座主の渡辺はそのまま奥にある貴賓を迎える座敷へと向かった。渡辺が座敷へ入るとそこには軽登山のいでたちの総理秘書宇梶実の姿があった。
「宇梶さんといったかな、遠いところをこの暑い中ご苦労様じゃったな」
「いいえ、座主こそわざわざお時間を作っていただき誠に恐縮でございます」
「して、用向きは何かな。京都の仏教界では孫知事の移民計画撤廃を確認するまでは後に引くつもりはありませんがのう」
「座主、ここだけの話とご了解いただきたいのですが総理は今回のデモに反対しておりません。逆に支援をしていきたいという所存で御座います」
「権力者が反権力を打ち上げている団体に支援とは片腹痛いわ、はっはっはっは」
宇梶は昨今の日米の政治動向を説明した。来る米大統領選挙ではエイミー・ディキンソンの圧勝が予測されること。それにより大沼総理が退任し後任にキャサリン青木が総理となり、ディキンソン新大統領の外国首脳会談の第一号として青木との会談が予定されていることなどだ。
「事情は分かるが青い目をしているとはいえキャサリン青木も日本人。日本の総理になる以上、国益に沿って国政と外交を担うのが本分じゃろう。そこに人種の差があるとは思えぬが如何に」
「大沼が恐れているのは青木政権が五代幹事長の傀儡政権となることです。詳しくは話せませんがそうなった場合、我が国に対して国際資本の影響が強まることとなります。座主、ご内密にしていただきたいのですがエイミー・ディキンソンの下で自衛隊を米軍の参加に置こうという計画も国際資本が考えているらしいといった噂があります」
その言葉に渡辺座主は決断すべき時が来ているのを悟ったのであった。
「ふむ、相分かった。それで総理はどうなさるおつもりじゃな」
「おそらく総理退陣後、下野なさることと思われます。それを見越しての今回のデモ支援とお考え下さい」
「我ら仏教徒は仏の教えに従って行動起こすまでのこと。総理がご支援したいのであれば勝手になさるのがよろしいとしか申せませんな」
そして渡辺座主は続けた。
「まあ、楽になさるがよろしい。今回の件は私の胸に秘めておくと総理にお伝えくだされ。そして、我が国の民も考えを同じにするものが多くいるということを忘れるでないとお伝えくだされ」
そう言い残して去っていく渡辺に深々と頭を下げる宇梶であった。蝉時雨がここぞとばかりうち騒いでいる中、低音で穏やかな旋律を伴った声明の響きが宇梶の耳に心地よく残った。
柚木クリスティーンの案内で二条城と八坂神社を観光した島村瑠璃と轟太は四条大橋で夏の風物詩である川床と鴨川に沿って等間隔に並んだカップルの姿を暮れ行く宵のひと時と共に楽しんだ後、四条通にある柚木のお気に入りの小料理屋に入った。すでに個室を予約してあったようである。
「今日はお疲れさま、朝早くから天台座主のあの威厳にフルボッコ状態だったけど何とかお役は果たせたようね」
「そうですね。柚木さんも突然の依頼にかかわらず快くご案内していただいて大変感謝しています」
「瑠璃さんも、柚木さんもそう社交的にならずにもっとパっと行きましょうよ。とりあえずお疲れさんです。乾杯」
「乾杯」
「もう、島村さんでしょ。かんぱあい」
三人とも肩の荷が下りたくつろいだ状態で京都の地ビールを堪能している。突き出しは鱧胡瓜と酢のものである。ほのかに夏を感じさせる舌ざわりで臭みのないあっさりとした味わいが口の中に行き渡っている。
「白川さんとはどのようなご関係なんですか」
島村が柚木に尋ねた。
「クリスティーンって呼んでちょうだい。私もあなたたちのこと瑠璃と太って呼ぶから」
「ええ、クリスティーン、分かったわ。それで?」
「瑠璃、心配しないで。お仕事の関係だけよ。白川さんがICSSの社長やっているときに一回だけインタビューしたことがあったのよ。その時、知ってるでしょ。私メジャーな配信局で右斜め四十五度の女で有名だったじゃない。白川さんも快く引き受けてくれてね。それ以来の関係。あくまでもお仕事での関係だけど、彼のあの圧倒的な存在感というものには魅せられたことは確かね。それ以来おりにつれAIについて勉強させてもらったんだけど、私がああなっちゃったでしょ。そのうち彼も大変なことになって連絡つかずにいたんだけど、この前、彼から突然連絡来てね。あの京都御所でのデモのリポートで私を見て連絡をくれたの。それで突然、天台座主を紹介してくれって言われたときはびっくりしたわ」
「クリスティーン、ありがとう。あなたと白川さんの関係のことじゃなくてあなたがどこまでインディーズ・ウェブについて知っているのかを知りたいのよ」
柚木は意地悪く島村を横目で見て
「ふーん、インディーズ・ウェブのことは白川さんから大体聞いているわよ。それに私もあなたたちと同じメンバーよ、すでに」
「そ、そうなんすっか。俺嬉しいです。一緒に頑張りましょう」
「それで、太と瑠璃は白川さんとどうやって知り合ったの?」
「俺は、叔母さんが白川さんの元嫁なんですよ。それで小さいころ遊んでもらっていました。叔母が離婚した後しばらく関係途絶えていたんですけど、今年の四月かな。叔母から白川さんが会いたがっているって連絡があったんで会ってみると有無を言わさず、インディーズ・ウェブに協力しろって引きずり込まれたんです。以上です」
いつもの通り何ともあけっぴろげな説明ではあるがとても分かりやすい。
「瑠璃は?」
「瑠璃さんは俺のゼミの助手やっている人で白川さんに島村っていうきれいな助手の人が憧れの存在だって言ったら、ぜひ会ってみたいと言われてインディーズに誘ったんです」
柚木が轟に笑みを浮かべながら訪ねた。
「太、あなただったら付き合う女の子に不自由しないでしょ。それとも年上の女がいいのかな?」
「瑠璃さんみたいに知的だけどかわいい人っていないっすよ」
「もう、島村さんでしょ。いつも言っているじゃない。でも轟君の言っていることは本当よ。ただ白川さんは私の父の後輩にあたる人みたいでそれで会いたがったんだと思うわ」
「瑠璃のお父さんって?」
「もうずいぶん前に母と一緒にいなくなったの。AIのアルゴリズムの研究やっていたらしいんです。いなくなった当初は警察も探してくれたんだけど結局見つからなくてね。でも心配しないで。ずいぶん前の話だし、私にとっては思い出の一つ」
「お父さんの名前なんというの」
「譲、島村譲。東工大の研究員だったの」
「ごめんなさいね。でも覚えておくわ。何か力になることあるかもしれないし。鱧の天ぷらが来たわ。さあ食べましょうよ」
鱧のコースである。鱧料理は京都の夏の定番である。島村のリクエストで柚木がここの女将さんに特別に準備してもらったものだった。そのあと会話は柚木が今、京都で行っている古都再発見プロジェクトの話題に移り三人とも深まる京都の夏の宵を愉しんだのであった。
島村たちが京都での一夜を愉しんでいるころ比叡山の座主渡辺はインディーズ・ウェブへエントリーし白川と対坐していた。目の前では白や薄紅色の蓮の花がその花弁を閉じ、その水面には半月が雲間に見え隠れしながら揺らいでいる。その池に浮かんだ唐風の四阿の中で渡辺と白川は池を眺めながら対峙しているのであった。渡辺座主は黄金色の法衣といった装いである。対して白川久男は白のタキシードといったいで立ちだ。盛夏の纏わりつく湿気の中、一陣のそよ風が二人を過ぎった。
「白川さん、拙僧にどのような事をお望みかな」
「御坊、この日本という国と民を導いてくれないでしょうか」
白川の説明は今朝訪問した三人の若者たちが話した内容に沿っていた。そのうえで白川はAIに人格を持たせるために必要なのは日本人が古来尊重してきた和の心が最終的に重要な変数という説明をした。その言葉に渡辺は深い同意を覚えるのを否定できなかった。AIの考えにも、単に合理主義的に最善を導き出すのでなくそこに人間が長い歴史の間に多くの過ちを犯しながら育ていつくしんできた心が必要だというのだ。渡辺自身は今世界がどのように変化しているのか決して敏感に認識しているわけではなかったが、ある日突然一方的に押し付けられる正義というものに大いなる憤りというものを感じていたのは事実である。その正義とは渡辺たちが千年以上を通して守り続けてきた心というものをいともたやすく踏みにじって、メディアを使い大いに喧伝している様に思われる。それに対して強い違和感を抱いていたのも事実である。渡辺はそのような考えを逡巡させながら白川に尋ねた。
「白川さん、その考えには深い同情を覚えるが具体的にどのような行動を拙僧に求めているのかお聞かせ願いたい」
「御坊、まず仏教界からこのインディーズ上で指導者足り得る二十人ばかりの人を早急に選び出すことが重要です。その指導者の下に多くの人をこのインディーズ上で教え諭していただきたい。そうなれば彼、彼女らに同調者を募らせ、この仮想世界にて一つの纏った主義に基づく集団が形成されます。その上で現実の社会に我々の気持ちを訴えかけることを考えております。そうなればこの日本の行く末を変えることができるのではないでしょうか」
「一つ確認したい。あなたはその現実社会で指導者になりたいのか」
「御坊、答えは否です。私は指導者の地位を望んではいません。その気概もありませんし指導者にはもっと若い人がなるべきでしょう。そういった意味で御坊に面会させた三人の若者は適格者たり得ると考えますがいかがか」
その言葉に渡辺座主は満足げに苦笑いしながら答えた。
「白川さん、道は長いのう。されどあなたのお気持ちしっかりと受け給わり申した。拙僧も微力ながら尽力するとご理解くだされ」
「御坊、ご理解いただき大変感謝いたします」
「白川さん、現実社会にて自治を行うには自衛の手段も必要であろう。どのようにお考えか」
「あくまでも平和的手段で自治を確保すべきではないでしょうか」
「平和的手段で行うことには賛同するが、権力が武力の行使に至った場合、対抗する術がないのではないか?」
「そこまでは考えておりませんでした。私としてはAIマザーの攻略ができれば自治権を保持できるのではないかと考えていました」
「白川さん、仮想社会で自治を確保できても現実社会で実現できない限り夢、幻の砂上の楼閣にすぎないことを心されよ。その点、叡山の僧は昔から自治を守るにはどうすればよいかよく知っておる」
「そうですね。以前、陸自の情報部門からシステム開発の相談を受けたことがあります。その際応対した担当者は尊敬に値する人物でしたので彼に相談してみるのは可能かもしれません」
「そのものの名前と所属はわかるかの?拙僧も陸自の元幕僚長とは知古の間柄でな。彼にでも相談してみよう」
町田の居酒屋黒木屋のテーブル席では早川仁美が看護師の先輩たちとレモンサワーの杯を上げていた。
「新谷先輩、やはりあの幸寿園どう考えてもおかしいと思いませんか?木村のおばあちゃんもいなくなっちゃいましたよ。あのおばあちゃんも身寄りのない独り者だったじゃないですか。きっとユニ・グローブ社の人体実験にされているんですよ」
「仁美ちゃん、あんまり大声で騒がない」
「でもいくら知的障害者といえ、人権問題じゃないですか!」
同僚の日向真知子も口を開く。
「先輩、先生たちに話しても曖昧にされるだけなのはおかしいと思いませんか?」
「真知子、先生たちも深い事情を知らないようだわ。私も相談したけれど触らぬ神に祟りなしって感じだったわね」
「それじゃあ、この事に口を噤んで違法な人体実験を見逃せってことですか」
「違法とは限らないからそのような言い方は慎むべきね。でも病院関係者は頼りにならないのは確かね。理事長が五代幹事長と入魂の間柄だからうちの病院以外に告発すべきじゃないかしら」
「この間、比叡山のお坊さんたちのデモのリポートやっていた柚木クリスティーン一度うちの病院に取材に来たことあったじゃないですか。彼女に相談するのはどうですか?」
「そう、それいい考えかもしれないわね。でもどうやってコンタクトとる?メールだとユニ・グローブの検閲に引っかかるかもしれないわよ。そうなったら危ないわ」
「そんなにやばい状態になっているんですか」
「噂だけどユニ・グローブ社の案件で内部告発した人たちが姿を消しているらしいわよ。あくまでも都市伝説めいた噂だけどね」
「それじゃあ、人体実験の件ではなくて京都のデモの件で相談したいとかでメール打つのはどうでしょうか」
「それで会ってもらえるかしら」
早川仁美は目の前で人がいなくなっている現実に憤るも、なす術が思いつかず途方に暮れていたのであるが同僚たちとの会話により道が開けていくような感触を持ちつつあった。
元陸上自衛隊幕僚長の荒木昇は満月のもとに蒼く照らされた比叡山延暦寺の大書院の茶室で天台座主渡辺利光と対峙していた。
話は一週間前に遡る。目黒にある風林山大昌寺の住職より荒木の元へ連絡があった。それによると座主の渡辺が内密に会いたいとのことであった。渡辺とは天台宗の会合で二度ほど面識があったので人を介しての密会の要請にただならぬ事態を予感した荒木は一週間後の日曜日の午後十時に参内する旨住職に返答したのであった。一週間も間をあけたのは京都中が僧侶のデモで大騒ぎになっている間に叡山に徒歩で登ろうと考えたからである。そのほうが人目を避けやすいからだ。京都中がデモで騒がしい午後一時に京都駅へ降り立った荒木は二条城などを見学して時間をつぶした。その後午後八時に比叡の麓坂本駅に降り立ち登山服に着替えて登山道を延暦寺へと向かった。途中で時間調整をして十時丁度に大書院を訪れ、今、天台座主と対峙しているのである。
「座主、ご無沙汰しております。座主に置かれましては達者なことでなりよりでございますな」
「荒木さん、遠いところご足労おかけして申し訳ない。ちと、あなたに相談したいことがあっての」
「願ってもないお言葉です。この荒木でできることでありましたなら何なりとお申し付けください」
「荒木将軍、いや元統合幕僚長であったな。あなたは日本のために命を捧げる覚悟は出来ておるかいのう」
渡辺は柔らかいが隙のない冷徹さを覚えさせる眼光にてしっかりと荒木を見据えていた。荒木もその視線を受け止めて渡辺を、いやその背後に存在する名もなき人たちの思いを見るかのように答えた。
「大僧正、わたくし十八の年より防衛大学に進んで以来この身はこの国のために捧げてきました。退役して数年たちますがこの決意は微塵も変わっておりませんぞ」
「荒木さん、すまんのう。しかし事はそれほど重大な事なんでな。あなたの意思を確かめさせてもらいたいのじゃ」
「大僧正、お言葉ですが愚問ですぞ」
「愚問とな。はっはっは。たとえ米軍と対峙することになっても愚問といえるのかな」
荒木はその一言に絶句した。しかしそのあと、うっすらと笑みを浮かべて、言い放った。
「ええ、愚問です。この命は祖国とそこに住む国民に捧げております」
荒木の確かな決意を確認すると渡辺座主は白川が行っているインディーズ・ウェブ上での活動の説明をし、そして天台宗の僧侶が仮想空間内でどのようにしてその活動を支援していくかの概要を話した。
「大僧正、そのインディーズ・ウェブ内での活動はわかりますが現実社会での展開はどうなさるという計画なのですか?」
「そのことじゃがのお、今京都で行っておるデモを首都圏にも拡大させようと思っておるのじゃ。仮想空間内での同輩たちを中心に徐々に拡大していく考えじゃ」
「平和的なデモであれば警察権力でも武力行使で阻止することはできないのではないでしょうか」
渡辺座主はそれに答えて大沼総理の秘書宇梶との話の内容を説明した。その内容を静かに聞いていた荒木の頬が徐々に紅潮していった。
「私のところへも自衛隊が米軍の完全傘下に置かれる計画の噂は入ってきています。次期大統領にエイミー・ディキンソンが就任することになれば自衛隊どころか米国による日本の取り込みが一挙に進むということになりかねませんね」
「それが一番憂慮すべきことだのう。しかしその場合は国際資本に完全に支配されたアメリカが日本を支配することになると読んでおる。そうなれば民主主義は徐々に後退し全体主義国家になるやもしれんのお」
「座主、誠におっしゃる通りです。して、私に具体的にどうせよと」
「朝霞の方に情報将校として任務しておる玉木大輔三等陸佐がおるのじゃがご存じかな」
「玉木はよく知っております。二十年ほど前に彼が入隊したときに私の部隊におりました」
「彼をインディーズ・ウェブに招待したいのじゃ。これは私というより白川さんの依頼じゃな。彼にこの仮想社会の理念を理解してもらったうえで実行部隊のリーダーになってもらえんだろうかの」
「玉木であればまず問題ないと考えますが、やっかいなことは陸自に勤務した状態ではほぼそのような行動は不可能な事でしょうか」
「ならば、彼を内閣の情報顧問として内閣情報調査局に配属してはどうか。大沼総理に依頼することはできるかと思うが」
「大沼総理をそこまで信じてもよろしいのでしょうか」
「私も知らなかったことなんじゃが大沼総理の秘書、宇梶さんはすでにインディーズ・ウェブのメンバーで白川さんと共に行動を共にしておるので総理の一挙手一投足はこちら側には筒抜けじゃ。仮に総理に不審な動きがあるようじゃとその監視役にもなるので都合がよいと思うが如何かのう」
「それであれば私も安心して玉木を内調に出向させることに賛成できます」
「理解してもろうて感謝しますぞ将軍。今宵は満月でな。叡山の月夜を存分に楽しんでくだされ」
「座主、私も年取りましてな。月見よりは寝かせてくださらんか」
「将軍も年取ったのお。まあ私が無理言うたから仕方ないか。別室に床を準備させておるのでくつろがれよ。今宵は誠にご足労な事であったのお。天台座主として感謝いたしますぞ」
満月が叡山の深い森を静かに照らしている中、渡辺と荒木の会話はまだまだ続くのであった。
柚木クリスティーンは中野の商業ビルの五階にある彼女の個人事務所で早川仁美という町田の病院に勤める看護師と会っていた。柚木が今契約しているジャパン・コミュニケーション・ネットワーク(JCN)の方へ京都のデモについて東京でも行いたい旨のメールで早川が送ったのである。メールで説明されている早川のプロフィールに真剣な思いが込められているようで柚木は若干戸惑いながら早川と会ってみることにした。柚木にとっても東京でデモを起こす際に協力者を探していたことは事実であったので彼女がそれに参加出来得る人物かどうかも確かめたかった。また彼女が協力者として十分な資質を持っているのであれば彼女のインタビューを白川に見せてインディーズ・ウェブへ誘うことの同意を取るつもりでもあった。四十平米ほどの彼女の個人事務所はいたってシンプルなもので彼女の仕事机と応接セットそれと簡単なキッチン設備といった構成だ。応接セットはパテーションで区切られて横に観葉植物が置かれている。彼女はJCNのカメラマン、森本とアシスタントの飯島にサポートを依頼して早川とのインタビューを録画することにした。その旨早川に断ったのだが早川は顔にモザイクをかけて音声も変えることを条件に出してきた。その直向でどこか鬼気迫る様子に柚木は戸惑いながらも彼女の条件を快諾してインタビューを進めることにしたのである。
「それでは始めましょうか。あなたのことを特定できる情報は後からわからないように処理するのでここではすべての情報をお話ししていただけますか」
「はい、わかりました。そうします」
「まず、あなたご自身のことをお聞かせください」
「早川仁美、二十四歳です。現在町田総合病院の第二外科で看護師をやっています」
「看護師さんですか。どれくらいやられていらっしゃるのでしょうか」
「看護大学を卒業してから今の病院に入ったので二年になります」
「ありがとうございます。それで今日は京都のデモを東京でも行いたいというお話でしたけれど、どのような理由からかお聞かせ願えますか」
「あの、熊田大僧都のお話に感動したことがきっかけで私も勇気をもって人に話をしないといけないと考えました」
「そうですか。でも京都の移民計画に反対するデモを東京で行うことの必然性はどの様に考えていらっしゃるのでしょうか」
「あの、熊田大僧都のデモを東京で行いたいというのは柚木さんに会って話をしたかったからです。もちろん東京でデモを行って熊田大僧都を支援したい気持ちもあるのですが、今日はもっと重大な問題を告発したいんです。そのために同僚にも伝えずに勇気を振り絞ってここに来ました」
柚木はカメラマンやアシスタントの落胆した表情に気付いたが早川に続けるように促した。
「私の病院で知的障害者への定期検診を月一度行っているのですが今年に入って入園している障害者の方が次々に退園しているんです。重度の知的障害者の方たちばかりで治癒の見込みがない人たちです。退園することが、それも何人も次々に退園することがおかしいことなんです」
柚木は直感的にスクープの匂いを嗅ぎ取ったようである。彼女の瞳に獲物を追い詰めていく狩人のような煌きが宿ってきている。
「その施設は何というところかしら」
「川崎にある幸寿園。山の中にひっそりと建っています」
「そのいなくなった人たちのこと詳しくわかるかしら」
「八歳の男の子で城戸孝明君、二十六歳の女性、水瀬薫さん、六十五歳の男性で根岸琢磨さん、八十三歳の女性木村照子さんです。この人たち皆さん身寄りのない人たちなんですよ」
「身寄りのない人たちが入園できるのかしら」
「ほかの施設にいらっしゃった様なのですが親類の方がいなくなってしまって居場所がなくなった人たちを幸寿園さんが引き取ったようです」
「それでは幸寿園はボランティアで知的障害者の人たちのお世話をしていたのかしら」
「最初は政府からの援助で行っていると聞いていたんですがどうも五葉重工が支援をしているようです。そんな噂があります」
スタッフたちがざわつき始めてきた。カメラマンの森本の表情にも彼が乗ってきているときの熱量の多さがあらわれている。そのカメラワークはどのような表情も見逃さないといった張り詰めた動きへと変わってきているのが体全体を通して発せられている。早川仁美が続けて
「その五葉重工には別の噂があるんです。五葉工業はアメリカのIT企業の依頼で神奈川の山奥に遺伝子書き換えの研究所を極秘裏に作ったというものです。そこで知的障害者に対して人体実験を行っているという噂です。あ、これはあくまでも噂ですよ。でもその研究所に神奈川県の脳神経外科の先生たちが引き抜かれたというかなり信憑性の高い話もあります」
「でもそのような研究ならどうしてアメリカで行わないのかしら?日本でそれも五葉重工のもとで行っていればその成果をアメリカで独り占めできないのじゃないの?」
「そうなんですが中国やロシアそれにEUは人権意識の低い東欧ですでに被験者への試験は行われているようなんです。アメリカでは人権意識が強すぎてそれができないので五葉重工と組んだようです。五葉重工はあの実力者の五代幹事長と関係が深いので人権問題を回避して極秘裏に進めているんじゃないかとの噂です」
「よくできた話ね。一つ伺ってもいいかしら。あなた確か二十四歳の看護師さんよね。どうしてそんな政財界の闇にかかわる部分までご存じなのかしら」
「あ、すみません。この話は私が考えたんじゃなくて婦長さんが話していたことの受け売りです。婦長さんは顔が広くていろんな病院から情報を仕入れているみたいです」
「ふーん、興味深い話ね。それで私に何をしてほしいのかしら」
「柚木さんに暴いて欲しいんです。この闇の部分を。いくら知的障害者だからと言ってこのような人権を無視したことが行われていいはずがありません。そのうえ一流企業や政治家がそれにかかわっているなんて人間として恥ずかしいです」
「早川さん、あなたの言いたいことわかったわ。これからは私たちに任せてちょうだい」
「柚木さん、私もお手伝いしたいです」
「そうね。それじゃあ、そのいなくなった人たちが幸寿園の前にはどこにいたか調べることはできるかしら」
「カルテを調べればわかると思います」
「それじゃあ、今夜あなたのアドレスに招待状送るから、そこで今後どうやって行くか詳しく話しましょう。招待状開いてくれれば私とそこで会えるようにしておくわ」
「わかりました。柚木さんから来たメールを開けばいいんですね」
「ええ、心配しなくて大丈夫よ。変なウイルス仕込んであるわけじゃないから」
取材が終わって早川仁美が退出した後アシスタントの飯島がつぶやいた。
「柚木さん、これって大スクープですね」
カメラマンの森本がたしなめるように話した。
「柚木さん、まずは現場の取材行って真偽のほどを確かめてからにしたほうがいいですよ。あまりにも大きすぎるスクープです。僕たちの首どころか命に係わるかもしれないですよ」
「そうね。そうしましょう。この先にエミリー・ディキンソンやキャサリン青木と五代礼三の企んでいるものが見えてくるかもしれないわね」
玉木大輔三等陸佐が出勤するとすぐに司令部まで出頭するようにとの指令があった。 玉木が大きく動揺する中、同僚たちも何事かと驚きをもって玉木を眺めている。思い当たることもなく玉木は早足で司令部へと向かった。
「三等陸佐玉木入ります」
「入れ!」
玉木は入室してすぐに敬礼する。そこには上司の一等陸佐服部一郎と司令官である陸将古澤英寿および統合幕僚長権藤忠文の姿があった。
「休め」
「はっ」
玉木が直立不動で言葉を待っていると古澤指令が口を開いた。
「玉木三等陸佐、九月一日付をもって内閣情報調査局へ情報武官の任務を命ずる。以上」
玉木は最敬礼して答えた。
「はっ、了解いたしました。質問よろしいでしょうか」
「何だ」
「なぜ。自分なのでしょうか」
古澤が顔を崩して答えた。
「玉木、休め。わからんよそんなもん。上からの指示だ」
「はい?上というのはここにいらっしゃる統合幕僚長殿でしょうか」
権藤が笑いながら答える。
「俺の指示ならここで理由話すわ、もっと上だ」
「防衛大臣ですか」
古澤が答えた。
「違う!もっと上だ!」
「そ、総理大臣ですか。なぜでしょうか」
「知るか、そんなもん。君が内調に伝手があるのではないのかね」
「いいえ、私は伝手など持っておりません」
「いいか、この人事は大沼総理から直々に君を指名してきた人事だ。日本国のためにしっかりと任務全うしてくれたまえ」
権藤が穏やかに説明した。
「玉木三等陸佐、この人事はどうも荒木さんが絡んでいるらしい」
「元統合幕僚長ですか」
「そうだ。荒木さんから直々に私の処へ連絡が来てね。ぜひ君をと指名してきたんだよ。君は入隊時に荒木さんに世話になったそうじゃないか。それが理由かもしれん。精一杯任務に励んでくれたまえ」
「了解いたしました」
服部一等陸佐が発言した。
「ついては田辺三等陸佐に業務引き継ぎをするように。明日中に終わらせるんだぞ」
「明日までですか」
「そうだ、四十八時間もあれば十分だろうが。陸自の将校たるもの一瞬全力の気持ちで任務しているはずだ。さっさと引き継ぎ業務終了して残りは休暇だ。いいかこれは命令だ。休暇中家族サービスに全力で勤しめ」
「了解しました。ありがとうございます」
「よし、退出せよ」
「はっ」
柚木と京都の一夜を愉しんだ島村瑠璃であったが東京へは戻らずに再び轟と一緒に彼の実家である長野小布施に戻ることにした。長崎で育った瑠璃にとっては長野の広々とした平野に浮かぶ夏空の入道雲に素敵に魅了されたからである。昼間は相当に暑いのだが夕暮れになると涼しい風も吹いて過ごしやすい。加えて轟の実家の農園で慣れない農作業をやることに大きな喜びを感じ始めていた。人は大地で土と共に生き、そして太陽と共に生きているのだということがこれほど実感できたことは瑠璃にとって生まれて初めての体験である。今日は朝から小布施の特産品である黄金桃の収穫を行った。掌に余るほどの大きさでずっしりと重いその桃をもぎ取っていくことはこの上ない喜びである。それが終わると胡瓜とトマトの収穫も行った。作物を手に取りその重さを感じ取りながら収穫するときの喜びは一生忘れることができないほど、瑠璃は体全身で受け止めていた。人として生きる喜びはこのような小さな幸せの積み重ねではないのかとふと思っている自分に感心したりもした。
また小布施は瑠璃が研究している江戸後期の浮世絵師葛飾北斎が晩年暮らしたところでもあった。北斎が見たであろう山々を彩る夕暮れの色たちの移り行くさまを眺めていると江戸時代に生きていた人々に対しての共感がおのずから湧き上がってくる。田んぼの畔を吹きわたる夕風に打たれて蛙の声を聴きながら赤蜻蛉が群れを成して飛んでいる様や叢で鳴き出したかと思えば突然静まる螽斯たちの奏でる調べ、日が落ちるとそれは秋の虫たちの大合唱へと変わっていく。これこそが日本の原風景であり私たちが一番幸せを感じるひと時なのではないだろうか。瑠璃はこの夏の貴重な時間を体感できたことを、この時間を作ってくれた轟家の人たち、小布施の街の優しい人々そしてこの脈々とした歴史が繋がった景観に深く感謝せずにいられなかった。
瑠璃は農作業が終わって軽くシャワーを浴びた後、浴衣を着て縁側で涼んでいる。薄橙色に紫の朝顔が描かれているデザインの浴衣である。ロングボブの髪をアップにするとピアスを着けない無垢の耳が覗き、むき出しのうなじが女の程よい色っぽさを醸し出している。日はすでに山の陰に隠れ暑さも優しく引き払っているかのようだ。今日は近くの神社で夏祭りが催されている。瑠璃は轟太の準備を待って一緒に祭りに出かける予定である。
「瑠璃さん、お待たせ」
轟太は薄い水色地に蜻蛉の舞が施された浴衣を着ている。ロングの髪は後ろでポニーテールに纏めている。日頃の農作業ですっかり日焼けしたその顔は健康的な若さからくる艶を発散している。東京で見る轟太は華奢でどこか中性的なアンニュイの魅力に溢れ、だからこそ女子学生たちの人気が高いのだが、ここ小布施で見る彼は華奢であることに変わりはないが男の力強さに溢れかえりまるで別の人間のようだ。瑠璃はその逞しさにふと胸が締め付けられる感触を覚えた。手には二つの提灯を持っている。
「はい、瑠璃さん、ここら辺夜は真っ暗だから一人に一つずつ」
彼の優しい言葉に自然と心がなじんでいく。
「島村さんでしょ。轟君、ここで見るとたくましい男だね。この姿を女子大生たちに見せたらあなたのファン倍増しそうだね」
「そうかな、半分くらいは引きそうだからプラマイゼロじゃあないっすかね。でも瑠璃さんが気に入ってくれればそれだけで俺いいっすよ」
「そうね。見直しちゃったよ。でも君のファンから睨まれたくないからね」
「ここにいるだけでもう遅いっすよ」
「そうかもね」
夕暮れの薄明りの中二つの灯が揺れながら祭りの喧騒が聞こえてくる神社へ向かっていった。
遠くで電話の呼び出し音が鳴っている。懐かしい響きだ。確かじいちゃんのうちで聞いて以来だからもう随分となる音だ。瑠璃は微睡の中、徐々に覚醒していった。遠くで轟君のお母さんが彼に話している声が聞こえる。何か今日部屋が急に空いたとか言っている。ミンミン蝉の声が煩い。意を決した瑠璃は体を起こして鏡台へと向かい髪を整えてTシャツとジーンズへ着替えて居間へと向かった。
「おはようございます」
「瑠璃ちゃん、今日、戸隠の知り合いの宿から連絡があって今夜急に一部屋空いたんだって。あなたたち戸隠観光へ行かない?行ったことないでしょ。お蕎麦のおいしいところよ」
轟君のお母さんが早口で話している。まだ半分目覚めていない瑠璃は何のことだがよく理解しきれずに
「はあ、そうですね。私、お蕎麦大好きです」
と無意識に返答した。
「母さん、でも車姉ちゃんが使ってるからどうすんだよ」
「アクティがあるでしょ。あれで我慢しなさい。あれでも山道も問題なく走れるから」
轟太はあからさまな不平顔だったが瑠璃に向けて笑顔を作りながら問いかけた。
「瑠璃さん、いつか話した戸隠神社興味ある?宿が一部屋空いたんだって」
「今日なの?これから?」
「うん。突然だけど一時間くらいの距離だから大丈夫だよ」
それからが大騒ぎだった。手早く朝食を済ませ一日分の着替えを詰め込んで九時過ぎにはホンダアクティに乗り込んだ。今では絶滅危惧種と考えられるガソリン車である。令和五年に製造された軽トラックである。轟太はカーシェアリングでいくらでも自動運転の快適な電気自動車が準備できるのにと文句を言っているが、瑠璃は長崎に住んでいたころじいちゃんがスカイラインのガソリン車を轟音をとどろかせながら走らせていたので全く文句はなく、どこか懐かしささえ覚えた。しかしアクティの乗り心地は快適と呼ぶには程遠いものであった。山道では左右に振られながらの轟太の運転、とくにヘアピンカーブを曲がる度に不満を爆発させた。大声を出したせいか最初の目的地、鏡池に到着した時には晴れやかな気分であった。
標高千二百メートルを超える鏡池ではすでに秋の気配が漂っている。夏の澄み渡った青空に浮かぶ入道雲が静かに横たわった湖面に反射している。文字通り鏡の様である。周りの白樺林はだんだんと過行く季節の準備に入ろうとしているかのようにその緑の葉が色あせようとしていた。Tシャツ姿で湖畔に立った瑠璃であったが湖面を通り過ぎた一陣の風に驚いたかのように両腕で胸を押さえてつぶやいた。
「少し寒い」
太は後ろから優しく瑠璃を抱きかかえ話しかけた。
「こうすれば大丈夫。暖かいでしょう」
瑠璃は無言で頷き二人して雄大な鏡池で移ろい行く季節の色を眺めていた。
鏡池を過ぎて次に立ち寄ったところは蕎麦道場だ。古びた木造建築の平屋建てで広い板張りの部屋に靴を脱いで上がる。磨きこまれた床は光を反射してとても明るい。ここでは蕎麦打ちの体験ができる。二人して板張りの床にしゃがみこんで一生懸命そば粉を捏ね、休ませて、また捏ね、引き延ばし捏ねて休ませる。結構な重労働である。額から汗が流れてくる。そしてそば切りをする。インストラクターのおばさんからは均等に切ってくださいねと注意されたのであるが、初心者にそのような神業ができるはずもなく、不ぞろいな蕎麦が切りあがった。その切り蕎麦を沸騰している熱湯で湯がく。すぐに茹で上がり冷水で洗った後、ざるに盛り付ける。道場で準備した、つけ汁と共に自分で切った形が不ぞろいな蕎麦を食した。形が不ぞろいのため食感がばらばらで味はもう一つといったところか。それでも自分たちで作った蕎麦を食すといった経験は心地よい気持ちにさせるには十分で、二人は自然に幸せな笑みを浮かべたのであった。そのあと宿に向かいチェックインを済ませる。宿で出されたお茶を飲んで一休みした後に、歩いて数分のところにある戸隠神社宝光社を参拝する。参道は長い石段でその両脇は杉林である。その中を汗をかき息を切らしながら二人で登った。瑠璃は故郷の長崎の諏訪神社の石段を思い出したが、ここの石段はそれの倍以上はありそうだと感じた。登り切った後、何とも鄙びて相当の風月にさらされた拝殿があった。歴史の長さとそれに比例する人々の思いを抱え込んだ風格の神社である。二人して二礼二拍手一礼で参拝をする。瑠璃は今日、このような幸せな体験をさせてくれた戸隠に対して感謝の気持ちを戸隠の神様に伝えた。参拝を済ませて、神社の周りを散策した。日光が当たっている場所は立っているだけで汗ばむほどに暑いのであるが日陰に入るとひんやりとして肌寒い。古の昔より畏敬の念でもって守り続けられた聖域のその荘厳な時の重みは静けさの中でひそやかに瑠璃の体の中に入り込んでくるかのようであった。その力を感じ取った後で参道の石段を下りた。下りたところに土産物屋があったので冷やかしがてら入ってみる。竹細工の民芸品が置いてある。編笠、トートバッグ、籠や枕などだ。どれも手作りの温かさが伝わってくるものばかりである。瑠璃にとっては身近で使っていたという経験が全くないものばかりなのではあるが、どことなく懐かしい感情が浮かび上がってくるのが不思議に思われた。一通り見終わって店を出ると日はすでに山の陰に隠れ夕暮れが近づいていた。宿に戻り風呂に浸かると夕食の準備ができていた。山菜のおひたし、イワナの塩焼きなど地物の食材をふんだんに使った夕食だ。締めには戸隠蕎麦を堪能できた。地酒と共に食す戸隠蕎麦は、のど越しもよく瑠璃にとってこれほどない愉悦である。やはりプロが作ったお蕎麦は次元が違う美味しさである。夕食が終わり庭に出て晩夏の宵を愉しんだ二人であった。旅館には備え付けの神社がありそこでまた参拝をする。その後急展開の一日だった二人は準備された床について眠りにつくのであった。
瑠璃は床についている。普段はすぐに寝入ってしまうはずが今夜は気持ちが高ぶっているせいか目がさえてしまって一向に眠れそうにない。隣では太が寝入っているようだ。
リンリンリンリン・・・・・
静まり返った闇の中で虫の声だけが響いている。
ドキン、ドキン
胸の鼓動が聞こえてくるようだ。瑠璃は自分の鼓動だろうかと少し恥ずかしく感じた。ドキン、ドキン
胸の鼓動は太の方から聞こえてくるようだ。太の息遣いも聞こえるような気がした。太は起きているのだろうかと思うと、瑠璃の胸が熱くなり鼓動も高くなっていくように感じられた。瑠璃の体はだんだんと汗ばみだしている。それに連れて緊張の糸が静かに張り詰め淡い期待がさざなみに様に鼓動に合わせるかのように押し寄せてくる。太が寝返りを打ったようだ。なぜか息苦しい。瑠璃自身の荒い呼吸が闇の中、響き渡っているようだ。
ドキン、ドキン
胸の鼓動が大きくなってきている。深い静寂の中で瑠璃は太に聞こえやしまいかと気になった。気にかけている自分の姿が切なくて恥ずかしくなってくる。太がまた寝返りを打った。瑠璃はその所作に気持ちが敏感に反応している。鈴虫の鳴く音が闇の中でひときわ大きくなってきている。太が瑠璃のことをじっと見つめているのが感じられた。その優しいまなざしが愛おしい。いつしか虫の声はやみ沈黙がふたたび訪れる。そこには深い呼吸と高鳴る動悸により揺らいでいる夏の月夜の青い闇があった。そして太の存在がおずおずと大きくなっていく。
「瑠璃さん、そっち行っていい?」
戸惑いと優しげな決断がこもった、その声に瑠璃も答えた。
「うん。いいよ」
声が上ずってかすれている。年上なのに恥ずかしい。まるで十代の乙女のような自身の声の響きが照れ臭かった。太は緩やかに布団から起き上がりこちらへ向かってくる。そしてゆっくりと長い睫毛に優しさが宿った眼差しでその顔を近づけてきた。瑠璃は喜びに浸りながらそっと目を閉じた。その瞳を閉じた顔には仄かな笑みが浮かんでいた。太の顔はゆっくりと優しくその瑠璃の顔に触れた。
閉じた障子は晩夏の下弦の月に蒼く照らされ外では鈴虫が絶え間なく過行く夏を惜しむかのように艶やかな旋律を奏でていた。その甘く優しい旋律の漣に夏の夜は更けていった。