第一章 始動
島村瑠璃は担任の宮本教授の部屋にいた。痩せて貧相な白髪混じりの短く切り込んだ髪型の宮本教授はデスクの椅子にちょこんと腰かけた姿で書類を探している。梅雨が明けたようで窓の外では蝉時雨が五月蠅いくらいに夏の強い日差しの中、降り注いでいる。部屋の中ではブーンブーンと旧式のエアコンがうなり声に似た音をさせて忙しなく冷気を吐き出している。瑠璃は教授の言葉を待っていた。宮本教授は書類を見つけたらしく、その書類を瑠璃に手渡しながら徐に話し始めた。
「島村君、君の論文、教授会で認められたよ。おめでとう」
「教授、ご尽力いただきまして大変ありがとうございました」
宮本は瑠璃から視線を外しながら静かに続けた。
「ただし共同執筆者として院生のグエン・ヴァン・フン君の名前を併記して欲しいということだ」
瑠璃は思いがけない教授のその言葉に戸惑い絶句した。一呼吸おいて動揺を隠しながら宮本に疑問をぶつけた。
「教授、私の研究にグエンは全く関係していません、どうしてそうなるんでしょうか」
宮本は視線をずらしたまま無表情を装いながら話した。
「君も知っての通り文科省の通達だ。大学としても人種差別撲滅行動を行っていることを学会や文科省に見せないといけない。江戸の研究にヴェトナム人であるグエン君の名前があれば科研費も通りやすい。君の研究のためでもあるよ」
「しかし教授、まったく関連していない研究発表に名前が載るのはグエンのためにもなりませんし彼の研究にプラスになるとは思えません」
宮本は瑠璃の方に貧相な顔を向けて懇願するように言い放った。
「こまったねえ。島村君、理解してもらえないか。これは教授会の意思であって提案じゃないのだよ」
瑠璃は呆然としながら教授の言葉を聞き終えると、考えさせてくださいと一言絞り出すのがやっと、という状態で心を揺るがせながら宮本の部屋を出て自室へと向かった。部屋に戻ると次第に悔しさが込上げてくる。教授たちの文科省に対しての御機嫌伺いのためにうまく利用された自分が情けなく思えてくる。手渡され得た書類を机に向かって力任せに投げつけた。書類はばらばらになりながら机にぶつかると一面に広がり散らかった。瑠璃は瞳から涙が一筋頬を伝わって流れてくるのも構わずに旧式のエアコンが立てる作動音の中で我を失って散らかった書類を眺め呆然と佇んでいた。しばらくそうしていると誰かが躊躇いがちにドアをノックしているのが聞こえてくる。
「誰?」
いらだちを抑えながら扉の向こうに問いかける。
「瑠璃さん、ゼミの轟です。ちょっといいですか」
轟太は宮本ゼミの学生で三年生だ。名前に似合わず細身の長身でファッションに気を使いすぎている今どきの大学生である。最近はあまり流行っていない長髪の男子だが整った顔立ちと長い睫毛がそのファッションと相まって中性的な魅力を醸し出しているので女子学生の間では人気は高いようだ。瑠璃のタイプではないのだがゼミでは親しく話しかけてくるので瑠璃にとっても気安く話せる学生のひとりだ。
「ちょっと待ってくれる?」
瑠璃は簡単に泣いて乱れた顔を整えると、轟を迎え入れた。
「どうぞ」
ドアが開くと心配そうな感情を露骨に顔に出した轟が入ってきた。
「どうしたの?」
「お昼だから瑠璃さんとランチ一緒にできないかなあと思って」
瑠璃はゼミ生の轟に対して少し離れた立場であることを明確にするように話した。
「島村さんでしょ。何か相談事?いいわよ。十二時に学食で落ち合いましょう」
轟は瑠璃の試みを軽く受け流しように答えた。
「わかりました。それじゃあ学食で瑠璃さん」
昼食時の学食はざわざわとして忙しない。キャンティーンと洒落た名前があるのだがここでは誰もそう呼ばず昔通りの学食と呼んでいる。瑠璃はタイカレーセットをトレーに乗せると轟の姿を探した。窓際の小さなテーブルで辺りを憚ることなく元気に手を振って白い歯を惜しげもなく見せつける笑顔満面の轟の姿を認めると慎重にトレーを抱えて瑠璃は背筋を伸ばしてエレガントに歩きながらそこへと向かった。周りにいた女子学生の好奇心と敵意に満ちた視線が矢のように刺さってくるのがわかる。その視線を意識して静かにトレーをテーブルに置いて両手で髪をかき上げながら着席した。その仕草に敵意の視線は十倍ほど増したことが感じ取れた。
「瑠璃さん、ヴェトナム料理ですか。根性座ってますね」
「島村さんでしょ。もう話し知ってるの?それにこれはタイ料理よ」
「もうゼミのみんな知っていますよ。当人のグエンも恐縮しています。合わせる顔がないって」
瑠璃はクールさを装いながら轟に向かって話した。
「文科省の要請ならどうしようもないでしょ。宮本教授に言って研究費倍にしてもらうくらいしかできることはなさそうね」
「瑠璃さん、俺、悔しいです」
「気にしないで。それより早く食べて別の場所に行きましょう。ここ、あなたのファンの視線がきついわ」
轟は少しだけ申し訳なさそうに感じながら瑠璃に返答した。
「す、すいません」
二人は素早くランチを済ませると隣接するスターバックスへ入った。瑠璃は人が少ない外のほうがよかったのだが轟が外は暑いからということでスタバの隅の席に座ることになった。
「学内は自治がまだ強いから監視カメラも限られてますけど、噂では集音マイクも設置されてて学生の会話のモニターもやっているといわれているんですよ」
「集音マイクは講義室の中だけじゃないかしら。そう聞いているわよ」
「俺たちもそう聞いているんですけど、学生の多くが川崎のデモの時参加していたじゃないですか」
「噂だけどね。轟君も参加したの?」
「俺は、行ってないですよ。でも監視カメラで顔確認は参加者全員されたようです。知り合いの何人かは家にまで刑事が来て話を聞かれて最後に警告めいたこと言われているんですよ」
「何か、息が詰まりそうな話ね」
「その時、刑事の一人が学内も厳重に監視されているから今後、差別と疑われるような話もするなよって念押しされたようです」
「尋常じゃない話ね。そういえば監視カメラと講義室内の集音マイクの設置は四月に入ってからだったわね。気分がいい話じゃないわ」
「全くです。自由と民主主義はどこへ行ったんだと訴えたくなりますよね」
瑠璃は改まって上から目線で轟に尋ねた。
「それで、本題は何?私を慰めるだけじゃないでしょう」
「瑠璃さん、鋭い」
「島村さんでしょ」
「瑠璃さんのこと慰めたいのは本心なんですよ。俺の胸はいつでも瑠璃さんのために空けてありますから」
「調子いいわね。それに頼り甲斐が無さそうな胸ね。あなたのファンに石ぶつけられそうだわ」
「へへ、ところでインディーズ・ウェブって知っていますか?」
瑠璃は思いがけない轟の言葉に少し惹かれたようだ。興味深そうに尋ねた。
「何、それ?ダーク・ウェブみたいに危ないやつ?」
轟の話によるとインディーズ・ウェブというのはエントリー時に審査にパスした日本人だけが入れるヴァーチャルの空間らしい。そこはポリコレでがんじがらめに抑制された言論の自由を保障している世界ということだ。その代わりヴァーチャルとはいえ実名で行動しなければならず、そこでのアバターも一種類だけで本人と近いものが推奨されている。インディーズ・ウェブへのアクセスは個々人のインテリジェント・マネージメント・システム(IMS)を通して行われるのだがリバーシブル・コンピューティングの技術によりIMS上ではインディーズ・ウェブでの活動記録は一切残らないということである。今は信頼できるメンバーを選別している段階でゆくゆくはその空間において社会活動や経済活動も行うといった壮大な計画らしい。
「面白そうな話だけど、審査にパスできるか私、疑問だわ」
「審査は簡単で質問項目としていくつかの単語が出されますからそれについて連想される言葉や事柄をこたえるだけでいいんですよ。その間システムのほうで被験者の話し方や眼球の動き、体温やマイクロジェスチャーなどをモニターして被験者の人格をシミュレートするようです。俺にもよくわかんないっすけど瑠璃さんだと大丈夫ですよ。前に瑠璃さんのこと白川さんに話したらメンバーに誘えないかって熱心に聞いていたくらいですから」
「白川さん?」
「あ、ここだけの話っすよ。このサイバー空間の創始者です。以前は何とかっていうソフトの会社の社長さんだったらしいけど、そこアメリカの企業に買収されたらしくその大金でサイバー空間作ったって言っていました。ほら、今年の初めにニュースで話題になっていたでしょ、なんて言ったかな、あの会社です」
「ICSSだったかしら」
「そう、それです」
「でも白川さん私のことなぜ知っているのかしら」
「さあ」
「それにリバーシブル・コンピューティングって何?それでその空間に入った痕跡をIMSから消すって言ったけど無理じゃないかしら?」
「詳しくはわかんないっす。ただその空間で起こった出来事はその都度ソフトを逆に走らせることによって結果だけが残ってシステム上にはエネルギー消費も含めて何の痕跡も残らないようです。例えば会話した内容が頭の中に入るとその時点で逆向きにソフトが走って何もない状態になるんですけど会話の内容は頭の中に残っています」
「よく分からないわねえ」
「難しいです。お互い文系ですから」
「興味ありますか?」
「どうかしら。でも白川さんには会ってみたいわね」
「じゃあ、今夜招待状メールで送ります。それ開いたら後は言われた内容に従って進んでくれれば白川さんと会えますよ。白川さんにも言っときます」
「じゃあ、そうして。絶対大丈夫なのよね」
「瑠璃さん、かわいいイケメンの後輩を信じてください。何かあったら俺が責任取ります。瑠璃さん嫁にします」
「もう‼島村さんでしょ」
その夜、瑠璃はエルがフードメーカーで作ったハンバーグとスパゲッティを食べ入浴を終えると裸にガウンを羽織っただけの格好でメッセージボックスを確認した。ヘッドセットを着けてそのままベッドに横たわり轟から届いたメッセージを開けてみる。その瞬間、目の前は光り輝く真っ白な闇となりあたりには線香の香りのようなものが漂いどこからとなく尼僧が唱える読経のような響きが聞こえてくる。
「ようこそインディーズ・ウェブへ。あなたの名前をどうぞ」
瑠璃は答える。
「島村瑠璃」
「あなたの生年月日は」
「平成XX年九月十一日です」
質問は頭の中に直接響いているようだ。また瑠璃の回答も頭の中で考えたことが直接ソフト上で音声化されているらしく瑠璃は口に出している感覚がなかった。
「あなたの家族は」
瑠璃は両親のことを思い浮かべようとしたがどうしても浮かんでこなかった。代わりに浮かんできたのは祖父のたくましい容姿だった。冬でも上半身裸になってその引き締まった体で庭で素振りをしている姿だ。
「じいちゃん」
と思わず声に出して呟いた。
「あなたの大切な人は」
瑠璃は過去経験した何人かの男を思い浮かべようとしたが無駄であった。代わりに登場したのはむっくりとした白い肌の禿げ頭の五十過ぎの男である。立烏帽子を被り直衣を身にまとっている。瑠璃は思わず叫んだ。
「白河さん」
彼とは半年以上あっていない。何度か会いたいと連絡したのだが返答がないままだった。クリスマスイヴに会ったのが最後だったと思う。瑠璃は白河さんのことを改めて思い起こしている自分自身になぜか安らぎのようなものを感じていた。
視界は白い闇からだんだんと色づき始めてくる。右手に大型の冷蔵庫が見える。熊のプーさんのマグネットがその扉についている。キッチンの向こうには足の長いダイニングテーブルが見える。そうこれは瑠璃が幼いころ東京で両親と暮らした部屋だ。がらんとした部屋にはスーツ姿の祖父が静かに瑠璃を見守っている姿が見える。祖父は瑠璃の記憶よりも若くて大きく見える。まるで巨人のようだ。そしてその巨人の手はゆっくりと瑠璃のほうへ向けられた。腰を屈めている。そうだ。じいちゃんが大きくなったのではない。瑠璃が八歳の女の子に戻ったのだ。これは瑠璃が祖父に連れられて東京の家を出て長崎に向かった日の出来事なのだ。瑠璃は祖父の大きな手に抱きかかえられて部屋を出て行ったのだ。瑠璃の頬に祖父の温もりがその厚い胸板を通して伝わってきた。
白い靄がだんだんと明けてくると目の前に石段が現れた。瑠璃は祖父にしっかりと手を握られて一歩一歩その石段を登っている。目の前には蘇鉄やリュウゼツランが植わった懐かしい祖父の家が見えている。その遥か向こうには長崎港が青空の下に輝いて見える。潮風が心地よい。瑠璃は懐かしいその家の玄関の引き戸を開けた。玄関の土間を上がると目の前は畳が敷かれた床の間がある居間だ。その横には絨毯が敷かれた洋間にダイニングテーブルが置かれている。洋間の先は縁側になっていてその廊下を渡った先に瑠璃の部屋がある。庭に面した部屋だ。瑠璃はその部屋の前に立ちガラス戸をゆっくりと横にスライドさせた。
白い靄の中から歓声が聞こえてくる。銅鑼などの唐楽拍子の音が聞こえてくる。視界が開けてくると下の方で地味な色のシナ服を着て中華帽子をかぶった男たちが竜の腹から出ている棒を担いで、あたかも竜が飛行しているようなパフォーマンスをしている。そして水色のシナ服を着た男が持った棒の先にある黄金の珠を捕まえようと追いかけている。竜は天に舞ったかと思えば次の瞬間には石畳の上を這いまわっている。蜷局を巻いた先にその頭を擡げてあたりを見回している。どうやら珠を見失ったようだ。銅鑼の音も止み観衆も静まり返っている。その時一陣の風が境内に吹きわたり銅鑼の音が突然激しくなりだした。珠を見つけたようだ。笛の音に合わせて竜は中に舞い珠を追いながらその腹を上下させている。長崎くんちの龍踊だ。瑠璃は家から歩いて十分ほどのところにある諏訪神社へ祖父に手を引かれて連れていかれ、始めて龍踊を見たときのことを思い出した。おそらくこれはそれを再現しているのだろう。瑠璃は境内から拝殿に伸びている石段の上に多くの観客たちに交じって龍踊を見学している。パフォーマンスが終わると誰かがもってこーいと叫んだ。続いて人々がもってこーいと叫び始める。瑠璃も思わず大声でもってこーいと叫んだ。
白い靄がだんだんと明けてくる。校門から続くなだらかな坂は満開の桜並木だ。瑠璃は濃紺のブレザーとプリーツスカートのいでたちである。中学校の入学式らしい。周りには小学校からの友達の顔が見える。みんな笑顔だがどこか緊張しているようだ。なだらかな坂を上ると右手に体育館の入り口が見える。入学式の式典が行われる場所だ。持参した上履きに履き替えて中に入る。壇上には日の丸の旗が見える。両側には先生たちの姿が見え、体育館の後方には保護者の席がある。クラスごとに並び式典の開始を待っているようだ。壇上に校長先生が現れた。太った体に七三分けした髪型の校長先生は何か話し始めている。すっかり忘れてしまっていた校長先生の顔になぜか懐かしさを覚えた。
白い靄がだんだん明けてくる。ここは住み慣れた瑠璃の家の中だ。居間に置かれた革張りのソファーの上に座っている。風呂上がりの瑠璃は寝間着姿で本を読んでいる。彼女が好きな江戸時代の話である。祖父が静かにやってきて瑠璃の隣に腰かけた。二人とも黙ったままだ。これは瑠璃が大学へ入るために東京へ旅立つ前の晩の出来事だ。静かな時が流れている。じいちゃんは顔を下に向けたままぽつりと瑠璃に話しかけた。
「……瑠璃、愛しているよ」
最初の言葉がよく聞き取れなかった。そして祖父はそのまま真直ぐ自分の寝室へと向かった。瑠璃は黙って本を眺め続けている。文字が頭の中に入ってこない。じいちゃん、私もじいちゃんのこと愛しているよ。愛しているってじいちゃんとの関係にふさわしい言葉なのだろうか。瑠璃はじいちゃんを追いかけてありがとうって告げたかった。でもそうすることがなぜか照れくさくうまく行動に移せなかったということを思い出した。
白い靄が明けてきた。板張りの縁側の向こうに上弦の月が浮かんだ池が見える。池のほとりには枝垂れ柳がゆらゆらと夜風に揺れている。池には睡蓮の花がその花弁を閉じて揺れる池面に幾本も佇んでいる。瑠璃は十八歳の体だが袿を着ている。どうやら三条西殿の白河さんの屋敷らしい。香のにおいが立ち込めている。そよ風に池の面は揺れそこに映った上弦の月も揺れている。夏の気配だが夜は幾分涼しいようだ。瑠璃は袿を纏い縁側に体育座りでじっと池の面を眺めていた。懐かしい感触だ。甘い誘惑が体の奥から込上げてくるのがわかる。
長い旅をした気分だ。瑠璃は自分の来し方を旅して最後にはこの場所に行き着いた。これが瑠璃の進むべき道というものなのだろうか。池の面が揺れ月も揺れている。そよ風に戯れる枝垂れ柳は一層、池の面で揺れている。じっとその揺らぎを眺めていると軽い眩暈を覚えた。香のにおいが強い。どこからとなく篳篥と鼓、笛の音が聞こえてくるようだ。ふと振り返ると屏風の陰に立烏帽子と直衣姿のふくよかな男が立っていた。じいちゃんとは全く似ていない豊満な体だ。瑠璃は思った。でもじいちゃんと同じくらい愛していると。
「姫、無沙汰じゃった、達者で朕も嬉しいぞ」
「主上、なにゆえ身共のことを素気無く扱われる。身共、お恨み申しておりました」
香の匂いがさらに立ち込め池の畔の枝垂れ柳が微風を受けていとなまめかしいその姿態を妖しく揺らせている。その幻影に酔ったかのように瑠璃は白河さんをきつく抱きしめた。
「それにしても姫が島村先輩のご息女だったとは誠に恐れ入ったことではあった。島村先輩に見つかったら大ごとになるであろうな、はっはっは」
「主上は身共のととさんをご存じであらっしゃいますやろか?」
「おうよ、朕の大学の先輩じゃ。赤門近くの焼鳥屋で安酒飲んでよく説教されたわ、はっは」
「身共のととさんはたたさんと共に神隠しにおうてもう二十年が過ぎました。身共はとうにあきらめてあらしゃいます」
「そうであったな。朕もずっと気にしていたのじゃ。これも何かの縁じゃ、朕も力を貸そうぞ」
「あらしゃいがたく存じます」
「されど、島村先輩に怒られるのも難儀じゃな、これも定めか、はっはっは」
瑠璃はそのふくよかな胸に顔を埋め再会の喜びをしばし堪能することにした。
二つの陰は艶めかしく戯れ、夏の宵は静かに更けていった。
夏の夜明けは早い。四時過ぎには白々と明けてゆく空に夜は掻き消され五時を回るころにはすでにその力強い輝きを容赦なく瑠璃の部屋に浴びせた。瑠璃はその輝きに目覚めの微睡を愉しむことなくたたき起こされた。最近では珍しくさわやかな目覚めに我ながら感心した。傍らのエルに問いかけてみる。
「エル、夕べの私の記録どうなってる?」
「瑠璃、夕べは十時過ぎにはぐっすりと寝入ってしまって何の記録もないわ」
「ありがとう、白河さんとデートした気がしたけど夢だったのかしら」
「記録にないから夢だったようね。でも夢でも会えてよかったじゃないの。愉しめた?」
「そうね。すっきりした気分よ」
轟が言っていたリバーシブル・コンピューティングは上手く作動したらしい。瑠璃は幾分ほっとしたようなそれで何か面白い展開がありそうな、そんな予感に心がざわつくのを抑えるのが難しかった。
二日連続で轟とのランチだ。周りの女子学生の視線が昨日以上にきついのがわかる。轟太はそのような女子学生たちのざわつきを一向に気にした様子もなく満面の笑顔で瑠璃と対峙している。
「瑠璃さん、インディーズ・ウェブには入れました?」
「島村さんでしょ。そうね。なぜか不思議な感じだったわ。それに白河さんと以前面識があったことも驚きだったけどね」
「白川さんと知り合いなんてすごいですね。どうやって知り合ったんですか」
「父の大学の時の後輩だったらしいわ。それよりこれからどうやればインディーズ・ウェブにはいれるの?」
「もう向こうのアバターとシンクロ取れてるはずですから簡単ですよ。今までと同じようにZOO ZOOタウンに入ればいいんです。よくは理解していないんですがインディーズ・ウェブはZOO ZOOタウン上に存在している仮想空間なんです」
「ZOO ZOOタウン自体が仮想空間でしょう?」
「そうです。仮想空間の中の仮想空間なんです」
「それでよく運営側に見つからないわね」
「それがリバーシブル・コンピューティングの成せる業ですかね。寄生している痕跡を残さない寄生体ですからやっかいですよね」
「それでインディーズ・ウェブにはどうやって行けるの?」
「自分のアバターを思い浮かべるだけで普通に移れていますね」
「ふーん、移るときはまた真っ白になるのかしら?」
「人によって違うみたいですよ。俺の場合はガツーンって衝撃の後にパっと画面が切り替わる感じですね」
「インディーズ・ウェブのアバターと一体になるとZOO ZOOタウンのアバターはどうなるの?」
「ログオフするようです。俺も自分のログ確認しましたがインディーズに入った時点でログオフするみたいですね」
「ふーん、よくわからないけどとにかくやってみるしかなさそうね。それでそろそろ夏休みだけど轟君どうするの?」
「長野の実家へ帰ります。実家いまだに有機農園やってますんでそこで米や野菜の世話します。瑠璃さんもどうですか。太陽のもとでの農作業とか今どきできない経験でしょう?」
瑠璃は何とか轟との距離を保とうと試みるが次第に彼との会話に打ち解けていく自分も感じ始めていた。
「そうね、ちょっと面白いかも」
夕食後入浴を済ませた瑠璃は裸にガウンを羽織っただけでヘッドセットを着けてベッドに横たわった。IMSを通して久しぶりにZOO ZOOタウンへと向かう。白河さんと連絡が取れなくなってからここに入る気がしなかったのでずいぶん久しぶりの訪問である。ZOO ZOOタウンは実際の街並みを再現しているのでショッピングやレストランでの注文もここで行うとデリバリーしてくれるので便利だ。今夜は瑠璃のマンションから見える夜の井の頭公園を散歩することにした。明かりが灯った夜の公園だが意外と人通りが多い。男女とも浴衣を着て歩いている人がほとんどだ。瑠璃も白地に百合の花が描かれた浴衣姿である。しばらく人の流れに従って歩道を歩いていると弁財天の前に出た。噴水の前のベンチが空いていたのでそこに腰かける。噴水で揺らぐ水面には高く上った三日月が揺らいでいる。瑠璃はその揺らぎ戯れる月を静かに見つめ続けていた。ふと長崎の実家にあった水鉢が浮かんできた。紫の花が開いたホテイアオイが一房浮かんでいる傍らに同じように三日月が揺らぎ戯れていた。瑠璃が世話していたメダカが作り出す水面の揺らぎである。高校生の瑠璃は同じように浴衣を着て揺れる月を縁側から眺めていた。
突然肌に纏わりつく重たい湿った空気が感じられた。ブーゲンビリアの甘い香りも漂っている。巨大な蘇鉄とリュウゼツランが植わった庭には大きな水鉢がありホテイアオイの紫の花がそこから一本伸びている。水面には先ほどと同じように三日月が映っている。長崎の実家にいるようだ。うまくインディーズ・ウェブにログインできたらしい。瑠璃は縁側から庭先に降りて長崎港の夜景を眺めた。すると下駄の音が遠くに聞こえた。じっとしながら佇んでいるとだんだんとその下駄の音は近づいているようだ。どうやら今夜は訪問者があるらしい。
「こんばんは」
紫の下地に菖蒲の花があしらわれた浴衣に黄色の帯を締め髪をアップにした細身の四十半ばくらいの女性が丁寧にあいさつした。手には竹籠を抱えその中には黄橙色に熟した枇杷が見られる。
「こんばんは」
瑠璃も挨拶を交わした。
「ここはいいところね。長崎かしら。空気の濃さが違うわね」
「空気が澄んでいるんですよ。東シナ海からくる海風に埃のない空気が運ばれてくるのかもしれませんね。その分、昼間は日差しが厳しいですよ」
「夜でよかったわ。強い日差しは肌に悪いしね。枇杷もってきたの。一緒に食べましょうよ」
「ありがとうございます。お茶準備しますね」
二人は並んで縁側に座り夏の宵と心地よい海風を愉しんでいる。
「私、栗林最愛、モアって呼んでくれる?」
「あ、私、島村瑠璃です。瑠璃って呼んでください」
「白川さんに頼まれてきたの。瑠璃にこのインディーズ・ウェブのこと説明してくれといわれたのよ」
「モアさん、ありがとうございます。私今気づいたんですけど、ここではお茶も飲めるし、枇杷も食べられるんですね。それに空気も感じるし匂いも嗅ぐことができます。実世界とほとんど変わらないんですね」
「そうね。そこがZOO ZOOタウンと大きく違うとこかしら。ヘッドギアから特殊な周波数の電波を出すことで私たちの脳へ直接そういった情報を送っているらしいの。私は詳しくはわかっていないけどね」
「このインディーズ・ウェブのそもそもの目的は何なのでしょうか」
「話長くなるわよ」
「はい」
モアの説明によるとマイケル&ゴードン・パートナーズへICSSの買収を合意した白川久男はその後すぐに社長職も辞任し持ち株もすべて処分して三千億円の大金を手にして退社した。それ以降、ICSSで開発していた人格データ化のシステムを当時から考えていた別のアルゴリズムを使った上位概念で行う開発に着手したという。それは現在実用化の目途がついた脳のリバースエンジニアリングより得られた脳機能全体のシミュレーション技術を用いて脳のシナプスから発せられる情報をモニターして被験者の思考パターンをデータベース化しそれにより被験者の人格パターンをシミュレートする方法である。それを用いて仮想空間内で縄文時代より他文明からの侵略の影響を受けなかった日本人固有の人格を残そうという試みを行っているとのことだ。また被験者の体験した事象や空間を仮想空間内で実現させる試みも同時に行われている。瑠璃の長崎の家もそれにより仮想空間内で再構築されたものである。現在栗林最愛や轟太など十名程度の被験者でシステムの仮運営を行っている。最終的にはインディーズ・ウェブの管理を行う量子スーパーコンピューターで被験者から得られた日本人固有の情報に基づいてサイバー空間内に日本という空間を作り出し、また日本人の統合された大知を構築することにより自立型AIシステムを運営していこうという試みである。
「轟君から外人の悪口もさんざん言える言論の自由が保障された空間と聞いたんですけどそれも目的ですか?」
「太がそう言ったの?」
「ああ、そうです。轟君とはお知合いですか?」
「甥っ子よ。私の兄の息子なの」
「それではモアさんも長野の農家のご出身ですか。とてもそうは見えませんね」
「もうこっち長いからね。でも土いじり大好きなのよ。それで太が言ったのは多分、インディーズ・ウェブには今のところZOO ZOOタウンを経由してしか来ることができないのだけど、このサイバー空間内での行動のログがZOO ZOOタウンやIMS上に全く残らないという意味なんじゃないかしら」
「リバーシブル・コンピューティングですか。それとサイバー空間内のサイバー空間とか」
「そうよ。よく予習しているじゃないの」
「轟君から一応その説明は聞いています」
「日本文明と呼んだらいいのかしら。グローバリズムに侵されない日本人の固有の文化や生活をこのサイバー空間内に残したいのよ。そのために今のところここに入れる資格として、このコンセプトに賛同して機密を守れる人しかエントリーさせていないの。そのための人格確認を入会時に行っているのよ。だからここでの言動や行動は全くの自由。外人でも上司の悪口でも思う存分言えるのは間違いないわね」
「最近世の中ポリコレでうるさいですから、こういった空間があるとほっとしますね」
「そうね。ポリコレの締め付けもだんだんと強まってきているわね。今、与党内では大沼総理降ろしが進行中なの知ってる?」
「いいえ」
「大沼さんおろして安藤ジョナサンを総理にすることを五代礼三幹事長が企てているらしいわ。アメリカによる日本の乗っ取りが現実のものとなりつつあるのよ」
「初耳です。でもアメリカとは同盟国だからそこまで露骨にしなくても話し合いで解決できるんじゃないですか」
「どうも米国内の世論がうるさくてビッグテックによる遺伝子改変の人体改良を米国内でできそうにないのよ。知ってるでしょ、人権問題で行き過ぎてしまってたとえ脳や体に障害がある人を遺伝子改変して正常にする実験も人権上できないみたいなの。それで人権問題に緩い日本で障害者の実験をしたいらしいわ。そのために日本政府を完全に支配下に置きたいらしいの。今、富士電工が開発した行政支援AIマザーをアメリカのグレート・イーグルと連結させる話があるじゃない。あれが開始されれば日本の行政は完全に米国政府の管理下に置かれることになるそうよ」
「モアさん、どうしてそこまでの情報を知っているんですか」
「白川からの受け売りよ。大沼さんの秘書やっている宇梶実っていう人がいるのだけど彼元経産省の役人で白川がICSSやっているときに昵懇にしていた人らしいわ。そこからの情報ね」
「白河さんとはどのようなご関係なんですか」
「私?白川は元旦那。あの人女癖悪いでしょ。だから離婚してやったの。慰謝料もたっぷりとってね。まあその時には私、今の旦那とも出来ていたんだけど。金払いがいいところがあの人のいいところかな。それにまあ、顔やたくましい体も魅力的とはいえるかもね。あ、でも勘違いしないでね、私、白川とはもうなんもないから。瑠璃があの女ったらしと付き合っても全然平気」
「顔がいい?たくましいからだですか?」
「そうよ。違った」
「いいえ私の知ってる白河さんは禿げでぽっちゃりです」
「あなた白川とはどこで会ったの?」
「ZOO ZOOタウンです」
「そう、まあいいわ。いずれ本人見たら驚くでしょうね」
赤坂の日本料理屋である。日本庭園を見渡せる個室に政権与党自由党の幹事長五代礼三が鱧の梅肉あえに箸を着けているところだ。こぢんまりとして痩せた体系であるが鋭い眼光の持ち主である。その前には比較的若手の二人が同席している。財務大臣兼副総理の青木キャサリン・ストイコヴィッチと外務大臣の安藤ジョナサン・コネリーである。
「大沼総理の意向はどうだね」
五代が訪ねると青木が即座に返答した。
「総理はやはりアメリカの要請であるグレート・イーグルとマザーの連携を受け入れることはなさそうですね」
グレート・イーグルは米国政府により開発された国内行政全般にわたりAIが行政支援を行うシステムである。一方マザーは日本政府が開発した行政支援AIの呼称である。この二つはあくまでも支援システムでありAIによって最適と判断された結論を提案するものだが最終判断は人によって行われているのが現状だ。二つのシステムともビッグデータを使用した深層学習によって結果が出力されている。AIシステムでの判断過程が不明確なために閣僚や官僚双方から国民への説明責任が果たせないとその使用について大きな疑問が投げかけられている。それに対し米国政府ではAIに人格を持たせることにより説明させようとの取り組みが行われているのだが利権主義とキリスト教的慈愛の精神を並列させることが困難な状況で度重なるAIの暴走という結果にしか至っていないのが現状である。一方日本の取り組みでは東工大の情報工学科石井琢磨による結果が出力された後その深層学習の過程に対してリバーシブル・コンピューティングを導入することにより決定過程の説明を行わせようとの試みであり一定の成果が出始めている状況である。
「アメリカの意向はマザーとの連携ではなく石井君が行っているリバーシブル・コンピューティングへの共同開発だろう。グレート・イーグルとマザーとの連携など日米双方の国民の支持が得られるはずがないのは先方もわかっていることなのじゃないかね」
「大沼総理も同様にお考えです。共同開発となった場合、その果実がすべて国際資本に吸い取られることを懸念しておられます」
「困ったものだねえ。この話蹴った場合、想定される米国側の対応をどう見ているのかな」
安藤外務大臣が説明する。
「この問題の背景には国際資本とその背景に蠢く国際金融の世界戦略にあります。現在中国が大混乱のさなかにあり今後数年事態の収束が見込めないのでその間に日本と台湾、特に台湾ですね。そこを抑えて混乱収束後の中国を一挙に国際金融の支配地域にする意向です。それに反して現在の呉亮政権を支えているのが保守党のクリストファー・マッコイ大統領と大沼総理なのですが、マッコイ大統領の再選は難しいようです。革新党のエイミー・ディキンソン上院議員が大統領になると一気に流れが変わり大沼総理も対米外交の見直しは迫られることになりそうです」
「世論の支持ではマッコイが優勢なのではないのかね」
「マッコイ大統領の娘婿の中国企業との一大スキャンダルが準備されているという情報が入ってきています」
「火のないところにガソリンぶちまけて大火事を起こすというんだな。大体了解した。まあ、この件は大沼君の案件だから彼がどう処理するのか見物させてもらうわ。それで、今日私を呼び出した件とは何かね」
青木が説明する。
「幹事長もご存じだと思いますが、幹事長と組んで私と安藤大臣が大沼総理降ろしを企てているという怪文書が出回っています」
安藤が続ける。
「私は日本にルーツを持たない帰化人ですが日本を我が国の文化を愛しています。議員になったのも国際社会の中で日本の地位を高めたいと考えたからです。そのような考えの持ち主である大沼総理を尊重しています。大沼総理を追い落とすことは全く考えておりません」
「この怪文書が出たことで私たちと大沼総理の関係がとても難しいものになってきています。幹事長のお力添えで関係修復お願いできませんでしょうか」
「安藤君が総理候補だったよな。君は総理大臣になりたくないのかね」
「今は、大沼総理を支えて行くことが私の責務と考えています」
「はっはっは、青いねえ、君たちは。総理の地位を狙っているのならその青さは犬にでも食わせるべきだな。今回の件は、私が総理に話しておこう」
その時、料理屋の女将が外から声をかけた。
「お連れの方が参ったようです」
五代が答える。
「おう、入ってもらえ。今日は君たちに紹介したい人がいてねえ」
入ってきたのは六十過ぎのダークグレーのスーツを着た男である。ロマンスグレーの短髪にこれもグレーの口ひげを生やし、その所作に隙を感じさせない雰囲気を漂わせ、静かに部屋に入ってきた。青木と安藤の前に来ると静かに会釈した。
「五葉重工業の小野寺と申します」
五葉重工業は先ほど話の合った東工大の石井教授のスポンサーでもあり、現在行っている宇宙ビジネスの拠点としてアメリカの北西部を狙っているとの業界の噂がある会社であり、小野寺はそこの代表を務める人物だ。
「今日は五代先生にお願いして青木副総理、安藤大臣とお目にかかる機会をいただきまして大変光栄に存じております」
小野寺のその爬虫類にも似た無表情な目がかすかに妖しく光ったようである。
「僕は後の予定があるのでこれで失礼するよ」
五代は一声放つと座を立った。
朝霞駐屯地中央情報隊所属の玉木大輔三等陸佐はスコット・グレン、アメリカ大使館所属武官とともに八ヶ岳を目指している。スコットは玉木が米国防省へ駐在武官として配属されて以来の間柄である。話は二週間前に遡る。七月一日付でアメリカ大使館付の武官として赴任してきたスコット・グレンは旧交のある玉木に連絡を取りサンノーホテルにて家族ぐるみの夕食会を取った。その会食の時スコットより個人的に話をしたいということだったので今回の八ヶ岳登山に至っている。御泉水自然園へ車を止めて七合目登山口より瓦礫の登山道を黙々と歩を進める。将軍平で一休みし後は急勾配を一気に蓼科山まで登る。二時間半ほどの行程だ。山頂は岩だらけで独特な雰囲気で自然の雄大さに圧倒される。澄んだ青空の下で真夏の日光が目に痛いほどだ。三百六十度の大パノラマで遠く南北アルプスの山々が見渡せる。玉木は水筒から熱いコーヒーを注ぎスコットに進めた。周りに登山者はいない。スコットは雄大な自然をじっくりと堪能し、そして独り言のように話し出した。
「ダイ、俺はこの国が好きだ。この起伏にとんだ自然をとても気に入っている。今日はあくまでも個人として、君と話をしたいと考えている」
「スコット、そりゃどうも。日本人として誇らしい。それで話ってのは何だい」
スコットは振り返り玉木の顔を確認するように言った。
「電子機器は持っているか?」
「いや、スマホも車に置いてきたし、時計も手巻きのオメガだ。ここで遭難しても自力で助かるしかない状況だよ」
「ダイ、陸自でも噂にはなっているかと思うが自衛隊を米軍の完全傘下に置くという計画が密かに進んでいる」
玉木は笑顔から徐々に顔をしかめてスコットから目を反らし返答した。
「ああ、あくまでも噂の段階だけどな」
「どんな噂だい?」
玉木はスコットの真意を測るように彼を凝視して、そして覚悟を決めたように話し始めた。
「スコット、これはあくまでも陸自内での噂だ。何か始まっているわけじゃない。そのつもりで聞いてくれ」
「OK」
玉木の話では現在内乱状態に陥っている中国国内の状況はあと数年、長ければ五年ほど続くことになるという。中国国内のAI統合型システムが西側のそれと形態が違うために変数が多すぎて精度の高い予測が出せないためである。米軍が最も恐れていることは中国国内の混乱に乗じて日本国内の米軍基地への核攻撃にある。その場合の交渉相手が中国にいないことなのだ。日本国内に潜在的に潜んでいるスパイの暗躍により中国軍が日本領域に攻め込んだ場合の致命的な対応の遅れも大きな懸案材料となっている。それで自衛隊を米軍の完全な指揮下に置いて日本政府の合意なしに駐留米軍司令官の指揮下に置くというものだ。噂の出どころはわからないが自衛隊の情報部の分析でも不測の事態への対処の致命的な遅れが現行システム上起こり得るので噂は信憑性をもって広がっているとのことである。
「ダイ、おおむねその理解であっている。現在の中国内の混乱の原因は国際金融が仕掛けたトラップだということも理解されているのか?」
「ああ、そのようだな」
玉木はそのような分析が自衛隊中央情報局からのレポートで上がってきていることは知っていたが一方、中国共産党が国際金融に掛けたトラップという分析については黙っていることにし、作り笑いを浮かべて話した。
「それで米軍の将校さんが陸自三佐にそのような話をすることがどういう理由からなのかな?」
「ダイ、最初に話したろう。これは俺の個人的な話だって。陸軍を代表してここにきているわけじゃない」
「スコット、友人としての忠告は大変ありがたいんだが、俺にどうしろと?」
「俺にも何がベストなのかはわからん。俺は現大統領を支持しているし、彼が再選されればこのことは単なる計画だけで終わると思っている。ただ知っているかい?マッコイ大統領の娘婿のスコットの大スキャンダルの件は?写真付きで近々ボストン・タイムズが発表するらしい。よくできた合成写真らしいがあれが出ると一挙に大統領選の状況がひっくり返される。エイミー・ディキンソンが次期大統領になると今言った件が具体化する可能性が否定できないんだよ。よくわからないのはこの写真が中国から出ているらしいということだ。親中的なマッコイのほうが中国にとっても有利なはずなんだけどな」
「ご忠告しっかりと受け止めるよ。しかし誰に相談したものかなあ」
「ダイ、防衛大臣の徳大寺はやめとけよ。彼はキャサリン青木とつながっていてビッグテックと国際資本と相当深い関係にあるという報告が米軍内で上がってきている」
「スコット、俺は単なる中間管理職だぜ。社長に会えるわけがないだろう」
「ははは、そうだな」
夏の心地よい風が蓼科山の上を旋回しそれに抗うように一羽の隼が駆け抜けていった。
ネットのニュースでは二百人程度の袈裟を着た禿頭の一団が烏丸通を北へ上っている姿が映し出されている。比叡山の僧侶たちの一団である。先頭には大僧都熊田春樹の姿が見られる。周りには府政は古都の文化を守れといったプラカードが掲げられている。
事の発端は昨年十二月の川崎での日本人による外国人スーパーへの襲撃事件を受けて出された内閣官房長官談話による。それにより外国人永住者に対して地方自治に限定し選挙権及び被選挙権を与えるということが打ち上げられた。その後で憲法違反の可能性が大いに疑われるにもかかわらず国会で与野党ともまともな論議をせずに三月末に臨時国会で法案を通してしまったのである。その後の地方首長選挙で台湾系帰化人孫英玲が京都府知事選挙で現職であった川上博を破って初当選したのである。京都府民は必ずしも孫を支持していたのではなかったが国会における外国人永住者に対しての公民権認可に伴う権利拡大を毎日のようにメディアで流されたことと、公示二日前の現職知事川上の外国企業からの不正献金というビッグニュースが流されたことにより一挙に流れは孫英玲へと流れてしまい彼女が京都府知事の座を射止めたのである。結局、川上への不正献金は立件されることもなくデマだった可能性が高くなった。そういったメディアによるあからさまな世論誘導により誕生した孫府政であり、そのことに対して京都府民の何とも抑えがたい政治とメディアへの不満というものが潜在的に蓄積されていたのである。そういった中で孫による外国人百万人受け入れとそれに伴う外国人永住者に対しての権利拡大、および差別撲滅の法案が府議会へ提出された。府政への抗議の声がネットを通じて徐々に高まり、それは比叡山と府内の仏教界に対して反孫府政へと向かう強い影響を及ぼした。千年の都京都の府民は天皇がこの地を去った後も神社仏閣とともに日本の魂の故郷として日本文化を継承してきたという自負がある。天台座主渡辺利光により今回のデモの提案がなされたのである。まずは少人数で初めて国民世論の喚起を促そうという試みだ。デモは毎週日曜日に行うことが確認されその旨、京都府警への届け出がなされている。デモの内容が古都の文化を守れということで外国人差別に当たらないので現法制下では孫知事としてもこの民主主義下における府民の権利を阻止することはできない状況である。
大沼総理はこのニュースを首相官邸で驚きを感じながら眺めていた。
世界は今、大きく変革しようとしているその只中にある。AIによる管理体制が徐々に構築され、現在はAIの判断を取捨選択しながら人の手により社会が運営されているが遅くとも十年後には人の選択が入り込む余地がなくなる時代が迫ってきている。その状況下で世界ではAIによるどのような管理社会を構築するのかで様々な考え方に分かれて激しい主導権争いが水面下で行われていることは間違いない。現在中国大陸で起こっている混乱はその主導権争いが顕在化しているにすぎない。国際資本による中国市場を完全に取り込むために仕掛けられた内乱であるとか、共産党による国際資本の存在を顕在化させ、それに反発する国民の不満を励起させて内乱を越させている陰謀とか様々な解釈が世界中で行われている。大沼自身はかの大陸で歴史上繰り返されてきた政権争いが現在も行われているにすぎないと冷ややかに見ている。そこに崇高な目的は微塵もなく単なる覇権争いである。また最終的には絶えることのない紛争に疲弊した人民の心にその戦力を温存している共産党が入り込んで一気に制圧するのではないかとも大沼は予測している。それが三年先なのか五年先なのかの時間の問題にしかすぎない。そのようなAI社会の構築と隣国の状況下で十年先、五十年先でも日本人の心を失わずに日本という国をどう存続させるかが彼にとっては今、直面している大きな試練である。
翻ってアメリカ合衆国の状況は大沼の盟友であるクリストファー・マッコイ大統領が何とか国際資本の影響を最小のものとして、伝統的な政策である家族を重視した民衆の幸福を第一に考える社会に向けて戦っている最中であり、大沼もその考えに同調している。しかし世界金融の支配をもくろむ国際資本はこのAI革命をその好機と捉え反マッコイの旗印を鮮明にし、その目的のためには手段を択ばない状況である。EUが一つの市場としてその存在を確実なものとし国際資本の入り込む余地が限定されている中で、国際資本はその生存を賭けてアメリカ市場を掌握し、その上でEUとの政治的交渉でその市場に徐々に侵攻することを選んでいるようである。それができなければ一方のグローバル的存在である共産独裁主義の理念に世界が侵略されてしまう可能性が否定できない。その中でより国民側に立つマッコイが大統領選で勝利するのか国際資本の代弁者であるエイミー・ディキンソンが勝つのかによって世界の政治経済及び軍事動向が大きく左右されることになる。
大沼はこのデモの様子を眺めながら昨夜の五代幹事長との立ち話を思い浮かべた。五代の話によるとキャサリン青木や安藤ジョナサンは、こよなく日本文化を愛する日本人であって決して国際資本の意向を受けて日本文化を破壊するつもりはなく、大沼を政権内でしっかり支えてその政策の実現に貢献したいとのことであり、大沼降ろしを目論んでいないとのことであった。その話を聞いて大沼は苦笑せざるを得なかった。青木も安藤も五代の勢力下にあるのは間違いなく、本人たちがどのように考えようと結局は五代の方針に従わざるを得ない。この五代幹事長自体が歴代内閣に対し最大の影響力を行使してきた人物でありその強さは国際資本との強い繋がりから来ているのは自明の理である。五代が現在大沼の政権を支えているのは大沼とマッコイの良好な関係が大きな理由であり、それにより北米市場での利権を最大のものとするのが彼の目論見である。エイミー・ディキンソンが次期大統領になれば大沼は総理の座から降ろされるであろうことは認識している。政治とはそんなものである。
大沼にとって思うように行動できない総理の座はそれほど重要なものではなくなってきている。先日、皇居で今上天皇に内奏した際、国内と中国、アメリカおよびEUといった世界状況一般の説明をしたのだが陛下は特にイギリスの動向とTPP諸国の今後について強い興味を示され、また穏やかではあるが力強いお声で日本の国益を最優先と考えたいとおっしゃられたことが強く印象に残っている。大沼の解釈では日本の国益とは天皇を中心として国民がその自由と福祉を享受できる国の在り方であり、その実現のために同じ国柄である英国と共にTPP域内の諸国と一体となり世界で重要な一極を占めることだというものである。むろん大沼もその考えに異論はない。問題なのは総理大臣といえども日本をその方向に向かわせる手段が限られていることである。思想的に賛同する国もあろうが具体的な社会システムをどのようにして他の勢力から域内を守りまとめつつ発展させていくかの具体的な手段がないことが問題なのである。
そのような思いを巡らしながら比叡山の僧侶たちのデモを眺める大沼の中には、歴史的にも影響力があった比叡山の力というものが上手く活かせないかとふと心の中を過ぎるのであった。
大僧都熊田率いる総勢二百名となる僧の集団は京都御所を目指していた。烏丸通の車は途切れることはないが舗道には絶えて久しかった比叡山僧侶による実力行使のデモを見ようと大勢の人が集まっている。京都府警がデモの警護に当たっているが誰もが静かに僧侶たちの姿を見つめるか、録画するとかしているだけである。当の僧侶たちも黙々と前を向いて穏やかな表情を絶やさない静かな行進である。時折「大僧都!」という掛け声が車の走行に交じって聞こえては来るがそれ以外は静かな行進が続いている。一行は蛤御門から御所内に入り建礼門を目指した。建礼門の前には大手メディアがカメラを用意して一行の到着を待ち構えている。大勢のメディアの中に柚木クリスティーンの姿が確認された。
柚木は、その細身だが出るところは出ているといった魅力的なボディとハーフ特有の憂いを含んだ整った顔立ちに加え、低音でしっかりと耳に心地よく届く声で一世を風靡したメジャーな配信局のアナウンサーだった。彼女に不運が訪れたのは三十歳のころ上司のディレクターとの不倫愛をゴシップメディアにすっぱ抜かれたことから始まる。メディアを賑わせている間も不倫は個人的なことで罪を犯したわけではないので降板はさせないといった局の方針でニュース番組に出続けていた。また世論もその局の方針をもっぱら支持していた。事態が急転したのはゴシップメディアなどの取材攻勢、特に不倫相手の上司の私生活にずかずかと踏み込んだそのやり方に心労が積み重なった不倫相手の妻が自死を選んだことから始まる。彼女の死直後はメディアの不謹慎な取材が攻められていたのだが、柚木が葬儀に真珠のネックレスを着けて焼香を挙げたことが世の中の大顰蹙を買ったようでそれ以来、柚木バッシングが続いてしまった。局側も守り切れずに半年間の時限を区切って彼女を総務部に配属したのであるが、主婦の敵と認定されてしまった上に男性ファンからも中年男との不倫愛でそっぽを向かれた柚木だったので半年たっても現場復帰できずに結局一年を待たずに退社してフリーの道を歩んだのである。フリーになった柚木であったがニュースなどの時事問題よりは現在失われつつある日本の文化の存続をいかにして行っているかといった文化面での番組作りに興味を覚え、それをメインにやっている配信局と共に今現在番組制作を行っているところだ。今回は京都の祇園祭をメインとして番組の制作をしており半年前からスタッフと共に町家を借りて取材していた最中であった。取材先で比叡山の僧侶がこの日曜日に古都の文化保存のためのデモを行うといった情報をいち早く聞きつけカメラと音声とアシスタントといった小編成でデモの最終地点の建礼門に駆け付けた次第である。少人数のスタッフで身軽だったせいか絶好の場所を確保できた。目の前に熊田大僧都が立っている。二メートルと離れていない。
「今、総勢二百名の比叡山のお坊さんが烏丸通を通ってここ京都御所に到着したところです。先頭には藍色の法衣、松襲を纏った熊田大僧都がいます。その後ろには権大僧都の姿も認められます。比叡山の僧侶によるデモは戦国時代以来でしょうか。今まさに私たちは歴史の中にいると実感できます。今、熊田大僧都が声明文を読み上げるようです。しばし熊田大僧都の言葉をお聞きください」
柚木はマイクを切って熊田を黙って見つめた。熊田は柚木の合図に促されるかのように用意した声明文を読み上げた。
「京の都は七九四年、延暦十三年に桓武天皇により開かれて以来、神仏の教えに従い助け合いながら古都の文化を育み慈しんできました。多くの戦火にも見舞われました。我々天台宗の門徒も伝教大師最澄により延暦の年に開闢以来今日まで京の人々と共にその文化を守り続けています。明治の御代に天皇が遷都なされてからも京の人々は変わることなくその文化を守り続けています。その文化は日本人の心、故郷に当たります。外国の方々がここに住み暮らしていくことに私たちは反対しません。その国の宗教や風習についても同様です。仏の教えではみな仏性を持っていると説きます。そして悟りを開く道はすべての人に開放されているのです。そのようにして京の人々は様々な人たちを受け入れてきました。ここに住む人たちはその生活を通して仏の教えと共に輝いてきたのです。そこに人種や属性による差別などは存在しません。また宗教による差別も存在しない世界を構築してきました。その結果今、帰化人である府知事が誕生したのです。されど、府知事がやろうとしていることは京の人々の互いを尊重しあう文化に沿ったものでしょうか。一方的に突然、新しい価値観や生き方といったものを府民に押し付け、我々が育みいつくしんできた生活を古い習慣として破壊していこうとしているとしか思えてなりません。我々天台僧徒ならびに京都の仏教界はこの暮らしを守るために戦います。武器を持つことはしませんがこの要求に前向きな回答を得るまでは毎週日曜日にデモを行うことを決意した旨宣言させてもらいます。南無妙法蓮華経」
熊田大僧都は柚木クリスティーンに向かってお辞儀したかのようだった。
「日本全国の皆さん、比叡山熊田大僧都のお言葉届きましたでしょうか。今、私たち現代人は変革の真只中にいます。様々な情報が溢れ、我々自身にとって何が本当に大切なのか考えないままに時代に流されて行っているのかもしれません。人種差別、属性による差別や貧困問題に取り組むことは当然のことです。しかしそのことと我々自身が長い歴史の中で育んできた文化を古いものだと否定することは全く違った問題です。その文化により達成してきたこの住み易い京都の街に今多くの外国人が住みたいという現実も認識しなければなりません。差別がない暮らしやすい街だからこそ外国人にも魅力的に映るのではないでしょうか。大僧都のお言葉を今一度嚙みしめて我々日本人にとって何が大切で幸福に感じるか、もう一度考え直す時期なのかもしれません。夏の京都は大変暑いです。でもその熱気は気温からだけではないのかもしれません。ここ古都において人々が大切に思うその思いが熱く沸き立ってきているのではないでしょうか。京都御所から柚木クリスティーンがお送りいたしました」
柚木のコメントの終了を待っていたかのように大僧都たちは軽く会釈をし、踵を返してそれぞれ京都の街に散会した。すべてをカメラに収めた後、カメラマンの森本が柚木に向かって感極まった様子で話した。
「柚木さん、ばっちりです。さすが右斜め四十五度の女ですね。決まりまくっていました」
「茶化すんじゃないわよ。でもこの緊張感久しぶり。やっぱ、現場はいいわよね」
白川久男が柚木クリスティーンのリポートする比叡山僧侶大僧都熊田の演説を聞いたのは彼が六本木の会員制スポーツクラブにいる時だった。バイクマシーンで一生懸命ペダルを踏みながら僧侶たちのデモを見ていた。熊田大僧都の宣言は確かに彼の胸を打つものがあった。また多くの日本人が彼の言葉に感動したであろうことは容易に想像できた。今まで彼の中で燻っていた状況が急に視界が開けてくるような感覚を味わい、そしていよいよ事態は次のステージへ向かっているのだと実感した。
ここにもう一人大僧都の言葉に影響を受けた人物がいる。早川仁美という東京町田に在住の二十四歳の女性である。彼女は町田総合病院に勤務する看護師である。第二外科に所属している。彼女の病院では先天的に脳の機能に欠陥がある知的障害者の施設を定期的に検診しているのだがこの半年の間にその施設、幸寿園の患者たちが退園しているのである。その人々はすべて身寄りのない障害者ばかりであった。彼女の病院ではその施設がアメリカのビッグテックより多額の寄付金を得て、身寄りのない障害者をそのビッグテックが日本で開設した研究所へ転院させているという噂だ。アメリカで人道上できない人体実験をそこで行っているというものが看護師の間で囁かれている。真偽のほどは定かではないが身寄りのない独り身の患者だけいなくなっている事実に信憑性がうかがえる。そこでは最新の技術を駆使して異常の認められる被験者にたいし遺伝子情報の書き換えを行うことにより脳の再生や知的障害を緩和していこうという試みが行われているらしい。もちろん本人の同意などとれるはずがないので形式的に同意を取った形にしているのだろうという話である。この噂の信憑性を高めているのはその施設が神奈川県に位置してそれが保守の五代幹事長の選挙区であり、その施設を支援しているのがアメリカのビッグテックとかなり関係が深い五葉重工業という話である。単なるうわさレベルであるがそのことがやはり仁美の気持ちを憂鬱にさせていた。自分では如何ともしようもない事態により不幸にも健康に生きることがかなわない人々の力になりたいと思い入ったこの業界であるが実態がわかるにつれ当初の目標が綻びていると感じている今日この頃である。彼女にとってはアメリカのビッグテックや保守系政治家の利権主義が人々の幸せのために尽力したいと思っている仁美の人生観に悪影響を及ぼしているといったものだった。そのような時に十二インチのタブレットに映った柚木クリスティーンが訴える比叡山大僧都の言葉に感動している自分を見つけたのであった。自分でも青臭いと思いながらもなんとかこの熊田大僧都の言葉と行動を共にしたいと思ったのである。