チナルとツルギ
彼女は一人きり。
「~♪」
小さな、消え入る程に小さな声。
時には鼻歌を交えながら。
優しい詩を紡いでいた。
愛に愛する。
恋に恋する。
甘く、切なく、寂しい愛の詩を紡ぐ。
彼女の淡い金色の瞳はただ流れる雲を見ている。
ひょっとしたら、飛んでる鳥を見ているのかも知れない。
もしくは、空の夕暮れの寂しさに想いを馳せているのかも知れない。
「よいしょ」
言葉を発したのかすら疑ってしまう程の微かな声。
芝生に座っていた彼女は静かに立ち上がり、服についた土草を払う。
鮮烈な程に美しい深紅の長い髪でおさげを二つ作り、視力が弱いのか眼鏡を掛けている。
赤く目立つ髪とは裏腹に地味な藍色と白色を基調したワンピース。
彼女は平凡で、地味で、何処でもいる女性――ではなかった。
――勇者の血筋、血統、系譜。
彼女は勇者の血を受け継ぐ者。
大陸には六人の魔王が存在していた。
永久に続く、魔族と人間の領地の奪い合い。
数と武器で勝る人間に対して、魔王は圧倒的な力を所有する。
だが、人間の領地を攻め取れないのは、魔王達が一蓮托生ではない事が起因している。
互いが互いで潰し合う事すらもある。
不毛で無益な戦いが続く中、誕生する救世主。
赤い髪の男は産まれ持った才能と努力により、魔王にも匹敵する力を得た。
そして、腕一本と引き換えに魔王の一角を討ち取った。
その後は子孫を残し、勇者としてこの世を去る。
一族の力は嫡子へと受け継がれ、魔王討伐の使命を託された。
だが、魔王もそれほど愚かではなかった。
いがみ合っていた魔王達は、勇者に対して連携を取り合い対抗する。
以降、人間は勇者と力を合わせた果てなき攻防を繰り返していた。
彼女はもう何代目かも分からない勇者の嫡子として誕生した。
女性の勇者、チナルがこの世に降り立った。
前代未聞、前例がない、産まれるはずのない女性。
何があろうと始めに産まれるのは男の子だった。
チナルに勇者の力はなかった。
いや、あるのかも知れないがチナルにそれを使える精神は持ち合わせていなかった。
温厚で、臆病で、涙脆くて、人見知りで、恥ずかしがり屋のチナルには力を使いこなす才能はない。
両親を含め、国全体が困惑した。
戦えない勇者が産まれた事を。
七歳の時までは勇者として厳しく躾られた。
そう、七歳まで。
第二子が誕生した。
男の子、弟の誕生。
産まれたのはチナルが三歳の時だった。
弟は成長するにつれて、すぐに才能が開花されていった。
結果として【初めに産まれた嫡男】にこそ、力が宿っていた。
もう両親はチナルを厳しく躾る事はなくなった。
優しく、優しく、優しく育んでいった。
チナルは――辛くなった。
厳しくされている時以上に辛い気持ちになった。
自分が必要ではなくなったから、価値がなくなったから、体裁を保つ為の愛が向けられた事に。
チナルは笑顔でいた。
愛の感じない優しさに笑顔で応える。
チナルも保つ為に笑っていた、親と子の関係を保つ為に。
チナルが十八歳を迎えた時、家を出る決意をした。
詩を歌うのが楽しみになっていた彼女は、世界の広さを知りたかった。
まだ見たことのない世界を、人を、生き物を、風景を、情緒を、空気を、全てを感じてみたかった。
両親は心配はしていた。
そこに本当の愛はなかった。
チナルは悲しくはならない。
ようやく自分として羽ばたけるという想いを胸に旅立っていった。
多くの街や人に出会い、草木や動物とふれあい、風や景色を全身で受け止め、多くの詩を歌った。
誰に聴かせるでもない、美しい詩を紡ぎ続けた。
まだ愛を、恋を紡ぐ事なく、ただ美しい詩を歌っていた。
――チナルは足取りを軽くし、焦がれる瞳を浮かべて街へと向かう。
夕食の時間には少し遅い。
街を行き交う人々は疎らな中、チナルは酒場の前で足を止める。
お酒を飲むようには見えないが、それは見た目の問題。
案外、酒豪だという事はよくある話。
だが、チナルが酒場に入る事はなかった。
待っていた。
彼女はある人物を酒場の前で待っている。
待ち人来る。
頬は紅潮し、瞳孔が大きく開き、全身が固まる。
チナルは恋をしていた。
相手は身体は引き締まり、栗毛色の短髪、強い意志を感じさせる眼差し、至るところに刻まれている傷痕が印象的な男性。
「は……」
声を振り絞るつもりで漏れる吐息、チナルの精一杯の自己主張。
遠くから放たれた吐息等、蚊ほども気に留める様子もなく、酒場へと入っていく。
チナルは落ち込んでいなかった。
当然の事だから。
そんな些事よりも、今日も彼に出会えた事の喜びを噛み締める。
酒場の壁を背に彼の声を手繰り寄せる。
チナルの紡ぐ詩が愛や恋へと変わっていったのは、彼との出会いである。
チナルが落として転がる果物を拾い上げた男、そんなありきたりな使い古された出会いで彼に好意を寄せてしまった。
チナルには無いモノを全て持っている男だった。
自信、勝ち気、明るさ、豪快、逞しさ、熱さ、危うさ、強さ、全てが眩しく愛おしく見えてしまった。
それ以降、チナルなりの密かなアプローチが始まった。
恋を知り、愛に目覚め、自分の存在を感じた。
「はぁ? ラディス、お前が義勇騎士に志願するだって? もっとマシな冗談を言いやがれ」
「うっせぇ! 俺は至って真面目だ! 義勇騎士になって人生に一花咲かせてやるんだよ!」
「…………」
チナルは酒場から聴こえてくるラディスと呼ばれた男の声に耳を傾ける。
義勇騎士、勇者と共に魔王討伐を任される精鋭。
勇者を身を呈して護り、共に修羅場を潜り抜ける猛者。
それの選抜試験が来月に行われるという。
「はん、御大層なこったな。だがな、そんななまくらな剣じゃあ、一次審査で落ちちまうぜ?」
「うっ……確かにそうか。どうにか俺の力が存分に活かせる武器はねぇもんか」
義勇騎士に選ばれる者の殆んどが、この大陸に二つとない武器の所有者であり、その力を十二分に使いこなせる達人である。
「武器……武器……武器…………」
何度も反復しながら、心当たりを記憶の中から探る。
勇者の家系である以上、その手の知識は無い訳ではない。
しかし、どれも思い浮かぶのは持ち手の居る武器のみ。
それでも、何度も何度も記憶を辿っている間に時間は過ぎる。
「おい、神妙な顔してるけど大丈夫か?」
気付くと目の前に顔を赤くしたラディスが居た。
酔いが回っているのか語気が少しだけ荒く、呂律も不安定な言葉で投げ掛ける。
初めて出会った時以来の距離、チナルはラディス以上に顔を赤らめる。
「私が見つけます! 必ずあなたに相応しい武器を! なので、私を待っていてください!」
「…………」
そう言うとチナルはラディスの前から走って去っていった。
「なあ、ラディス。今の女なんて言ってたんだ?」
「さあな、全く聞こえなかった。顔色もおかしかったし、本当にアイツ大丈夫かよ」
チナルの草木のざわめきですら掻き消えてしまう微かな声では、喧騒とした酒場の前ではラディスに届かなかった。
精一杯の想いも、初めて見せた勇気も、必ず見付けるという決意も、ラディスに伝わる事はない。
――翌日、チナルは古書を多く蔵書している図書館へと向かった。
まるで何かに取り憑かれたように、一心不乱に本を探し、読み耽る。
簡単に見付かる情報などあるはずがない。
名だたる武器は概ね誰かの所有物になっているのだから。
一日、二日、三日、四日が過ぎて五日目の事だった。
初めてチナルは本に書かれている文字を指でなぞる。
「これだ」
チナル見付けたのは、【妖剣】だった。
扱う者が居ない、否、求める者は扱えない妖剣。
故に隠された。
失敗作として棄てるには些か惜しいという職人の想いから、世に出す事のないように隠された剣。
街からさほど遠くもない、山の奥深く。
チナルは妖剣を求めて山を登る。
慣れない山道に擦り傷を負いながら、妖剣を手にする為に、ラディスの為に、自身の存在意義の為に。
山の奥に洞穴が一つ。
書物に載ってあった通りとチナルは洞穴の入口の前で深呼吸を入れる。
覚悟を決めて中へと進む。
突き当たりの開けた場所まで出るとそこには錆びた剣が一本無防備に置かれていた。
魔物やガーディアンの類い等居ない。
封印なんてものもされていない。
それでも誰も求めない唯一無二の妖剣がそこにあった。
妖剣――名を【血吸いの剣】と呼ぶ。
剣と契約を交わし、自身の心臓へと突き立て、血を吸わせる。
その者の血が剣に力を与え、唯一無二の名剣へと昇華させる。
つまりは【剣を求める者の命と引き換えに剣が完成する】のである。
「ふぅ……」
静かに剣を手に取る。
鼓動が加速する。
一粒の涙が頬を伝い、落ちてゆく。
それは――死への恐怖ではなかった。
勇者になれず、親の期待に応えられず、子として愛して貰えなかったチナルは、初めて『何かに成れる』そんな気がした。
想いよ届け。
「幸せです」
跪いて剣の柄を両手で握り、天を突くように掲げる。
そのまま切っ先を自身の心臓へと向ける。
「汝、我が生命を以て、汝の輝きとならん。我、汝の力となりて、我が生命輝かん」
微かなチナルの声が洞窟内に静かに反響する。
下ろされる刃に胸を貫かれる。
覚悟を決めた【心】で刃を【受】け止めて【愛】を示す。
【心】臓を貫かれ剣に【赤】い血を吸わせ【恋】を確かめた。
血吸いの剣はチナルの心臓を突き抜けて、赤い血を存分に吸い尽くした。
妖剣は鮮やかな深紅の光を発する。
その輝きはより一層に強く、激しく、神々しいまでの光を放った。
勇者の血筋、血統、系譜。
紛いなりにも、妖剣が吸った血は勇者の血。
その美しい輝きは、神秘の奇跡はチナルの瞳に映る事はなかった。
チナルの生命の輝きは剣へと宿り、今はもう自身の身体は枯れ果てた骸。
腕は力を失くし、だらりと垂れ下がる。
チナルの愛も恋も想いも願いすらも吸い尽くした血吸いは輝きと共に姿を消した。
ぽっかりと空いた胸の傷、虚ろな瞳、血の気の引いた肌、吸い尽くされた身体は花弁のように、はらりと地に崩れる。
静寂がチナルを包み込む。
彼女は一人きり。
――その後、血吸いはラディスの元へと渡った。
何も知らない。
起きて目覚めたら、そこに剣が深紅に輝きを放っていた。
錆びてボロボロだった刃は見る影もなく、研ぎ澄まされたものだった。
その剣から感じ取る力は、ラディスにも一目でそこら辺のなまくらでない事を悟らせる。
チナルの想いには気付く事なく、彼女の存在を思い出す事もなく、ラディスは喜び勇んだ。
ラディスは義勇騎士への選抜試験を受ける。
結果は不合格。
強さや武器以前の問題だった。
元盗賊であるラディスの経歴が、義勇騎士に相応しくないと判断された。
ラディスは盗賊から足を洗って以来、人々の為に尽力を注いできたにも関わらず、国は経歴ばかりで今のラディスを見る事はなかった。
ラディスは憤り、荒んだ日々を過ごした。
血吸いなど知った事かとガラクタのように投げ棄てる。
チナルの血が、命が、想いが染み込んだ剣は無情にも届く事はない。
酒に溺れ、酔っ払って帰り、眠りにつき、目覚めたある日、剣はラディスの元へと戻ってきていた。
最初に放っていた時の深紅の輝きを帯びて。
その鮮烈な紅色に何故か女性の面影が浮かび上がる。
名前も知らない彼女に想いを馳せる。
この剣だけは自分を見ている、そんな気にさせた。
ラディスはもう一度、剣を手に取り立ち上がった。
例え、義勇騎士になれずとも、この剣さえあれば己自身の力で乗り越えられる。
そう信じた。
そして、勇者の血を吸った剣と共に魔王と戦い、ラディスは後世に英雄と呼ばれる事となった。
ラディスは死を遂げる最後まで、血吸いと共に戦いに身を投じていたという。
彼女は彼と共に――。