逸脱
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目の覚め方は穏やかだった。勤めのある朝などに長く寝てしまった後のようなせわしい目覚め方ではなく、すっかり満ち足りた気持ちで眠りの深みより、その居心地のよい底より、目覚めようとする人間の持つ神秘的な浮力で、現実の明るみへと浮かび上がっていった。いつもは抵抗を感じるのだが、その時は、感じなかった。よっぽど快い眠りを経たためだろうと思う。
ぼくは家の自室の机の上に突っ伏して寝ていた。暖かい、いや、じゃっかん暑いくらいだった。
そういえば、暖房が付いていた。よく冷えていたので、付けたのだった。設定温度は二十五度。顔を上げる瞬間、顔の下に書籍の存在を知った。そうだった。ぼくは勉強をしていたのだ。
しかし、何の勉強を?
ぼくはその上に突っ伏したことによりすっかりページの開いてしまった書籍を持ち上げ見てみる。すると、ある資格試験の参考書であることが分かった。
ぼくはちょうど二十歳になったばかりだった。高卒で、すでに職には就いており、あまり恵まれた待遇ではないものの、自分なりに努力して勤続していた。
無音だった。家族の者はたぶん出払っていて不在なのだろう。ぼくひとり。自然と、物思いの方に自分が傾いていってしまう。静かな時は、自分の音しか聞こえないものなのだ。静かな時は、従って自分の方に吸い寄せられてしまうのだ。
ぼくには、いつだったか夢があった気がする。志が。希望が。とにかくそういったものが。
そしてその実現に向けて、ささやかではあれ密かにおのれの能力を磨いて、頑張っていたのではなかったか。自分が好ましいこと、自分において切実なこと、また世間において必須だと思えること、そんなことに、まい進し、突撃し、その界隈で名を成せるよう苦悩していたのではなかったか。
そうだ、と内心で答える。自問自答だ。
なのに、どうしてぼくは今、当時考えていたこととは違うことで苦悩し、当時望んでいたところではないところにいるのだろう。
自分が目指していた場所への道より逸れている。そういう自覚があるのに、どうして軌道修正することが出来ないのだろう。
ぼくは持っている参考書を壁に軽く投げつけた。
ぱさっ
厚めの参考書は痛々しい音を立てて壁の面でぺしゃんこに広がり、そして床に落ちた。別に快感などはなかった。虚しさがしみるばかりだった。
過去に思いをはせると夢の残光が見えた。他方未来に思いをはせると、何も見えなかった。ぼんやり闇だった。
今の自分のあり方、生き方に、ぼくは、不満を持っていることを、白状せざるを得ない。しかし、ぼくの両親、ぼくの兄弟、親戚、彼女、友人、職場の同輩。諸々ぼくの身近な人達は、ぼくの生き方に納得している様子だ。ぼくが変わること、今の自分を否定することには、恐らく肯定的ではないと思う。
今のぼくを規定しているものは何なのだろう。夢のあった方より引きずって違う方へ行かせようとする力は一体何者の力なのだろう。
ぼくは分裂してしまったようだ。本心は違うところにあって、今ここにあるのは、妥協、打算、陳腐な理想の成すしけた偽物だった。
机の引き出しを開け、カッターナイフを取り出す。そして刃を出し、片方の手首に押し当て、息を呑んで、目をゆっくりと開閉して、静かに、引いてみる。
――っ!
ぼくはカッターナイフを落とす。激しい、信じられないくらい激しい痛みが襲う。ぼくは目を閉じて俯き、無傷の方の手で傷付けた手を握る。
そして目を開いて確認してみる。だが、傷は思ったより浅く、軽微で、ばんそうこうを貼ればあっという間に治りそうな小傷だ。
偽物のくせして、立派に痛がるものだ。
ぼくは泣きたい気持ちだったが、涙を出すことは無理だった。病人のように顔を上げて、室内灯を見た。するとその光が遠のき、ぼくはまた、再び眠りの底の方へ、沈んでいくようだった。
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