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ユーフォリア/愛を取り戻した女の話

作者: 晴日青

 ――ごめんなさい、ごめんなさい。

 彼女は何度もそう泣いた。


***


 その日、彼女は久しぶりに目を開いた。周りは暑く、遠くで蝉の鳴き声が聞こえる。


(嘘でしょう)


 泣きたくなる気持ちを抱えて、彼女は自分の喉を震わせた。

 隣に立つ彼はまだ自分の様子に気付いていない。

 その懐かしい横顔を見て、また目頭が熱くなる。

 触れようと手を伸ばそうとして、ゆっくりと下ろす。

 彼はまだ『気付いていない』。

 だったら、彼女にできることは彼が『気付く』そのときを待つことだけだった。


 やがて、彼女と彼とで二人仲良く、以前そうしていたように歩いていたとき、向こうから女性が歩いてくることに気が付いた。

 彼女は一瞬考え、そして彼の横顔を見つめる。

 しかし、当然彼は何も言わない。

 その顔はひたすら張り詰めていて、その緊張を表すようにつぅっとこめかみから汗が流れている。

 拭いもせず、彼は硬い表情で女性を見ていた。

 そういえば集中するときはいつもそんな顔だった、と懐かしい過去を思い出し、彼女は感じるはずのない痛みを胸に感じた。


「新しく越して来たの?」


 女性が話しかけてくる。すぅ、と息を吸うと生ぬるい甘い香りが肺に沈み込んだ。


「はい、彼と二人で……。あなたはここで何をしていらっしゃったんですか?」

「私? お散歩していたのよ」

「散歩……。のんびり歩くには少し気温が高いですね。もう少し涼しればいいんでしょうけど」

「たしかに散歩には暑い時期ね」

「あの……私たち、これからどうすればいいんでしょう」


 聞いてから、曖昧な質問をしてしまったと後悔する。

 隣で彼がなにか言いたげに口をぱくぱくさせていた。


「ええと……。できれば彼と二人でここに住みたいんです。いい場所はありますか?」

「あまり広くはないけれど、あなた達が住むのにちょうどいいおうちがあったはず。この村の人はよく引っ越すものだから空き家が多いのよ。大丈夫、勝手に住んでも誰も怒らないから」

「そう……なんですね。ありがとうございます」


 ゆっくりと頭を下げると、女性は柔らかく笑った。

 悪い人ではないようだ、とほっと息を吐きながら彼の肩を叩く。


「ね、行こ。私たち……もう一度……」


 彼は彼女の行動に『まだ』反応しない。発した声はだんだん小さくなって、やがて消えてしまった。

 ほろ、とほとんど何の前触れもなく彼女の頬を涙が伝う。


「……ごめんなさい」


 ――それが、彼女の最初の謝罪だった。


***


「……早く起きないかな」


 目を閉じた彼の顔を覗き込む。

 彼女を『運んだ』ことで疲れてしまったのか、彼は死んだように眠っていた。

 以前のように揺さぶって起こしたいような、このまま寝かせてあげたいような、そんな不思議な気持ちになる。


「……私、とても嬉しいの。もう一度会いに来てくれてありがとう。もう一度会わせてくれてありがとう。だから……ごめんなさい」


 そっと彼の胸に顔を近付ける。

 とく、と生きた人間の音がした。

 その音に惹かれて、そこにゆっくりと手を伸ばす。

 触れた温もりは確かなもので、彼女の指先をじんわり温めた。


「起きて。……でも、起きないで。ずっと眠っていてくれれば、きっと何も悲しいことなんてないと思う。もう一回あなたとお別れしないですむ。……分かってるのに、あなたと話したい。もう一度だけ、あなたと」


 ――彼女には自分のことがよく分かっていた。

 温かい彼の手を握っても、自分にその温もりが移らない意味を。

 そして、彼が今の今まで彼女に気付かなかった意味を。


「……シレネの花が咲いた家だって。私たちのどこに『偽りの愛』があるんだろう。……嘘を吐いているのも、騙しているのもあなたじゃない。……私だけ」


 すぅ、と彼が息を吸う。彼女にはもう必要のないものだ。


「あの女性はサルビアの花が咲いた家に住んでるって言ってた。子どもが待ってるサルビアの家。ねぇ、サルビアの花言葉を知ってる? 『家族愛』って言うんだよ。……きっと、あの人の子どもは――」


 ――私と同じだね。

 事実を拒むように彼女は激しくむせた。

 もっとも、むせていると思い込んでいるだけかもしれない。

 かつての記憶がそう錯覚させているだけのようにも思えたし、硬直した喉が空気の吸い方を忘れて本当に痙攣しているようにも思えた。

 どちらにせよ、彼女にはある意味で関係がない。


「……ん」


 もぞ、と彼が身じろぎする。穏やかな寝顔を見て、彼女は嘆息した。


「……ごめんなさい」


 きっと彼は目を開けるだろう。

 そして、彼女に『気付いてしまう』。


「……ここはあなたにとっての楽園じゃない」


 彼女はそう呟いて、目を閉じた。ふわりと甘すぎる香りが漂い、そして――。


***


 彼と彼女が生活を始めてから数ヶ月が経った。

 汗が滲むほど暑かった日々は去り、今はもう肌を出して歩けば寒さを感じる時期になってしまった。


「……そろそろかなぁ」


 彼がいないある日、ぽつりと彼女は言った。

 最近、彼が彼女を見る目つきが以前と違う。

 ときどきなにか窺うように顔を覗き込んで、そして自分の思い違いだったとでも言いたげな表情を浮かべて目を逸らす。

 案外鈍い彼のことだから、彼女がその態度に気付いていることを知らないのだろう。


「私はもう、あなたのためにしか生きられない。そのためにもう一度生まれてきたから」


 そよ、と窓の外のシレネの花が揺れる。


「以前の私とは違う……。あなたのために生きたい」


 ここに来てからずっと思い続けてきたことだった。

 自分を優先する必要がなくなった彼女は盲目的なまでに彼に尽くし、どんな言葉にも肯定するようになっていた。


「あなたに嫌われたくない。私にはもうあなたしかいないの」


 病的な言葉も、彼女にとっては真実だった。


「ごめんなさい、本当にごめんなさい……」


 ――彼女は確かに生きている。

 見えている世界が違うと知っているのは、恐らく彼女と『同じ』人々だけだろう。

 彼女は他の住人のことも、自分自身と彼のことも悲しいほど冷静に見ていた。

 例えば、はしゃぐ子どもを微笑ましく見つめる夫婦。

 夫婦も彼も、『走り回る子ども』を優しい笑顔で見つめ、「元気がいいですね」と当たり前の会話を交わす。

 だけど、彼女に見えているのは『夫婦が抱く干からびた子ども』だった。

 当然、乾いた皮と骨だけの子どもは駆け回ることも、母親に抱っこをねだることもない。

 おそらく、彼女のことも向こうからすれば『隣に寄り添う若い恋人たち』に見えているのだろう。


 でも、と彼女は自分の身体を見下ろした。

 この身体は以前のように動いてはくれない。

 外に出るとなれば、彼の手が必要になる。

 彼女からすれば『――を抱いた男』でしかない。


「私だけ……なのかな」


 また、ぽつりと呟く。


「みんな受け入れてるの? ここで生きることを」


 それは大切な人を、『ここ』に来てまで自分を望んでくれた人のことを騙す行為だ。

 彼女にはそれが耐えられない。幸せを感じれば感じるほど、罪悪感と悲しさが胸を満たしていく。


「……あなたが好き。ずっと忘れていてくれるなら、それでよかったんだと思う。でも、あなたが忘れても私が忘れられない。……もう、私は」


 ――その先の言葉は、出て来なかった。


***


「君の作った卵焼きが食べたいな」


 キッチンに立った彼女に、彼が無邪気に言った。

 どうして彼がそう言ったのか、彼女はすぐに理解してしまう。

 彼は卵料理が食べられない。

 アレルギーのせいだと言っていたのを思い出し、自分が試されていることを改めて認識する。

 分かっていてなお、彼女は彼に微笑みかける。


「分かった。じゃあ楽しみにしていてね」


 ――さようなら。

 そう、心の中で告げる。

 こう答えることを彼は心のどこかで望んでいるのだろうし、彼女も偽りの愛を終わらせたいと望んでいた。


「君は……」


 彼が浅い呼吸を繰り返す。彼女も、息をした振りをした。


「君は死んだはずだ」


 その指摘を望んでいたはずなのに、咄嗟に首を横に振っていた。


(言わないで。また一緒にいたい。ずっとあなたと『生きたい』)


「駄目だよ。それを言ったらもう戻れなくなる」


 叫びたい本当の気持ちは隠して、彼に選択させることを選んだ。

 それがどんなに残酷な選択肢でも、彼女には出せない結論だった。

 彼はただ静かに伏せていた目を彼女に向ける。


「君は、死んだはずだ」


(……さようなら。私の大好きな人。ごめんなさい。私の大切な人)


 目の前で、彼が正気に戻っていくのが分かる。

 甘い香りに騙されて、彼女という優しさに騙されて、惑わされた住人に騙されて、狂っていた彼が少しずつ正常を取り戻していく。


「もう二度と、私を取り戻さないで」


 頭を押さえてふらつく彼にはっきりと告げる。

 もう、その声が彼の耳に入っていないと分かっていても、言わずにはいられなかった。


「……幸せに『生きて』ね。私の分まで……」


 ――ごめんなさい。

 最後に告げた瞬間、彼と繋がっていた何かがぷつりと切れたのが分かった。


***


「これで、良かったの」


 シレネの咲く家で、一人若い女が目を閉じる。


「私はもう一度だけあなたと『生きた』。それだけで充分」


 若い女は自分の左手をそっと握り締める。

 その薬指には鈍い銀の指輪がはまっていた。

 何度も愛おしげに指輪を撫で、そこに刻まれた『あなたを永遠に愛しています』という言葉に口付ける。


「……私を忘れてね」


 誰も、女の声には応えない。


「……ごめんなさい」


 ――流れるはずのない涙を流し、女は永遠に誠実な恋人を想い続けた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] こちらを拝読して、男の話の方を拝読してもう一度戻ってきました。 それぞれの心情の描写と儚い世界観がマッチしていて胸にきました。 [一言] 彼女は彼のことを本当に想っているのに男ってやつは…
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