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桃源郷の日は暮れて  作者: 椿 雅香
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あやしい青年

5 あやしい青年



 どんよりした空から今にも雨が降って来そうだ。

 凛は小さな息を吐いて、英語のテキストに目を戻した。このページを訳せば、面倒な予習は終わる。英語を母国語並みに操る凛にしてみれば、どうしてわざわざテキストを書き写して訳さなければならないのか理解できない。教師の指導だから、仕方なくやってるだけだ。スペルを覚えるためと言っても、昨今は、グーグル翻訳もあれば、ワードがスペルミスのチェックまでしてくれる。テキストを手書きする意味がないと思うのだ。

 ふと気づくと、テキストに影が落ちた。目を上げると、涼しげな顔立ちの青年が見下ろしていた。


 青年は口の端だけで笑った。


 凛は、何となく怖くなった。


 時計を見ると、5時半だ。山道夫人が来るには、あと1時間半もある。どうにかして、この窮地を逃れないと。頭の中で、めまぐるしく逃げる算段をする。


 凛は野中夫妻の教育を受けたが、体育は、いろいろな人達が教えてくれた。格闘家の山道夫人は護身術を、猟師の山道氏は射撃を、漁師の水野氏は水泳を、山菜取りの名人の水野夫人は山歩きを、といった具合だ。

 でも、今、この青年から逃げるには、どの技も使えない。まさか、ここで、ライフルをぶっ放すわけにもいかないし、第一、そんなもの、持ち合わせがないのだ。


 蒼白な顔をしていたのだろう。青年が面白そうに口を開いた。


「小野寺 凛、さん、でしょ?」


(どうして、私の名前を知ってるの?)


「どうして、名前を知ってるかって?」


(この人、他人の心を読むの?)


「君は有名人なんだ。

 あの秘境と言われる山辺集落に移住した小野寺博士の孫だろ?

 当時の新聞に出てたらしい。小野寺博士が、子供さん夫婦や仲間達と、廃村に入植したって」


(私、物心ついてすぐだったから、新聞のことなんか知らない)


「で、どんな子かなって思ってたら、中間テストで、あの快挙だ」


(何が、言いたいの?)


「毎日、お利口に勉強してるんだ。当然と言えば、当然かな。有名な格闘家が送り迎えしてくれるんだから。時間は有効に使わないとね」

薄く笑って続けた。

「でも、時間はたっぷりあるんだ。君は7時に正門前に立っていればいいんだろ?」


(どうして、知ってるの?)


 驚いて目を見張る凛に、青年は平然と言った。


「調べさせてもらった。もっとも、中間テストの結果が分かってからだけどね」


 軽く片目をつぶった。笑うと、最初の冷たさが幾分薄らぐ。でも、好意的な目ではない。それだけは分かった。


「俺は、片山 翔。一年六組だ」

「理数科なの?」

「君は、普通科らしいね」ニコリと笑う。「君ほどの数学の実力があれば、理数科でも良かっただろうに。数学のあの第二問。どっかの大学の過去問だったらしい。できたのが、君だけだったって話だ」

「町の高校のレベルがどのくらいか分からなかったから…」

 入試の日、受験生の数に圧倒されて、凡ミスを三つもしてしまったという笑えない話もあるのだ。

「理系志望なの?」

「おじいちゃんの研究の跡を継ぎたいの」

 今度は、片山 翔が目を見張った。

「今時、とんでもない志望動機だ」

「でも、地球温暖化による環境破壊から人類を救うには、おじいちゃんの研究が必要なの」

「本気でそう思ってるの?」

 凛は失敗を悟った。こんな話を集落の外の人と話てはいけなかったのだ。

 何とか誤魔化さなければ。

「いろいろ周りから批判されて、おじいちゃんが辛かったって。だから、せめて、身内だけでも、おじいちゃんの味方になりたいの」

 努めて何気なさそうに言う。


 片山は、喉の奥で笑った。

「それだけじゃないと思うが……それ以上は、言えないってわけか。俺のこともよく分からないし」

 

 凛は、目を見張った。


「君は、正直だね。何考えてるか、すぐに分かる。

 少し話をしない?ここ、出ようよ」

 

 凛が体を強ばらせて、首を横に振る。こんなワケの分からない青年と話をするなんて、とんでもないことだ。


「心配しなくて良い。変なことしない」

 

 黙って俯いてしまった凛の隣に平然と座って、片山が小声で言った。


「何なら、職員室で話す?あそこなら、お茶も出るし、君も安心だろ?」


 片山は、職員室に行くと、お茶をご馳走してもらえると言うのだ。信じられない図々しさだ。


 凛が、壁の時計をチラリと見る。


「5時35分。まだ、1時間と25分ある」

 片山は平然としたものだ。


 凛は、腹を括って言った。

「ナンパするなら、他を当たってくれない?私、許嫁がいるの」


 片山が、小声で聞いた。

「こばやし……しゅん……さん?」


(どうして、舜くんのこと、知ってるの?)





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