和解
16 和解
凛が研究室から戻って来たのは、夜中の2時頃だった。
この頃は、どうかすると、夕食後も研究室に籠もる。
舜に会いたくないからだ。遅い時間にお風呂に入り、寝ている笹岡を起こさないよう自分の部屋へ戻るのだ。
リビングに灯りがついていた。
誰だろう、付けっぱなしにして。電気は、風車ガーランドのおかげで大量にある。でも、無駄は慎んでもらわないと。
そう思いながら、何気なく覗くと、舜が眠っていた。手には、グラスを持ったままだ。
側には、焼酎の一升瓶が転がっている。テーブルには、水野夫人の好意だろう、空になった皿が残っていた。
夕食後、明日には大学へ戻るから、と、舜は山道兄弟を相手に酒盛りをしていた。きっと、酔いつぶれた舜を残して、山道兄弟は帰ったのだろう。
部屋中に焼酎の匂いが充満して、臭いほどだ。
舜 の手からグラスを取って、そっと、タオルケットを掛ける。小さい頃、昼寝をしていると、大人がそうしてくれたのを思い出したのだ。
舜の頬に涙の跡があった。
舜も悲しいのだ。
どこでボタンを掛け違ったのだろう。
この人が好きだった。この人も自分を好いてくれた。
桃源郷の未来は、凛の肩に掛かっている。大小野寺博士の研究は、凛が完成させることになるだろう。舜と遊んでいる暇はなかった。
舜は、それを気付かせてくれた。
酔って眠りこける舜は、凛の心だ。舜に涙の跡があるように、凛にも涙の跡がある。凛の涙の跡は、心の傷だった。
「……この方が良かったと思う。凛、おじいちゃんの研究、完成させるから。そうすれば、舜くん、好きな人と暮らせる。桃源郷じゃなくて、どこでも暮らせるようになれば、舜くん、おじさんの言いなりじゃなくて、自由に生きることができるから」
小さな声で言った。
立ち上がろうとした時、下から小さな声がした。
「凛……ちゃん……」
舜は、ゆっくり上体を起こし、凛の腕を掴んだ。完全に目がすわっている。
「行くな。ここに、側に、いて」
「……舜くん、酔ってる」
舜は大きく頭を振って頬を叩く。
凛と話ができる。滅多にないチャンスだった。
「ああ、酔ってる。でも、正気だ」
大きく息を吸った。
「父さん達の約束した許嫁の件は、チャラになった。だから、申し込む。結婚を前提として付き合って欲しい」
「凛、結婚しないから。聞かなかった?」
「聞いた。僕のせいだ。僕が君を傷つけたから」
「舜くんのせいじゃない。前から考えてたの。おじいちゃんの研究を完成させるには、結婚しない方が良いんじゃないかって」
「研究なんか、どうでも良い。人類なんか、地球なんか、どうでも良いじゃないか。君が、犠牲になることないんだ」
「凛、桃源郷のみんなが好きだから。みんなに生きてて欲しいから……だから…」
下を向いた凛に、舜が畳みかけた。
「研究が完成したら、結婚してくれる?」
「凛、おばあちゃんになってる」
寂しそうに笑った。
「舜くん、小林先生と一緒に、人工子宮の研究してくれたら嬉しい」
「そんなもの研究しなくても、ここに立派な子宮があるのに」
「……」
「悪かった。魔が差したんだ。何から何まで父さんに指図されるみたいで、面白くなかったんだ。
でも、父さんに逆らうことが、君を拒むことになるなんて、考えてもみなかった。
僕は、最悪のことをしてしまった」
長い沈黙があった。
黙って俯いていた凛が、ゆっくり口を開いた。
「舜くん、片山くんのお姉さんと親しそうだった。凛より仲良しみたいだった」
「そんなことない。そもそも、僕が凛ちゃんのことばっかり気に掛けるって、あの人、怒ったんだ」
「でも、凛のことは、『凛ちゃん』って呼ぶのに、あの人のことは、『早苗』って呼んでた」
「?」
「マキは、凛のこと『凛』って呼ぶのに、舜くん、いっつも、『凛ちゃん』って妹みたいに呼ぶの」
舜には、凛が何を言いたいのか分からない。大体、笹岡が凛のことを『凛』って呼ぶのは、凛がそう呼んで欲しいと頼んだからだ。
「もしかして、凛ちゃん、『凛』って呼んで欲しいの?」
唖然としながら聞いた。
「その方が、仲良しの感じがする」
少しすねたような、あどけなさが、ほのかに見えた。
「じゃあ、『凛』って呼ぼうか?」
凛の顔が明るくなった。
「でも、僕が、君を『凛』って呼ぶのは、君をものにしたときだ。それでも、良いの?」
凛が、少し強ばって、後ずさりする。そうして、泣きそうな顔をして訊いた。
「あの人も、ものにしたから『早苗』って呼んだの?胸の大きなきれいなお姉さんだから、ものにしたの?」
「胸の、大きな、きれいな、お姉さん?」
舜の目が点になる。
ゆっくり頭を振って言った。
「あの人は後から出て来た人だ。後から出て来て、そう呼んで欲しいって言ったんだ。それで、そう呼んだ。
白状するとね……凛ちゃんのことが気になって、ものにできなかった」
凛の頬を撫でた。
「でも、凛ちゃんは、ズッと一緒だった。空気みたいな、そこにいるのが当然の。
馬鹿だね。君のおじいさんが、空気の大切さをみんなに訴えてたのに、僕は、空気の大切さに気付かなかった。
僕にとっては、君は、ズッと『凛ちゃん』だった。
でも、何となく思ってたんだ。君と僕とはズッと一緒にいるって。
君に拒まれて、真っ白になった。
君がいない人生なんか考えられなかったんだ。
お願いだ。ズッと僕と一緒にいてくれる?
結婚してくれる?」
「本当?」
「信じて」
舜の顔をジッと覗き込む。
「お酒臭い?」
凛が頷く。
「酔ってないとき、言うべきだったね。こんな大事なこと。いい加減みたいで、ごめんね」
「ううん」頭を大きく振る。「今日の舜くん、良い」
「そう、じゃあ、久しぶりに、一緒に寝ない?」
舜が手を差し伸べる。
「それとも、お酒臭くて、嫌?」
「ううん」
「じゃあ、おいで。今日は、何もしない。君をものにするのは……」
当然のような顔で続けた。
「酔ってないときだ」
凛が、豆球一つ残して電気を消す。そうして、舜の脇に体を並べた。いつものように体を丸めて、舜の胸に頭を押し付ける。
「……舜くん」
凛が小さな声で言う。
「何?」
凛の暖かさが、心地よい。
「あのね。舜くん、凛、ものにするまで、『凛』って呼んでくれないの?」
「呼んで欲しいの?」
「うん」
舜は、息を吐いた。この人のあどけなさが愛しくて、
「じゃあ、これから、『凛』って呼ぼう。でも、凛ちゃんも、『舜』って呼ぶんだよ」と、言った。
舜の胸で凛がコクリと頷く。
静かな息を吐きながら、凛の頭を抱く。凛の柔らかい髪が、指に触れた。
翌朝、一番に起きて来た小野寺夫人は、凛と舜が一枚のタオルケットにくるまって子供のように眠っているのを認めた。
何ていい加減なカップルでしょう。バカップルですね。




