守秘義務
長さがまちまちで申し訳ありません。話の流れで、切りの良いところで終わりました。
2 守秘義務
今日から、高校へ行くのだ。
凛は、大きく息を吸った。
彼女は、これまで、この集落の外に出たことがない。
凛の家は、山の中の集落にある。集落は周辺を雑木林に囲まれているが、そのまた周りを杉林に囲まれている。花粉症の人が聞いたら、顔をしかめそうな場所だ。
ここで、杉の名誉のために言っておくが、杉林の側に住んでいるからといって、花粉症になるわけではない。NOxと杉花粉の共同で、あのとんでもない病気が発症するのだ。春先の恋心も吹っ飛んでしまうほど色気のないあの病気は、結局、人類の環境破壊のたまものなのだ。
この集落の正式な名称は、山辺と言う。町の人達は山辺集落と呼んでいる。しかし、住民達は、『桃源郷』と呼ぶ。
この集落は、ほとんど自給自足に近い。食べ物はもちろんのこと、電気だって太陽光、風力それに小水力で作っているし、水だって自分達でまかなっている。
集落の外と付き合いは、集落内の医者では手に負えないほどの大きな病気になった場合か、子供が高校以上になって、高等教育を受ける必要が生じた場合に限られている。
凛が高校に行くので、山道夫人が、毎日、集落で共有する車で送り迎えしてくれることになった。
この人は、有名な格闘家で、町の道場で雇われ師範をしている。それで、集落では手に入りにくいものの買い出し担当も兼ねていて、用事のついでに送り迎えしてくれるのだ。彼女は、以前、集落で唯一の医者である小林先生の息子――現在、高校を卒業して、大学生として都会で暮らしている――が高校生だった時も、送り迎えしていた。つまり、買い出し担当だけじゃなく、町との連絡要員でもあり、送迎担当でもあるのだ。
一日二往復、行きと帰りだ。車は赤い軽四の電気自動車で、毎日乗るにはバッテリーが不安だった。高校のある町には、電気自動車の充電器が一カ所しかないからだ。
「仕方がないわ。町の人達はほとんどガソリン車に乗るから。山道さんにも悪いから、寄り道しないで、真っ直ぐ帰って来るのね」
凛の母が笑いながら言った。
凛は、物心ついてから、ガソリン車を見たことがない。
「ガソリンってね、石油から作った化石燃料の一つなの。それをモーターの中で爆発させて動力にするのが、ガソリン車。
町の人達は、安くて簡単だからってガソリン車に乗る場合が多いの。だから、ガソリンスタンドならどこにでもあるわ。でも、電気自動車に乗る人は、まだまだ少ないから充電器は少ないの」
「化石燃料を使うと温暖化が進むのに、どうしてそんなものに乗るの?」
「難しい問題だわ」
凛の母が眉間に皺を寄せて説明する。
「良いこと?動力になる燃料としては、化石燃料とそうでないものがあるんだけど、一般的には、化石燃料の方が使用される場合が多いの。歴史的にそっちが先にできたせいもあるけど、簡単だからって理由が大きいわ。
でも、電気と石油とか石炭、それに天然ガスといった化石燃料の、どちらが地球環境に優しいかというと、一概には比べられないわ。だって、電気も、火力発電だと化石燃料で作るわけだし、この頃は原子力って手があるけど、あれって二炭化酸素が出ないけど、核のゴミが出るでしょ。
一番良いのは、化石燃料に頼らずに自然の力だけで電気を作る方法なんだけど、化石燃料で電気を作る方法に比べて費用がかかるし、不安定だって言う人もいるわ。長い目で見れば、そっちの方が安上がりなのだけど、現代人は目先のことしか考えないから。
ここでやってるみたいな再生可能エネルギーだけで電気を作って集落全体をまかなうというのは、世帯数が少なくて住民の固い意志がある地域だからできる特殊なケースなの。
この集落は、おじいちゃんの研究に基づいて作った一種のユートピアなの」
「ユートピア……」
「つまり、理想郷ってことね。中国でも、桃源郷というのがあるわ。昔の人が、戦争も飢饉もない理想的な土地として憧れた場所なの。
良い?凛。高校では、集落のことは、絶対に喋っちゃ駄目よ」
凛は、高校に行くに当たって、父からも、母からも、おじいちゃんからも周りのおじさん、おばさん達からも、何度も注意された。
他の生徒達や先生に絶対に住んでいる集落の話をしてはいけない、と。
それこそ、耳にタコができるほどだ。
理由は、母から聞いた。
集落が他の人達に知られると、将来、食料危機が来たとき、襲撃の対象となりかねない、というのだ。
そんなに秘密にしなければならないことなんだろうか。
みんな、自分の食べるものは自分で何とかすれば良いのに。
杉林に囲まれた山間の集落は、ひっそりとたたずんでいる。どこにでもあるような春景色だ。これのどこが、ユートピア――桃源郷だというのだろうか。