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桃源郷の日は暮れて  作者: 椿 雅香
12/51

夏休み

またまた、長くなりました。ごめんなさい。

9 夏休み


 夏が近づいていた。空梅雨の空を恨めしそうに見上げて、笹岡は溜息をついた。今年は、あちこちでプールの中止が決定されていた。プールどころか、下手すると、生活用水まで危ういのだ。


 ペットボトルのミネラルウオーターの値段が急騰した。


 このままでは、今年も米は絶望的だ。

 

ニュースでは、キャスターが悲壮な声を上げていた。


 でも、いくら鈍い笹岡にだって分かった。テレビ局の人達は、絶望的な声を上げるだけで、何をしたと言うのだろう。

 確かに、テレビを通じて、節水を呼びかけた。不要不急の水の使用は慎むようにと。どこかのダムは、警戒水位を切っているとも言っていた。

 でも、それだけだ。誰かが、みんなのために水を何とかしようという動きは皆無だった。

 当然だ。水は、工場で製造できるものではないのだ。


 だんだん軟弱野菜や肉が手に入りにくくなった。それもそのはずだ。レタスやほうれん草といった軟弱野菜は、ほとんど水でできてる作物だし、肉に至っては、牛や豚や鶏を育てるために大量の餌、つまり、トウモロコシやなんかの穀類が必要なのだ。

 食事は、携帯用の栄養食品やカップヌードルが主になった。

 食品メーカーがフリーズドライの野菜や肉を売り出したが、それだって高価だ。母は、たまにしか買って来なかった。二日に一度、ご飯やパンを食べることができたが、昼の弁当は栄養食品のブロックかゼリーだ。友人達の弁当も同様だった。

 家が農家の生徒はご飯の弁当を持参していて、それが妙に新鮮に見えて、羨ましかった。ただ、その生徒も、今年の作柄には表情を曇らせていた。

このまま日照りが続くと、米の収穫が望めないというのだ。

 農家がそう言うのだ。来年もこの状況が続くものと思われた。

 

 数年前から、笹岡の母は、近所に土地を借りて日曜農家を始めた。しかし、この食料事情だ。キュウリやナスは、笹岡の家の食卓に登るより盗まれる方が多かった。

 みんながみんなして、目を血走らせて食べ物を奪い合ったのだ。

 笹岡の母は、日本は、もともと食料の海外依存率が高かったけど、こんなに世界的に凶作が続くと輸出にまで回せなくなるから以前から予想されたことだったのだ、と溜息をついた。

 『地産地消』と言って、本当は、住んでいる地域でできた作物を食べるようにするのが理想なんだけど、日本人はそうのに無頓着で、安ければ良いって簡単に外国の食料を輸入したり、旬を無視して食べ物を求めたりしたから、そのツケが回ってきたのね、とも言った。

 だが、笹岡家にとっては、食べ盛りの高校生の笹岡を筆頭に中学生の弟と小学生の妹の三人の子供を抱えているのだ。黙って受け入れることはできないことだった。


 笹岡家の庭は、花が好きな母の努力で芸術作品のような趣があって近所で有名だった。しかし、ここに至って、背に腹は変えられない、と庭はイモ畑になった。

 これが、一番、日照りに強いと聞いたのだ。


 日本中でイモや大根を植えたため、種苗会社が大儲けし株価が上がった。

 高層住宅でさえ、プランターにトマトやキュウリを植えたのだ。

 需要が増えて、野菜の苗が以前の倍以上の値段で取り引きされるようになった。一般家庭では、食事代を工面しながら苗代をやりくりするというとんでもない事態になった。

 水が不足して、電力会社はオール電化を推奨した。いざという時、タンクに水を貯めておくことができるというのだ。

 水道水の時間制限が始まるのは時間の問題だった。

 渇水が続くと、タンクに貯める水さえおぼつかないというのに、商魂のたくましいことだ。

 片山の家でも、ついに母の決断でオール電化に踏み切った。この方が電気代が安いからその分食費に回せるというのが、電力会社の売りだった。

 どの家でも、水問題と食料問題は頭の痛い問題だった。


 しかし、小野寺 凛は平然としていた。


 片山は、あの日、凛の可愛らしさに初めて気が付いた。

 舜の眼差しを受けて、体中で喜びを表す凛は、美しくさえ見えた。

 あれ以来、凛は片山に動揺しなくなった。

 舜が側にいるというのは、それほど心強いことなのだ。


 日本中が水不足と食料不足に悩む中、凛が平然としているように、山辺集落も平然としていた。


 格闘家の山道夫人は、米や西瓜といった手に入りにくい農作物を持って来て料亭や金持ちの家に高値で売り、その金で醤油とか砂糖といった手に入りにくい調味料なんかを買って帰った。

 この前なんか、近年珍しい天然ものの鮎を持って来たという話だ。

 日照りのため、鮎が生育する川が干上がって、滅多にお目にかかれない代物だった。


 片山は、凛が数学の時間にうたた寝をして、先生に叱られたという噂を聞いた。廊下ですれ違った凛は、確かに眠そうで、舜とじゃれ合って夜更かししているのだろうか、と思った。

この考えは、片山を苦しめた。そして、自分が嫉妬していることに愕然とした。


 凛と付き合いたいと考えたのは、凛のことが好きだったからじゃない。

 片山が凛に気があることが大っぴらになると、女子がやっかんで独特の動きをする。それは想定内だった。そうなると、片山に助けを求めに来る、と思っていた。

 普通、そういう場合はキーマンである片山に相談する。

 そうして、これもまたキーマンの笹岡当たりに頼めば、ことはおさまると踏んでいたのだ。

 その後は、どさくさに紛れて、なしくずしに付き合いを始め、一丁上がりのはずだった。


 しかし、凛は普通じゃなかった。

 そうして、片山の行動は、凛を舜の胸で号泣させるほど、追いつめたのだ。


 凛は、人との付き合い方を知らないと言っていた。

 凛にとって、学校へ来ることさえ、初めての経験だったのだ。

 

 片山にとって、凛はどうでも良かった。

 早苗のため、凛と舜の婚約が解消できれば良かったのだ。


 

 凛に関しては、いろいろな噂があった。ズッと両親とアメリカにいて、つい先日こっちへ帰って来たという噂まであった。英語の発音が異常に良かったからだ。

 あんな山深い田舎の少女が英語を得意とする。意外の感を禁じ得なかった。

 もっとも、両親は、アメリカの大学で研究生活をしていた頃もあるらしいし、祖父の小野寺博士にしても、学会なんかで世界中を飛び回っていた人なのだ。当然だろう。


 凛は、この学校で、唯一片山になびかない女子だった。

 小林 舜の名前を出すと、怯えたように目を見張った。

 頼りなげな様子が、あの最高点を取った生徒に不釣り合いで、何となく気が惹かれた。

 それだけのはずだった。



 期末テストが始まった。二、三時間で終わるのだ。

 片山は、舜が凛の送り迎えをしているのを認めた。何か手仕事を持って来て、車の中で作業しているようだ。そうして、試験の終わった凛を車に乗せて帰って行くのだ。


 図書室の凛の定席は、空席になった。

 夏なのに、何故か、寒々とした気がした。

 

 凛は、いつも、あの席で、心細げに山道夫人の迎えを待っていた。

 成績は優秀だが、友人は一人もいなかった。高校は、彼女にとって、大学へ行くための通路でしかなく、しかも、決して楽しいところではなかったのだ。


 凛がそこにいないと思うと、何かしら、風が吹き抜けるように感じた。


 廊下ですれ違った凛は嬉しそうに輝いていた。

 駐車場で舜が待っている。舜が側にいると、凛は輝くのだ。

 婚約者。今更ながら、思い知らされた。


 終業式が終わって、補習授業が始まった。

 驚いたことに、凛は受講していなかった。

 この高校では、通常、生徒全員が長期休暇に補習授業を受ける。それなのに、彼女は受けなかった。

 噂によると、現役で国立大学医学部に合格した我が校のエースともいうべき小林 舜が担任と話を付けたらしい。

 この頃の食料事情やエネルギー事情の悪さから、通常授業でもないのに凛に登校を強いるのは負担が大きすぎることから、自分が責任を持って指導する、と補習用のテキストをもらって帰ったということだった。


 凛がいない学校。そういうものがあったのだ。

 図書室を覗くと、凛がいつも座っていた席が見えた。小さな後ろ姿を思い出した。


 


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