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桃源郷の日は暮れて  作者: 椿 雅香
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舜の帰省

少し長くなりました。

8 舜の帰省


 今年の梅雨は、空梅雨で、あちこちのダムが干上がった。

 梅雨前線は、どこへ消えたのだろう。

 各地で農作物の被害が予想され、凛の集落でも、淡水化する海水の量を増やす必要があった。


 凛は、決断した。


 7月に入って期末テストが近づいたある日、凛は図書室のいつもの席で勉強していた。

 片山が対面に座っていた。

 凛がいつもの席で勉強を始めると、そこに平然と座ったのだ。

 以前、凛が図書室に行くと、先に片山が凛の対面に当たる席に座っていた。凛が、あえて、いつもの席から離れた席に着いて勉強を始めると、片山は、黙って凛の隣に座り直した。そうして、逃がさないとでも言うように、薄く笑った。

 それ以来、凛は、他の席に座ることを諦めた。

 女子は、片山が凛に気があると、不愉快に思っている。クラスの女子は凛と口も利かない。憧れの片山を手玉に取る、成績だけ良い、鼻持ちならない女だと思っているのだ。


 凛が、努めて、片山のことを意識しないように課題を片づけていると肩をたたかれた。

 この学校では、誰も、凛に対して、こんな親しげな行動はとらない。

 不審に思って目を上げると、大好きな人の微笑みがあった。


「舜く~ん」


 凛が、信じられないほど甘えた声を出したので、片山を始め、図書室で勉強していた全員が目を上げた。


 凛の側に背の高い優しげな青年が立っていた。端正とも言える顔立ちで、包み込むような優しい視線だ。

「凛ちゃんがとんでもない計画立てたおかげで、父さんが急いで帰って来いって」

 青年が嬉しそうに言う。

「ごめんなさい。だって……」

「君は、天才だ。父さんが感心してた。さすが、凛ちゃんだって」


 凛が嬉しそうに抱きついたので、片山は絶句した。

 凛のこんな顔は、見たことがなかった。

 凛は、いつも、無表情だった。感情を露わにした凛は、別人だった。


「どう?会わない間に、ちゃんと育ってるかな?見せてくれない?」

 

 そう言って、小さな子を高い高いするように、凛の体を持ち上げた。凛が嬉しそうに笑う。

 そうして、優しく降ろすと、凛の目を見ながらささやいた。

「ここ、出ようよ。山道さん、7時だろ?」


 凛がコクリと頷いて、片付け始める。


 片山は、こんな素直な凛を見たことがなかった。嬉しさを体中で表している。


(こいつ、笑うんだ。こいつに、こんな可愛らしさがあったなんて)


 青年が凛の鞄を持って、肩を抱く。

 寄り添って図書室を出る二人の後ろ姿に、居合わせた生徒達の絶叫が響き渡った。



 図書室に残された20人ほどは即座に決断した。これは、是非とも後をつけなければならない展開だ。期末テストどころじゃない。

 慌てて荷物を片付けて、スパイ映画か刑事物ドラマのように尾行を開始した。

 普段は付き合いのない者同士だって、かまやしない。世紀の見物だ。この結果がどうなるか見ない手はない。

 笹岡女史が、てきぱきと指示を出す。全員で手分けして、二人の後をつけた。

 

 二人は、学校近くの公園で散歩していた。

 青年は、優しい笑顔で、凛を包み込む。凛は、時々、青年に寄り掛かって、嬉しそうに見上げる。 背の高い青年と並ぶと、凛は、肩までしかない。


 青年が当然のようにベンチに座り、凛を膝に座らせて抱きしめた。

「少し見ない間に、大きくなったね」


 凛が、嬉しそうに喉を鳴らす。ネコみたいだ。

 青年も、そう思ったのだろう。面白そうに凛の喉をくすぐった。

 凛が、「凛、ネコじゃない」と文句を言う。

 青年が、「じゃあ」と言って、今度は、耳の付け根を掌でくすぐる。「凛、犬でもない」凛が抗議するが、それも甘えてるだけだ。

 青年が喉で笑って凛の頭を撫でた。凛は嬉しそうにされるままになっている。


 信じられないことだった。青年とじゃれ合う凛は、いつもの優等生ではなかった。無茶苦茶可愛いいのだ。


 「学校、楽しい?」

青年が優しく訊いた。

「凛、お友達と、付き合い方知らないから……」

凛が涙ぐむ。

「君も僕も人との付き合い方を知らないから」

「片山くん、変なこと言うから、女の子が目の敵にするの」

「片山くんって?」

「理数科なの。生徒会の執行委員もしてる」

「その子、どんなこと言ったの?」

「凛に、付き合えって。凛、舜くんがいるって、言ったのに」

「きっと、凛ちゃんのことが好きなんだ」

「ううん。あの子、凛のこと好きなんかじゃない。だって、舜くんみたいな優しい目、してないもん」

「男の愛情には、いろんな形があるらしいから。その子の表現方法なのかもしれないよ」

「片山くん。女の子にすごくモテるの。で、片山くんがあんなこと言うから、女の子が、みんな、意地悪なの。でも、片山くん、知らん顔してる」

「女の子は、どう意地悪なの?」

「……体育の時間にね……みんなしてね。ヒック……ボールぶつけたりね。ヒクッ。全然、ボール、回してくれなかったりね、みんなしてね、みんなしてね……わざとするの。ヒクッ。凛、バレーボール、したことないから……全然できないから。ヒクッ。みんなして……下手くそ。邪魔だって」

 長いこと我慢していたんだろう。凛は、舜の胸で嗚咽を上げて泣きじゃくった。

「そうだね。僕は小学校のときに少ししたけど、凛ちゃん、球技なんかしたことないんだ。

 ……可哀想に。よしよし、もう泣かないで、僕が付いてるから。大丈夫。夏休み、僕とバレーボールの練習しよう」

 そう言いながら、凛の頭を抱いて背中をさする。

「だから、僕は、凛ちゃんが高校に行くのに反対だったんだ。マサチューセッツ工科大学なら分かる。でも、K大程度なら、ご両親の下で勉強するので十分だ。君は、人と付き合うのに慣れてないんだ」

「でも、お父さんが、他の人と付き合うのも勉強だって」

グシュンと、鼻を鳴らす。



 そこまで、孤立してたなんて。


 確かに、誰も優しくなかった。

 でも、凛は、何を言われても、何をされても、黙って平然と受け流し、勉強に打ち込んでいた。そして、当然のように学年トップになった。感情を露わにしない孤高の人だった。

 誰も、そこまで追いつめられているとは思わなかったのだ。


 しばらく背中をさすってもらって、ようやく落ち着いた凛に、舜が言った。

「髪、ほどいて見せて」

 青年が言うと、凛が三つ編みをほどいた。


 覗き見していた二十人衆は、目を疑った。

 ほどいた髪をソバージュのようにフワフワさせた凛は、青年の胸に頭をもたれかけて安心しきっている。

 印象派の絵から抜け出たようだ。

 青年が、凛の髪の中に手を入れて髪を膨らませる。そのまま、凛の頬を撫でる。鼻から唇をなぞり、顔を寄せ軽く唇をついばんだ。


 嬉しそうに上気した凛は、今まで見たことのない可愛らしさに染まっていた。


 青年がポケットから何かを出して、凛に渡す。ピンクの包みの中から、可愛いペンダントが出て来た。


「きれい……」

「君に似合うと思ったんだ。付けてあげる」

 青年が凛の首の後に、手を回して、ペンダントを付ける。髪の陰からチラリとうなじが見えて、片山は絶句した。

 見ると、側にいた笹岡達も同様のようで、覗き見二十人衆は、腰を抜かさんばかりだ。

 それから、青年は、凛にもう一度キスした。愛おしげに。大切そうに。

 凛は、嬉しそうにそれを受けた。



 片山の足が震えた。




 翌日の凛は美しかった。 


 最後まで二人の後を付けた笹岡は、二人が、高校の正門前で、格闘家の山道夫人の車に乗って集落へ帰って行くのを確認した。


 許嫁。

 親同士も認めているのだ。

 そんなことが思い知らされて、凛が片山に言い寄られても断るはずだ、と、妙に納得した。


 片山は、自分がやってることの無意味さを思い知らされた。


 凛は、自分には許嫁がいると言っていた。

 片山の目には、感情がないとも言っていた。

 好きでもない自分と、どうして付き合いたいのか、と、首を傾げていた。

 自分は人との付き合い方を知らないから、片山の意図が分からない、とも言っていた。


 凛にとって、好きというのは、ああいう感情のことだったのだ。






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