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死せる街ドーン

 花が咲いていた。白い花弁を五枚備えた、葉のない茎を持つ、細く、はかなげな花。人の膝ほどの高さを持つ、その真っ白い花が、余すところなく、咲き乱れていた。

 それは、白い絨毯が、大地に敷かれているようだった。そよ風が吹くたび、まるで生きているかのようにうごめく、真っ白い絨毯。そんな絨毯のさなかに、石壁に囲まれた街が一つ。花びらに囲まれた街は、何も知らなければ天国と見間違うような、現実離れした雰囲気に包まれていた。

その、美しいとしか言いようのない光景を見下ろす、小高い丘に、一人の男が、立っている。全身を板金鎧に包み、腰には長剣と短剣を一振りずつ。頭は分厚い鉄兜に覆われ、表情をうかがい知ることは出来ない。男の足下には、眼下の風景と同じく、白い花が咲き乱れているが、それを気にしている様子はない。

「……遅いな」

 男がぼやいた。また、風が吹いて、白い花の絨毯がうねった。ただ花だけが動いていた。それ以外に動くものは何もなかった。鳥も、虫も、何一つ。そこには、生きとし生けるものが、一切存在しないようであった。

 ただ、花だけがあった。白い花が街を囲み、風に揺られるまま咲き乱れている。男も、決して微動だにしない。世界の時間が、止まってしまったかのようであった。風の音だけが、その静寂に、わずかな彩りを与えている。

「ダリオ! 遅くなってごめん!」

 その静寂を、甲高い声が切り裂いた。まだ幼い感じの残る、少女の声。天真爛漫でいるようで、しかしその実、どことない悲壮さを秘めた、高めの声。その声を聞いて、ダリオと呼ばれた男は、ゆっくり首を動かした。

「アリスか。どうだった?」

「壁は全部封鎖されてる。連中が外へ出た形跡はないみたい」

 ダリオの視線の先に、アリスと呼ばれた、小柄な少女の姿があった。少しばかり息を切らせながら、一歩一歩丘を登ってくる。全身に板金鎧を身につけているのは、ダリオと同じだったが、彼女は兜をかぶらず、その長くつややかな金髪を、惜しげもなく風になびかせていた。

「そうか」

 素っ気なく対応したダリオは、再び視線を、白い花畑に向けた。あからさまに無視されたと感じたのか、アリスは頬をぷっと膨らませ、抗議の視線をダリオに向ける。目鼻口には、確かな女性の魅力が宿りつつあるが、彼女の振る舞いは、まだ子供も同然だった。その、ある種の不均衡さが、アリスの可憐さを、より際立たせる。

「重たい鎧を着て走り回ってきた、かわいらしい女の子に、たったそれだけ?」

「ああ」

「ねぎらいの言葉一つ無し?」

「そうだ」

「ね、ぎ、ら、い、の言葉の一つ、無し?」

 これ見よがしにアリスが詰め寄ってきた。腰に下げた二振りの長剣をいじりつつ、ダリオが折れるのを待っている。

「……」

 ダリオは、アリスと知り合って、そこそこ長い。彼女がこういう子供っぽい性格であることは理解していたし、そのような性格を持つに至った背景も知ってはいるのだが、どうにも、アリスの扱いには慣れなかった。

「助かった」

 とうとう観念し、ダリオはアリスに向き直って、深々と頭を下げた。その姿を見たアリスは、満足げな笑みを浮かべて、ダリオの肩に手をやる。

「最初からそう言っておけばいいのに」

「……そうだな」

 ダリオは大きくため息をついて、顔を上げた。目の前には、にんまり笑うアリスの顔。いたずらっぽく、可憐で、手の早い男なら、すぐにでも抱きしめていただろう。

 しかし、ダリオはそれをしない。彼女が満足したことを確認し、彼は再び、花の絨毯を眺める作業に戻る。アリスもまた、ちょっかいを出すことなく、彼のすぐ隣に並んだ。

「……あの街、何人ぐらい住んでたんだっけ」

「千と五百人ほどだ。出立前に説明を受けたはずだが」

「分かってる。ちょっと、確認しておきたかっただけ」

 アリスが、物憂げな表情で、石壁の街を眺めている。彼女が、何に思いをはせているのかは、ダリオにも手に取るように分かる。

「つらいなら、やめてもいい。何も、俺たちと同じ道に行く必要は無い」

「うん。でも……ここではやめられない。ダリオだって、そうでしょ?」

「かもな」

 風が吹いた。アリスの髪の毛がはためき、ダリオの鎧に当たった。彼女の体臭が、風に混じって、兜の中に入り込んでくる。悪くない臭いに思えた。

「おっと二人ともお熱いね。死体の山より子供の山を作りたいかい? めでたいね! 式はいつだい? あたしが直々に祝福を授けてやろうじゃないか」

「おい、セリーナ……!」

「なんだいアッシュ、あんたも二人に触発されたのかい! あたしのプッシーをなめたいわけだ」

「勝手に決めるな! 誰がおまえのなんか!」

 不意に、背後からさわぐ声がした。二人が振り向くと、同じく、板金鎧に身を包んだ人間が二人。片方は女で、もう片方は男だ。二人とも兜をかぶり、顔は分からないが、体格が特徴的だった。

一人は、恵まれた体躯。がっちりと広い肩に、丸太のように太い腕。背中には、大木ですら切り倒せそうな、両刃の斧が担がれている。それでいて、胸の板金には二つの膨らみがもうけられており、女性であることがうかがえる。セリーナと呼ばれたのは彼女だ。

もう一人は、やや小柄、ひょろっとした体格で、右腕の肘から先が欠損していた。背中には大きな丸鋸が、金属の鎖によって巻き付けられている。アッシュと呼ばれた男だ。声の感じからすると、まだ若い。

「そうかい! じゃあアレをナメナメしてほしいわけだ」

「違う! クソ……ダリオ! こいつをどうにかしてくれ! つきあっていられねえよ!」

 一切退かないセリーナにたじたじとなり、アッシュは懇願するような声を上げていた。突然水を向けられたダリオは、三人の仲間の顔を、交互に見回す。そして、うまい切り返しが思いつかないことを悟った彼は、一歩前に出て、セリーナとアッシュに視線をやった。

「……状況は?」

「おい、ダリオ! 俺はセリーナをどうにかしろと……」

「どうにかしてくれたじゃないか、坊や。これから仕事の話だそうだ。キンタマしまい込んでおとなしくしておくんだよ」

「おまえが先に始めたくせに……」

 アッシュはぶつくさ文句を言いつつ、一歩下がった。セリーナがダリオの前に出て、彼の顔に視線をやる。

「あたりの森を回ってきたけど、クソ犬一匹いやしない。いつも通りさね」

「アッシュはどうだ」

「同じく。アリスの方は?」

「壁は全部封鎖されてた。連中が外に出た気配はなさそう」

「わかった」

 皆の報告を聞いたダリオは、小さく頷くと、再び、街を見下ろせる場所に戻った。白い花に囲まれた、石壁の街は、未だ静寂に包まれている。

「……街の名はドーン。人口は千五百人ほど。街の中心を川が一本、流れている。特産品は麦と材木。ここの小麦で作ったパンは、絶品だったそうだ」

 街の情報を、ダリオは淡々と語った。別段、目新しい情報は無い。これらはすべて、ダリオ達が出立する前に与えられたものだったからだ。

 それでも、仲間達は黙って聞いていた。この街で何が営まれ、どのような人々が生きていたかを思い描く。誰が始めたわけでもない。ダリオ達は、いつの間にか、街に赴く前に、そういった考えを巡らせるようになっていたのだ。

「……ダリオ、行こう」

「ああ」

 ダリオの言葉を合図に、それぞれが歩き始める。小高い丘を下り、真っ白い花畑を抜けて、石壁の街ドーンへと、歩いて行く。

 行く先で、何が起こるか、彼らは知っている。どんな悲劇が待ち受けているか、彼らは十分に理解している。それでも、彼らは行く。それが仕事だから。命じられたことだから。彼ら自身が受けた苦痛そのものだから。

 何より、彼らが、死霊騎士団だから。



 ドーンの町並みの多くは、石畳の通りと、木造の建築物によって成り立っていた。建物も、基礎の部分は頑丈な石材で作られているものの、地上に露出している部分は、大半が木や漆喰によって作られている。

 傍目から見れば、どれも簡素な作りだった。その気になれば一日もかからずに取り壊せそうな、脆弱な建物の群落。そのような作りとなっているのは、もちろん、そうする理由があったからだった。

 そんな、簡素な建物の屋根を、一人の少年が駆けていた。年の頃はまだ十そこそこと言ったところ。小柄で、黒の短髪。肩に小さめの麻袋を担ぎ、しきりに眼下を警戒しながら、大胆に屋根から屋根へと飛び移っている。

「急がないと……!」

 少年は、しきりに周囲を見回しながら、素早く、屋根を飛んでいた。軽やかな足取りではあるが、危険な場所を走り慣れていないのか、時折、足下がおぼつかない。それでも、彼は走っていく。少し低い建物めがけて、少年は飛び出した。

「うわっ……!」

 着地の瞬間、彼はバランスを崩した。屋根の上を転がり、少年の体は、通りに投げ出されそうになる。

「く、そ!」

すんでの所で、彼は屋根の縁をつかみ、落下を免れた。腕一本で体を支え、足をもがき、体を屋根上に戻そうとする。

瞬間、うめき声のようなものが、聞こえてきた。少年がぶら下がっている屋根のすぐ下で、何者かがうめいているようだった。

少年が、おそるおそる視線を下に向けた。その目には恐怖が浮かんでいた。

「ひ……っ!」

 眼下に、男が立っていた。禿頭に、麻のみすぼらしい服を身につけ、ぼんやりと少年を眺めている。口はだらしなく開き、目の焦点はいずこにも合っていない。

 とりわけ、特徴的だったのは、その口元にこびりついた、赤い血だった。生きたままの相手をむさぼり食わない限り、そうはならないような、血痕。

 数瞬、少年と、男の目が合った。男が、頭上にぶら下がっている少年を、新鮮な肉と認識するには、十分な時間だった。

 男がうめいた。あ、とも、お、ともつかぬ、くぐもった声を上げた。両腕を突き上げ、少年の足を絡め取ろうとする。低くうなりながら、血肉を求めて、両腕をやたらめったら振り回す。

「う、うわぁっ!」

 少年は慌てて、屋根をよじ登った。一気に体を屋根上に投げ出し、転がるようにして、次の建物へと向かっていく。そこが、屋根上の行き止まりだった。そこから先は、一度通りに下りない限り、進むことが出来ない。

 だが、少年はそれで良かった。その建物が目的地だったから。屋根を駆け下りて、二階の出窓から、中へと飛び込む。持っていた麻袋から、リンゴが一つ、転がり落ちた。

「母さん、まずいよ! 連中に気づかれ……た……」

 窓から部屋に飛び込んだ少年が、硬直した。担いでいた麻袋を、思わず、床に取り落とす。彼の視線の先には、一人の女性。灰色の肌をして、焦点の合わない目つきをした、だらしなく口を開けた女性。

「母さん……」

 少年の母が、彼に気づいた。ゆっくりと首を回し、少年に向き直る。肩口には、はっきりとした、人間の歯形があった。そこから、赤黒い血液が染み出し、麻の服を染めている。

 うめき声が上がった。少年の母が、彼を見て発したのだ。のどの奥から絞り出すように発せられた、低く、冷たいうめき声。彼女は、両手を突き出し、少年を抱き留めようとするかのように、少しずつ近づいていく。

「いやだ、待ってよ、母さん……!」

 少年の目に涙が浮かんでいた。母の身に何があったか、彼は察しているのだ。もう、彼女に、自分の声は届かない。そんなことは、よく分かっていた。

 それでも、彼は呼びかけてしまった。一目散に逃げ出さず、その場にとどまり、正気を失った母に、語りかけてしまった。それは仕方の無い事だった。相手は、自分の母なのだ。誰だって、そうするに違いなかった。

「うう、母さん……」

 恐怖で足がすくんでいた。母だったものが、少年の眼前に迫っていた。突き出された手が、ゆっくりと少年の肩に回される。彼は抱きしめられたのだ。

 母の口が、大きく開かれた。茶色くくすんだ歯が、むき出しになる。それは、肉を求めているように見えた。少年の、若く、柔らかい、新鮮な肉を。

 その歯が、少年の首筋に、突き立てられそうになる。少年は、仕方ないと思った。運命だと思った。自分の母に食われて死ぬなら、満足がいくのだと、言い聞かせようとした。

 そのときだった。開いた出窓から、板金鎧を着た男が飛び込んできたのは。

 着地の衝撃で、床板がたわみ、重さに悲鳴を上げる。男は、一足で踏み込むと、少年に噛みつこうとする母を、手甲で殴りつけていた。頭部に激しい打撃を受けた母は、くぐもったうめきをあげて、部屋の隅へと転がっていく。

「か、母さん!」

「あれは亡者だ」

 男……すなわちダリオは、部屋の隅でうずくまった亡者を見据え、冷淡に言い放った。少年の顔を見ようともせず、かつて少年の母だった亡者が、立ち上がるのを待つ。

「だ、だけど……」

「何が起こったかわからないのか」

「分かってるよ! でも、母さんなんだ! ついさっきまで、普通に笑ってた! さっきまでは母さんだったんだ!」

 亡者が立ち上がった。目前に現れた、鎧に包まれた新鮮な肉。白濁した瞳でそれを見据え、両腕を突き出し、ゆっくりゆっくり、近づいてくる。手甲の一撃を受けたせいか、あごがはずれて、口が大きく開いている。

「目を閉じてろ」

「う……!」

 少年が息をのんだ。それを合図とするかのように、ダリオは長剣を引き抜く。のろのろと近づいてくる亡者は、相手が臨戦態勢に入ったことすら、理解しない。ただ、肉を求めて前進するだけである。

 一歩、また一歩、亡者が近づいてくる。だらしなく開いた口から、かすれたうめき声が漏れ出していた。

 そして、亡者の突き出した手が、ダリオの肩に触れようとした瞬間、剣が閃いた。

 ダリオが、一息に、亡者ののどを貫いたのだ。

 鈍色の剣は、亡者ののどを切り裂き、脊椎を貫通すると、うなじを突き抜けて露出した。刀身には赤黒い血と、いくらかの組織片。一撃を受けた亡者は、両腕をだらんと垂れ下げ、そのまま動かなくなった。断末魔の叫びすらなかった。

「……死んだんだ」

「ああ」

 亡者の体から力が抜けた。突き刺さった剣に、彼女の全体重がかかる。しかし、ダリオは剣を動かさなかった。片腕を伸ばしきり、女一人の肉体を、微動だにせず、支えている。

「名前は?」

「ケイン」

「ケイン、町の教会で、俺の仲間が、避難所を設営している。俺は、他にも生存者を探さなきゃいけない。一人で行けるな? 屋根の上を通れば、連中に襲われることはない」

「……わかった」

 少年の返事がしっかりしていることを確認し、ダリオは剣を引いた。支えを失った亡者の体が、無造作に崩れ落ちる。貫かれたのど元からは、赤黒い血が、ジワジワと染み出していた。

「……最後に、お別れをしてもいい?」

「好きにしろ」

 ダリオは、血がついた剣を持ったまま、窓のところへ歩いて行った。少年の方は見なかった。生きるも、死ぬも、もはや、少年自身が決めることだったからだ。

「……教会で会おう」

 それだけ言って、ダリオは窓から飛び降りた。眼下には、建物の中に新鮮な肉があると感づいた、亡者達の群れ。いつもの光景。いつもの世界。

 手始めに、直下の亡者の頭を、脚甲で踏みつぶす。落下の衝撃で亡者の頭は砕け、柔らかな脳漿が、地面にべちゃりと広がった。

 それから、肉を求めて迫る連中に、ダリオは剣を振るった。鈍色で、さして切れ味も良くない、ありふれた剣を、力任せに振り回す。一振りするたびに、亡者の首、腕、足、そして胴体が吹き飛んだ。子供が人形をちぎって遊ぶかのように、亡者達の肉体が破壊されていく。赤黒い血と、肉の塊が、中空に舞っていく。

 それでも、亡者は歩みを止めない。鎧の内にある新鮮な肉を求めて、亡者は進む。

 ダリオも、剣を止めない。右手の剣では足りぬと、左手で短剣を引き抜き、亡者の首を手当たり次第に切り裂く。血が流れる。赤黒く、粘性のある、亡者の血が、通りにおびただしく流れていく。

 どちらも、あまりに、愚直だった。

 だが、それが、ダリオの仕事だった。

 通りにあふれた、かつて人間だった存在を、すべて殺し尽くすこと。

 それが、彼ら、死霊騎士団の仕事。



 街の中心部にほど近い場所に、ダリオの言う教会があった。周辺の建物とは違い、しっかりとした石造りで、正面の扉も分厚い。屋根には青い塗料が拭かれ、街を一望できる鐘楼が付属していた。すっかり傾いた夕日を受け、青い屋根は今、橙色に見える。鮮やかとは言えないまでも、美しいと呼ぶには十分な様子だった。

 ただ、それは、屋根の上を眺めている限りは、の話だった。

 通りに近づくにつれて、教会の壁には、赤黒い血の跡が目立つようになった。血痕だけでなく、肉片のようなものも、いくらか、こびりついている。それは、とびきり荒っぽい方法で、『掃除』が行われた証拠だった。

 そして、その『掃除』は、日が暮れかけた今も、継続されている。

「偉大なるヴ・ドゥの御許にお帰んな、クソッタレ共が!」

 教会の正面、通りのど真ん中で、セリーナが叫んでいた。斧を両手持ちし、高く振り上げた彼女は、全身全霊を込めて、それを通りにたたきつける。

 瞬間、赤黒い血とともに、亡者の首がはねた。若い男のそれだった。彼女の足下には、首無しの死体が一つ。いや、それだけではない。手足や、胴体がちぎれた死体が、通りの至る所に転がっている。

 辺り一面、死体の山。肉を求めて群がった亡者達が、セリーナによって蹂躙された結果が、それだ。その、死体しか存在しない通りに、一人の男が、現れる。

「……いつも通りだな」

「ああ、ダリオかい。ご覧の通り、いつも通りさ」

 建物の影から、ダリオが姿を現していた。鎧のあちこちに赤黒い血がこびりつき、所々にへこみが見える。何体もの亡者を屠ってきた証に違いなかった。彼はセリーナに近づくと、通りを見回して、小さくため息をつく。

「もう少し穏やかにはやれないのか?」

「クソ穏やかじゃないか。通りが静かになる以上に穏やかなことがあるかい?」

「……しっかり『掃除』出来ているようでなによりだ」

 教会付近の通りには、亡者の姿らしきものは見当たらない。肉片か、それに等しい死体の山があるだけだ。見ているだけで気が滅入る光景ではあるが、安全であることに変わりは無い。加えて、セリーナが言うように、ひどく『穏やか』だった。

「教会の中はどうなっている?」

「今のところ十三人ほど。『噛まれた』ものも含めて」

「そうか」

 通りは静かなものだった。亡者のうめき声もなければ、生存者達の悲鳴もない。ダリオとセリーナが黙ってしまえば、そこは、無音に等しい空間だ。

「何か聞きたそうな顔をしてるね」

 不意に、セリーナが、ダリオの顔をのぞき込むように、首を動かした。兜に阻まれ、互いの表情はうかがい知れない。しかし、彼女の態度はひどく自信ありげだ。

「兜が透けて見えるわけではないだろう」

「あたしには見えるのさ。で、なんだい?」

「……子供が一人、来ていないか?」

「来てるよ。ケインとか言う子だ。安心しな、噛まれちゃいない」

「そうか。……すまんな」

「いいさ。あたしは生存者をもう一度検めるから、後はよろしく。あまり、根を詰めすぎないようにね」

 そう言って、セリーナは教会の正面扉に向かっていった。彼女はそこでダリオを一瞥すると、扉を開けて、中に入っていってしまう。取り残されたダリオは、ぐるりと通りを見回して、空を見上げた。

「日暮れが近いか……」

 一瞬、ダリオは迷った。日が暮れてしまうと、生存者の捜索も、亡者の『掃除』も、やりづらくなる。今すぐ夜になるわけではないが、明るい時間は残り少ない。そこで何をするか、ダリオは選ばなければならなかった。

夕日を受けながら、ダリオが思案していると、ふと、正面の建物の上に、見覚えのある人影が立っていた。そいつは、ダリオがいることを確認すると、ひょいと通りに下りてきていた。

「……アリスか」

 金属と石のぶつかる音がした。屋根上から通りまでの高低差は、それなりにある。衝撃も相当なものだったはずだが、アリスはさして気にせぬ様子で、ゆっくり立ち上がった。背中には、大きな麻袋を背負っている。

「ああ、ダリオも来てたんだ。そっちはどうだった?」

「どうも。いつも通り、連中を掃除してきた」

「生存者は?」

「一人いた。保護したわけではないが、今は教会の中にいる」

 アリスの鎧もまた、血で汚れていた。金髪や頬にも赤黒い血がこびりついていたが、それが彼女の容姿を損なっている様子はない。むしろ、夕日と相まって、顔の陰影がくっきりするため、より大人びた印象を与えてくる。

「おまえは?」

「見張り台に籠城してた警備兵が五人。今アッシュが誘導してて、あたしはご覧の通り、食料その他を持って先に来たってわけ」

 これ見よがしに、アリスが麻袋を強調した。中に何が入っているかは分からなかったが、袋の大きさから見て、生存者が今夜を過ごすには十分な量だった。

「ダリオはどうするの? もう日が暮れるけど」

「掃除をしようかと思っていたが、これからまだ人数が増えるとなると、もう少し物資を集めてきた方が良さそうだ」

「了解。あたしは休ませてもらうから。ダリオも無理はしないようにね。なんか、疲れてるみたいだから」

 やれやれとため息をつき、アリスは教会の中に入っていった。それを見届けると、ダリオは通りを歩き出す。

「……無理か」

 ダリオ自身は、無理をしているつもりもないし、疲れているわけでもない。それが心配なのは、どちらかと言えば、アリスや生存者達だった。

「……俺は疲れてなどいない」

 つぶやきながら、ダリオは通りを駈け出す。日没までは、後一時間も無いだろう。



 ドーンの街は、夜のとばりに包まれた。今や、街に明かりをともすものはいない。どこを見渡しても、暗黒ばかりだ。月と星のわずかな光は、その暗黒を払うだけの力を持ち合わせてはいない。街は、死んだのだ。

「生存者はいないか」

 ダリオは、一人教会の屋根に座り、暗闇を見つめていた。どこにも、明かりらしきものは見えない。生存者がいるのならば、明かりをつけるものもいるだろうとの目算だったが、それははずれたらしかった。

「あるいは、賢明な連中ばかりか、だろ?」

「アッシュか」

 鐘楼の下からアッシュが顔を出していた。

「夜の明かりは亡者を呼び寄せる。賢い奴らなら、夜はおとなしくしてるはずだ」

「何の用だ」

「セリーナのババアが説法をやる。あんたも中に入れよ。今日は冷えるぞ?」

「わかった」

 ダリオの返事を確認すると、アッシュは教会内部へと引っ込んだ。ダリオも、もう一度周囲を確認した上で、教会内部に戻っていく。

「生存者は今のところ十八人。やれやれ、大所帯だ」

「生き残りが多いのは、悪い事ではない」

「そうだな。だが、『これ』が頻発しているってことでもあるぜ?」

 アッシュが自分の失われた右腕を見て、自嘲気味に笑った。片腕ではあるが、器用にハシゴを下りていく。

「確かにここ最近、ずいぶん増えた」

「だからこそ、ババアみたいな聖職者が頼りになるわけだが……クソ、なんでアイツはあんなにイカれてるんだ? 口を開くたびに汚い言葉ばっかりで……」

「この状況で正常でいられる方が、難しいさ」

「……そーだな」

 ハシゴを下りきった二人が、祭壇の広間に足を踏み入れる。石造りの広間にはいくつかのろうそくがともされ、心許ないながらも、暖かみのある明かりを放っていた。中央の祭壇にはセリーナが立っていて、生存者全体を見渡せるようになっている。アリスは、入り口近くの壁にもたれかかって、気むずかしげな表情を浮かべていた。

「さて……ひとまず、あんた達が生き残れたことを、偉大なるヴ・ドゥに感謝しようじゃないか。祈りの言葉を知ってるものは、あたしと一緒に唱えて。知らないものは、目を閉じて今自分が生き延びていることに感謝してればいい」

 セリーナはそう言って、祭壇の上に両手をついた。それから、少しうなだれて、ゆっくり、祈りの言葉を唱え始める。

「偉大なるヴ・ドゥ、母なるヴ・ドゥ、生きとし生けるもの死してより死せるもの、我らの肉に栄えを与え、我らの魂に力を与え、真の御身とともに歩まんことを賜う……」

「……本当に、神様が助けてくれりゃ、いいのにな」

「……そうはいかないさ」

 ダリオとアッシュは、生存者がセリーナとともに、祈りと感謝を捧げる様を見ていた。地獄の釜のふたが開いた街で、数少ない生存者が、神に一心に祈っている。

 そう、うまくは行かないことぐらい、みんな知っている。少なくとも、ダリオ達は、それを痛感している。祈りを唱える、セリーナ本人ですら、そうだ。それでも、祈りに水を差すことはしない。これは、祈りなのだ。これからも続く、惨劇に耐え抜くための。

「……偉大なるヴ・ドゥ、母なるヴ・ドゥ、どうか我らを守りたまえ。……うん、ありがとう。ひとまず、祈りはこれで、置いておこうか」

 セリーナが顔を上げ、生存者達をぐるりと見回した。声に幾ばくか、とげとげしい感じが混ざる。

「あたしはセリーナ。死霊騎士団の一人で、この街の『掃除』にやってきているものさ。あんた達をこの場に集めて、説法めいたことをしてるのには理由がある。一つは規則。生存者への事情説明さね。もう一つは救済。まあ……要するに、あんた達が自分の運命を理解して、覚悟を決めるための助けさ」

 十八人の生存者達は、広間に思い思いに座っているが、皆一様に、不安の表情を浮かべていた。これから語られることを、うすうす察しているのだろう。

「さて、まずこの街を襲っている現象……葉のない白い花が一斉に咲いて、街に亡者が闊歩するようになる現象だけど、あたしらはこれを『亡禍』と呼んでいる。人によっては、『ヴ・ドゥの下り物』とか、『亡者による黙示録』だとか呼ぶかも知れない。ま、どれも同じさ。聞いたことあるだろ? どこそこの村がこれで壊滅しただとか、いろいろとさ」

 生存者の表情に変化はなかった。ここまでは周知の事実なのだ。

「花……正式な学名はモルス・フロールってんだけど、これの開花周期は分かっていない。しばらく前までは、三十年から五十年程度だと見積もられてたけど、ここ最近は頻度が上がってきているみたいでね。それに伴って、発生件数も増えている。あたしらが対応しただけでも、今年に入って……いくつだったっけ?」

 セリーナが思わせぶりに、ダリオを見た。

「大きな街で言えば二つ。村や集落規模を含めれば五つだ」

 聞かれるまま、ダリオは答える。一瞬、『掃除』してきた場所が、脳裏に浮かぶ。大都市も、小さな村落もあった。変わらないのは、そこで人が死に、亡者が闊歩するという事実だけ。

「……だってさ。しばらく前までは、一年で大小含めて四つか五つだったけど、まだ今年は半分も過ぎてない。全く、この調子だと後十年もしないうちに、死者の数が生者を上回るね」

 そう言って、セリーナはケタケタ笑った。

「ま、それはどうだっていいことさ。明日世界が終わるにせよ、目の前の問題には対処しないとね。で、話を元に戻すよ。その『亡禍』だけど、花は見えない毒を撒き散らし、それを吸い込んだ人間の多くが亡者と化す。具体的には、全体の八割程度さ。少ないとは言えないが、それでも二割の人間が、毒を吸っても無事でいられる。あんたたちがそうさね」

 セリーナが生存者達の顔を見回す。老若男女様々な顔。安堵した様子は見られない。

「だけど、そんな幸運なあんた達でさえ、亡者達に噛まれたり、血液を浴びたりしたら、連中と同類になる。変化するまでの期間は個人差があるけど、短いもので数時間、長ければ三日か四日だね。ああ、毒を吸った段階で変化する人間は、もっと早いよ。一時間しないうちに変化するものが大半で、長くても一日だ。そして、それら変化した人間……すなわち亡者を狩るのが、あたしら死霊騎士団の仕事ってわけだ」

 明らかに、顔色の変わった人間がいた。暗がりでよく見えないが、三,四人は顔つきがおかしい。噛まれているのだろう、とダリオは推測した。

「あたしらの任務は、亡禍に見舞われた地域において、亡者の掃討と生存者の救助を行うこと。活動期間は通常一週間程度で、街にはびこる亡者を一掃するまで続く。理由はみんな知ってるだろうけど、後々入植するもの達のためさ。亡禍に見舞われた土地は、恐ろしく肥えた土地になる。『ヴ・ドゥの下り物』と呼ばれるのはそれが所以さ。まあ、肥沃な土地を求めて、移住したがる奴らは大勢いる。たとえそこが、亡者によって蹂躙されたところだろうとね」

 それだけ語って、セリーナは一旦、言葉を切った。もう一度、彼女は生存者達の顔を見回す。兜に覆われ、表情は分からない。

「……噛まれているもの、連中の血液を浴びたものは立ちな。あたしと一緒に、奥の部屋まで来るんだよ」

 場の空気が一瞬、硬直した。誰も動かなかった。先ほどの話を聞いていれば、当然の反応だ。死霊騎士団の仕事は、亡者を掃討すること。噛まれたものは、その対象なのだ。

「……力尽くが、お望みかい?」

 セリーナが言った。重く、ゆっくりとした口調だった。ひとたび、彼女が斧を振るえば、広間はあっという間に血の海だろう。それは、誰も望むことではない。威圧する、セリーナ自身ですら。

 数秒、時間が過ぎた。やがて、一人、また一人と、ゆっくりその場に立ち上がり始めた。全部で、四人。多くはないが、決して少ない数ではない。

「何より。残ったもの達は、命が惜しけりゃ、この教会で待機しておくんだね。ただ、あたしらにはあんたたちの行動を制限する権利がない。だから、あんたらがどこへ行こうと、何をしようと、あんたらの勝手だね。だから、お好きにおし。自分の命だ、自分たちで決めな。ヴ・ドゥもきっと、それをお望みになる」

 生存者達が身をこわばらせるのを見届けると、セリーナは噛まれたものを連れて、奥の部屋へと歩いて行った。

 後には、ダリオ達と、生存者だけが残された。生存者達は皆、思い思いの体勢を取っているが、安堵のため息は漏れてこない。奥の部屋からは、ぼそぼそとした話し声と、時折嗚咽のようなものが聞こえてくる。

「毎回毎回これだ。いい加減気が滅入ってくるぜ」

「当事者にとっては、初めてのことだ。俺たちも、そうだった」

「それは分かるがな」

 たしなめられたアッシュが、大きくため息をつく。彼の感じていることは、ダリオにも十分理解できた。財産や親しい人を失った衝撃と、自分の命すら危うい境遇への不安。それらにさいなまれる生存者を見るのは、良い気分ではない。

「ま、セリーナは案外楽しんでそうだが」

「なぜそう思う」

「通りの光景を見たろ? アレは殺戮を楽しんでるに違いないぜ」

「楽しんでいるように見えるだけの場合もある」

「……ま、そうだろうな」

 人の頭の中をのぞくのは難しい。表面上、狂っているようにしか見えなくても、中身がそうでないことはままある。ダリオとて、経験から、それを知っていた。

「誰が、何をどう考えているかなど、わからんものだ」

 ダリオは、部屋の隅に立っている、アリスに視線をやる。彼女は沈痛な面持ちで生存者達を見つめるばかりで、特に変わった様子はない。

 そう、これは変わらないのだ。

 いつもと同じ、暗い雰囲気の避難所。

 絶望にうちひしがれた生存者達の面々。

 死霊騎士団が派遣されるたび、この光景は、彼らの前に立ちはだかったのだ。



 くたびれた生存者達を一瞥し、ダリオはセリーナを追って、奥の部屋へと入っていった。教会関係者の生活に使われていた小さな部屋は、ろうそくがともされ、薄明かりに揺らめいている。その中央には、鎧に身を包んだセリーナと、噛まれた生存者が四人。皆、血の気の引いた顔をしている。

「さて……あんたたちはここに隔離される。亡者になるまでの時間は好きに過ごしてもらって良いけど、ここから出ようとすれば命はない。分かってくれるね?」

 生存者達は何も言わなかった。彼らとて、自分たちの状況が理解できないわけではないのだ。泣き叫んだところで、自分が生きながらえる可能性が上がるわけではないことを、彼らは知っている。

「告白すべき事があれば、あたしが聞こう。これでも元は教会の関係者でね。説法ぐらいなら出来る。べつに、他愛のない話でもいいさ。あたしらも、あんたらと同じ人間。遠慮する必要は無いのさ」

 そう言って、セリーナは兜を外した。浅黒い肌をした、がっしりした女の顔が、現れていた。髪の毛はちぢれ、頬骨が張り、母性よりも威圧を感じる顔ではあるが、瞳には深い憂いがたたえられている。セリーナは、生存者達を見つめながら、その深い瞳で、優しげにほほえんでいた。

「……なぜ、我々を殺さないんですか?」

 生存者の一人が口を開いた。セリーナと目は合わせなかった。

「あたしらの仕事は、亡者の一掃と、生存者の救助だ。あんたたちはまだ生きてる。なら、殺す理由はないさ」

 セリーナは優しく、諭すように言った。大柄な外見に威圧感を覚えていた生存者達も、彼女の立ち振る舞いに、少し警戒を解いたようだった。

「……でも、俺たちは連中と同じじゃないか」

「明日にでも化け物になっているかもしれない。それなら……」

「せめて人間のまま、殺してくれないだろうか?」

 口々に、生存者がわめき始める。しかし、そこに怒りの色はない。自分の死が目前に迫ったことで、ただただ救いを求めているだけだ。

 セリーナは、そんな彼らをひとしきり見つめた後、小さく咳払いをした。

「……淡い希望だけど、時々、噛まれても亡者にならない奴らがいてね。死してなお現世にとどまるもの……死霊リビングデッドと呼ばれてる」

 一瞬、生存者達の顔色が変わった。ひょっとしたら、生き延びることが出来るかもしれない。ただその一言で、彼らの顔に、希望が戻ったのだ。

「本当に……本当にごくまれだから、一般には知られちゃいない。けど、あたしら死霊騎士団は、皆そいつらで構成されているんだ。あたしも、そこにいるダリオも、皆、一度は噛まれ、自分の死を覚悟したのさ。だが生き延びた。ヴ・ドゥが与えてくれた救済なんだろうかね? あたしには、わからないけどさ」

 説法をするような口調で、セリーナは語り続ける。いつしか、生存者達は、彼女の話に聞き入っていた。

 セリーナは、多くのことを話した。最初は、亡者に変貌する過程や、死霊騎士団の構成について。それから、生き死にについてや、自分の過去についても、話し始めた。

 それが、彼女の仕事だった。生存者達を統率し、彼らの心をなだめてやる。ただ亡者を倒すだけでなく、人々の安寧に仕える、誇り高い仕事。

「……あんな振る舞いが出来るのに、亡者相手だと狂人そのものってんだから、不思議なもんさ」

 いつの間にか、ダリオの隣にアッシュが立っていた。生存者達に聞こえないよう、小声で話しかけてくる。

「誰しも、おかしいところと、そうでないところがあるだけだろう」

「……かもな」

 アッシュは肩をすくめた。

「それに、俺たちも、普通の人間からすれば、化け物みたいなものだ。狂っていようと、いまいと、たいした問題じゃない」

 重たい鎧が、肩に食い込むような感じがした。感じがしただけだった。実際には、重くも何ともない。

 亡者に噛まれ、生き延びた人間は、常人とは比べものにならない身体能力を獲得する。板金鎧を着て飛び跳ねられるのも、そのおかげだ。だが、そうなって良かったとは、とても思えない。いっそ、亡者に成り代わっていた方が、楽だったかも知れない。

「……こんなもの、救済でもなんでもない」

 肉を求めて、亡者が闊歩する世界で、救われることなど、あるはずがないのだ。

 生き延びたものには、生き延びた代償として、さらなる苦しみが待っている。

 理性を失い、亡者と化す事が、救済と思えるほどの苦しみが。



 ダリオは夢を見ていた。ダリオ自身、それが夢であることは十分分かっていた。

 かつて住んでいた家の戸口に、自分が立っている。部屋の奥に、横たわった父親と、それに覆い被さる母親の姿。父親の腹部は血にまみれ、臓腑のようなものがはみ出ている。母親がそれをつかみ、一心不乱に、むさぼっている。

 ふと、母親が顔を上げた。彼女はダリオに気づき、ゆっくり立ち上がると、彼に向かって、ゆっくり、ゆっくり、歩いてくる。

目前に迫る母親の顔。ろくに動かない自分の体。

母親の口が大きく開き、赤く染まった歯があらわになる。

「ダリオ……」

 母親の口から、血のにおいがする。むせかえるほどの血のにおい。

その場で嘔吐してしまいそうだった。

「ダリオ……」

 母親の歯が、ダリオの頬に触れた。動けない。全身に恐怖があふれ出る。

死を覚悟する。自分は、母親と同じところへ行くのだと思う。

「……ダリオ!」

 瞬間、目が覚めた。兜の隙間から陽光が差し込んでいる。

 全身に汗をかいていた。心拍も異常なほど早かった。激しく脈打つ心臓の鼓動を感じ、ダリオは今、自分が生きていると確認する。

「起きて。もう日が昇ってる。掃除の時間」

「……アリスか」

 声のする方を見上げると、アリスの姿があった。鐘楼から身を乗り出し、風に金髪をなびかせている。顔の汚れは洗ったらしく、昨日よりきれいに見えた。

「なんだってそんなところで寝ちゃうわけ?」

「夜中の見張りだ」

「それで朝までぐっすり寝ちゃったと」

「……そのようだ」

 夜明け前まで起きていた記憶はあるが、寝てしまったことは事実だった。ここでアリスに弁解しても仕方ないと思い、ダリオはゆっくり腰を上げる。

「……怖い夢だったの?」

「なぜそんなことを聞く?」

「そういう感じがしたから」

「……おまえは、楽しい夢を見るか? 俺はあまり見ない」

 ため息をつきながら、ダリオは周囲を見渡した。街の様子は昨日と変わりないように思える。どこにも火の手は上がっていないし、泣き叫ぶ声もない。少なくとも、教会周辺は静かなものだ。通りが血と死体にまみれているのは、変わりないが。

「……まあ、たまにはね」

「夢の中とは言え、楽しいことは良いことだ」

「寝てたことに対する弁解は無し?」

「……悪かった」

「ならよし」

 うまくアリスに乗せられている気はしたが、あまり邪険にすると彼女の機嫌が悪くなってしまう。ダリオは内心、アリスの立ち振る舞いにあきれながらも、深々と頭を下げた。

「んじゃ、仕事にかかりますか」

 それだけ言って、アリスは鐘楼を下っていった。後には、彼女の甘い香りがわずかに残っている。汗のにおいと、血のにおいと、女のにおいが混ざった、妖艶と言っても過言ではない香り。

「……成長していると言うことか」

 一言だけつぶやいて、ダリオはアリスの後を追った。当然ながら、そこには彼女の残り香が、ふんだんと言っていいほど、漂っていた。



 ダリオとアリスは、うつむいている生存者達の横を通り抜け、教会を出た。教会前の通りは、さんさんと陽光が降り注ぎ、とても亡者達がうろつく街のものとは思えない。無論、目線を下にやれば、そこには細切れの死体が散乱しているのだが。

「アッシュは?」

「ダリオが起きる前にさっさと行っちゃった。早く済ませて帰りたいんだってさ」

「そうか」

 ダリオの態度は素っ気ない。アリスは不満げだったが、追求しても何も出ないと分かっているので、それ以上は続けなかった。

「ま、あたしも早く帰りたいのは同じかな。亡者共の相手をしてると、返り血でどんどん体が汚れていって嫌になるし」

「そうだな」

「仕事中だからお風呂に入るわけにもいかないしねー。あーあ、早く帰ってお風呂に入りたいな……」

「ああ」

「……人の話聞いてる?」

「一応な」

「ああ、そう……」

 元々、ダリオはおしゃべりではないし、他愛のない愚痴につきあってやれるほど面倒見が良いわけでも無かった。アリスとてそこは理解しているはずなのだが、彼女はダリオに対し、無意味な会話を振ることをやめない。

「……ま、いいか。アッシュの言うとおり、さっさと済ませりゃいいもんね」

「そういうことだ」

 二人が一応の同意を取り付け、通りの中程まで歩き出したところで、不意に、教会の扉が開いた。反射的に、二人の手が、腰の剣に伸びる。素早く振り返ると同時に、彼らが目にしたのは、武装した警備兵の姿だった。

「……四人か」

「そっか、一人は噛まれてたんだっけ」

 面子は四人。黒髪の好青年、赤い髪の若い女、少し肥満体の男。背が高く、ひょろりとした男。

 即座に、反乱、という単語が、二人の脳裏をよぎった。生存者が、絶望に駆られて、突拍子もない行動を起こすことは、珍しくない。

 だが、ダリオ達と比べれば、警備兵は軽装だ。装甲と呼べるものは胸当てぐらいなもので、後は革製の簡素な防具しかない。武器も、背中に背負った弓と、腰の短剣程度。完全武装の死霊騎士団を相手取るには、かなり心細い。

「……何の用だ?」

 威圧的な口調で、ダリオが聞く。腰の剣をわずかに抜き、本気であることを示す。

しかし、思いの外警備兵達は、恐れなかった。ダリオ達が警戒するのも構わず、彼らはそれぞれ、一歩前に出る。

「申し訳ない。可能なら、あなた方の仕事を、お手伝いさせていただきたいのです」

 リーダー格とおぼしき男が、ダリオ達を見据えていた。目鼻口のはっきりした、見た目にも好青年な男。年の頃はまだ若く、二十歳そこそこのように思えた。

「手伝いだと?」

「はい、亡者を一掃するお手伝いを。自由に行動して構わないと聞いたもので」

 男に迷いはないように思えた。口調ははっきりとしているし、後ろに従っている仲間達も、彼の行動に不服がある様子ではない。

「君は……」

「カプランと言います」

「そうか。カプラン、では聞くが……正気か?」

 ダリオは大きくため息をつきながら聞き返した。すぐ隣のアリスも、どことなく困惑した表情を浮かべている。

「街の中は安全とは言えない。ヘタをすれば死ぬか、もっと悪い結果にもなる」

「我々の仲間の一人が、亡者に噛まれました。我々の家族や友人が、亡者と化し、街をさまよってもいる。それを考慮すれば、正気かどうかは、自ずとおわかりになるはずです」

 カプランらの決意は固そうだった。たとえダリオが許可しなくとも、彼らは勝手に街に出て、亡者を狩るようになるだろう。

「皆で話し合って決めたことです。どうか……」

「……好きにしろ」

 放っておいても、彼らは狩りに出かけてしまう。それならば、さっさと許可してしまう方が、面倒が少なくて済んだのだ。

「ただ、我々の近くにはいてもらう。お互い、目が届く方が便利だ」

「正論ですね。分かりました、しばらくの間ですが、お世話になります。ええと……」

 カプランが一瞬、迷うような表情を見せた。ダリオには彼の言わんとすることが理解できなかったが、隣のアリスは、即座に察したようだった。

「あたしはアリス。で、こっちがダリオ。あたしは単独で行動するから、あんた達はダリオの指示に従って」

「おい、アリス……勝手に話を進めるんじゃない」

「仮にも隊長でしょ。部下の扱いぐらい手慣れてるでしょうに」

 ダリオは言い返せなかった。名目上、ダリオはアリスやセリーナ、アッシュを率いる隊長という形になっている。部下の管理が出来ないとはとうてい言えない身分だった。

「そういうわけだから、カプランさん。ダリオについて行ってね。あたしは先に行くから。それじゃあ」

 そう言って、アリスは一足先に、教会前の通りを離脱した。軽やかに石畳を蹴って、角の向こうへと消えていく。

「では、よろしくお願いしますね、ダリオさん」

 兜で隠れたダリオの顔を見つめながら、カプランはほほえむ。そして、親しげに右手を差し出し、彼は握手を求めてきていた。彼なりの敬意の表現だったのだろうが、ダリオにはそれがむずがゆく思え、つい、握手に応じることが出来なかった。

「……くれぐれも、注意を怠らないように」

 そっぽを向いて、事務的な態度を取る。カプランは肩をすくめ、苦笑した。

「もちろんですよ」

「……」

 隊長と言っても、ダリオは名目上であって、実際リーダーシップを発揮したことはなかった。動きの遅い亡者を駆除するだけの仕事に、統率力など必要なかったのだ。

加えて、ダリオは元々、人付き合いが上手な方ではない。そんな男が、急に社交的な青年と手を組めといわれても、しっくり来るはずがない。

「どうかしましたか?」

「いや……」

 慣れない感覚に戸惑いながら、ダリオは通りを一歩踏み出した。角をいくつか曲がれば、すぐ亡者の群れに出くわすだろう。そうなれば、後はいつもと同じはずだった。

 そう、いつもと同じの、亡者を掃除するだけの仕事。

 それが待っているはずだった。



 ダリオ達は、『掃除』すべき亡者達を求め、しばらくの間歩き回った。通りを歩き、角を曲がり、時として住居の中を調査した。しかし、少なくとも教会の近辺には、亡者の影らしきものは、どこにも見当たらない。

「……いつもこういうものなのですか?」

「いや。ドーンの人口を考えても、これは少なすぎる」

 街の中央通りにたたずみ、ダリオ達は思案していた。通りのそこここには、首をはねられた亡者の死体。それと、ぐちゃぐちゃに砕かれた肉片らしきもの。ただ、いずれも数は少なかった。驚くほど「まばら」なのだ。

「すでにお仲間が『掃除』した後だと言うことですか?」

「数が少なすぎる。俺たちは基本、殺した後の亡者を処理したりしない」

 先日、ダリオが到着したときは、状況は違っていた。通りには亡者があふれ、ダリオが暴れ回った後には、大量の死体が残されていた。

 今日は違う。亡者の死体はまばらにあるだけ。目立つのは肉塊と肉片。巨大な何かに砕かれたかのような、亡者達のなれの果てだった。

「ぐちゃぐちゃの死体はいくらかありますね」

「ああ。とうてい、人間業ではないな……」

「今更ですが、亡者を殺すにはどうすればいいので? 首をはねれば良いというのは聞きますが、こうまでされていると自信が無くなります」

「……基本、それでいい。厳密には、後頭部と首の境目にある、延髄と呼ばれる部分を破壊すれば殺せる。実際狙うのは難しいから、頭をつぶせばいい」

「頭以外では殺せないということですか?」

「心臓を刺したりすれば、失血で殺すことも出来る。だが確実ではない」

「なるほど。こういう風に細切れにしてやれば、頭を破壊せずとも殺せるのですね」

 少し嫌みっぽく、カプランが道ばたの肉塊を指さした。元が何だったのかすら分からない有様だ。当然、動く気配はない。

「……ああ。化け物がやるみたいに、ぐちゃぐちゃにしなくても殺せる」

 返答した直後、嫌な想像が浮かんだ。人一人程度ならば造作もなく引きちぎれるような、巨大な体躯を持つ怪物。おとぎ話の世界には、良く出てくる連中だ。そんなものが現実にいるはずがない、とダリオは想像を振り払おうとする。

 だが、彼らが今相手にしている亡者達とて、おとぎ話の中にしかいない存在のはずなのだ。人が正気を失い、新鮮な肉を求めてさまようなど、現実にあり得る方がおかしい。

 しかし、それは今、ダリオ達の目の前で現実となっている。

 それならば、もっとおかしいことが起きても、不思議ではない。

「……全員、建物の上に上がれ。急ぐんだ」

「え? でも、亡者の群れは見当たりませんが」

「それがおかしいんだ。何か……デカいのがいるのかもしれない」

 カプランは首をかしげるばかりだ。それはそうだ。突拍子もなさ過ぎる話で、信用すべき根拠などどこにもない。

「まさか。亡者と言っても、元は人間。そんな巨大になるはずがないでしょう。化け物なんかそうそういるものじゃ……」

「俺たちを見ても何とも思わないのか?」

「は?」

「バカみたいに重たい鎧を着て、屋根の上を飛び跳ねている俺たちを見て、おまえ達は何も感じないのか? 俺たちは全員噛まれてるんだ。死霊騎士団の全員が。噛まれた上で生き残れば、こんな非常識な動きだって可能になる。俺たちは化け物とは呼べないか? そう考えれば、変異した亡者が存在することぐらい、想像できないか?」

 ダリオは思わず、カプランに詰め寄っていた。

「いったい何を言っているのか……」

 苦笑いを浮かべたカプランを説得するのは、難しそうに思えた。カプラン達は、突然語気を荒げたダリオを、冷淡にあざ笑うばかりだ。

「……くそっ」

今は彼らの安全を確保し、この街で何が起こっているのか確認すべきだ。そう、ダリオが考えた、次の瞬間、周囲に轟音が響き渡っていた。



 それは、静寂が支配する街には不釣り合いなほど巨大で、荒々しい音だった。

肉が砕ける音とは違う。人がすすり泣く音とも違う。

人間が作り出した建築物が、圧倒的な力によって破壊される音だ。

激しい大気の鳴動とともに、破壊された建材の臭いが漂ってくる。

砕かれた石の破片、舞い上がる砂埃。

それらがダリオの視界に侵入してきた直後――

そいつは、姿を現した。



通りの反対側にあった家に、大きな穴が空いていた。大きな馬車が通ってもまだ余裕のある、巨大な穴。そこは砂埃に包まれ、何かがいる、ということしか分からない。

だが、そいつは明らかに巨大だった。埃に透ける影だけを見ても、大の大人より、一回りも二回りも大きい。

埃が晴れるに従って、そいつの異常さはよりはっきり分かるようになった。不自然に盛り上がった肩。重装の鎧を思わせる筋肉に覆われた胴体。大木の幹ほどもある両腕。そして、それらには不釣り合いなほど小さい、人間とさほど変わりない頭部。

後に、『金床アンヴィル』と呼ばれる、亡者の変異体であった。

「で、でかい……!」

 カプランがおびえていた。他の警備兵も同じだった。ダリオとて、一瞬、恐怖に身をこわばらせたことは間違いなかった。

 それほど、そいつは異形だったのだ。発達した腕や胴体には、あまりにも釣り合わない頭部。それが、ダリオ達に向かって、まるでほほえみかけているように見えた。

 それは、『金床』に残された人間の意識の一端だったのかもしれない。だが、それを確認する前に、そいつはダリオ達めがけて、突進を開始していた。

「来るぞ、避けろ!」

 カプラン達をかばう暇はなかった。ダリオは全力で横へ飛び、カプラン達もそれに従う。彼らがついさっきまで立っていたところを、『金床』が通り過ぎていく……はずだった。

 直前、『金床』は、その発達した腕を大きく伸ばしていた。獲物が横へ飛んで逃げることを予測し、その動きを追ったのだ。丸太ほどもある太い腕が、ダリオではなく――カプランの一団を襲っていた。奴は知っていたのだ。全身鎧に身を包んだ化け物よりも、軽装の人間の方が襲いやすく、食らいやすいと言うことを。

「くそっ!」

 すべてが遅かった。ダリオはまだ空中で、重力に身を任せ落ちるのを待つしか出来なかった。そのわずかな時間に、『金床』の腕は、警備兵の一人を捕まえていた。やや肥満体の男だった。警備兵は悲鳴を上げる暇も無く、奴に抱き込まれた。

「ジェイディ!」

 カプランの悲鳴に似た叫びが聞こえた。獲物を抱え込んだ『金床』は、突進の勢いを殺さぬまま、正面の住居に突っ込む。轟音とともに、住居に大穴が空いた。

 砕けた建材と、埃が舞い上がった。ダリオ達は通りに着地し、一瞬、周囲が静寂に包まれる。それを破ったのは、おぞましい怪物の雄叫び。それと、人間の、断末魔の叫び。

「あ、ぎゃあ、あああっ!」

 奇妙なほど甲高い声だった。それが、ジェイディと呼ばれた警備兵の、最後の一声だった。埃に遮られ、何が起こったのかは定かではない。ただ、その叫びだけがすべてを物語っていた。

「カプラン、建物の上に逃げろ!」

「わ、わかりました!」

 仲間の死を悼む暇も無く、カプラン達は駈け出した。同時に、ダリオは両の剣を引き抜く。『金床』のような大物を相手にするには心許ない、鈍色の長剣と、銀色の短剣。その二振りを手に、ダリオは砂埃の中へと飛び込んでいった。

「……こいつ!」

 相手が筋肉の鎧をまとおうとも、狙うべきところは変わらない。砂埃で視界が悪い中、ダリオは正確に、『金床』の位置をとらえる。

 音と、影が、剣を振るう先を教えてくれた。人間の肉体が無残に引きちぎられる音。それを行う、巨大な化け物の影。それだけあれば、ダリオには十分だった。

 敵は背中を向けていた。死体をもてあそぶのに夢中で、背後から接近するダリオには、気づいていないようだった。その機会を最大限利用して、ダリオは一飛びで、相手の背中に飛び乗る。

「死、ね……っ!」

 ダリオが長剣を突き出した。その切っ先は、敵の肉体を貫き、首と胴体を離れさせる――はずだった。

「……くっ!」

 渾身の突きは、『金床』がまとう、分厚い筋肉の鎧に阻止されていた。刀身の半分も突き刺さらず、剣は怪物の背中に突き立てられる。

 瞬間、『金床』が絶叫した。激痛に苦悶したのか、怒りに身を震わせたのか、定かではない。だが、怪物が絶叫とともに振るった両腕は、確実に、ダリオの胴体をとらえていた。鋼鉄製の鎧に、変異した亡者の筋肉がたたきつけられる。

「うおおおっ!?」

 ダリオが胴体に衝撃を感じた瞬間、彼は宙を舞っていた。衝撃で、握っていた剣を取り落とす。直後、彼の体は通りを飛び越え、反対側にある商店に飛び込んでいた。鉄製の鎧が体にめり込む音とともに、ダリオの意識が途絶えた。



 カプラン達が手近な建物に登るのと、ダリオが吹っ飛ばされるのは、ほとんど同時だった。人間大の何かが吹っ飛び、店の軒先に消えていく一部始終を、彼らは唖然として見つめていた。

「ば、化け物じゃないか……」

 カプランがうめくと同時に、『金床』が姿を現した。両手にはおびただしい血痕が付着している。ジェイディのものであるのは明らかだった。

 『金床』は、通りをぐるりと見回し、建物の上にカプラン達がいるのを発見する。そして、その小さな首をもたげた後、身も凍るようなおぞましい雄叫びを上げた。

「くそ……どうすればいい!?」

 カプランが迷う。戦って勝てる相手ではない。かといって、逃げてどうにかなるわけでもない。奴は完全にこちらを捕捉し、追いかけ回すだろう。

 万事休す。そんな考えがカプランの頭をよぎった瞬間、仲間の一人が声を上げた。

「やるしかないよ! 普通の亡者と同じさ! 首を落とせば、アイツは死ぬ!」

「レイン! しかし……!」

「ジェイディが殺されたんだ! 敵を取らないで、どうするって言うのさ!」

 レインと呼ばれた、赤い髪の女は、カプランが制止する暇も無く、弓を構えていた。背中の矢筒から矢を引き抜き、つがえる。『金床』は叫ぶばかりで、人間達が攻撃態勢に入ったことを、理解していないようだった。

「死ねよっ!」

 レインが弓を放つ。しなやかな弦によって矢は加速され、甲高い風切り音を立てながら、一直線に『金床』に向かっていった。

 狙いは正確だった。矢は確実に、敵の頭をとらえていた。するどい鏃が、『金床』の頭に深々と刺さる。衝撃で巨体がよじれ、大きな大きな、叫びが上がった。

「やった……!」

 レインが、一瞬、勝利を確信した。その場にいた誰もが、そう思ったに違いない。

「あ……!?」

直後、金属の塊のようなものが、彼女の胸に突き刺さっていた。それは目にもとまらぬ速度で飛来し、正確にレインの胸に突き刺さっていた。

それは、ダリオが先刻、刺した剣だった。『金床』は、自分を攻撃してきた敵めがけて、それを投げつけたのだ。明らかな殺意を持って。

「レ、レイン……!」

 カプランがうめいた。レインの胸当てに空いた穴から、赤々とした血が流れ出る。それと時を同じくし、彼女は崩れ落ちた。糸の切れた人形同然となった彼女は、ゴロゴロと屋根の上を転がって、通りにドサリと落ちた。

 それを見て、『金床』が雄叫びを上げた。頭部に矢が突き刺さったまま、激しく咆哮した。そして間をおかず、カプラン達のいる建物めがけ、突進を開始した。目的はたった一つ。彼らを通りに引きずり下ろし、その肉を砕くこと。

「う、うわあああああっ!」

 もう理性ははじけ飛んでいた。カプランは脇目もふらず、次の建物へと走り出した。残った仲間が、戸惑った様子でカプランに目を向ける。

「待てよ! 逃げるのかよ!」

「ジェームス、おまえ死にたいのか!? アイツは普通じゃない! さっさとこの街から逃げるんだよ!」

 カプランが隣の建物に飛び移る。残されたジェームスも、恐怖に駆られ、走り出そうとしたその瞬間、彼の足下が崩れた。奴が、建物に体当たりしたのだ。

「ジェームス!」

 屋根が崩れ落ちた。埃が舞い上がり、ジェームスの姿が消える。

「カプラン! 助けてくれ、カプラン! カプラン!」

 ジェームスの悲痛な叫びが聞こえた。だが、カプランにはどうすることも出来ない。視界が悪く、弓を撃つことは出来ない。仮に撃てたとして、あの化け物を殺せるとは思えない。短剣で接近戦をやるなど、もってのほかだ。

「ジェームス! クソ!」

「カプラン! いるんだろ! アイツがもうそこまで来てる! 助けて! 助けてくれ! あ、あああああっ!」

 金切り声にも似た断末魔の叫びが聞こえ、それきりジェームスの声はしなくなった。続いて、柔らかくてみずみずしい何かを、ぐちゃりとつぶす音。それははっきり、カプランの耳に届いていた。ジェームスが、化け物の腕に、ねじ切られた音だった。

「あ、ああ……クソッ……」

 周囲は静寂に包まれた。カプランは反射的に弓を構える。矢をつがえ、どこから敵がやってこようと、撃てるように身構えていた。

 そうするほかなかったのだ。カプランにはどうしようもなかった。仲間を助けることも、『金床』を打ち倒すことも出来ない。自分の身を守る。それすら出来なかった。彼に出来るのは、心許ない武器を構え、精一杯の警戒を行うだけ。

 永遠とも思える時間が過ぎた。足が震え、冷や汗が吹き出してくる。全身が恐怖にむしばまれていた。仲間の断末魔が何度も何度も脳裏をよぎり、自分の肉体が同じく引き裂かれる様が、まぶたの裏を駆け巡った。

 それは空想でしかなかった。カプランはそう、自分に言い聞かせた。そして、彼が少しずつ冷静さを取り戻していたそのとき――『金床』の大きな手が、屋根にかけられた。

「うあ……」

 そいつはゆっくり、屋根の上に登ってきていた。獲物がもう抵抗の意思を失っていることを、知っているかのようだった。

 巨大な腕が屋根の縁をつかみ、その巨体を引きずり上げる。縁が耐えきれず砕けたが、体が落ちるより先に、『金床』は腕を屋根にたたきつけていた。

 破片が飛び散った。カプランの顔にもいくつか当たって、小さな切り傷を作る。だが、それはもう、どうでも良いことだった。目前に迫った死の脅威に比べれば、些細なことでしかなかった。

「こ、殺さないで……」

 登り切った怪物に、カプランは思わず、命乞いをしていた。聞き入れられるはずがなかった。相手は亡者の変異体。理性があるわけがない。だが、それでも、そうせざるを得なかった。いずれにせよ、殺されるのを待つだけなのだから。

 指先が白くなるほど、弓を握りしめる。だが、撃つことは出来ない。全身が凍ってしまったかのように、動かなくなっていた。

 一瞬、『金床』がカプランを見つめた。小さな頭に据えられた、白濁した双眸をもって、カプランの全身を眺めた。

 そして、『金床』は、人間の肉を食らう口を、ぐにゃりとゆがませた。

 奴は、嗤ったのだ。

「あ、あああっ……」

 カプランは失禁していた。じょぼじょぼと黄色い尿が、彼の足を伝ってたれていた。

目の前の亡者が自分を殺すことに何のためらいもないことに気づいたのだ。目前にいる巨体は、人間ではない異質な何か。意思の疎通は出来ない、完全な怪物。

 そいつが、今、自分を食おうとしている。

 恐怖が張り裂けるのには、それで十分だった。

 怪物が、両腕を振り上げた。一息に、カプランをたたきつぶそうとしている。飛び散った肉を、その小さな口でむさぼるつもりなのだろう。もう終わりだ。これきりだ。カプランは死の恐怖に全身をこわばらせた。

 だが、その眼は見開かれていた。閉じることが出来なかった。目の前に迫った圧倒的な死から、目をそらすことは出来なかったのだ。

 カプランの視界一杯に、『金床』の両腕が広がる。

 そのとき――彼は見た。奴のすぐ背後に、両手斧を振り上げた、板金鎧の女が、飛びかかってくるのを。

 それは、教会で待機しているはずの、セリーナその人だった。



 カプランが瞬きする間に、セリーナは両手斧を振るっていた。横薙ぎに一閃し、『金床』の右脇腹に刃をたたき込む。衝撃に、怪物が叫び声を上げた。

「堅いんだよこのクソッタレぇッ!」

 セリーナの両手斧を持ってしても、『金床』の胴体を両断することは出来なかった。分厚い筋肉の鎧が、斧の刃を食い止めるのだ。幾ばくか食い込んだ刃によって衝撃が伝達され、怪物の重たい体が宙に浮き、通りの上に落とされた。

「あ、ああ……」

「離脱しな! 教会の連中を連れて、アッシュとアリスを探すんだ! 見つけたらこの街からさっさと逃げ出すんだよ!」

「ま、待って、そんなこと……」

「ここでクソ化け物と心中したいのかい! キンタマ落としたので無けりゃ、もっとましな判断しな!」

 屋根上に着地したセリーナに叱咤され、カプランはようやく、正常な思考を取り戻した。彼女の言い分は正しい。『クソ化け物』の出現によって、のんびりした亡者の『掃除』は終わったのだ。

「……か、噛まれた奴も連れて?」

「ああ、そうさ。……変異したら確実にブッ殺しとくんだよ。あのチクショウがやったみたいにね」

 両手斧を構え、セリーナは『金床』をアゴで指し示す。通りに落ちた怪物は、脇腹から血を滴らせながらも、立ち上がろうとしていた。

「さあ、さっさと行くんだよ、チンカス!」

「り……了解!」

 カプランは言われるまま、弓を背中に戻し、屋根上を走り出した。それを確認したセリーナは、一度深呼吸し、じっと『金床』を見据える。

「まったく……ヴ・ドゥの計らいにも困ったもんさね!」

 直後、彼女は跳躍した。衝撃で、屋根板が砕ける。重たい全身鎧をものともせず、屋根上から一足飛びに、『金床』に迫る。脳天に一撃入れて、そのまま縦に両断してやるつもりだった。。

 両手斧を振りかざし、『金床』の頭めがけて、一閃。だが、それははずれた。

 セリーナの刃が届く直前、奴は素早く、後ろへと跳躍したのだ。

 重たい両手斧が、通りの石畳に深く食い込む。衝撃で砕けた石畳の破片が、一瞬、宙を舞った。

「こんちくしょうめが!」

 セリーナは、敵が意図して回避したことを察していた。この亡者の変異体は、ただ肉を食らうだけののろまな怪物ではない。敵を殺すための駆け引きに長けた、「生まれながら」の狩人なのだ。

 着地と同時に、化け物が、セリーナめがけて突進してくる。彼女は両手斧を石畳から引き抜こうとするが、思いの外深く食い込んでいて、一瞬、隙を作ってしまう。

 それは、『金床』が彼女をなぎ払うのに十分な時間だった。化け物が巨大な腕を振り上げ、セリーナの肉体を、木の葉のように吹き飛ばす。そうなるはずだった。

 だが、その直前、一本の矢が、『金床』の背中に突き刺さっていた。ダリオが作った刺し傷に、新たな矢が、撃ち込まれていたのだ。

 苦痛に苦悶し、怪物が、悲鳴を上げる。すんでの所で突進は止まり、セリーナは斧を引き抜いた。片方の刃は、石畳にたたきつけたせいで、ひびが入ってしまっている。

「ちっ、タマ無しが色気出すから!」

 セリーナは顔を上げ、矢が飛んできた方向を見た。悪い予感は当たった。そこには、震える手で弓を構えている、カプランの姿があった。



 決死の覚悟で放った矢は当たった。撃つ瞬間までは、その一撃ですべてが終わると思っていた。怪物は倒れ、カプランは尊い仲間の死を乗り越え、新たな舞台に進む。もちろん、そうなるはずがなかった。

「うう……くそ……!」

 歯を食いしばりながら、カプランがうめいた。傷口にさらなる打撃を受けた『金床』は、激しい雄叫びを上げて、彼をにらみつける。そして、セリーナが斧を引き抜く間に、カプランめがけて、突進を開始していた。

「ちくしょう!」

 弓をかなぐり捨て、隣の建物に飛び移る。漏らした小便がぐちょぐちょして気持ち悪い。今思えば、バカなことをしたものだ。言われたとおり、さっさと逃げ出していれば良かったのだ。それが一番合理的だった。最適解だったはずなのだ。

 だが、彼はそれをやらなかった。屋根上を駆ける途中、ふと背後を振り返ったとき、石畳に斧を食い込ませたセリーナと、それを屠ろうとする『金床』が見えたのだ。直後、カプランはごく自然に弓を構え、『金床』めがけて矢を放っていた。一瞬だけ思い描いた、怪物を打ち倒し、英雄となった自分の姿。それが今となっては、あまりにばかばかしい。

「クソッタレがっ!」

 屋根上を全力疾走する。少しでも早くこの場から離れたかった。追いつかれれば死ぬ。カプランにはもう、走ることしか出来ない。後は、祈るだけ。危機を脱したセリーナが、あの非常識な化け物を打ち倒してくれることを祈るだけ。

 そして、彼が次の建物めがけて、大きく跳躍したその瞬間、眼下から、何か、巨大なものが迫ってくるのが見えた。

 『金床』だった。



 敵が攻撃目標を変えたのは明らかだった。セリーナは、明後日の方向に走り出した『金床』を追って、自身も全力疾走を開始する。脚甲が石畳を叩き、重たい音を立てる。

 だが、『金床』は素早かった。発達した両腕を器用に使い、四足歩行の獣のように突進する。追いつけないわけではない。十分な距離があれば、化け物を射程に捕らえ、斧で一閃することも可能だったろう。

 しかし、それはかなわなかった。あまりにも、カプランと『金床』の距離が短すぎた。セリーナが追いつくより早く、奴は建物の壁をよじ登り、屋根へと飛び移る途中だったカプランを、手中に収めていたのだ。

「そいつを離しなデカブツがぁっ!」

 通じるはずがないと知りつつ、セリーナは叫んでいた。『金床』が動きを止める気配はない。斧を振り上げ、一気に跳躍する。奴の胴体はすぐそこだ。ダリオ達が加えた攻撃は、全くの無意味ではない。怪物は傷つき、血を流している。今なら、胴体ごと両断することだって可能なはずだ。

「くたばりさらせぇぇぇぇっ!」

 カプランは胴体をわしづかみにされていたが、まだ握りつぶされるには至っていない。今、奴を殺せば、カプランは救える。

 そのときだった。『金床』が振り向き、セリーナを凝視したのは。

「う、うわあああああっ!」

 直後、『金床』は体を反転させ、右手につかんでいたカプランを投げつけていた。怪物の豪腕によって、カプランの肉体は、激烈な速度でもって、セリーナに迫っていた。空中で、斧を振り上げている彼女にとって、回避は絶望的だった。

「クソがッ!」

 苦し紛れに、斧を手放し、カプランを受け止めようとする。だが、一瞬遅かった。カプランの肉体は、彼女の両腕をすり抜け、胴体に直撃する。

 激しい衝撃が、セリーナを襲った。支えるもののない空中で、彼女の肉体は大きく吹き飛び、きりもみしつつ石畳の上に落ちた。金属鎧と石がこすれ、火花が上がる。衝撃と激痛に、セリーナがうめいた。

 カプランはもっとひどかった。鋼鉄の鎧に直接打ち付けられた彼は、その場で大きく跳ね上がったのだ。皮膚が何箇所も裂け、鮮血の粒が中空を舞う。それから少しして、カプランもまた、セリーナと同様、石畳にたたきつけられた。悲鳴はなかった。

「ぐ……コンチクショウが!」

 セリーナが立ち上がろうとするが、足が明後日の方向に折れ曲がっていた。手放した斧は地面に落ちていたが、這っていくには遠すぎる。それに、『金床』が、彼女を見逃してくれるとは思えなかった。

 それは事実だった。怪物は地面に降り立ち、セリーナを一直線に見据え、のしのしと歩を進めてきている。

「……ああ、クソッタレめ」

 死ぬことは何も恐ろしくはない。一度、亡者に噛まれたセリーナにとって、死は一度体験していることだ。それは、他の連中とて同じだろう。

 彼女は大きくため息をつき、『金床』をじっと見据えた。着実に脅威を排除しようとする行動様式は、これまでのどの亡者とも違う。明らかな別種だ。ともすれば、知性すら感じられる、野獣のような亡者。あと十秒もすれば、自分はあの巨腕の中でひねり潰され、息絶える。

 そんな、想像が、セリーナの脳裏をよぎったときだった。

 巨大な金属を引きずる音が、通りに響いていた。

 入り口が半ば崩壊した、商店の奧から、それは聞こえてきた。

 重く、分厚い金属塊が、石畳にこすれ、ぶつかる音。

 一瞬、耳にするだけで、腹の底が震えだしてしまう、不快で、重苦しい音。

 セリーナが、ゆっくり視線を移す。破壊された店の奥から、男が歩いてくるのが見えた。

 至る所に血痕の残る、傷だらけの板金鎧。それをまとった、顔の見えない男。

 男が、巨大な金属塊を引きずって、歩いてくる。

 ダリオだ。



 一歩進むたびに、握りしめている金属塊が、石畳に傷をつけた。不快で重苦しい音を立てながら、ダリオは一歩一歩、『金床』に近づいていく。

 ダリオが引きずっている金属塊は、実際のところ、大鉈と呼ぶべきものだった。先端に行くにつれて刃は反り返っているが、切っ先の輝きは鈍く、下手をすればつぶれている有様だった。

 何より、異常だったのは、その大きさだ。刀身だけで人間の大人ほどはあり、持ち手も含めればダリオの身長を軽く超える。刃の幅も規格外に広く、水平に置けば、上で人間が寝転べる。石畳を打つ響きから考えるに、刀身は完全な鉄製で、持ち上げるだけで大人が何人も必要に違いなかった。人間が扱う武器とはとうてい呼べず、むしろ、『金床』が扱うのがふさわしいように思えた。

 その、化け物が扱う得物を、ダリオが、引きずっている。

 それが意味することは、たった一つ。

 誰しもが想像できる、簡単で、わかりやすい事実。

 金属鎧に身を包んだ、一人の男も、目前の『金床』と同じ、化け物。

「図体だけの獣が」

 ダリオが一言、つぶやいた。大鉈を握り直す。

『金床』は、目前に出現した脅威を前に、硬直していた。二者が一瞬、対峙する。生者が去り、亡者だけとなった街の通りで、異形の化け物と、鎧の化け物が見つめ合う。

 瞬間、ダリオが大鉈を振り上げた。

加速のついた切っ先が、石畳をえぐりながら、空中へと浮き上がる。

路面が悲鳴を上げた。空気が切り裂かれ、重苦しい風切り音が発した。

 そして、大鉈は静止した。

持ち手の部分が、ダリオの両手にがっちりと支えられていた。

大鉈は、太陽の輝きを、その刀身に鈍く侍らせている。

 ダリオは、構えたのだ。非常識なほど重く、巨大な大鉈を。

 その鋼鉄の刀身を、『金床』の肉にたたき込むべく、大鉈を振りかぶったのだ。

「おまえは……殺す!」

 叫びと同時に、ダリオは大鉈を振るった。劇的な重量に、ダリオの人間離れした筋力が足され、空気すらなぎ倒しかねない一撃が発生する。

 それを、『金床』は回避する。間合いを見きり、背後に小さく跳躍し、刀身をすんでの所でかわす。

 それから、『金床』が反撃に転じた。武器の重さに振り回され、満足に防御の出来ない敵を、一撃で屠ってやろうと、両腕を振り上げたのだ。

 その拳を持って、ダリオを脳天から、文字通りたたきつぶそうとしたのだ。

 『金床』が拳を振り下ろす。全身の膂力を込めて。重たい得物を持つダリオに、それは止められないはずだった。

「浅知恵が!」

 ダリオが叫んだ。大鉈を振り下ろした勢いに身を任せ、前方へ短く跳躍。得物の重みに引っ張られた彼の体は、すんでの所で『金床』の一撃を回避し、その背後へと躍り出た。

 ダリオの行動は、そこで終わらなかった。即座に重心を立て直し、大鉈の勢いを利用して、再び構え直す。『金床』の一撃が、石畳を砕いていた。

「もう一度、死ねぇぇっ!」

 大きく、大鉈を振りかぶった。敵が反応する暇を与えたくなかった。

 鉈が振り下ろされる。瞬間、奴が振り向いた。その白濁した双眸に、確かな驚愕と、恐怖の色が浮かんでいた。

 直後、敵の背中の肉を、大鉈が切り裂いていた。無理矢理にえぐり取ったという方が正しい。分厚い金属の刀身が、『金床』の盛り上がった筋肉をぐちゃぐちゃにしながら、引き裂いていく。異形の怪物が、苦悶の絶叫を上げた。

「う、おおおおおっ!」

 ダリオが一歩踏み込んだ。全身の筋肉を使い、加速した大鉈を制御する。その重みを、腕、腰、足でとらえ、暴れ回る重量を押さえつける。大鉈が『金床』の肉を抜け、石畳めがけて突っ込んでいく。

そこで、大鉈が静止した。そこから、持ち手を反転。切っ先を、『金床』に向けてやる。

 さらに、一歩踏み込んだ。大鉈を左後ろに構える形となる。切り裂かれた『金床』の背中から、赤黒い血が、ぼたぼたと垂れ落ちていた。

「とどめぇっ!」

 そこから、ダリオが、大鉈を振り上げた。全身全霊を込めた一撃だった。重力に逆らった鋼鉄の塊が、再び、『金床』の肉に食い込む。脇腹の筋肉を引き裂き、内臓のいくつかを巻き込んで、背骨を荒々しくたたきつぶす。


それから、大鉈が、『金床』の胴体を、真っ二つに裂いた。


 断末魔の叫びが上がった。獣とも、人間ともつかぬ、『金床』の叫び。

 両断された上半身が、石畳の上に落下する。それで、ようやく、すべてが終わった。

 『金床』は、死んだのだ。いつもの亡者と同じに。体を真っ二つにされて。



 赤黒い血液が、石畳の上に流れ出ていた。『金床』の血。常軌を逸した化け物の血。その主はもう、ぴくりとも動かない。胴体を真っ二つにされ、すさまじい断末魔の叫びを上げて、今し方絶命したばかりだ。

「デカいだけのマヌケが……手こずらせてくれたね」

 セリーナが立ち上がっていた。足が明後日の方向に折れ曲がっているが、それを気にする様子はない。絶命した『金床』をしげしげと眺めつつ、彼女はダリオに近づいてくる。

「あんたもそんな重たいのを使うんだね」

「そこの店にあった。何に使うかは知らん」

「ハ……こういうクソを殺すためじゃないのかい?」

「かもな」

 ダリオは大鉈を手放した。血塗れの刀身が石畳に落ち、重たい金属音を立てる。衝撃で石畳に、いくつかひびが入っていた。

「体は大丈夫かい?」

「頭をぶつけた程度だ。あんたのほうが重傷だろう」

「そうさね。ま、すぐ治るさ。あたしらなら。……他の連中は、そううまく行かないけど」

 セリーナが視線を動かした。ダリオも、彼女の視線を追う。その先にあったのは、石畳の上に倒れ伏している、カプランの姿だった。手足があらぬ方向にねじ曲がり、体の節々から時折、赤い血が噴き出していた。

 二人はゆっくり、彼に近づいていった。近くまで行くと、彼の様子が、より詳しく分かった。衝突や落下の衝撃で、両手足はへし折れ、腰か背骨を砕いているようだった。カプランは石畳に仰向けになり、うつろな瞳で、空を見上げている。

「カプラン」

 ダリオが呼びかける。カプランの瞳が動き、ダリオを見つめた。口元から、血液の泡が、ぽこぽこと現れては消えていく。何か言おうとしているのだろうが、声にはならなかった。

「あの野郎は殺しておいた」

 他に、良い言葉は思いつかなかった。死を目前にした人間にかけるべき言葉は、知識としてはいくつも知っている。だが、それらを口に出すことは、あまりにもばかばかしい事に思えたのだ。

 仲間の敵は討った。もう大丈夫だ。安らかに眠れ。どれも、亡者を殺して回る死霊騎士団の口から発せられるには、あまりに陳腐だ。意味が無いのだ。何もかも。何を言おうと、カプランはもうすぐ死ぬ。安心していようと、絶望していようと、彼は死ぬのだ。

 だから、ダリオは事実だけを告げた。目の前で起こったことがすべてだから。慰めが無意味なら、それしか伝えようがないから。

「う……お……」

 カプランが口を開いた。血の泡と一緒に、絞り出すようなうめき声が聞こえる。さながら、亡者のようだったが、まだ彼は人間だった。

 それから、カプランは、折れ曲がった右手を、ダリオに差しだそうとした。握手をしようとしているのかどうかは分からなかった。ただ今回は、ダリオも応じてやろうと思った。

 腰を少し落とし、右手から手甲を外す。青白いが、筋肉質な手が、現れた。ダリオは自身の手を、カプランの手に向けて、ゆっくり伸ばしていく。

カプランの指は曲がり、小指はどこかに消えていた。傷つき、倒れ伏した男の手。それは紛れもない現実だった。ダリオ達が数え切れないほど経験してきた現実。血を流し、死の苦しみにあえぐ、人間という現実。

 二人の手が、一瞬、ふれあおうとしたそのとき、カプランの腕から力が抜けた。ダリオの右手が空を切る。カプランの腕が、鈍い音を立てて、石畳の上に落ちた。

 それきりだった。カプランはもう動かなかった。彼は死んだ。殺戮の限りを尽くした『金床』と同じく、物言わぬ屍になったのだ。

「ヴ・ドゥの御許に召された」

「ただ、死んだだけだ」

「……そうさね」

 ダリオは手甲を装着し、立ち上がった。太陽はまだ昼間のそれで、日暮れまでにずいぶん時間があった。あたりに亡者の気配はない。昼間だというのに、通りは異様なほどの静けさに包まれていた。

「しかし……あんなデカいのは初めてだったね」

「俺も見たことがない。相応に亡禍とつきあっているが、あれは初めてだ」

 ダリオ達は振り返り、『金床』の死体を見た。もうぴくりとも動かないが、恐ろしくやっかいな相手だったことは確かだ。生半可な武器では致命傷にならない、筋肉の塊。これが何体もいるとなると、ダリオ達では手に負えなくなるだろう。

「ここしばらくの、亡禍の頻発と、関係でもあるのかね?」

「さあな……」

 不意に、ダリオの視界の隅に、人間らしきものが飛び込んできた。視線を移すと、屋根の上に、紺色のローブのようなものをまとった人間が立っている。深くフードをかぶっているせいで、顔までは見えなかったが、体つきからして、女のようだった。ローブの胸元には、紋章のようなものが確認できるが、ダリオの位置からでははっきり分からない。

「どうしたってのさ?」

「いや、建物の上に人が……」

 一瞬、セリーナに視線を移し、すぐまた屋根を見やる。するともう、そこには、女の影はなかった。セリーナが、ダリオの視線を追っている。

「ああ、なるほど。頭をぶつけたおかげで幻覚が見えるようになったわけかい。もう一発ぐらいぶん殴ったら治りそうなもんだね」

「……遠慮しておこう。まだ、やることがあるからな」

 まだ、『掃除』が残っていた。町中にはびこる亡者の掃除が。行かねばならなかった。それがダリオ達の仕事だった。仕事に励むことは、通りの真ん中で思索にふけるよりも、何倍も有益なことだった。

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