あなたのイロ
わたしは凡人だ。
足が速いわけでもないし、勉強が出来るわけでもない。歌が上手いわけでもないし、芸術に秀でているわけでもない。その他大勢というカテゴリーの中に埋没する多くの人たちと同じ、ただビトだ。
自分はきっと特別なのだ、なんて思っていた時期もあったけれど、その考え方自体が多くの人と同じ考え方であることにも今は気づいている。せっかく生まれたのだから特別な存在でありたかった。けれど、そう思えば思うほど、まるで蟻地獄にでもいるかのように、凡人の流砂から抜け出すことは困難で、それを心底悔しいと思ったと同時に、諦めにも似た感情が飛来した。
その他大勢というカテゴリーに所属する人たちは、広大なる砂浜の砂粒一つのような存在ではあるけれど、だからといって、何も感じない訳ではないし、塵芥と同じに見ることはすべきでない存在であるはずだ。
世界という視点から見れば、確かに取るに足らない矮小な存在であるけれど、だからといって、たくさんあるからゴミのように捨ててしまうわけにもいかない。ぞんざいな扱いをするには、わたしたちは、個という小さな存在に、心を寄り添わせすぎている。早い話、赤の他人のその他大勢の集団の中のたった一人の小さな存在を、自分というものに置き換えてみるのだ。すると、取るに足らないちっぽけな存在一つに、感情移入し、生ごみのごとく捨てることは困難になってしまう。
矛盾するかもしれないが、わたしは特別な存在にはなりたくない、と思うことによって、特別な存在になりたかった。その他大勢の誰かが、自分を特別な存在とするために自分を磨くのを冷笑しながら、ひたすら、わたしは自分の心のつくり自体を変えようとしていた。なんて浅はかな考えだろう。矮小な上に、低俗だ。
凡人に、才能は無い。けれど、好みはある。わたしも然り。
わたしは、絵を描くことが好きだった。上手くはない。かといって、ある意味芸術と呼ばれるほどの下手さ加減も持ち合わせていない。ただ、絵を描いているだけのヒト。
どこまでも、その他大勢の一人。特別な存在になりたいとはもはや思わない。けれど、天性の才能がある人を近くで眺めているせいで、願いは強く、いつまでも存在してしまう。
* * *
葉桜の季節になった。緩やかな坂を上った先にある学び舎は古い外観で、そろそろ立て替えた方がいいのではないか、と学生たちの間で囁かれている。わたしはそのどこかアンティークを思い出させるような建物の中で勉学に励む大学二年生だ。今日は授業ではなく、サークル活動のためだけに登校した。
まだお昼前の日差しはしとやかで、清々しかった。
「おはようございます」
後ろから届いた平淡な声に振り向きかければ、わたしより背の高い後輩が、わたしを追い越して活動場所へ足を進めて行った。
おはよう、とこちらを見ない背中に挨拶を返して、わたしは自分のペースをきっちり保ったまま同じように進む。男子学生と一緒に歩くなんて柄じゃないし、まして、後輩に軽やかに追い越された後を、足早に追うのなんてささやかなプライドが許さなかった。
中庭の噴水が昼の光りで輝いている。季節と相まって、涼しげな気持ちにさせてくれる光景だった。周辺のベンチ等でたむろしている学生を見留ながら、花壇の脇をすり抜けて、遠くなった後輩の後ろ姿を追いかける形にならないよう意識しながら、足を動かす。
わたしの所属するサークルの活動場所は、メイン校舎から少し離れたところにある建物の一階で、狭いドアに反して、中は広かった。地味にメンバーが多かったことと、活動内容の性質上、スペースが必要だったことが要因だろう。大きなキャンバスや、多種の絵の具にペンキ、彫りかけの木像やら、石工と、それらを作成する際に必要となる小道具が物置よろしく散らばる活動場所である。例え写生を外でしたとしても、スペース確保は重要だった。
扉の前に立って、ひんやりとしたドアノブに手を掛ける。おはようございます、と中へ入れば、いつもいる面子の八割くらいが既に居た。各々、雑談に興じていたり、写生していたり、課題のレポートと格闘していたりと、フリーダムな時間を過ごしているようだ。
入口付近にいた一人の先輩が、片手で開いている本から目を逸らさずに、おはよう、と挨拶を返してくれた。他の人はわたしが来たことに気づいてない模様。いつも通りだ。
わたしは部屋の奥へと進み、鞄を下ろして、置きっぱなしにしているスケッチブックを手に取った。開けば、描きかけの中庭の風景がそこにある。まだ下書きの段階だ。色を入れようと思っているけれど、なかなか捗っていなかった。
そっと鉛筆の跡をなぞれば、指先がうっすら黒ずんだ。
(写生してこようかな……まだ、みんな集まってないし、報告事項もないだろう)
トランプタワー作りに挑戦している男子学生の脇を風が起こらないようにゆっくりすり抜けて入口に向かい始めた時、勢いよくドアが開いた。
「おはよう! 小野寺くん来てる!?」
パラパラとトランプが地に伏すのを視界の隅で捉えながら、前方に目をやると、そこには現三年生の先輩がいた。ピッタリとしたスキニーに、ブラウスの上から淡い薄紅色のカーディガンを羽織った、スタイルの良い女性が明るい表情で室内を見回す。
既に集まっていたサークルメンバーは一様に誰が来たかを確認した後、軽く頭を下げて、各々の作業に戻っていった。その中で、スッと立ち上がる男子学生が一人。
「……ここにいますよ、西崎先輩」
抑揚のない声で応えたのは、わたしを追い抜かして先にこの部屋へ来ていた後輩の小野寺。作業着に着替えた彼は今、荷物整理をしながら、キャンバスの準備もしていたようだった。心なしか呆れた表情をしている。
西崎先輩はほくほくと嬉しげな表情で彼に近づいていく。入口のところで読書していた同級生の先輩が、朝っぱらから五月蠅い、と苦言を呈するのを、以後気をつけますと返す。自由気ままにしている他のサークルメンバーの挨拶に適当に返して、一年生の小野寺のところに一直線に進む。
小野寺がキャンバスの前で腕を組んでいる。その眼差しは冷徹に見えた。西崎先輩は構わず、彼に声を掛ける。おはよう、とにこやかな笑顔。
「今日は何描くの?」
「決めてません。考え中です」
ふぅん、と興味深げに、何も描かれていない真っ白なキャンバスを見つめる西崎先輩。小野寺はしばし西崎先輩の横顔を見た後、興味を失ったように、キャンバスに視線を戻して、その正面の位置に椅子を引っ張り、座った。
じっとキャンバスを二人が見つめ合っている。まるで、真っ暗闇なだけの宇宙を眺める異邦人のようだ。
わたしは、口をキュッと引き結んで、スケッチブックを片手に、そんな二人を眺めた。
「今日は写生にいかないのか?」
後ろからいきなりかかった声に、驚いて振り返ると、本を読んでいた柏先輩がいつの間にかすぐ隣に来ていた。花柄のロングスカートの裾が僅かに揺れる。シンプルなデザインの長袖を捲りながら、彼女は絵の具を片手に携えていた。
「あ……行き、ます」
空気が抜けたような返事になってしまったわたしを、柏先輩は目を細めて見つめた。わたしはそっと不自然でないくらいに顔を逸らして、出口へと再び向かう。さらに何か言われるかと思ったけれど、柏先輩は何も言わなかった。
わたしがドアノブを回して外に出た瞬間、柏先輩が「西崎」と友人を呼ぶ声を聞いたが、わたしは少し慌ててドアを閉めたので、何を話していたのかは分からなかった。
小野寺は、西崎先輩が新学期早々無理やり入会させた一年生だった。相当気に入っているらしく、先輩は毎日小野寺にアクションをかけている。
西崎先輩は、自分が気に入った学生はアグレッシブなまでにアプローチをかける。そしてほぼ百パーセントの確率で、この美術系サークル〝Color″に入会させるのだ。西崎先輩に声を掛けられて入ってくる人は、「美術やりたいです!」という意欲がある人ばかりではない。むしろ、「美術なんて今まで無縁でした。それでもいいですか?」といって入ってくる人の方が多い。しかし不思議なことに、西崎先輩にアプローチを掛けられて入って来た彼らは退会することもなく、それどころかほとんど可能な限りサークル活動日に顔を出している。わたしはそれが不思議だった。
わたしは〝Color″には、自分から門戸を叩いた。だから彼らとは違う。
同級生に、西崎先輩に誘われて何となく入った松田という男がいる。この男、何を考えているのかよく分からないのだが、どうして無理やり入れさせられたのに長続きするのかと聞いたことがあった。それに対する彼の返答はこうだ。
――知らん。
さらに、彼らの共通点は、作品がそれなりに独特だということだろうか。今まで美術とは縁遠い生活をしてきたにもかかわらず、何故か彼らの作品は他と一線を画していた。
西崎先輩の連れてくる人は、才能のある人なんだ。わたしはそのことに気づいた。
ぼんやりと思考に耽りながら中庭のベンチで写生していると、件の同級生、松田がこちらにやって来た。心なしか足早で、普段マイペースを崩さない彼には珍しいなと思いながら見やると、彼は複雑そうな顔でわたしに言った。
「ちょっと、来てくれる? ……ってか、多分……うん、いや、ゴメン」
「…………ハ?」
眉をハの字に下げた同級生の顔を見上げながら、わたしはひしひしと何となく嫌な予感を感じた。
「何か連絡あったの?」
「うん……まぁ……」
「歯切れ悪いなぁ」
わたしがやや不快そうな顔をすると、松田はバツが悪そうに身じろぎをして、取り敢えず来てくれと言った。
「西崎先輩が……」
言いかけて、やはり口をつぐむ彼に、今度は不可解なものを感じる。
(西崎先輩はわたしに興味ないはずだ)
あの人は、凡人のわたしに何らアプローチを掛けてこない。話すことだって、事務連絡か挨拶くらいで、雑談した記憶もない。そもそもわたしの存在を認知しているのかさえ怪しいとわたしは常々思っている。そんな人が一体何の用だというのだろうか。
わたしは若干不安な気持ちを抱え、それを隠すようにして、ベンチを立ち上がる。描きかけのスケッチブックを抱えると、松田が足早に活動部屋へ戻る。わたしも少し駆け足で、その後を追った。
「あ、戻ってきた!」
扉を開けるなり、弾むような声に出迎えられた。西崎先輩の声だ。
彼女は部屋の中央で、柏先輩と小野寺に挟まれるようにして立っていた。高いテンションの西崎先輩とは対照的に、二人の周辺の空気はずっしりと重かった。その重圧感がはたして、現状によって作り出されたのか、元からの二人の纏う空気なのか、いまいち判断できない。常にローテンションな人たちだからそれも仕方ない。
他のメンバーが遠巻きに中心にいる三人を眺めやる中、松田が、連れてきましたよ、とつっけんどんに西崎先輩に言う。彼女は、ご苦労様、と労いの言葉をかけ、そのまま視線をずらして一直線にわたしを見つめた。
この先輩に、こんなにまっすぐ見られるのは初めてだ。
わたしはわずかに背筋を伸ばした。
「何か御用ですか?」
先に問えば、先輩は、うむ、と殊更重々しく頷いた。その後ろで、柏先輩、松田、小野寺の三人が、そっと視線を逸らした。
「キミは明後日の日曜は暇かね?」
奇人変人と名高い西崎先輩が、こんな風に芝居がかった聞き方をする時は要注意だ、というのは、サークル内の常識である。
「………………ええ、まぁ……暇ですが?」
その答えに、視線を逸らしていた三人が、揃って再びわたしを見た。信じられないものを見るような目だった。
もちろん、承知していますとも。この答えはマズイものだと。嘘でもいいから予定がありますと言っとくべきだったと。
しかしそれを言って何の意味があるというのだろう。西崎先輩に他人の都合というのはそれほど重要性を持たない。可能な限り、こちら側の都合を融通させようとする。ならば、何と答えようと、それこそ、葬式にでます、くらいのことを言わなければ解放してくれないはずだ。そのことをよくわかっているから、松田はバツが悪そうにしてわたしを呼びに来たわけだし、三人が揃って視線を逸らしたわけである。何せ、西崎先輩の一番近くにいるのが後ろの三人で、それは同時に、西崎先輩の迷惑を被る機会が多いことも示している。
(……と言っても、この場合は部屋の掃除とか、雑務とか、または美術道具の買い出しとかだろうし)
別に大丈夫だろう、と判断する。西崎先輩が探しているということは、当日、西崎先輩も一緒にいるのだろうが、心配することではない。
(プライベートで遊びに行くわけでもないし)
ぱちん、と西崎先輩が手を叩いた。
「いいねぇ! じゃあ、田中サン」
「………………………………へ?」
目を丸くした。先輩わたしのこと知ってたんだ。
うっかり感動しかけているところに、彼女はにっこりと笑顔で意味不明なことを言った。
「午前十時。大学前のバス停に集合ね」
「……………………………………は?」
「あ、お昼代は私が持つから大丈夫! 千円だけ持ってきて! 入館料だから!」
「え? いや、ハイ? ……何のことですか?」
徐々に何だか不穏な気配を感じ始めた。先ほどの感動はどこへやら、だらだらと嫌な汗が背中を伝っている感覚に陥る。
西崎先輩の背後へ視線を移せば、柏先輩が憐れむような目でわたしを見つめ、その隣で松田が合掌し、反対側にいた小野寺は視線を不自然なほど逸らしていた。
「…………えーっと、西崎先輩? あの、日曜日に一体何を……」
恐る恐るといったように彼女を見れば、天真爛漫な笑顔が爆弾を投下した。
「異国民族美術館でデートだよぅ!」
わたしはちょっと、西崎先輩を侮っていたのかもしれない。
* * *
日曜の昼下がり。空は見まがうことなき快晴。デート日和。
大学の最寄り駅から電車で三十分、さらに乗り換えて二十分の駅で降りると、そこには異国民族美術館がある。貴重な品々が展示されてるというよりは、様々な文化圏の生活様式が紹介されてるといった感じで、博物館の側面もある珍しい美術館だ。
わたしは今、その珍しい美術館に来ている。
「へぇ、意外と大きいねぇ」
「…………」
何故か西崎先輩と二人きりで。
「とりあえず、チケット買うかー」
「…………」
何でこうなった。どうしてこうなった。
「おーい、聞こえてるかーい?」
日頃の行いか? そもそもこの状況はいいのか? 悪いのか? ……否、良くはないだろう。わたしは平静ではない気がする。
「たーなかサン!」
「…………うわ!? ハ、ハイ??」
思考の迷い路に着いていたせいでリアルワールドとの繋がりが途絶えていた。いきなりドアップの先輩。心臓に悪い。わたしはこの人が苦手なのだ。
先輩は拗ねたように唇を尖らせて、わたしの脇腹をつつく。
「さっきから私しかしゃべってないじゃん。反応してよ。無視すんなー」
寂しいぞーと言いながら、ツンツン攻撃してくる先輩の手を捕まえようとしながら、ギョッと驚く。
「む、無視なんかしてないです! ちゃんと聞いて……て、イタタタ、先輩、痛いです痛いです。攻撃止めてくださいッ」
わたしが必死に格闘しつつ抗議をすれば、やっと満足したような顔をして止めてくれた。
「今度から私を無視しちゃダメだからね!」
「無視なんかしてないですって!」
聞いちゃいない。
先輩はフンフン上機嫌に鼻歌を歌いながら受付へ向かう。
「ああ! もう!!」
わたしは半ば自棄になりながら先輩の後を追った。
もうなるようになれ。
事の起こりは、あの後輩の発言だったらしい。
あの後輩こと、小野寺。言わずもがな、今日わたしの隣にいる西崎先輩のお気に入りである。ヤツは何をとちくるったか、わたしをダシに使ったのだ。
以降、会話オンリー回想開始。
『小野寺くん、明後日暇?』
『いえ、死ぬほど忙しいです』
『そっかぁ……何時なら空いてる?』
『一分たりとも空いてません』
『異国民族美術館って知ってる?』
『あの変わってるっていうので有名な美術館ですね』
『そうそう! そこに行きたいの! 日曜に行かない?』
『いえ、忙しいんで』
『大丈夫! ちょっとだけだから!』
『いえ、一日中外出するんで』
『えぇー! どこ行くの? 何しに行くの? デート?』
『デートだったら見逃してくれるんですか?』
『今この場で彼女サンにキャンセルの旨を伝えれば万事解決だね!』
『……デートじゃありません。葬式です』
『お葬式?』
『はい。小さいころよく遊んでもらったじいさんの葬式で、流石に欠席はできません』
『そっかぁ……。じゃあ、仕方ないねぇ……』
『はい。すみません』
『んー……じゃあ、柏さんは』
『無理』
『松田くんとか』
『無理です』
『…………むぅ。なんでみんな無理なの?』
『無理なものは無理です』
『プライベートは不可侵領域ですよ。西崎先輩』
『…………誰か一緒に美術館行ってくれないかなぁー』
『…………』
『…………』
『…………』
『…………行ってくれないなら、あみだくじでも作って、当たった人に一緒に行ってもらおうかなぁー』
『…………』
『…………』
『…………』
『…………異国民族美術館に行ければ、しばらくのんびりお絵描きしてるのになぁー』
『…………』
『…………』
『…………先輩』
『あーあ……って、なぁに? 小野寺くん一緒に行ってくれるの? お葬式すっぽかして』
『いえ、俺は行けません。が、異国民族美術館にすごく行きたがっているサークルメンバーがいることを思い出しました。その人と行ってきたらどうですか?』
『え、本当!? だれだれ!?』
『二年生の田中先輩です』
『田中……サン?』
『ちょ……小野寺くん!!』
『それは……』
『黙っててください松田先輩、柏先輩。……はい、田中先輩ですよ。西崎先輩、知ってますか?』
『もちろん知ってるけど……彼女行きたいって?』
『ええ、とっても』
『ほほーぅ! じゃあ、誘って行くか! さっき、外行ったよね。戻ってくるまで、デッサンしてよー!』
『…………小野寺。田中に後で恨み言言われても知らないぞ』
『柏先輩に同意。この場にいないヤツ利用するなよな』
『では、先輩方。あの西崎先輩と美術館行って来たらいいじゃないですか。たかだか一日拘束されるだけです。俺は御免被りますが』
『……俺だってイヤだよ。ってか、お前、葬式って絶対ウソだろ!』
『当たり前です。ああでも言わなきゃ、あの人聞く耳持ちませんよ』
『言っても若干、無視してたしな』
『柏先輩……。田中に何て言うんですか?』
『取り敢えず連れてこい』
『……俺ですか?』
『同級生だろう』
『いや、確かにそうですけど……』
『なーに話してるのぉ?』
『うわっ、西崎先輩! デッサンしてたんじゃなかったんですか!』
『んーん? しようかと思ったんだけど、やっぱ忘れないうちに田中サンに言っておこうかと思って! あ、松田くん呼んできてくれる? 今すぐ』
『……………………結局俺ですか』
『ん? 何が?』
『いえ…………行ってきます』
『うん! いってらっしゃい!』
『西崎』
『なぁに? 柏さん』
『田中が嫌がったら無理やり連れて行くなよ』
『あははは! 柏さんは面白いこと言ういねぇ!』
『何がだ』
『田中サンが私の誘いを断るわけないじゃん! ねぇ、小野寺くん』
『その通りですね』
『小野寺……』
以上、会話オンリー回想終了。
(小野寺あの野郎……!)
柏先輩と松田も便乗した時点で腹立たしいことに変わりがないが、一番ムカつくのは小野寺だ。何故、よりにもよってわたしなんだ。
(いつわたしが異国民族美術館に行きたいなんて言った!?)
そもそも普段のサークル活動内においてでさえ、あまり話さない人物の筆頭に来るようなヤツだ。一体全体どうしてこうなった。どっからわたしの名前持ってきた。
わたしは、西崎先輩が苦手なのだ。どうして西崎先輩がわたしと一緒にここに来る気になったのかはしらないが、少なくともわたしにとっては迷惑である。西崎先輩が嫌いなわけではない。ただ、単純に何を話して、どんな反応をすればいいのかが分からない。
(まさか、それがばれてたのか? とすると……嫌がらせ?)
――小野寺許すまじ。
月曜のサークル活動は覚悟しておけよ、この野郎。
何を話せばいいか、どう反応すればいいか。そんな心配は、館内に入って十分で雲散霧消した。なにせ、コミュニケーションをとるべきはずの西崎先輩が消えたからである。
「……え、迷子?」
この場合、はぐれたのはわたしか、西崎先輩か、どっちだ。
館内に入った瞬間、まず真っ先に目に入ったロシアの展示物の前で、先輩は停止した。来館者が次々と素通りして順路に沿って進んでいくのを丸無視して、「うおおおお!」と感嘆の声を上げていた。
その品のどこに、それほどの声を漏らす要素があるのか、わたしには分からなかった。流れる人の群れに沿って、なんとなく進んで行くのが常のわたしであったから、西崎先輩の停止に少し面食らった。
やっぱり先輩は一般人と感性がが違うんだなぁ、などと尊敬半分、疎外感半分で後姿を眺めていた。けれど、あんまりにも先輩が一か所で固まっているから、次第に退屈になり、わたしはちょっと先を見ることにしたのだ。もちろんすぐ戻ってくるつもりで。
中国やタイ、モンゴル等の民芸品をざっと見て回った。学校の教科書で見たものから、初めて見るものまであって、中々面白いなと思った。もちろん、西崎先輩のように、展示物の前で停止するようなことはなかったけど。
そろそろ先輩も別なところへ動き出すかな、と予測しながら、先輩が止まっていたロシアの展示品のところまで戻ると――先輩はいなくなっていた。
「……先輩。順路に沿って見てますか?」
思わず、ここから消え去った先輩に言葉を向けても虚しく来館者たちの雑談と靴音の中に消えていくだけだった。順路通りに沿っていれば、わたしが先輩を見失うはずはなかった。それほど距離が離れていたわけではないし、順路は一本道である。どこへ消えた。
わたしはがっくしとため息を吐いた。
当初の心配事は鼻で笑われたような感じだが、予期せぬ方面から奇襲を食らったも同然である。今日、本当に二人で美術館に来る意味、あったのだろうか。
待っているわけにもいかないので、わたしは一人で順路に沿って進むことにした。虚脱感に隠れて、安堵した気持ちと、残念がる気持ちがふつふつと燻っていた。
『きれいな純黒だねぇ!』
その声を聞いたのは、ほんの数か月前だった。
声自体は聞き覚えがあった。それが誰なのかも、見なくたって分かる。けれど、その弾むようなうれしげな声を聞いたのは、多分初めてだったのだろう。
声の主、西崎先輩の視線の先にいたのは、赤チェックの服を着た一年の男子学生。後にわたしの所属するサークル〝Color″に入ることとなった小野寺だ。彼は、普通の人が視線を逸らしたくなるほどの冷たい目をしていた。
西崎先輩はうっとりとした目で小野寺を見つめていた。ああ、また、きれいな色の人を見つけたのか、と徐々に遠ざかっていく音のある世界を意識しながら、わたしは二人を眺めやっていた。
彼もきっと、才能のある人なのだろう。そういった人は、西崎先輩の目に映る。そういった人でなければ、西崎先輩の目に映らない。彼女の見る世界は、わたしたちとは違う。わたしには、彼女が世界をどんな風に見ているのか理解することはできない。
わたしには、小野寺が純黒には見えなかった。
『ねぇ! 是非〝Color″に入って!』
そんな風に、西崎先輩に勧誘はされなかった。
『あ! あと名前! 名前教えて!』
そんな風に、名前を聞かれることもなかった。
西崎先輩の目に、凡人のわたしは映らない。それならそれでいい。才能がないことを指摘されるよりは、存在に気付いてくれないほうが、ずっと楽だった。
そう思い込んで自分を慰めないと、やっていられなかった。
「きれいだねー」
元気な女の子の声が耳に飛び込んできた。右下に目をやると、大きな目を落っことしそうなほど大きく開いて、弾むような笑顔で母親に話しかけている。そうねぇ、綺麗ねぇ、と女の子の母親は微笑みながら我が子を見つめる。少し離れたところから、女の子の父親らしき人物がビデオカメラを回していた。館内は撮影禁止じゃなかっただろうか。けれど、ほとんど彼は妻と娘を撮っているようだった。
ぐるりと辺りを見回していると、存外人が多かった。この展示物の前だからか。
ガラスの向こうにあるのは、一枚の大きなパネル。アズレージョという、ポルトガルでは珍しくもないタイルだ。教会や宮殿だけでなく、地下鉄等でも見かけられるもので、ポルトガルの歴史的・文化的要素を含んでいる。
大空のような真っ青な色と、浮雲を思い出させる真っ白な色が印象的で、目が覚めるほどに美しい。こんなものが日常の中に転がっているのか、と思った。装飾用だけでなく、室温管理の役割も果たすという説明書きがされていた。
人間というのは、大きくて綺麗なものには惹かれる性があるのだろうか。わたしの興味を引いたのと同時に、多くの来館者の目も釘づけにしている。小さな女の子と、その家族もまた、その一人。
わたしはガラスに近づき、ほとんど見上げるような体勢でアズレージョのタイルを凝視した。
(綺麗。……でも、それは誰もが思うこと)
ピカソのゲルニカを、素晴らしいと思ったことはない。ゴッホのひまわりを、綺麗だと思ったことはない。
有名で評価の高いそれらの作品の良さが、わたしには分からなかった。どうでもよかった。自分が気に入ったものを気に入ったと言えることが出来れば、それでよかった。それでいいと、ずっと思っていた。……今までは。
『ピカソの作品っていいねぇ! ホントいいよ! ああ! 是非一度ピカソ本人を見てみたい! 彼はどんな〝色″をしているんだろう!!』
既に亡くなっている人には会えないと、友人にツッコミを入れられるその人を見ながら、わたしは冷やりとしたのだ。自分には良さが分からないから、どうでもいい。そう無関心を貫いてきた自分のどこに何が反応したのかは分からない。けれど、あの時、友人と談笑する先輩の言葉が耳に入って来た時、わたしは確かに、冷水を浴びせられたような気持になった。唐突に、焦りが生まれた。
わたしは、あの人と感覚を共有することは出来ないと気づいて、それが途方もなく哀しいことであると思った。
ピカソの絵を、素晴らしいと思える人は、この世に何人くらいいるのだろう。
今、わたしの目の前にあるタイルを、美しいと思う人はどれだけいるのだろう。
(アルジュバロータの戦い。真っ青と真っ白の世界。……すごく綺麗。なのに――)
――死ぬほど悔しい。
隣りで、綺麗だと感動している女の子が、若夫婦が、老人が、大学生が存在することが死ぬほど悔しかった。
綺麗なものを見ることも、奇抜なものを見ることも好きだった。誰かが創り上げた何かを、見て、聞いて、触って、美しいと感動することは好きだった。素直に心が動くことが好きだった。
けれど、それが誰かの感じた感覚と同じだと、泣きそうになった。哀しくて、悔しくて、やるせなかった。わたしが感じる気持ちは、その他大勢の人が感じる気持ちと同じで、広い世界の長い歴史の中に埋没していく、ちっぽけなものでしかないのだと諭されているようで、嫌だった。わたしのこの全身が痺れるほどの感動は、そんなちっぽけな現象の一つでしかないのだという事実が、目を反らしたいほどに残酷だった。
「すごいわねぇ、ポルトガルは」
「来てよかったな」
「他のはちょっと良く分からなかったけど、これはとっても綺麗ね!」
耳から入って通り過ぎていく言葉に、わたしは疲弊し始めていた。わたしが感じたものとほとんど同じ感覚だったから。
脳裏に浮かぶのは、誰もが通過していくロシアの展示品の前で止まっていた先輩の姿。
(もう黙って鑑賞しててくれないかな……)
綺麗だと称賛されるタイルをぼんやり見ながら、これを創った人は、わたしたちのような凡人に綺麗だと言われることをどう思っているのだろうかと気になった。
美術に詳しくない。知識もない。才能もない。
そんな人たちに称賛されて、本当に嬉しい? その嬉しさは、超一流の審美眼を持つ人の讃辞に比べて、何分の一の嬉しさ?
流れていく来館者の波に乗らないよう、わたしはじっと、ひたすらアズレージョを見上げていた。首が痛くなってきたけれど、意地でももう少し、このままでいたかった。
ふと、近くに新たな人の気配を感じた。「おお!」と感嘆の声が上がる。
(また、凡人の一人。ミーハーか……)
美術館という場所へ来たことのノリのテンションでこの人も鑑賞しているのだなと感じた。どんな些細な展示物にも一つ一つ反応するタイプの人。たくさんいる中の一人。様々な展示を鑑賞して来た中でも、飛び抜けてこの展示のインパクトが強かったんだろうな、ともはや妄想といってもいいくらいの勢いで、隣人の性格を考えていた。
ぐっと眉間にしわを寄せて、首が痛いのも構わず、アズレージョのタイルを見つめ続ける。そうしてないと、涙がこぼれそうだった。喉がちりちりと熱くなっているのに気づいて、そっと生唾を飲み込んだ。
歓声を上げた隣人が、話しかけてきた。
「綺麗な景色だねぇ。まるで青空と浮雲が溶け合って歴史が出来たみたい!」
わたしは、ゆっくりと、視線を隣人に移した。
いつの間にか離れ離れになっていた西崎先輩が、いた。彼女はわたしの視線に気づくと、ガラスの向こうのタイルから目を反らし、わたしを真っ直ぐ見返して、にっこり笑った。
「はぐれちゃってごめんねぇ。どれもすっごく面白くて、つい夢中で展示物追ってたら見失っちゃって。……でもまぁ、追いついて良かった。綺麗だよね、これ! 実は一番見たかったんだ!」
嘘偽りのない、天下無敵の笑顔。瞳は、宝物を見つけたようにキラキラと輝いていて、先輩が、心の底からこの展示物を称賛しているのが伝わってきた。
わたしは、放心したように先輩を見つめながら、のろのろと頷いた。
「はい。……すっごく綺麗です」
だよねぇ! と間髪いれずに返って来た声が、じんわりと沁みた。喉よりも、お腹の底が熱くなった気がした。
飽きることなく目の前の展示物を見つめる先輩の横顔を眺める。次いで、彼女の眼に映る青と白のタイルを眺めた。
(綺麗。……わたしも、そう思った)
館内の順路に沿って展示物を眺めて行く客の多くが、わたしたちのいるアズレージョのタイルを見ながら、綺麗ねぇ、素敵ねぇ、と感嘆の息を漏らすのを聞いた。
(うん、本当に綺麗だ……)
見ず知らずの赤の他人の感想に、わたしは素直に頷くことが出来た。
ちら、と横に佇む先輩の顔を盗み見る。口角が上がり、楽しそうな表情。わたしは再度視線を、歴史的かつ文化的タイルへと移す。
流れていく人波の中、もう少し、このままでいたいなと思った。
凡人のわたしにも願いはあった。特別な存在になることをずっと前に諦めたわたしにも、望みはあった。それは多分、凡人ゆえに、とても強い想い。
わたしは、この人の目に映りたかった。
同級生や、後輩が、西崎先輩の目に留まる度、どうしてわたしを見てくれないのだろうと不満に思った。否、分かっている。わたしが西崎先輩の目に留まらなかったのは、わたしが凡人だったからだ。
きれいな色だね、珍しい色だね。
そう言って、無理やり美術系サークル〝Color″に入れられる人たちが、わたしは心底羨ましかった。妬ましかった。
西崎先輩に見てもらうことが、凡人であるわたしの願いだった。
「西崎先輩」
美術館内の売店で、何やら物色している背中に声を掛ければ、「んー?」という生返事が返ってきた。
わたしは先輩の後ろで同じように、販売品を眺めながら何気ない調子で聞いた。
「どうして今日、わたしと一緒に美術館に来たんですか?」
先輩が、ゆっくりと顔をあげて、わたしを見つめる。わたしもゆっくりと販売品から視線をずらし、挑むような気持ちで、先輩の目を真っ向から見つめ返した。
先輩が、何か見極めるかのように目を細めた。そして、彼女にしては珍しい、どこか意地の悪い笑みを浮かべる。
「どうしてだと思う?」
わたしは、先輩の顔から目をそらさずに、ゆっくりと口を開いて、わたしなりに応えた。
先輩は、私の応えに、是とも非とも言わず、ただ笑って、また販売品を眺めはじめた。
そんな先輩を、わたしは眺め続けていた。先輩が売店を出るまで、ずっと。




