明日も晴れ
「明日は午後から雨だってさ」
ノア・ベネットが、研究室の窓の外を見ながら言った。
雲ひとつない青空だった。
「知ってる。俺が降らせる」
イーサン・クラークは端末から目を離さず答えた。
「そういう言い方やめろよ。神様みたいだから」
「第六農業区。十四時十分から十九分間」
ノアが片眉を上げた。
「十九分?」
「新型は根が浅い。二十二分やると収量が落ちる」
「三分で?」
「三分で」
ノアは手にしていた紙カップを傾けた。
「農業って繊細だな」
「お前も農学部出ただろ」
「昔の話だ」
「十二年前だぞ」
「十分昔だよ。大学のころなんて、雨は空から勝手に降ってきてた気がする」
「授業で見た映像の話だろ」
「ああ。そうだった」
イーサンは降雨計画を確認した。
第六農業区。
十四時十分、降雨開始。
十九分間。
平均降水量、四・二ミリ。
気温二十三度。
風速一・八メートル。
日照回復、十四時三十二分。
指で承認欄に触れる。
空間ディスプレイ上の雲がゆっくり西へ移動し、小麦畑の上だけ青く染まった。
《推定収量前年比+18.4%》
「また上がった」
ノアが身を乗り出した。
「お前、本当にやめてくれよ」
イーサンがようやく端末から顔を上げた。
「何が」
「また来年度の目標値が上がる」
「俺のせいじゃない」
歴史上、すべての生産性向上は翌年のノルマになった。
ノアが肩をすくめた。
「じゃあ失敗するか?」
「それは評価が下がる」
「面倒な社会だな」
「だから働くんだよ」
二人で笑った。
研究棟の窓の向こうには、規則正しく並んだ農地が広がっていた。
耕作機は無人だった。
細い白色の車体が畝に沿って動き、その後ろを小型ドローンが低空で追っている。
病害、葉色、土壌水分。
人間が畑に降りなくても、植物の状態は一株単位で把握できた。
その先には住宅地。
さらに遠くには緑の丘陵と、青い山脈。
十月だというのに気温は二十二度。
湿度四八パーセント。
昼休みには研究所の前庭で食事をする職員が多かった。
昔は台風というものがあったらしい。
干ばつ。
洪水。
豪雨。
雹。
大学時代、気象制御以前の農業史を扱う授業で、古い映像を見た。
茶色い濁流に沈んでいく畑を見て、隣に座っていたノアが、
「雨を止めればいいじゃん」
と言った。
教授は二秒ほど黙ったあと、
「ベネット。君はこの授業で何を学んできた?」
と聞いた。
教室中が笑った。
その隣で一番笑っていたのがイーサンだった。
今では、本当に止められる。
農作物に必要なだけ雨を降らせる。
気温を上げる。
下げる。
日照時間を調整する。
春を数日早めることもできれば、夏を短くすることもできる。
飢饉はなくなった。
食品価格は下がった。
乳幼児死亡率も下がった。
人口は増え続けている。
午後二時十分。
予定通り雨が降った。
研究棟の窓を大粒の雨が叩く。
ノアが時計を見る。
「十九分?」
「十九分」
ノアは窓の外と時計を見比べた。
「賭けるか?」
「何を」
「一秒でもずれたら昼飯」
「お前、大学のころから十二年間その賭けをして、一度も勝ってないだろ」
「そろそろ確率が収束する」
「何に」
「俺の勝利に」
十九分後。
雨は止んだ。
数分で雲が薄くなり、青空が戻った。
イーサンが時計を示した。
「昼飯よろしく」
「いつか勝つ」
*
その日の帰りだった。
自動走行モービルのシートに身体を預けながら、イーサンはニュースを眺めていた。
都市部では個人用モービルの操縦をする人間はほとんどいない。
前後に細長い二輪。
低重心の車体。
停止中でもジャイロが姿勢を維持し、道路下の誘導網と非接触給電設備を利用して、目的地まで勝手に運んでくれる。
人間がすることといえば、目的地を指定するくらいだった。
『政府は本日、第十二自然保護区域の拡張を発表しました』
視界の端に地図が浮かぶ。
国土の西側が、細長く緑色に塗られていく。
『対象区域では人為的な環境介入を段階的に縮小し、生態系本来の循環を回復させます』
女性キャスターが、穏やかな声で続けた。
『これに伴い、西部第三区の一部道路が来月より閉鎖されます』
イーサンは指先で地図を拡大した。
見覚えのある地名がある。
大学時代、実習で滞在した農場だった。
湿地調査。
土壌採取。
古い学生寮。
夜中、ノアが研究用のリンゴを盗み、教授に追い回された場所。
ちょうどそのときノアからメッセージが届いた。
『また増えたな』
『見てたのか』
『キャスターが美人だから』
『地図を見ろ』
『見てるよ』
『旧実習農場が入ってる』
少し間。
『鹿に返すんだろ』
『あそこに鹿はいないぞ』
『これから増やす』
イーサンは笑った。
画面を閉じようとして、もう一度地図を見る。
自然保護区域は妙に広かった。
*
「おかしい」
数日後。
イーサンが言うと、向かいの机でノアがサンドイッチを咥えたまま顔を上げた。
「お前が?」
「データが」
「残念」
「見ろ」
旧実習農場の環境ログを表示する。
土壌水分量。
地下水位。
収量。
いずれも区域指定直前まで正常だった。
ところが指定後。
気温。
気圧。
風速。
降水量。
すべて途切れている。
「観測を止めたんだろ」
「自然保護区で?」
「観測しないことで自然を尊重してる」
「哲学みたいに言うな」
「政府の説明なんて大体哲学だろ」
イーサンは過去の気象モデルを表示した。
一つの雨雲が西へ流れている。
自然保護区域までは雨。
境界を越えた瞬間、消える。
イーサンが境界線を指でなぞった。
「雨雲が線で切れてる」
「モデルの対象外なんだろ」
「風も」
風向ベクトルを重ねる。
西へ向かう風が境界で消えていた。
外側から流れ込む風は一本もない。
《EXTERNAL BOUNDARY : FIXED》
イーサンは表示された文字を読み上げた。
「外側を計算してない」
「だから自然保護区なんだろ」
「自然って計算しないと存在しないのか?」
「俺たちの給料的にはそうだ」
イーサンは二十年前の行政地図を表示した。
一年前。
三年前。
五年前。
十年前。
自然保護区域を重ねていく。
ノアの咀嚼が止まった。
「……縮んでないか」
「俺もそう思う」
緑色の区域は点在していなかった。
すべて国土の外側から、中心へ向かって広がっている。
まるで何かに周囲から食べられているようだった。
「地下水だな」
ノアが言った。
「結論が早いな」
「外周部から地下水脈が枯れてる。農業利用できなくなった場所を自然保護ってことにしてる」
「あり得る」
ノアは別の可能性を探すように画面を覗き込んだ。
「土壌汚染は?」
「正常値」
「地盤沈下の線もあるだろ」
「記録なし」
「軍事施設か?」
「広すぎる」
ノアが真顔で言った。
「じゃあ、巨大な金持ちの家」
「笑える」
「宇宙人」
「採用」
「解決したな」
二人は笑った。
少なくとも、そのときは笑えた。
*
二週間後。
旧実習農場が正式に閉鎖された。
イーサンは「研究資料回収」の名目で立入申請を出した。
却下された。
ノアも出した。
却下。
ノアが椅子を回してイーサンを見る。
「軍事施設説、二ポイント上昇」
「宇宙人は?」
「一ポイント下落」
「まだその説、残してるのか?」
「捨てるには惜しい」
イーサンは机の引き出しから一枚のカードを出した。
「それ、まさか」
「大学の実習カード」
「まだ持ってたのかよ」
「思い出だ」
「昨日、書類整理してただろ」
「昨日見つけた思い出だ」
ノアはカードを摘まんだ。
「行く気か?」
「農場だけ」
「不法侵入だろ」
「カードが通れば不法じゃないだろ」
「その理屈、法務には絶対言うなよ」
「お前は来ないのか?」
ノアが背もたれに身体を預ける。
「俺のモービル、最近全然走らせてないんだよな」
「自動走行で毎日乗ってるだろ」
「走らせてるのは道路だ」
ノアは笑って続けた。
「久しぶりに自分で乗るか」
*
土曜日。
二人は西部境界の手前で待ち合わせた。
イーサンは現行型のツーリングモービル。
細身の車体。
長距離用バッテリー。
自動姿勢制御。
ほぼ全操作をシステムに任せられる実用品だった。
ノアは旧型。
黒いフレームの一部が露出し、前輪が現行型より大きい。
イーサンがその車体を見回した。
「まだそれ乗ってたのか」
「名機だぞ」
「充電効率、俺の七割だろ」
ノアは黒いフレームを軽く叩いた。
「機械は効率じゃない」
「じゃあ、何だよ」
「魂」
「モーターに?」
「そういうところがお前はつまらない」
ノアがハンドルを握る。
「ちなみに給電区域を外れたら、こいつはお前のより航続距離は長い」
「なんで」
「旧型は非常用セル積んでる」
「非常用セルが魂なのか?」
「わかってねーな」
二台のモービルが走り出した。
文明圏では操縦する必要はない。
道路下の誘導磁場が車体を捕捉し、前後の車両との距離を調整する。
二人はほとんど会話だけしていればよかった。
都市を抜ける。
住宅地。
物流区。
農地。
道路脇を無人運搬車が同じ速度で流れていく。
頭上では配送ドローンが規則正しく飛んでいた。
やがて、道路上に警告表示が浮かぶ。
《この先自然保護区域》
《一般車両進入禁止》
イーサンはモービルを止めた。
脇道。
旧保守ゲート。
カードリーダーはまだ生きていた。
大学のカードを差し込む。
一秒。
二秒。
緑色。
《AUTHORIZED》
イーサンが息を吐いた。
「開いた」
「行政、終わってるな」
「帰るか?」
「ここまで来て?」
フェンスがゆっくり横へ滑った。
二台はその向こうへ入った。
数十メートル走ったところで、イーサンの視界に警告が出る。
《ROUTE ASSIST LOST》
続いて、
《ROAD POWER UNAVAILABLE》
モービルの駆動音がわずかに変わった。
通信越しにノアの声が聞こえた。
「給電が切れた」
「俺も」
ノアが続けて尋ねた。
「残量は?」
「九十四」
「俺九十一」
「出発前に充電しろよ」
「した」
「魂は燃費悪いな」
「黙れ」
二人は手動運転へ切り替えた。
*
最初の町は、驚くほど普通だった。
家。
学校。
商店。
公園。
信号機。
人間だけがいない。
モービルの走行音が、空っぽの道路によく響いた。
「ゴーストタウンってこういう感じか」
ノアが言った。
「映像でしか見たことないな」
ノアは通りの両側を見回した。
「思ったより綺麗だ」
道路脇の家にはカーテンが残っている。
庭には子ども用の玩具。
玄関先には空になった鉢植え。
商店のガラス扉に紙が貼られていた。
『自然保護区域指定に伴い閉店しました』
イーサンは店内を覗き込んだ。
「ちゃんと引っ越したんだな」
「みたいだ」
少し先には、真新しい行政看板が立っていた。
『自然再生試験区域』
『人為的介入を避けてください』
「自然に返すにしては、ずいぶん立派な看板だな」
「看板は自然物なんだろ」
「俺なら最後の日に冷蔵庫の中身全部食う」
「お前なら最初の日から食うだろ」
交差点で自販機を見つけた。
ノアが停車する。
「まだ動いてる」
端末をかざす。
反応なし。
ノアが端末を振った。
「決済網は死んでるな」
イーサンは先を促した。
「諦めろ」
「待て」
ノアが側面を叩いた。
「何してる」
「昔の機械は叩くと直る」
「何年前の話だ」
自販機の照明が一瞬点滅した。
二人とも止まる。
「ほら」
「偶然だ」
「科学者が偶然で片付けるな」
飲料は出なかった。
さらに西へ進む。
午後になると、風景が少しずつ変わった。
芝生が黄色い。
街路樹の葉は茶色く縮れている。
人工河川には泥が残っているだけ。
気温表示は三十四度。
「暑っ」
ノアがヘルメットのシールドを少し開けた。
「都市部じゃあり得ないな」
「これが自然?」
「たぶん」
「自然って、思ったより快適じゃないな」
道路誘導も地図更新も途切れ始めた。
《MAP DATA UNAVAILABLE》
「紙の地図持ってきたか?」
「ある」
「さすがイーサン」
イーサンは地図を取り出しながら聞き返した。
「お前は?」
「勘」
「帰れ」
*
夕方、旧実習農場に到着した。
ガラス温室は白く曇り、内部の植物は枯れていた。
無人耕作機が畑の中央で止まっている。
学生寮も残っていた。
壁の一部に、まだ大学の紋章がある。
「覚えてるか?」
イーサンが聞いた。
「何を」
「リンゴ」
「あれは研究だった」
「教授に追い回された」
「理解のない奴だったな」
「お前、五個も食っただろ」
「サンプル数を増やしたんだ」
食堂へ入る。
テーブル。
椅子。
食器。
十二年前に二人が落書きした壁も残っていた。
『BENNETT WAS HERE』
その横に、
『AND HE STOLE THE APPLES』
ノアが下の一文を指した。
「これお前が書いたんだよな」
「証拠は?」
「お前の字だ」
二人は笑った。
その日は寝袋を広げて野営の準備をした。
夕食は携行食。
暗くなると、急に静かになった。
虫の音がない。
風もない。
遠くで機械が動く音すらしない。
ノアが外へ出た。
「星は綺麗だな」
イーサンも見上げる。
満天の星。
イーサンが記憶を探るように言った。
「昔、ここで流星群見たな」
「あったな」
「リサもいた」
ノアが首を傾げた。
「誰だっけ」
「お前、本当に最低だな」
「十二年前だぞ」
「十分昔か?」
「そう言ったのはお前だ」
ノアは笑った。
星空を見ながら言う。
「地下水説、まだ生きてると思うか?」
「三割だな」
ノアは顎に手をやった。
「俺は設備老朽化説」
「どの設備だ?」
「環境系。西側から更新諦めたんじゃないか」
「それなら公表すればいい」
ノアが鼻で笑った。
「政府は『設備を直す金がありません』より『自然を守ります』って言う方が好きだろ」
「偏見だな」
「十二年社会人やってるからな」
「十二年前は昔だからな」
「大事なことなんだよ」
イーサンは空を見る。
星空は、街で見るよりずっと鮮明だった。
なのに地上からは、虫の声ひとつしなかった。
*
二日目。
二人はさらに西へ向かった。
「農場だけ、じゃなかったのか?」
イーサンが言う。
ノアは遠くの山を見た。
「山まで行ってみよう」
「何で」
「近いから」
「近く見えるだけだろ」
「だから確かめるんだろ」
道路は次第に荒れた。
亀裂。
陥没。
砂。
モービルの自動安定装置が忙しく姿勢を補正する。
しばらくして、ノアの車体から短い警告音が鳴った。
ノアが手を上げた。
「止まれ」
二台を路肩へ寄せる。
旧型モービルの後輪付近から細い煙が出ていた。
イーサンが車体を覗き込んだ。
「魂の調子はどうだ?」
「うるさい」
ノアがカバーを開ける。
駆動ユニットの冷却ポンプがひび割れていた。
「予備はあるか?」
「ある」
「さすが」
「旧型乗りを舐めるな」
二人で修理した。
炎天下。
道路脇に日陰はない。
遠くの山だけは鮮やかな緑色だった。
一時間後。
ノアが手を真っ黒にしながら立ち上がる。
「直った」
「プロだな」
「大学で農学やった甲斐があった」
「何一つ関係ないぞ」
再び走る。
午後。
地図上に川があった。
水を補給できる可能性がある。
二人は少し道を逸れた。
川は干上がっていた。
橋の下に、白く乾いた泥。
「これは地下水説に点が入ったな」
ノアが言う。
「一本の川で判断するなよ」
「俺は勝ちに貪欲なんだよ」
「勝ってどうするんだ?」
「昼飯を奢ってもらうのさ」
その夜は道路脇の旧サービス施設で眠った。
バッテリー残量。
イーサン、五八。
ノア、四九。
「明日戻るなら余裕だな」
イーサンが言った。
ノアは遠くの山へ顔を向けた。
「山まで行ってから」
「まだ言ってるのか」
「ほらあそこに見えてるじゃないか」
ノアは遠くを指した。
夕焼けの下。
緑色の山。
「あと五十キロくらいじゃないか」
「昨日もそう言ってた」
「じゃあ四十」
「近づいてないだろ」
「遠くまで見えるんだよ。乾燥してるから」
イーサンは反論しようと口を少し開いた。
その途端、熱い空気が喉に流れ込み、言葉は胸の奥へ引っ込んだ。
*
三日目。
道路はほとんど消えていた。
モービルは荒地走行モードへ切り替わる。
サスペンションが伸び、タイヤの接地幅が広がる。
速度は都市部の四分の一。
植物はほぼない。
地面には細かい亀裂が走っている。
それでも、空は青い。
遠くの山の緑は鮮やかにゆらめいていた。
白い雲が浮かんでいる。
昼前。
ノアが突然停止した。
イーサンも少し先でモービルを止めた。
「どうした」
「あの雲」
「雲?」
「昨日もいた」
「雲に友達ができたのか?」
「右端」
ノアが指す。
「犬みたいな形してるだろ」
「……まあ」
「昨日も犬だった」
「似た雲だろ」
「その横の細いやつも」
イーサンはしばらく見た。
確かに見覚えがある。
「風がないからだろ」
「地上に風がなくても、上空にはある」
「気象屋っぽいこと言うなよ」
「気象屋だよ」
走り出す。
昼過ぎ。
ノアがまた止まる。
「イーサン」
「今度は何だ」
「太陽」
「太陽がどうした?」
「山を見ろ」
太陽は西へ傾き始めている。
だが山の陰影が変わっていない。
稜線の一部だけが均一に明るい。
二人とも黙った。
「投影?」
ノアが言った。
「そんな規模の?」
「知らない」
「何のために」
「それも知らない」
走る。
近づく。
山が崩れていく。
森だったものが、森に見えなくなる。
一本一本の木が消える。
緑色の面。
さらに近づく。
平らだった。
ノアがモービルを止めた。
「……これ、山じゃないな」
数百メートル先。
巨大な壁。
その表面に、山が映っていた。
二人はゆっくり近づいた。
イーサンがモービルを降りる。
壁に手を触れる。
冷たい。
人工素材。
「じゃあ山は?」
ノアが言う。
「映像だ」
「何で」
イーサンは答えなかった。
上を見る。
壁は遥か上へ伸びている。
途中から、緩やかに内側へ湾曲していた。
さらに上。
灰色が青へ変わる。
白い雲。
青空。
いつも見ていた空。
すべてが同じ曲面の上にあった。
ノアがヘルメットを外した。
しばらく何も言わなかった。
「……宇宙人説」
「やめろ」
「これならまだ宇宙人の方がいい」
風はなかった。
ここまで来て初めて、そのことが恐ろしく思えた。
*
「帰ろう」
イーサンが言った。
モービル残量。
四一。
三五。
ノアは壁を見上げた。
「帰ってどうする?」
「まず充電」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
二人とも黙った。
しばらくしてノアが壁沿いを指した。
「何かある」
数キロ先。
低い人工物。
「あそこまで」
「またか」
「あそこまで見たら帰る」
「大学のときから、お前の『あそこまで』を信用したことはない」
「今回が初めてかもしれない」
二台は壁沿いを走った。
施設は思ったより遠かった。
ノアのモービルが途中で再び警告を出した。
今度は駆動系ではない。
《CELL FAILURE》
イーサンが通信を開いた。
「何かまずいのか?」
「一系統死んだ」
「走れるか?」
「あと十五キロくらいだな」
「施設まで?」
「たぶん」
施設に到着したとき、ノアのモービルは残量一二パーセントだった。
入口上部。
『GATE 04』
その下。
『EXTERNAL ACCESS』
ノアが文字を見上げる。
「外部ってことは」
「ああ」
「この壁の外」
「ああ」
「じゃあ俺たち」
言葉が続かなかった。
*
内部は古い検問所だった。
受付。
荷物検査装置。
二重の隔壁。
壁際には変色した防護服。
人の気配はない。
ノアが防護服の袖を持ち上げた。
「自然保護には重装備すぎるな」
イーサンは奥へ進んだ。
受付の裏側に古い端末が残っている。
現代のネットワーク規格より何世代も前。
ケーブルで直接設備に接続されていた。
ノアが端末を覗き込んだ。
「動くと思うか?」
「分からない」
「便利だな。その言葉」
非常用電源を入れる。
低い振動。
照明が数本だけ点いた。
端末が明滅する。
《GATE 04》
《LOCAL ARCHIVE》
「オンボロ端末にしては元気だな」
「ゲートの非常系だから独立してるんだろ」
ファイル一覧が現れる。
大半は破損。
日付だけが残っている。
最も古い日付は、現在から三百年以上前だった。
一番古い映像を開く。
暗い空。
昼間らしい。
それでも街灯が点いていた。
人々が顔を覆いながら走っている。
画面上部の日付。
三百七年前。
次の映像。
空を横切る白い光。
視界が揺れる。
画面が白く飛ぶ。
ノアの軽口が止まった。
次。
海岸らしい。
だが海岸線は見えなかった。
水面の向こうに、建物の上部だけが残っている。
次。
黒い雨。
次。
死んだ森林。
映像はそこで途切れた。
「何だよこれ」
ノアの声は小さかった。
イーサンは文書を開く。
文章の半分以上が欠けている。
《天体衝突後第72時間》
《大気中粒子濃度……許容基準の……》
《全球農業生産……90……%以上喪失》
《地表生態系……》
別のページ。
《長期屋外活動不可能》
さらに別。
《再居住可能時期算出不能》
ノアが言った。
「これ、どこの話だ」
イーサンは答えない。
設計資料を開いた。
巨大な半球。
その内部に区画が並んでいる。
農業区。
居住区。
研究区。
鉄道。
水循環施設。
二人とも画面へ近づいた。
「第六農業区」
ノアが言う。
そこにある。
その隣。
二人の研究所。
大学。
旧実習農場。
「全部ある」
イーサンが言った。
世界の地図ではなかった。
建物の設計図だった。
画面上部。
《SHELTER-03》
二人はしばらく黙った。
「シェルター」
ノアが呟く。
「ああ」
「俺たち、シェルターの中で生まれたのか」
「たぶん」
「じゃあ空は」
イーサンは天井を見る。
「設備だ」
文書の末尾。
《設計収容人口8,000,000》
《想定運用期間250 YEARS》
「今、何年目だ」
ノアが聞いた。
二人とも計算できた。
三百七年。
ノアは椅子へ座った。
「五十七年オーバー」
イーサンは次のファイルを開いた。
古い記録の中に、数年前の日付の保守ログが混じっていた。
この区画が切り離される直前まで、端末へ同期されていたらしい。
《OUTER SECTOR 07》
《LIFE SUPPORT TERMINATED》
次。
《OUTER SECTOR 08》
《LIFE SUPPORT TERMINATED》
さらに。
《OUTER SECTOR 09》
《TERMINATION SCHEDULED》
行政分類。
《NATURAL PRESERVATION ZONE》
ノアが画面を見つめる。
「自然保護区」
「ああ」
「自然を戻してるんじゃない」
イーサンは昨日まで走ってきた町を思い出した。
枯れた街路樹。
干上がった川。
止まった散水塔。
「切ってるだけだ」
雨を。
水を。
空調を。
給電を。
通信を。
そして人間を退去させる。
残った土地に、綺麗な山と空だけを投影する。
内側から見れば、世界はまだそこまで続いている。
次の資料。
《CURRENT POPULATION : 11,903,441》
設計人口。
八百万。
ノアが笑った。
「三百九十万人多い」
「そうだな」
「どうやって生きてる」
「区画を切り捨ててる」
イーサンはさらにスクロールする。
《WATER LOOP LOAD : 96.1%》
《AIR REGENERATION : 97.4%》
《THERMAL CAPACITY : 98.8%》
そして人口予測。
食料供給量。
出生率。
平均寿命。
一つの品種番号があった。
イーサンの指が止まる。
「ノア」
「何だ」
「これ」
新型小麦。
二人が十二年かけて改良した品種。
《EXPECTED FOOD CAPACITY : +12.7%》
《PROJECTED POPULATION GROWTH : +0.8% / YEAR》
《PRIMARY LIMITING SYSTEMS : WATER / AIR / THERMAL》
次の行。
《SYSTEM LIMIT ESTIMATE》
《PREVIOUS : 23 YEARS》
《UPDATED : 11 YEARS》
ノアはしばらく画面を見ていた。
「俺ら、すごいな」
声に笑いが混ざっている。
「何が」
「二十三年を十一年にした」
「俺たちが人口を増やしたわけじゃない」
「分かってる」
「食料を増やしただけだ」
「分かってる」
「飢えない方がいい」
「分かってるよ」
二人とも黙る。
イーサンは画面の数字を見る。
収量。
人口。
水。
空気。
熱。
どれもただの数字だった。
そして、どれも正しかった。
イーサンが言った。
「全部、良いことなんだよな」
「ああ」
「死ぬ人が減った」
「ああ」
「食えるようになった」
「ああ」
「長生きするようになった」
「ああ」
ノアは背もたれに身体を預けた。
「それが一番困るな」
帰るには、イーサンのモービルの電力が足りなかった。
幸い、検問所の整備区画には旧規格の給電端子が残っていた。
ノアが携行変換器を噛ませると、残量表示がゆっくり増え始めた。
八〇パーセントを越えるまで、二人はほとんど口を利かなかった。
*
ノアのモービルは帰路につけなかった。
残量八パーセント。
セル一系統停止。
二人は必要な装備だけをイーサンの車体へ移した。
イーサンが一人用のシートを見下ろした。
「二人乗り推奨じゃないぞ」
「お前が軽いから大丈夫」
「七十九キロある」
「俺より軽い」
「それ比較の意味あるか?」
「ない」
ノアのモービルをゲート脇へ残す。
ノアが最後に車体を軽く叩いた。
「迎えに来るからな」
「魂があるんだろ。きっと待ってるよ」
「お前、少し成長したな」
二人乗りで走り出す。
帰り道。
山はもう山には見えなかった。
雲は雲ではなかった。
青空も。
放棄された町を通る。
行きに笑った看板。
『自然再生試験区域』
ノアがそれを見る。
何も言わない。
旧実習農場。
黄色い芝生。
枯れた温室。
大学時代の思い出がある場所。
それらが「自然へ返された場所」ではないことを、二人とも知っている。
生命維持を停止された場所。
捨てられた世界。
途中、ノアが言った。
「これ、誰かに話すか?」
イーサンは前を見たまま答えた。
「分からない」
「政府は知ってるよな」
「当然」
「じゃあ、なんで三百年も隠してる?」
「三百年かどうかは分からない」
「でも俺たちは知らなかった」
「ああ」
「みんな知らない」
「ああ」
ノアは少し考えてから尋ねた。
「公表したら?」
「どうなると思う」
「パニックだな」
「たぶん」
「出生制限」
「誰が決める」
「くじ」
「嫌だな」
「所得順」
「もっと嫌だ」
「農業研究者から減らす」
「俺たちからだな」
「俺らが十一年にしたから?」
イーサンは答えなかった。
少ししてノアが言った。
「移住って手もある」
「どこへ」
通信機の中に沈黙が落ちた。
それから長いあいだ、二人は何も話さなかった。
*
文明圏へ戻った瞬間、道路給電が復帰した。
《ROAD POWER CONNECTED》
《AUTONOMOUS NAVIGATION AVAILABLE》
モービルが静かに姿勢を整える。
人工風が流れ始める。
気温が下がる。
通信網が復活し、溜まっていた通知が一斉に表示された。
研究所。
家族。
ニュース。
天気。
イーサンは自動運転を有効にした。
ハンドルがわずかに動き、モービルは自分で走り始める。
「楽だな」
後ろのノアが言った。
「ああ」
ノアが乾いた声で付け加えた。
「怖いくらい」
*
翌朝。
イーサンはいつもの時間に目を覚ました。
カーテンが自動で開く。
青空だった。
部屋は二十二・五度。
湿度四七パーセント。
「おはようございます」
端末が言った。
「本日は終日晴れ。最高気温二十四度。午後四時二十分より、第六農業区において十八分間の降雨を予定しています」
イーサンはベッドに座ったまま窓の外を見る。
遠くに山が見えた。
青い山脈。
白い雲。
昨日までと同じ世界。
ニュースが始まる。
『今年の人口は、過去最高を更新しました』
キャスターが微笑む。
『安定した食料供給と医療環境の改善により、出生数も四年連続で増加しています』
その横に、小さく第六農業区の映像。
青々とした新型小麦。
イーサンとノアが開発した品種だった。
『また政府は本日、第十三自然保護区域の指定を発表しました』
画面下部に地図が表示される。
緑色の帯が、昨日よりわずかに内側へ広がっている。
イーサンは窓の外を見る。
山の稜線。
右端にあった小さな峰が、一つ消えていた。
昨日までそこにあったはずだった。
区域が切られたからなのか。
投影設定が更新されたからなのか。
もう区別はつかなかった。
端末は何事もなかったように予定を読み上げる。
「明日の予報をお知らせします」
窓の向こうで、完璧な青空が広がっていた。
「明日も晴れです」




