表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/15

夏の大会

 夏は、突然やって来た。

 梅雨が明けたと告げる天気予報の声よりも早く、グラウンドの空気が変わった。朝の練習から、陽射しは容赦なく照りつけ、芝は短く刈られて光を反射する。息を吸い込むたび、肺の奥が熱を持った。

 全国大会予選。

 高校生活最後の夏が、否応なく形を持ち始める。

 朝倉湊は、アップをしながらピッチを見渡した。スタンドには、いつもより多い観客。横断幕。カメラを構える人影。視線が集まる場所を、身体が自然に理解している。

 ――ここだ。

 期待される役割は明確だった。勝たせること。点を取ること。エースとして、結果を示すこと。

 キックオフ。

 試合が始まると、雑念は削ぎ落とされる。相手のラインの高さ、味方の動き。情報が流れ込み、判断が連鎖する。湊は前線でボールを引き出し、味方に預け、再び走る。

 前半十五分。

 右サイドからのクロス。相手ディフェンダーの裏に一歩だけ先に入る。ヘディング。ボールはゴール左隅に吸い込まれた。

 歓声。

 肩を叩かれ、背中を押される。仲間たちの笑顔が近い。

 ――勝てる。

 その確信が、チーム全体に伝播していくのが分かった。

 試合は終始、主導権を握ったまま進み、危なげなく勝利した。スコアボードに並ぶ数字が、結果を端的に示している。

 だが、湊の胸は、不思議なほど静かだった。

 ロッカールームに戻る途中、顧問が声をかけてくる。

「さすがだな、朝倉。エースの仕事だ」

 短く礼を言う。褒め言葉は、もう新鮮味を失っていた。

 二回戦、三回戦と、勝利は続く。

 湊は点を取り、アシストをし、試合を決定づける存在として名を刻んでいった。地元紙に名前が載り、インタビューを受ける機会も増える。

「将来の目標は?」

「まずは、この大会で優勝することです」

 用意された答えを、過不足なく返す。カメラの前では、迷いは見せられない。

 準々決勝の前夜、宿舎の一室。

 相部屋の森本は、ベッドに仰向けになり、天井を見ていた。

「緊張するな」

 ぽつりと漏れた言葉。

「そう?」

 湊はそう返しながら、胸の奥のざわめきを隠した。森本と同じ空間にいるだけで、意識がそちらに引き寄せられる。

「お前は、すげえよな。いつも通りだ」

 森本の言葉に、湊は答えられなかった。

 ――いつも通り。

 それは、褒め言葉であり、同時に仮面でもある。

 翌日の試合。

 相手は強豪校だった。前半から激しい当たりが続き、流れは一進一退。湊は何度もマークに潰され、思うように前を向けない。

 後半、均衡を破ったのは、湊の一瞬の判断だった。

 相手ディフェンスの隙間に走り込み、ワンタッチで落とす。森本がそこに飛び込む。

 ゴール。

 歓声が爆発する。

 湊は、無意識に森本を見た。喜びを爆発させるその表情に、胸が強く打たれる。

 ――一緒に、勝っている。

 その事実が、何よりも嬉しかった。

 試合後、二人並んで水を飲む。

「さすがだな、朝倉」

 森本が笑う。

「お前が走ってくれたからだろ」

 そう言われただけで、胸の奥が熱を帯びた。

 大会は、ついに決勝を迎える。

 満員のスタンド。張り詰めた空気。高校最後の公式戦。

 湊は、キックオフ前に深く息を吸った。

 ――これが、すべてだ。

 試合は、激戦だった。互いに譲らず、時間だけが過ぎていく。延長戦に入り、足は重く、思考は削られる。

 それでも、最後に訪れたチャンスを、湊は逃さなかった。

 ペナルティエリア外からのシュート。

 ボールがゴールネットを揺らした瞬間、視界が白く弾けた。

 優勝。

 仲間たちが一斉に駆け寄り、湊は中心で胴上げされる。歓声、フラッシュ、涙。

 だが、その頂点で、湊は奇妙な空白を感じていた。

 ――勝った。

 ――それなのに。

 胸の奥にある穴は、埋まらない。

 表彰式の後、夕暮れのグラウンドに一人残る。スタンドは静まり返り、風が芝を撫でる音だけが残っていた。

 サッカーは、確かに救いだった。

 走っている間、考えずに済む。役割があり、評価があり、正解がある。

 だが同時に、それは逃げ場所でもあった。

 自分自身から、問いから、感情から。

 湊はボールを足元に置き、軽く蹴り上げる。夕焼けの空に、ボールが描く弧。

 この夏は、輝いている。

 そして、その輝きの影で、彼の心は確実に別の場所へ進み始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ