夏の大会
夏は、突然やって来た。
梅雨が明けたと告げる天気予報の声よりも早く、グラウンドの空気が変わった。朝の練習から、陽射しは容赦なく照りつけ、芝は短く刈られて光を反射する。息を吸い込むたび、肺の奥が熱を持った。
全国大会予選。
高校生活最後の夏が、否応なく形を持ち始める。
朝倉湊は、アップをしながらピッチを見渡した。スタンドには、いつもより多い観客。横断幕。カメラを構える人影。視線が集まる場所を、身体が自然に理解している。
――ここだ。
期待される役割は明確だった。勝たせること。点を取ること。エースとして、結果を示すこと。
キックオフ。
試合が始まると、雑念は削ぎ落とされる。相手のラインの高さ、味方の動き。情報が流れ込み、判断が連鎖する。湊は前線でボールを引き出し、味方に預け、再び走る。
前半十五分。
右サイドからのクロス。相手ディフェンダーの裏に一歩だけ先に入る。ヘディング。ボールはゴール左隅に吸い込まれた。
歓声。
肩を叩かれ、背中を押される。仲間たちの笑顔が近い。
――勝てる。
その確信が、チーム全体に伝播していくのが分かった。
試合は終始、主導権を握ったまま進み、危なげなく勝利した。スコアボードに並ぶ数字が、結果を端的に示している。
だが、湊の胸は、不思議なほど静かだった。
ロッカールームに戻る途中、顧問が声をかけてくる。
「さすがだな、朝倉。エースの仕事だ」
短く礼を言う。褒め言葉は、もう新鮮味を失っていた。
二回戦、三回戦と、勝利は続く。
湊は点を取り、アシストをし、試合を決定づける存在として名を刻んでいった。地元紙に名前が載り、インタビューを受ける機会も増える。
「将来の目標は?」
「まずは、この大会で優勝することです」
用意された答えを、過不足なく返す。カメラの前では、迷いは見せられない。
準々決勝の前夜、宿舎の一室。
相部屋の森本は、ベッドに仰向けになり、天井を見ていた。
「緊張するな」
ぽつりと漏れた言葉。
「そう?」
湊はそう返しながら、胸の奥のざわめきを隠した。森本と同じ空間にいるだけで、意識がそちらに引き寄せられる。
「お前は、すげえよな。いつも通りだ」
森本の言葉に、湊は答えられなかった。
――いつも通り。
それは、褒め言葉であり、同時に仮面でもある。
翌日の試合。
相手は強豪校だった。前半から激しい当たりが続き、流れは一進一退。湊は何度もマークに潰され、思うように前を向けない。
後半、均衡を破ったのは、湊の一瞬の判断だった。
相手ディフェンスの隙間に走り込み、ワンタッチで落とす。森本がそこに飛び込む。
ゴール。
歓声が爆発する。
湊は、無意識に森本を見た。喜びを爆発させるその表情に、胸が強く打たれる。
――一緒に、勝っている。
その事実が、何よりも嬉しかった。
試合後、二人並んで水を飲む。
「さすがだな、朝倉」
森本が笑う。
「お前が走ってくれたからだろ」
そう言われただけで、胸の奥が熱を帯びた。
大会は、ついに決勝を迎える。
満員のスタンド。張り詰めた空気。高校最後の公式戦。
湊は、キックオフ前に深く息を吸った。
――これが、すべてだ。
試合は、激戦だった。互いに譲らず、時間だけが過ぎていく。延長戦に入り、足は重く、思考は削られる。
それでも、最後に訪れたチャンスを、湊は逃さなかった。
ペナルティエリア外からのシュート。
ボールがゴールネットを揺らした瞬間、視界が白く弾けた。
優勝。
仲間たちが一斉に駆け寄り、湊は中心で胴上げされる。歓声、フラッシュ、涙。
だが、その頂点で、湊は奇妙な空白を感じていた。
――勝った。
――それなのに。
胸の奥にある穴は、埋まらない。
表彰式の後、夕暮れのグラウンドに一人残る。スタンドは静まり返り、風が芝を撫でる音だけが残っていた。
サッカーは、確かに救いだった。
走っている間、考えずに済む。役割があり、評価があり、正解がある。
だが同時に、それは逃げ場所でもあった。
自分自身から、問いから、感情から。
湊はボールを足元に置き、軽く蹴り上げる。夕焼けの空に、ボールが描く弧。
この夏は、輝いている。
そして、その輝きの影で、彼の心は確実に別の場所へ進み始めていた。




