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名前のない夜

 夜は、考え事をするには向きすぎていた。

 雨上がりの湿った空気が、窓の隙間から入り込む。カーテンを閉め切った部屋は静かで、時計の針の音だけがやけに大きく聞こえた。朝倉湊はベッドに腰掛け、スマートフォンを手にしたまま動けずにいた。

 昼間の出来事が、断片的に蘇る。

 母の何気ない笑顔。担任の軽い冗談。友人の「安泰だな」という一言。どれも悪意はない。それが分かるからこそ、胸の奥に溜まったものを吐き出せない。

 湊は、検索履歴を開いた。

 以前、途中で閉じたページがそのまま残っている。指先が一瞬ためらい、それでも画面をタップした。

 〈同性愛〉

 画面に表示された文字を見た瞬間、心臓が強く打った。説明文。統計。専門家のコメント。どれも冷静で、淡々としている。その事実が、逆に現実味を帯びさせた。

 ――これは、特別なことじゃない。

 そう書かれている。だが、湊にとっては、人生の軸を揺るがすほどの重さがあった。

 ページをスクロールする。体験談が目に留まる。学生時代に気づいた人。家族に打ち明けた人。打ち明けられなかった人。幸せになった人。距離を置かれた人。

 希望と不安が、無秩序に並んでいる。

 ――自分は、どこに行くのだろう。

 湊はスマートフォンを伏せ、両手で顔を覆った。目を閉じると、森本の背中が浮かぶ。ロッカールームでの無防備な横顔。パスが通った瞬間の短いアイコンタクト。

 胸の奥が、確かに熱を持つ。

 逃げ場はなかった。憧れでは説明できない。仲間への敬意とも違う。

 ――好きだ。

 その言葉を、心の中で初めてはっきりと認めた瞬間、喉がひくりと鳴った。認めた途端、世界が少しだけ変わって見える。

 だが、同時に理解してしまう。

 この気持ちは、外に出せない。

 少なくとも、今の自分には。

 プロを目指すエース。模範的な生徒。期待される息子。そのどれにも、この感情の居場所はない。

 湊は、再びスマートフォンを手に取る。

 〈治る〉

 検索してから、すぐに後悔した。画面に並ぶ言葉の中に、曖昧な希望と露骨な偏見が混ざっている。誰かの断定的な意見が、胸を刺す。

 ――間違っている。

 その言葉に、強く反発したいのに、同時に縋りたくなる自分がいる。

 画面を閉じ、深く息を吐いた。

 正しいかどうかではない。ただ、これは自分だ。

 そう言い聞かせても、簡単には受け入れられない。名前を知ることは、安心であると同時に、逃げ道を塞ぐ行為でもあった。

 窓の外で、遠く車の音がした。日常は何事もなかったかのように続いている。

 ――明日も、学校へ行く。

 サッカーをする。笑う。点を取る。

 何も変わらないふりをして、変わってしまった自分を抱えて。

 湊はベッドに横になり、天井を見つめる。暗闇の中で、心臓の音だけが確かだった。

 名前を得た感情は、もう消えない。

 それが祝福なのか、呪いなのか。

 答えは、まだ出なかった。ただ一つ確かなのは、この夜を境に、湊は元の場所には戻れないということだった。


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