普通という檻
六月に入ると、家の中にも湿気がこもり始めた。
朝、食卓に並ぶ味噌汁の湯気が、どこか重たく感じられる。テレビから流れる朝のニュースを、湊はぼんやりと眺めていた。画面の端に映るプロサッカーの話題に、父が反応する。
「お前も、いよいよだな」
箸を持ったまま、父は何気なく言った。
「高校卒業したら、すぐプロか。すごいもんだ」
誇らしげでもあり、当然だと言わんばかりでもある口調。湊は小さく頷き、「うん」とだけ返した。
母は、味噌汁をよそいながら微笑む。
「体だけは大事にしなさいよ。怪我したら元も子もないんだから」
その言葉の裏にある期待を、湊は読み取ってしまう。成功する未来。怪我さえなければ、順調に進む人生。そこに疑問符はついていない。
朝倉家では、湊の進路はすでに決まったものとして扱われていた。話題に上るのは、どのチームか、どのポジションか、どれくらい活躍できるか。もし別の道を選ぶとしたら、という仮定は、最初から存在しない。
学校へ向かう途中、湊はイヤホンを耳に押し込み、音楽の音量を少し上げた。外の世界と距離を取るための、ささやかな抵抗だった。
教室では、進路調査票が配られる。
「朝倉は、もう決まってるよな」
担任が軽く笑いながら言う。クラスメイトたちの視線が集まる。
「プロサッカー選手。夢みたいだよな」
湊はペンを走らせる。進路欄に書く文字は、すでに何度も頭の中でなぞってきたものだった。それでも、書き終えた瞬間、胸の奥に小さな軋みが生まれる。
――これでいいのか。
自問は、すぐに押し込められる。今さら別の答えを用意する余地などない。
昼休み、友人たちの話題は将来に移る。
「大学どうする?」 「就職って、何から考えればいいんだろ」
不安と期待が入り混じった声。その輪の中で、湊はどこか蚊帳の外にいた。悩めること自体が、彼には許されていないように感じられる。
「朝倉はいいよな。もう安泰じゃん」
その一言が、胸に引っかかる。安泰。安定。保証された未来。だが、それは同時に、選択肢が奪われていることでもあった。
放課後の部活。
グラウンドでは、いつも通りの練習が行われる。湊はエースとして声を出し、プレーを引っ張る。身体は動く。判断も冴えている。それでも、どこか心が追いついてこない。
ミスをした後輩に声をかけながら、ふと考える。
――自分は、何を守っているのだろう。
サッカーか。期待か。それとも、「普通」という形をした檻か。
帰宅後、リビングで母が雑誌を読んでいる。結婚特集の記事が目に入った。
「ねえ湊、将来はどんな人と結婚したい?」
悪気のない問いだった。世間話の延長。だが、湊の手は一瞬止まる。
「まだ、考えてない」
「まあ、今はサッカーだもんね。でも、ちゃんと考えなきゃ。幸せになるんだから」
幸せ。
その言葉が、重く胸に落ちる。誰の定義による幸せなのか。問い返したかったが、できなかった。
夜、自室で一人になる。窓の外では、雨が降り始めていた。
スマートフォンを手に取り、以前見た記事を思い出す。同性を好きになること。少数派であること。偏見。
もし、この家で、それを口にしたらどうなるだろう。
父の沈黙。母の困惑。善意ゆえの言葉。
想像するだけで、喉が詰まる。
湊はベッドに横になり、天井を見つめた。
自分は、自由なのだろうか。
プロになる。活躍する。称賛される。その先にある人生が、最初から決められているように思えてならない。
雨音が、一定のリズムで続く。
その音に耳を澄ませながら、湊は静かに目を閉じた。
普通であること。
それは安心であると同時に、逃げ場のない檻でもあった。




