視線の行方
朝の教室は、まだ眠りの余韻を引きずっていた。
窓際の席に座り、湊はノートを開く。黒板に走るチョークの音、紙をめくる気配、低いざわめき。それらは確かに日常なのに、どこか膜を一枚隔てたように感じられる。
ふと視線を上げた先、前の席に座る森本の背中があった。
同じサッカー部のミッドフィールダー。派手さはないが、プレーは安定していて、声も落ち着いている。授業中でも背筋を崩さないその姿勢を見ていると、理由の分からない緊張が胸に広がった。
(見るな)
自分に言い聞かせ、黒板に目を戻す。だが、数分もしないうちに、また無意識にそちらを追っていることに気づく。鉛筆を持つ指に、余計な力が入った。
中学の頃から、似た感覚はあった。運動のできる同級生、頼れる先輩。近くにいるだけで心拍数が上がる理由を、湊は「憧れ」という言葉で封じ込めてきた。
昼休み。
机を寄せ合った友人たちの会話は、いつも恋愛の話題に流れ着く。
「なあ湊、彼女できた?」
箸を持つ手が止まる。
「別に」
「絶対嘘。選び放題でしょ」
笑い声。悪意はない。ただ、前提が違うだけだ。そのズレを説明する言葉を、湊は持っていなかった。
放課後の練習。夕日がグラウンドを斜めに切り、影が伸びる。パス回しの中で、湊は無意識に森本の位置を把握している自分に気づく。視線が合い、短く頷き合う。その一瞬で、胸の奥が熱を帯びた。
練習後のロッカールーム。
シャワーの水音と笑い声が混じる中、湊はできるだけ端に立つ。目を伏せても、視界の隅に入ってくる身体の輪郭を完全に無視することはできない。
――おかしい。
頭では分かっている。自分は、皆と同じではない。その事実が、じわじわと形を持ち始めていた。
夜、部屋の灯りを落とし、スマートフォンを手に取る。検索欄に言葉を打ち込み、消し、また打ち込む。
〈男 好き〉
画面に並ぶ文字を見た瞬間、心臓が強く脈打った。体験談、コラム、見慣れない言葉の数々。読み進めるほどに、胸が締めつけられる。
――自分だけじゃない。
その安堵と同時に、知ってしまったことへの恐怖が押し寄せる。画面を伏せ、目を閉じる。
翌朝、何事もなかったかのように制服を着て学校へ向かう。部活に出て、笑って、点を取る。世界は変わらない。
変わったのは、自分の中だった。
視線の行方ひとつで、これほど心が揺れる。その事実を、湊はまだ誰にも打ち明けられずにいた。




