風の先へ
シーズン最終節の朝は、驚くほど穏やかだった。
朝倉湊は、ホテルのカーテンを開け、白み始めた空を眺めた。雲は薄く、風は弱い。だが、その静けさの奥に、確かな流れを感じていた。
ここまで来たのだ。
高校を卒業し、プロの世界に足を踏み入れ、期待と不安に押し流されながら、それでも走り続けてきた。その途中で、誰にも言えない感情を抱え、失い、そして手放すことを学んだ。
もう、何かを証明する必要はなかった。
スタジアムへ向かうバスの中、チームメイトたちはいつもと変わらない会話を交わしている。笑い声も、緊張も、すべてが日常の延長だった。その中で、湊は静かに窓の外を見ていた。
橘蓮は、前の席でイヤホンを外し、振り返った。
「今日、楽しもうぜ」
それだけの言葉だった。
「うん」
湊は頷いた。
言葉にしない想いは、今も胸の奥にある。だがそれは、痛みではなく、温度として残っていた。
ピッチに立つ。
最終節にふさわしい観客の数。歓声が波のように押し寄せる。湊は深く息を吸い、芝の感触を確かめた。
笛が鳴る。
試合は、激しく、そして正直だった。互いに一歩も引かず、最後まで走り切る。湊はゴールもアシストも記録しなかったが、プレーの一つひとつに迷いはなかった。
それでいいと思えた。
試合終了のホイッスルが鳴る。
結果は引き分けだった。順位は一つ上がり、目標としていた場所には、わずかに届かなかった。
だが、悔しさは不思議と少なかった。
ロッカールームへ戻る途中、蓮が並んで歩きながら言った。
「来年も、よろしくな」
その一言に、湊は少し驚いたあと、はっきりと笑った。
「こちらこそ」
それだけで、十分だった。
夜、スタジアムを出ると、冷たい風が頬を撫でた。見上げた空には、星がいくつか瞬いている。
湊は立ち止まり、胸の奥に問いかけた。
――俺は、どこへ行く?
答えは、すぐには浮かばなかった。
けれど、不安はなかった。
行き先が分からなくても、進めることを、もう知っている。
風は、これからも吹き続けるだろう。
期待も、偏見も、思い通りにならない感情も、すべてが風になる。
それでも、自分の速度で走ればいい。
誰かの隣でなくても。 誰かに選ばれなくても。
自分が、自分として生きていくために。
湊は歩き出した。
風の先には、まだ見ぬ景色がある。
それはきっと、派手ではない。 だが、確かに温かい。
彼はもう、風に追われることはない。
風を追い越した、その先へ――。




