表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/19

帰る場所、進む場所

 オフが一日だけ与えられた。

 朝倉湊は、久しぶりに電車に揺られ、地元へ向かった。プロになってから、帰省と呼べるほど長く滞在することはほとんどなかった。理由は単純だ。忙しさもあったが、それ以上に、戻ることで何かを確かめてしまいそうだったからだ。

 駅を出ると、空気の匂いが違った。都会ほど乾いておらず、かといって田舎ほど濃くもない。懐かしさと現在が、曖昧に混ざり合った匂いだった。

 歩いて向かった先は、高校だった。

 フェンス越しに見えるグラウンドでは、後輩たちが練習をしている。声変わり途中の掛け声、少し大きすぎるスパイクの音。すべてが、かつての自分と重なった。

 ――ここから、始まったんだ。

 エースと呼ばれ、期待を背負い、逃げ場のない場所で走り続けていた日々。

 恋をすることすら、自分には許されないと思っていた。

 フェンスに手をかけると、金属の冷たさが掌に伝わった。

 あの頃の自分は、ここから外の世界を見ていた。  そして今は、外からここを見ている。

 立場は変わった。  だが、完全に別人になったわけではない。

 職員室の前で、顧問だった教師と鉢合わせた。

「……朝倉か?」

 驚いたように目を見開いたあと、すぐに笑顔になる。

「ニュースで見てるぞ。頑張ってるな」

「ありがとうございます」

 それだけの短い会話だった。

 昔なら、その一言に、過剰な意味を読み取っていたかもしれない。期待されているのか、試されているのか。だが今は、ただの事実として受け取れた。

 校舎を出て、通学路を歩く。コンビニも、信号も、少しずつ様変わりしている。それでも、足が自然に進む道は、体が覚えていた。

 夕方、河川敷に立つ。

 風が吹き抜け、草が波打つ。ここも、高校時代によく一人で来た場所だった。

 誰にも言えない気持ちを、言葉にできないまま、胸に溜め込んでいた場所。

 湊は空を見上げた。

 あの頃の自分に、今の自分は何を言えるだろう。

 頑張れ、だろうか。  もう少し我慢しろ、だろうか。

 どれも違う気がした。

 しばらく考えた末、湊は小さく息を吐いた。

 ――大丈夫だ。

 それだけで、十分だった。

 過去の自分を否定する必要はない。  美化する必要もない。

 あの時間があったから、今がある。

 帰れる場所があるという事実は、進むことを妨げない。  むしろ、背中を支えてくれる。

 日が沈みかけ、空が橙色に染まる。

 湊は踵を返した。

 ここは、帰る場所だ。

 だが、留まる場所ではない。

 彼には、まだ進むべき場所がある。

 電車に乗り込むと、窓の外で景色が流れ始めた。過去が遠ざかり、現在が前に伸びていく。

 湊はシートにもたれ、静かに目を閉じた。

 迷いは、もうなかった。

 進む場所は、はっきりと見えている。

 風は、前から吹いている。

 それでも彼は、前へ進む。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ