帰る場所、進む場所
オフが一日だけ与えられた。
朝倉湊は、久しぶりに電車に揺られ、地元へ向かった。プロになってから、帰省と呼べるほど長く滞在することはほとんどなかった。理由は単純だ。忙しさもあったが、それ以上に、戻ることで何かを確かめてしまいそうだったからだ。
駅を出ると、空気の匂いが違った。都会ほど乾いておらず、かといって田舎ほど濃くもない。懐かしさと現在が、曖昧に混ざり合った匂いだった。
歩いて向かった先は、高校だった。
フェンス越しに見えるグラウンドでは、後輩たちが練習をしている。声変わり途中の掛け声、少し大きすぎるスパイクの音。すべてが、かつての自分と重なった。
――ここから、始まったんだ。
エースと呼ばれ、期待を背負い、逃げ場のない場所で走り続けていた日々。
恋をすることすら、自分には許されないと思っていた。
フェンスに手をかけると、金属の冷たさが掌に伝わった。
あの頃の自分は、ここから外の世界を見ていた。 そして今は、外からここを見ている。
立場は変わった。 だが、完全に別人になったわけではない。
職員室の前で、顧問だった教師と鉢合わせた。
「……朝倉か?」
驚いたように目を見開いたあと、すぐに笑顔になる。
「ニュースで見てるぞ。頑張ってるな」
「ありがとうございます」
それだけの短い会話だった。
昔なら、その一言に、過剰な意味を読み取っていたかもしれない。期待されているのか、試されているのか。だが今は、ただの事実として受け取れた。
校舎を出て、通学路を歩く。コンビニも、信号も、少しずつ様変わりしている。それでも、足が自然に進む道は、体が覚えていた。
夕方、河川敷に立つ。
風が吹き抜け、草が波打つ。ここも、高校時代によく一人で来た場所だった。
誰にも言えない気持ちを、言葉にできないまま、胸に溜め込んでいた場所。
湊は空を見上げた。
あの頃の自分に、今の自分は何を言えるだろう。
頑張れ、だろうか。 もう少し我慢しろ、だろうか。
どれも違う気がした。
しばらく考えた末、湊は小さく息を吐いた。
――大丈夫だ。
それだけで、十分だった。
過去の自分を否定する必要はない。 美化する必要もない。
あの時間があったから、今がある。
帰れる場所があるという事実は、進むことを妨げない。 むしろ、背中を支えてくれる。
日が沈みかけ、空が橙色に染まる。
湊は踵を返した。
ここは、帰る場所だ。
だが、留まる場所ではない。
彼には、まだ進むべき場所がある。
電車に乗り込むと、窓の外で景色が流れ始めた。過去が遠ざかり、現在が前に伸びていく。
湊はシートにもたれ、静かに目を閉じた。
迷いは、もうなかった。
進む場所は、はっきりと見えている。
風は、前から吹いている。
それでも彼は、前へ進む。




