それでも同じ空を見ている
スタジアムの空は、驚くほど高かった。
プロのユニフォームに袖を通してから、湊は何度もこの景色を見てきたはずなのに、その日だけは違って見えた。観客席のざわめき、芝の匂い、照明の白さ。そのすべてが、少しだけ遠い。
ベンチに座り、スパイクの紐を結び直す。指先の動きは正確で、無駄がない。身体はいつも通り、試合に向けて整っている。それなのに、胸の奥に小さな空洞が残っていた。
「次、アップ入るぞ」
コーチの声に頷き、湊は立ち上がる。視線の先に、同じ背番号の影を探してしまう癖は、もう直らなかった。
橘蓮。
高校を卒業してからも、何度も頭に浮かんだ名前だ。別々の道を選び、同じチームにいるわけでもない。それでも、節目ごとに思い出す。勝った夜も、負けた夜も。
――同じ空を見ているだろうか。
アップを終え、ベンチに戻る途中、湊は空を仰いだ。雲がゆっくり流れていく。あの日、放課後のグラウンドで見上げた空と、何も変わらない。
試合は拮抗した展開だった。相手の守備は固く、決定機は少ない。湊はピッチに入ると、流れを読むことに集中した。感情は脇へ置き、判断だけを前へ出す。
パスを受け、ワンタッチで落とす。スペースへ走る味方を信じ、再び前へ出る。
――今は、これでいい。
自分ができるのは、走ること。迷いを置いて、風の中に身を投げること。
後半、均衡が破れた。湊のスルーパスに反応したフォワードが、ゴール右隅へ流し込む。歓声が爆発し、ベンチが沸いた。
駆け寄ってくる仲間に囲まれながら、湊はふと空を見た。
晴れている。
胸の奥に、言葉にできない静けさが広がった。喜びは確かにある。それでも、満ちきらない何かが残る。
試合はそのまま終了し、勝利が決まった。インタビューを受け、記者の質問に淡々と答える。プロとしての顔は、もう自然にできていた。
ロッカールームに戻り、シャワーの水を背中に受ける。目を閉じると、過去の場面が浮かぶ。
夕焼けの校庭。 濡れた芝。 並んで座ったベンチ。
何も言わなかった時間。 言えなかった言葉。
――それでも。
湊は目を開けた。
あの時間が無駄だったとは思わない。叶わない想いがあったから、走れた日々がある。誰にも見せなかった感情が、自分を形作っている。
シャワーを止め、タオルで髪を拭く。鏡の中の自分は、少しだけ大人びて見えた。
夜、寮の窓から外を見る。街の明かりの向こうに、同じ空が広がっている。
どこにいても、誰といても、空は一つだ。
湊は静かに息を吸った。
今は言えなくてもいい。 近づけなくてもいい。
それでも、同じ空を見ている。
その事実が、ほんの少しだけ、心を温めていた。




