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エースの条件

 四月の午後、グラウンドの芝はまだ若く、踏みしめるたびに柔らかな反発を返してきた。冬を越えたばかりの匂いと、陽に温められた土の匂いが混じり合い、鼻腔の奥に春を知らせる。

 スタンドは、思っていた以上に埋まっていた。制服姿の在校生、保護者、地域のサッカーファン。さらに、スーツ姿の大人たちが数人、フェンス際に固まっている。その存在を、朝倉湊は試合前の整列の時点で感じ取っていた。視線は隠そうとしても隠しきれない。期待という名の重さが、背中に触れている。

 ――春季大会初戦。

 ホイッスルが鳴ると同時に、世界は急速に単純化した。

 音は遠のき、色は必要なものだけが残る。ボール、味方、相手、ゴール。その配置だけが、頭ではなく身体に流れ込んでくる。湊は迷わず前に出た。

 右サイドからのパス。トラップ。相手ディフェンダーの重心が一瞬、外に流れるのを見逃さない。切り返し、二歩目で完全に置き去りにする。左足を振り抜いた瞬間、足裏に確かな感触が伝わった。

 ネットが揺れる。

 少し遅れて、歓声が爆発した。

「ナイス、湊!」

 仲間の声が飛ぶ。湊は軽く手を上げて応えた。胸の奥に広がるのは、歓喜というよりも、静かな納得だった。できることを、できる通りにやっただけ。その感覚が、彼にとっては何よりも確かだった。

 十八歳。高校三年。

 サッカー部のエースとして、湊はすでに完成されすぎていると周囲から言われていた。スピード、視野、判断力。どれも突出している。努力をしていないわけではないが、努力が結果に直結する感覚を、彼は疑ったことがなかった。

 それが、少しだけ怖かった。

 試合後、ピッチ脇で顧問に呼び止められる。

「朝倉、少し」

 フェンスの向こうにいる大人たちを示され、湊は頷いた。スーツの胸元に見覚えのあるエンブレム。名刺交換。形式ばった言葉。

「高校卒業後の進路について、前向きに話を進めさせていただければ」

 もう何度目か分からないやり取りだった。驚きはない。むしろ、当然の流れとして受け止めている自分がいる。期待される未来は、いつの間にか一本の線になり、脇道を消していた。

 それが自分の意志なのか、他人が引いた線なのか。考え始めると、足元が揺らぐ。

 教室に戻ると、空気が微妙に変わる。

「今日も点取ったんだって?」 「プロ、ほぼ内定でしょ」

 悪意のない声。むしろ好意だ。湊は曖昧に笑い、席につく。女子たちの視線が、さざ波のように集まってくるのを感じる。

 下駄箱の中の手紙。放課後の呼び止め。

「今はサッカーに集中したい」

 何度も口にしてきた言葉は、すでに自分の一部になっていた。嘘ではない。だが、それがすべてでもなかった。

 湊は知っている。自分の心が、どこに向かうのかを。

 放課後、部室。

 ロッカーが開閉する音。汗とシャンプーが混じった匂い。鏡越しに映る仲間たちの身体。筋肉の張り、無防備な笑顔、低い声。

 視線が、ふと留まる。

 胸の奥が、わずかに跳ねた。

(違う)

 即座に否定する。これは憧れだ。強さへの、仲間への。そう言い聞かせてきた。中学の頃から、何度も。

 帰り道、誰もいなくなったグラウンドに立つ。夕暮れが芝を橙色に染め、ゴールポストの影が長く伸びている。

 ボールを蹴り上げる。乾いた音が空に吸い込まれる。

 サッカーをしている間だけ、彼は自分を忘れられた。好きになる資格の話も、「普通」という言葉の重さも、ここには持ち込めない。

 それでいい。今は、それでいい。

 だが、胸の奥に残る小さな違和感は、風のように消えてはくれなかった。


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