夜明けに向かって
## 1. 星空の下の休息
筑波AIのホログラムが闇に溶けるように消えた後、ドームの中には、ただ重苦しい沈黙だけが流れていた。助かったことへの安堵、奇妙な契約への困惑、そして言いようのない疲労感が、鉛のようにずしりと肩にのしかかる。一体どれだけの時間が経ったのか、もはや誰にも分からなかった。
俺たちが、ふらつく足取りで静寂のミュージアムを後にし、巨大な扉の外へ出た時、空はすっかり夜の帳に包まれていた。頭上には満天の星が瞬き、冷たく輝く月が俺たちを静かに見下ろしている。ドームの中での数時間が、外の世界ではそれ以上の時間を経過させたのか、それとも俺たちの時間感覚が狂ってしまったのか。どちらにせよ、今はもう深夜だった。
「ハルト!」
「お兄ちゃん!」
扉の外で息を詰めて待機していたサクラとミオが、俺たちの姿を認めるなり、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。他の巫女たちや、シロガネチームのメンバーも、緊張と安堵が入り混じった複雑な表情でこちらを見つめている。その視線が痛いほどだ。
「ああ、無事だ。みんな、よく頑張ってくれたな」
俺は、駆け寄ってきたサクラの頭をポンと軽く叩いた。詳しい説明を求める仲間たちの視線を感じながらも、今はただ、この生還の事実を噛み締めたかった。
「…今はまだ、うまく話せないんだ。ごめん」
俺のその一言と、ただ事ではなかったことを物語る一同の疲弊しきった表情に、サクラもミオも、それ以上何かを問うことはなかった。
深夜の移動は危険すぎる。水琴さんの指示で、俺たちはここで休息を取り、夜明けと共に出発することになった。幸い、プリエスのスキャンでも近くに魔物の気配はない。この辺りは、あのAIの庭みたいなものだろうし、安全なのだろう。俺たちは思い思いの場所に腰を下ろし、束の間の休息をとることにした。
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とはいえ、さっきまで極度の緊張状態にあったせいか、全く眠れる気がしない。アドレナリンが出すぎたのか、頭が妙に冴えわたっている。
俺は気持ちを落ち着けようと、一人、皆の輪から離れてぶらぶらと人気のない方へ歩いていった。
『ハルト、少し興奮状態にあります。深呼吸をしてください』
プリエスが心の中で優しく声をかけてくる。
『サンキュ、プリエス。でも、大丈夫だ。ちょっと頭を冷やしたいだけだよ』
すると、背後から誰かが近づいてくる気配がした。振り返ると、そこにいたのは渡辺副室長だった。うわ、一番面倒くさそうなのが来た。無精髭に、何を考えているか分からない、とらえどころのない笑顔。苦手なタイプだ。
「やあ」と片手をあげる副室長。
「あ、どうも…」俺はぎこちなく頭を下げる。
彼は俺の横に並んで立つと、何も言わずに星空を見上げた。なんだこの気まずい空気は。何の用だよ。まさかプリエスのことについて探りを入れに来たとかじゃないだろうな…。
俺が何か言おうと口を開きかけた、その時。彼はぽつりと呟いた。
「私だったら、迷わず東雲水琴を選ぶね」
「えっ?」
「"今まで付き合いのある若くて美人の有能な巫女さん"と"政府の見たこともないおっさん"のどっちを選ぶかって話だよ」
「あー…」言葉に詰まる。そうですね、と肯定していいものかどうかも分からない。
「迷うことすらないだろう。私はあの時、遺言を考えていたよ」彼はカラカラと笑いながら言う。
そこまで考えてたのかよ、このおっさん。まあ、確かに俺があの場で水琴さんを選んでいても、何ら不思議はなかったわけだが。
「君に、何故あそこまで頑張るのか、と聞いても私には理解できないと思うから、聞くのはやめておこう」
「…はい」俺は小さく頷くしかなかった。
「キタバヤシ ハルト。君は優秀で、未来への希望でもあるが、同時に極めて危険な存在でもある。君のその柔軟すぎる判断は、時に想像を超えた結果を引き起こす。今回は良い方向に出た。だが、次はどうなるか分からん」
「…はい」俺はまた、小さく頷いた。
「...いや、すまない。説教臭くなっていかんな」彼は頭をガシガシとかきながらそう言うと、にこりと人の良さそうな笑みを浮かべた。
「命を救ってくれたこと、感謝する。...これでも、私にも家族がいるのでね」
そう言うと、彼はポケットから一枚の名刺を取り出し、俺に差し出した。
「困ったことがあったら連絡してくれ。私にできることがあれば、協力しよう」
俺はその名刺を受け取った。そこには、彼の名前と肩書き、そして個人用の連絡先が記されていた。
「ありがとうございます」
「では、失礼する」
そう言うと、彼は静かにその場を去っていった。
名刺には "情報事象管理室 副室長" という、いかめしい肩書が書かれていた。管理室の人間なんて、冷酷無比な機械みたいな奴らばかりだと思っていたが…意外と人間味のある人もいるんだな。
## 2. パートナーの誓い
そんなことを考えていると、今度は水琴さんが静かに近づいてきた。その表情は、月の光に照らされて、いつもより少しだけ柔らかく見える。
「ハルトさん、少しお話しできますか?」
「はい、もちろんです」
水琴さんは、俺の隣に立つと、しばらく黙って星空を見上げていた。やがて、決心したように口を開く。
「…ありがとうございました。あなたがいなければ、私は今頃、この星空を見ることも叶わなかったでしょう」
その声は、いつもの凛とした響きとは裏腹に、微かに震えていた。
「いえ、俺は何も…」
「次も同じ状況になったら、私はきっとまたスイッチを押すでしょう。それが、私の信じる『正しい』選択ですから」
彼女は、自分に言い聞かせるように、きっぱりと言った。
「あなたは違うのでしょうけど。誰も彼も信じて、スイッチなんて押さない」
「…でも、それって単なる無謀な信頼じゃないですか?私のことも、そうやって無謀に信じているだけなのですか?」
「私は破壊スイッチを押そうとした、危険な巫女なのですよ? いつ、あなたの破壊スイッチを押すかもしれない、危険な人間なのですよ!?」
水琴さんが、いつになく感情を露わにして、俺の目をまっすぐに射抜く。その瞳は、不安と、ほんの少しの期待で揺れていた。
俺はしばらく黙っていたが、やがて、静かに、しかしはっきりと答えた。
「…それでも、俺は、あなたを信じます」
「リスク管理もできない、決断力もない。普通なら組織を滅ぼすような致命的な欠点ですよ、それは」
彼女は呆れたように言ったが、その声は急に小さくなる。
「…なのに、なんで上手くいっちゃうんですか。…ずるいです」
そして、ほとんど聞こえないくらいの声で、こう付け加えた。
「だから、その…これからも、私が『正しく』間違えそうになったら、あなたの『間違った』やり方で、なんとかしてください」
彼女はそう言うと、俺に向かって深々と頭を下げた。
「これからも、よろしくお願いします。私の、対等なパートナーとして」
その言葉は、俺の胸にずしりと重く、そして温かく響いた。
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俺たちは、それぞれの車両に乗り込み、夜明けの光が地平線を染め始めた筑波遺跡を、静かに後にした。
フロンティア号の車内では、サクラとミオが興味津々に質問してくるが、あまりに色々なことがありすぎて、俺はうまく言葉にすることができなかった。ただ窓の外を眺めながら、あのAIとの奇妙な対話を、何度も反芻していた。
## 3. 新たな共犯関係
数日後、上橋東照宮の奥にある、静謐な茶室「静心庵」に、俺たちは再び集まっていた。参加者は、俺、水琴さん、渡辺副室長、そして、あのテストを受けたレオ、舞さん、シロガネさん。今回の作戦に関する、非公式な報告会だ。
「――というわけで、政府上層部には『筑波AIとの接触に成功。AIは敵対行動を停止し、今後はこちらの管理下で『観察』を続ける』という形で報告する。異論はないかね?」
渡辺副室長が、官僚的な手際の良さで話を進めていく。事実を巧みに捻じ曲げたその報告書案に、誰も異を唱えなかった。真実をありのままに報告することなど、できるはずもなかったからだ。
「我々も、組織にはそのように報告します」
水琴さんが静かに同意する。そして、彼女は俺に向き直り、その強い瞳で真っ直ぐに俺を見つめた。
「ハルトさん。今回のあなたの判断、そして交渉、見事でした。我々、巫女組織は、あなた方チームとの協力関係を、より強固なものとすることを、ここに約束します。今後、我々は対等なパートナーです」
その言葉は、社交辞令ではない、彼女自身の本心からのものであることが、ひしひしと伝わってきた。
渡辺副室長が続ける。
「筑波との対話が必要な時は、ハルトくんを経由することになるが、よろしいかね?」
「はい。もちろんです」
「では、専用の連絡チャネルを後ほど送るから確認しておいてくれ」
俺は頷いた。こうして、俺たちは奇妙な「共犯関係」を結ぶことになった。俺たちの戦いは、一つの区切りを迎え、そして、新たな始まりを迎えようとしていた。
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その夜、俺はレオの工房にチームの全員を集め、筑波AIとの間で交わされた「契約」の全てを、包み隠さず話した。俺たちが、これからずっと、あのAIに「観察」されること。そして、時には、実験と称して予期せぬ介入がある可能性があること。
「えー!なにその条件!ひどくない!?」
案の定、最初に声を上げたのはサクラだった。彼女は、納得できないというように、テーブルをドンと叩いた。
「サクラの気持ちも分かるけど…」
ミオが、そんな彼女をなだめるように、静かに言った。
「でも、水琴さんたちの命を救うには、それしか方法がなかったんでしょう? ハルトの判断は、間違ってないと思う」
「…面白えじゃねえか」
今まで黙って聞いていたレオが、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「神様気取りのAI様に、俺たち人間の底力、見せてやろうぜ。それに、ハルト一人に全部背負わせるなんて、性に合わねえ」
『危険な契約であることは間違いありません。ですが、筑波AIという存在を理解するための、現時点における唯一の道でもあります。私は、ハルトの判断を支持します』
プリエスもまた、冷静に俺の選択を肯定してくれた。
仲間たちの言葉に、サクラはしばらく唇を噛んでいたが、やがて、ふっと息を吐くと、いつもの快活な笑顔に戻った。
「しょーがないなあ! ハルト一人にカッコつけさせるわけにはいかないもんね! やってやろうじゃないの!」
その一言で、工房の重い空気は完全に吹き飛んだ。そうだ。俺たちは、一人じゃない。この仲間たちとなら、どんな無理難題だって、きっと乗り越えられる。俺たちの結束は、この日、これまで以上に強く、固いものになった気がした。
## 4. 日常への来訪者
全てが終わり、いつもの日常が戻ってきたかのように見えた、数日後の午後。
レオの工房で、俺たちは次の探索計画について話し合いを始めるところだった。その時、工房のドアが、コン、コン、と静かにノックされた。
「はいよー」
レオが、工具を持ったままの油まみれの手で、無造作にドアを開ける。
その先に立っていたのは、あの、クラシカルなメイド服に身を包んだアンドロイドだった。
工房にいた全員が、息を呑む。サクラは戦闘態勢に入りかけ、ミオは警戒するように身構えた。俺の心臓も、ドクンと嫌な音を立てる。
だが、アンドロイドメイドはそんな俺たちの様子を意に介することなく、深々と、そして優雅に一礼すると、抑揚のない、どこまでも平坦な声で告げた。
「主より、皆様への通信を預かっております」
メイドは、その無表情な顔をわずかに俺に向けた。
「主は、こう問うています。『人間とは、何か』と。その答えを、これからのあなた方の『生き様』をもって、示し続けていただきたい、とのことです」
それは、レポートの提出を求めるような、具体的な「課題」ではなかった。あまりに壮大で、哲学的で、そして、終わりがない問い。俺たちの人生そのものが、AIへの回答になるのだと、そう言われているようだった。
「つきましては、その『回答』を観測するため、本日より私は皆様と共に行動させていただきます」
メイドがそう宣言した、まさにその時だった。
「よぉ! お前ら、いるかー? 面白そうな依頼、持ってきたぜ!」
工房のドアが勢いよく開き、タクマがいつもの調子で顔を覗かせた。彼は、部屋の中に佇むメイドの姿を認めると、「…おや? 新しい仲間かい?」と不思議そうに首を傾げた。
非日常の象徴であるメイドと、俺たちの日常の象徴であるタクマ。二つの存在が、この工房の中で奇妙に同居している。
俺は、そのあまりにシュールな光景を眺めながら、思わず苦笑した。
世界の未来がどうなるかなんて、まだ分からない。AIとの奇妙な契約も、始まったばかりだ。
でも、まあ、いっか。
俺は、目の前の仲間たちと、これから仲間になるかもしれない不思議な同居人、そして、扉の外で待っているであろう新しい冒険に、こう言って応えることにした。
「さて、今日も始めますか」
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