決戦への序曲
## 1. 官僚の壁と腹の探り合い
2月上旬。暦の上では春が近いというのに、空は相変わらず鉛色の雲に覆われ、街には身を切るような冷たい風が吹きつけていた。情報魔法庁の無機質な一室で、東雲水琴は、一人の男と向かい合っていた。
男の名前は渡辺。管理室の副室長。くたびれたスーツに無精髭という、その立場にはおよそそぐわない姿で椅子に深く腰掛け、人を食ったような笑みを浮かべている。だが、その目の奥には、全てを見透かすような冷徹な光が揺らめいていた。
水琴は、その視線を真っ直ぐに受け止めながら、背筋を伸ばし、静かに口を開いた。
「事前の申請通り、筑波への侵攻作戦『夜明け』は、3月3日を決行日とします。計画に大きな変更はありません」
「そうか」
渡辺は気のない返事をしながら、手元にある分厚い書類の束をパラパラとめくった。その指先だけが、やけに神経質に動いている。
「で、勝てそうか?」
そのあまりに直接的で、品定めするような問いに、水琴は一瞬、眉をひそめたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「…正直に申し上げれば、未知数です。筑波の主の能力は、我々の想定を上回る可能性も十分にあります。しかし、必ずや良い成果を挙げる自信はあります」
「『触らぬ神に祟りなし』、とも言うがね」
渡辺は、書類から目を離さずに、独り言のように呟いた。
「承知の上です。しかし、いつまでも放置しておくわけにはいきません。筑波の穢れを浄化、もしくは、我々の制御下に置くこと。それが、この国の未来を守ることに繋がると、私は信じています」
「『制御下に置く』、か」
渡辺はそこで初めて顔を上げ、水琴の目をじっと見た。値踏みするような、探るような視線。
「具体的には?」
「筑波の主と『対話』し、彼の目的と意図を確認します。その上で、我々の管理下に置くことが可能かどうかを判断する。それが今回の作戦の第一目標です」
「対話、ねえ…」
渡辺はつまらなそうに鼻を鳴らした。「そもそも、言葉が通じるのかね? 獣に念仏を聞かせるようなことにならんとも限らん」
「その可能性は高いと考えています。情報収集という点を考慮しても、対話を試みる価値は十分にあります」
「その根拠は?」
渡辺の目が、探るようにすっと細められる。
「…その点については、現段階では開示できません。我々の切り札に関わる重要機密ですので」
水琴は、動じることなく静かに言い返した。腹の探り合い。一歩も引く気はないという強い意志が、その声に滲んでいた。
渡辺は一瞬、険しい表情を浮かべたが、すぐに元の食えない笑みに戻った。
「分かった。君の判断を信じよう。面白いものが見れそうだ。ただし、対話とやらが本当に可能であるならば、私も同行させてもらう」
「副室長が、自らですか? 対話が可能かもしれないとはいえ、戦闘は避けられないでしょう。危険すぎます」
「それは承知の上だ。護衛は私が自分で手配する。君たちに迷惑はかけんよ」
渡辺は書類を乱暴に閉じ、テーブルに放り投げた。
「君たちの『対話』を監督もせずに、上層部に報告書を出すわけにもいかんだろう? この侵攻作戦を通すのに、私も随分と骨を折ったんだ。これくらいの条件は呑んでもらわんと、割に合わん」
その言葉は、官僚的な建前と、有無を言わせぬ圧力を同時に含んでいた。水琴はしばらく思考を巡らせた後、静かに頷いた。
「…分かりました。副室長の同行を許可します。ただし、私たちの作戦行動には一切口出ししない。それが絶対条件です」
「もちろんだ。その辺はわきまえているつもりだよ」
「作戦の一週間前に、参加メンバー全員での合同演習を行います。その際に、詳しい作戦内容を説明しますので、護衛の方々を含め、必ずご参加ください」
「了解した。では、健闘を祈る」
水琴は深く一礼し、部屋を後にした。一人残された渡辺は、椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。そして、誰に言うでもなく、静かに呟いた。
「対話の窓が、再び開くのか…。面白くなってきたじゃねえか」
## 2. 嵐の前の静けさと、それぞれの覚悟
作戦決行まで、あと10日。
レオの工房は、俺たちの作戦司令部として、かつてないほどの熱気に包まれていた。壁のホワイトボードは、筑波遺跡の想定マップや、敵AIの行動パターン予測で埋め尽くされている。床には工具やケーブルが蛇のように散乱し、その中心で、俺たちの新しい城『フロンティア号』が、最終調整の時を静かに待っていた。オイルとハンダの匂いが混じり合った、男臭くて、でもどこか心地よい空間。
「プリエス、第7系統のエネルギー循環、最適化完了。これで外部スキャナー『ミネルヴァの梟』をフル稼働させても、メインシステムへの負荷は3%未満に抑えられるはずだ。どうだ、完璧だろ?」
レオは、フロンティア号のコンソールに接続されたプリエスのドッキングステーションを調整しながら、満足げに鼻を鳴らす。
『ありがとうございます、レオ。あなたの技術は素晴らしい。これで私の索敵・分析能力は、さらに向上します』
プリエスの声が、車載スピーカーからクリアに響く。彼女は今や、このフロンティア号の頭脳そのものだった。
工房の片隅では、サクラが葵から譲り受けた木刀を手に、静かに素振りを繰り返していた。ヒュン、ヒュン、と空気を切り裂く音だけが、規則正しく響く。その動きには、以前のようながむしゃらな荒々しさはなく、洗練された剣士のような鋭さが宿り始めている。
(葵さんなら、どう振るだろう…? もっと速く、もっと鋭く。でも、力むんじゃなくて、体の軸を意識して…)
彼女の思考が、プリエス経由で俺にだけ聞こえてくる。ただ強さを求めるだけでなく、その質を追求し始めた。好敵手の存在が、彼女を新たな高みへと押し上げているのだ。俺たちのチームの「剣」として、その自覚が彼女を強くしていた。
一方、ミオは自室で、斎チームの詩織とオンライン通話を繋いでいた。画面の向こうの詩織が、古文書を紐解きながら説明している。
「…なるほど。『和鳴術』の基本は、個々の『気』を一つの大きな『流れ』に同調させることにあるのですね。私たちの情報魔法における『共鳴』が個と全体の接続を重視するのに対し、あなた方の術は、全体の中に個を溶け込ませるイメージに近い…。似て非なる概念だわ…」
異なる魔法体系の知識を貪欲に吸収する彼女の姿は、まるで探求者のようだった。それは、ただの知的好奇心ではない。巫女たちの魔法を理解することが、来るべき戦いで仲間を守るための、新たな盾になると信じているからだ。
そして俺は、リーダーとして、この頼もしすぎる仲間たちが持つ全ての力を結集させるための、最後のシミュレーションを行っていた。
『プリエス、筑波AIの対話ログをもう一度再生してくれ。特に、祖父の問いかけに対する、AIの応答遅延のパターンを重点的に分析したい』
俺の心の中は、期待と不安が渦巻いていた。俺の判断一つで、みんなを危険に晒すことになる。その重圧が、ずしりと肩にのしかかる。
『了解しました。応答遅延の揺らぎから、AIが『嘘』『欺瞞』といった概念に強い拒否反応を示している可能性が示唆されます。対話の際は、絶対的な誠実さが求められるでしょう。小手先の交渉術は、逆効果になるかと』
プリエスの冷静な分析が、俺の迷いを断ち切ってくれる。
そうだ。誠実さ。それしか、俺たちの武器はない。
仲間たちの成長、プリエスの進化、そして、少しずつ見えてきた敵の輪郭。全てが、決戦の日に向けて収束していく。
胸の高鳴りは、不安か、それとも武者震いか。
どちらにせよ、もう後戻りはできない。俺は、仲間たちの顔を一人ひとり思い浮かべ、静かに覚悟を決めた。




