砕かれたプライド
## 1. 誘導作戦、開始
夜明け前の冷気が肌を刺す。作戦本部の置かれた大学キャンパスは、これから始まる大規模作戦を前に、一種異様な、それでいて静かな熱気に満ちていた。俺たち誘導部隊は、それぞれの持ち場へと散開し、吐く息の白さを眺めながら、その時を待っていた。
「ハルト、聞こえるか? こちらポイントB、フロンティア号にて待機中。いつでもいけるぜ」
レオからの通信が、プリエスを介して思考に直接届く。彼の声には、緊張と少しばかりの武者震いが混じっているように感じられた。
『こちらポイントC、ハルトだ。クリアに聞こえる。ミオとサクラも配置完了。そっちはどうだ?』
俺は、ミオ、サクラと共に、指定されたポイントCの小高い丘の上にいた。眼下には、作戦エリアである山間部が一望できる。俺の役割は、この場所から戦況全体を把握し、レオたちに指示を出す現場指揮官だ。責任重大だな、と乾いた笑いが漏れる。
『ハルト、大丈夫。いつも通りやればいい』
ミオの落ち着いた声が、俺の緊張を少しだけ和らげてくれる。
俺の網膜には、プリエスが「ミネルヴァの梟」で収集した広域情報を基に作成した、リアルタイムの3Dマップが投影されていた。無数の青い光点が、俺たち参加チーム。そして、その中心で赤く点滅するのが、目標であるクジラだ。まるで、巨大な獲物を前にした蟻の群れだな、なんて場違いなことを考えてしまう。
『ハルト、集中してください。まもなくです』
プリエスに窘められ、俺は軽く頭を振った。
やがて、東の空が白み始めたその時、指揮官の号令が全隊に響き渡った。
「作戦開始! 各部隊、誘導魔法を起動! クジラを『処刑場』まで誘い込め!」
俺たちが持つ発煙筒のような小型魔法陣が、一斉に青白い光を放ち始める。それは、クジラが好む特殊な情報エネルギーを放出し、獲物と誤認させておびき寄せるための、小型の「疑似餌」だった。
『クジラ、反応しました。我々の方向へ、ゆっくりと降下を開始します』
プリエスの冷静な分析が、作戦の順調な滑り出しを告げる。
俺たちの任務は、クジラを刺激しすぎず、かといって興味を失わせないよう、魔法陣の出力を絶妙にコントロールしながら、指定されたルートを移動させることだ。プリエスが各地点のエネルギー状況とクジラの反応をリアルタイムで解析し、俺がそれを基に判断を下す。
『まるで、巨大な魚を釣り上げるみたいだな』
俺が心の中で呟くと、プリエスが真面目な声で応じた。
『はい。ただし、釣り糸が切れた場合、我々が食べられる側になるという点を除けば』
『……洒落にならんジョークをありがとうよ』
クジラはイワシの群れを追うように、ゆっくりと迫ってくる。俺達は、群れがクジラを翻弄するように、魔法陣の出力を微調整しながら、クジラを誘導する。
「レオ、出力を5%下げろ。少し警戒されている」
『了解!』
「ミオ、そのまま維持。いい感じだ」
『わかった』
「サクラ、出力を10%上げて、北に500メートル移動。クジラをそちらに誘導する」
『了解!まかせて!』
プリエスの精密な解析と、俺の指示。そして、それに完璧に応える仲間たち。
他の参加者が危険な位置にあれば、俺たちが即座に調整を行い、クジラの注意を逸らす。
混乱している参加者がいれば、フォローしつつ指示を与え、全体のバランスを保つ。
俺たちのチームワークは、この作戦の成功に不可欠だった。
作戦は、驚くほど順調に進んだ。クジラは、まるで巨大な魚が釣り糸に引かれるように、ゆっくりと、しかし確実に、山間部に設置された最終目標地点…殲滅魔法陣の待つ「処刑場」へと誘い込まれていく。
## 2. 決死の抵抗と作戦失敗
「目標、最終エリアに進入! 全誘導部隊、餌を最大出力、処刑場に投げ込め。その後、速やかに離脱せよ!」
指揮官の檄が届く。俺たちは、各自の魔法陣を最大出力に切り替え、クジラを最終目標地点へと誘導した。クジラは、ゆっくりと、しかし確実に、俺たちの仕掛けた罠へと近づいていく。
そして、運命の瞬間が訪れた。
「クジラ、処刑場に到達! 殲滅魔法陣、起動!」
魔法陣の円周上にいた32名の上級魔法使いたちが、一斉に魔法陣を起動する。俺たち誘導部隊は、すぐにその場から離脱し、安全な距離を確保した。
クジラの周囲の地面が一斉に光り輝き、巨大な魔法陣が空中に浮かび上がる。
クジラを覆うようなエネルギーのドームが形成され、その中心に超高威力の殲滅魔法が炸裂した。
地を揺るがす轟音。遅れてやってきた衝撃波が、俺たちの体を吹き飛ばさんばかりに叩きつける。
「やったか…!?」
誰かが呟く。光が収まった後、そこに広がっていたのは、誰もが勝利を確信する光景だった。クジラの巨体は黒く焼け焦げ、その巨体のあちこちから黒い煙が上がっている。
だが、その時だった。
**『『『オオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!』』』**
それは、断末魔の叫びではなかった。自らの命を燃やし尽くすかのような、決死の咆哮。クジラは最後の力を振り絞り、その巨体を震わせた。すると、周囲の空間そのものが歪み、凄まじい情報エネルギーの嵐が、殲滅魔法陣の一部に叩きつけられた。
「なっ…!? 魔法陣の一部が、物理的に破壊された!?」
「まずい! 結界に亀裂が!」
通信越しに聞こえる指揮官の焦った声。結果として、クジラは大きく弱体化するも、破壊された魔法陣の隙間から、ゆっくりと、しかし確実に、北の空へと逃げ延びていく。
数名の参加者が、クジラの放つ強大な情報エネルギーの波動に巻き込まれ、重傷を負った。俺たちは急いでその場を離れ、安全な距離を確保した。
腕に覚えのある参加者たちが、クジラへの追撃を試みたが、決定打を与えることはできなかった。
何故ならば、クジラの姿が、もはや「巨大な生物」ではなくなっていたからだ。
撤退するフロンティア号の中で、プリエスは「ミネルヴァの梟」をフル稼働させ、広域スキャンを続けていた。
『ハルト、クジラが放った膨大な情報エネルギーは、すぐには消えません。微弱な『残響』として、この一帯の空間に漂っています』
『残響?』
『はい。ミネルヴァの梟の広域センサーでその残響を捉え、拡散パターンを解析した結果、クジラは北の山岳地帯へ向かったことが判明しました。そして今、その残響のパターンに奇妙な変化が起きています…』
プリエスは信じられないといった様子で分析結果を続けた。
『エネルギー反応が、急速に拡散・希薄化しています。これは…自身の巨大な情報エネルギーを、周囲の環境…霧や雲、山そのものに溶け込ませているようです。高度な隠蔽魔法(ステルス能力)に違いありません』
クジラは追跡を振り切るように、北の広大な山岳地帯へと逃走し、その痕跡は完全に途絶えてしまった。まるで、山の空気そのものに溶けて消えてしまったかのように。
それは、クジラが「巨大で見つけやすい的」から、「山域のどこかに潜む、発見困難で危険な脅威」へと変貌を遂げた瞬間だった。
作戦は、事実上の失敗に終わった。
## 3. 失墜と焦燥
一方、作戦本部では、絶望が支配していた。
「馬鹿な! ありえん! 我が組織の総力を結集した魔法陣が、なぜ破られる!?」
指揮官の怒号が司令部に響き渡るが、もはやその声に耳を貸す者はいなかった。疲弊しきった探索者たちは、無言で装備を片付け、次々とキャンパスを後にしていく。その背中は、敗残兵のように重く、暗かった。
数日が経過しても、事態は好転しなかった。
テレビやネットは、連日この「世紀の大失態」をトップニュースで報じ続けた。
『巨額の税金を投じた作戦は、なぜ失敗に終わったのか』
『危険な魔物を取り逃がし、市民を危険に晒した討伐組織の責任は』
専門家やコメンテーターが声高に組織の無能さを糾弾し、世論は一気に沸騰。あれほど誇らしげだった討伐組織の社会的信用は、地に堕ちた。
討伐組織は、失墜した名誉を挽回すべく、直ちにクジラの捜索を開始した。最新鋭の探知ドローンを飛ばし、高レベルの探知魔法使いを動員し、文字通り山狩りを行った。
だが、一週間が過ぎても、何一つ成果は上がらなかった。ドローンが映し出すのは、ただ静かな山々の風景だけ。探知魔法は、山全体に薄く拡散したエネルギーに惑わされ、全く役に立たない。
「今日も反応なしか…」
「一体どこに消えやがったんだ…」
時間だけが過ぎていく中、作戦本部には焦りと苛立ちが渦巻き、指揮系統に深刻な乱れが生じ始めていた。
## 4. 新たな指揮官
捜索が停滞し、作戦本部が混乱に陥っている、まさにその時だった。
予告もなく、一人の女性が、黒い装束に身を包んだ自身の精鋭部隊を率いて、作戦本部に静かに姿を現した。
その凛とした佇まい、感情を一切感じさせない冷たい瞳。巫女組織の若き実力者、東雲 水琴。彼女の登場に、場の空気が凍りついた。
「…何の用だ、巫女風情が。ここは貴様らのような時代遅れの連中が来る場所ではない!」
討伐組織の指揮官が、苛立ちを隠しもせずに激しく反発する。
だが、水琴は一切動じることなく、その冷たい視線を指揮官に向け、事務的な口調で告げた。
「あなた方の作戦は、事実として失敗しました」
その一言が、指揮官のプライドを容赦なく抉る。
「なんだと…!?」
「これ以上の状況悪化は、国家の安全保障に関わる広域災害指定レベルに該当します。よって、事前協定第7項に基づき、これより当案件の指揮権は、我々が保有する特権をもって執行します」
水琴は感情を一切排した声で、規定と事実のみを突きつける。それは、どんな罵詈雑言よりも、指揮官の心を打ち砕くのに十分だった。
「き、貴様ら…! 我々の作戦に協力もしなかったお前たちに、何の権利が…!」
「権利ではありません。義務です」
水琴は静かに、しかしきっぱりと言い切った。「この国を、古より護ってきた我々の、です」
その言葉は、絶対的な自信と、揺るぎない覚悟に満ちていた。指揮官は、もはや何も言い返すことができなかった。彼の顔は、怒りよりも深い、屈辱の色に染まっていた。
こうして、クジラ討伐の指揮権は、討伐組織から巫女組織へと、半ば強引な形で移譲されることになった。




