サクラの平日
突き抜けるような青空が広がる秋晴れの火曜日。汗ばんだ肌を撫でる乾いた風が心地よい。清原市の河川敷を、サクラは一人、黙々と走り続けていた。基礎訓練校時代から愛用しているのだろう、少し色褪せたジャージが、彼女の引き締まった体にフィットしている。
「はっ、はっ、ふっ…!」
地面を力強く蹴り、リズミカルに腕を振る。規則正しい呼吸音だけが、穏やかな昼下がりの空気に響き渡っていた。週末の探索や夜のチーム訓練だけでは、彼女の有り余る体力を維持するには少し足りない。それに、こうして無心で体を動かすことは、彼女にとって最高の精神統一法でもあった。
(…『山彦』のタイミング、まだ安定しないな。クマの時は、レオとミオの完璧なサポートがあったから決まったけど、一人であの精度を出すには…やっぱり、もっと振り込まないと)
走りながら、重心を低くした構えから右の拳を突き出すイメージを繰り返す。衝撃を一点に集中させ、時間差で炸裂させる。あの、内側から全てを弾けさせるような圧倒的な破壊の感触。一度味わってしまったら、もう忘れられない。あれは、まさしく武闘家の夢そのものだった。
「…でも」
ふと、サクラの足が止まる。脳裏に、あの薄暗い病院の廊下と、虚ろな目でこちらを見つめる日本人形の、無機質な笑みがよぎった。途端に、背筋がぞくりと冷たくなる。
最近、悪夢を見る頻度は減ってきた。ミオが教えてくれた瞑想と、何より仲間たちと過ごす他愛のない時間が、少しずつ恐怖を和らげてくれている。それでも、ふとした瞬間に、あのまとわりつくような気配が蘇ってくるのだ。
「…ううん! だめだめ!」
サクラは両手で頬をパンと叩き、気合を入れ直した。
「くよくよしたって始まらない! もっと強くならなきゃ!」
彼女は再び走り出す。まとわりつく恐怖を振り払うかのように、先ほどよりもさらにペースを上げて。
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午後になると、サクラは清原市の商業エリアにある、週末のような賑わいを見せる大型商業施設の前にいた。今日、彼女は単発の警備アルバイトを入れていたのだ。新しく購入したグローブのローン返済と、少しでもチームの活動資金の足しにするためである。
「本日、午後1時より、中央広場にて人気作家『月野光』先生のサイン会を開催しまーす!」
拡声器の威勢のいい声が響く中、サクラは他の警備員と共に、ファンが殺到しないよう列の整理や誘導を行っていた。屈強な男性警備員たちに混じって、小柄な彼女は少し浮いて見えたが、その立ち姿には一本芯が通っており、誰よりも頼もしく見えた。彼女の役割は、熱狂的なファンがステージに殺到しないよう、物理的な壁となり、時に優しく、時に毅然と対応することだ。
「きゃー!月野先生ー!」
「こっち向いてー!」
最近、若者を中心に人気急上昇中の恋愛小説家だという月野光がステージに現れると、会場の熱気は最高潮に達した。サクラは冷静に周囲に目を配り、トラブルが起きないか警戒する。その時だった。
人々の熱狂の渦から少し離れた場所で、ぽつんと取り残された小さな影が目に入った。五歳くらいの女の子が、母親とはぐれてしまったのか、不安そうに泣いている。周りの大人たちはサイン会に夢中で、誰もその子に気づく様子はない。
「…ちょっと、すみません」
サクラは近くにいた同僚に一声かけると、人混みをかき分けるようにして、女の子の元へと駆け寄った。
「どうしたの、お嬢ちゃん。もしかして、ママとはぐれちゃったかな?」
サクラがしゃがみこんで、子供の背丈まで目線を合わせ、できるだけ優しい声で話しかける。女の子はこくんと頷き、さらに大きな声でわっと泣き出してしまった。
「よしよし、大丈夫だよ」
サクラは安心させるように、その小さな頭を優しく撫でた。
「お姉ちゃんが、絶対にママを探してあげるからね」
そう言うと、彼女は女の子をひょいと抱き上げ、迷子センターへと向かった。彼女にとって、目の前で助けを求める小さな命は、どんな高額な依頼よりも、どんな厳しい規則よりも優先すべきことだった。
無事に女の子を母親に引き渡し、持ち場に戻ると、案の定、同僚から「おい!持ち場を勝手に離れるなとあれほど言っただろうが!」と厳しい叱責が飛んできた。サクラは「申し訳ありませんでした」と素直に頭を下げたが、心の中では少しも後悔していなかった。
(これが、私の『正義』だから)
夕方、アルバイトを終え、西日が長く影を落とす道を、彼女はチームの訓練場所である体育館へと向かう。一日中立ちっぱなしだった足は鉛のように重いはずなのに、不思議と心は軽かった。
仲間たちが待っている。あの場所に行けば、どんな疲れも、どんな不安も、きっと吹き飛んでしまう。そう思うと、自然と足取りが速くなるのだった。




