55話 狂い堕ちる日々 ×
聖法歴1016年6月3日
――どうしてなのかは本人も知り得ない。
ただ、暗い水面に一筋の光が差しただけ。
波一つない、泡も、飛沫も、流れもない、そんな昏い昏い奥底に。
少女の願いが彼を揺さぶる。
少女の祈りが彼を導く。
少女の温もりが、彼を呼び覚ます――。
◆◆◆
目を覚ますと、そこには虚ろな目をした少女の姿があった。
顔の半分はすでに異形と化し、開く瞳孔も人のそれではない。
それでも見知った面影を感じたのは、少女の最後まで諦めなかった心のためか――。
揺れる瞳に声を掛けようとして、意味のない音だけが漏れていた。
「ぇ……、ぃ……」
自分でも驚くほど弱々しい声。
何を口に出そうとしたのかさえ、忘れるほどだった。
そんな少年に対し、少女は儚げな笑みを浮かべる。
「ごめんね、わたしはそのひとじゃないの。……でもね、おねがい」
話す端から命の零れる音が聞こえた。
次第に消え失せる音は、最後の言葉を紡ぐ。
「――みん……を、あぉ……を、ぁす……。ぉ……ぃ……」
途切れ途切れの音。
それでも、少年の耳には言葉として届いた。
ふっと微笑み、力なく倒れる少女。
その体から急速に温かさが抜け落ちていった。
体を預ける少女の姿に、少年の心臓は早鐘を鳴らす。
「はぁはっ、はぁはっ、はぁはっ、はぁはっ――」
乱れる呼吸。
震える体。
彷徨う瞳。
落ちそうになる意識を、寸でのところで保たせる。
どこからか聞こえる囁き声に導かれるように。
唇を噛みしめて、腹に力を込める。
瞼を閉じて、戦慄く息をゆっくりと落ち着かせる。
「すぅ……、はぁぁぁ…………」
再び開かれた瞳には、仄暗い灯がともっていた。
静かに、それでいて力強く、少女を一度抱きしめると、そっと抱えて歩き出す。ガラス細工を扱うように、ゆっくりと……。
向かう先は、自然と理解していた。
道すがら、彼女をよく知る子供たちと遭遇する。
少女の姿に始めは驚いていたものの、恐れを抱いた様子はない。
ただひたすら悲しみに染まり、涙をこらえていた。
「……みんな、この子のことを知っているの?」
「うん……。だって、いつも、ぼくたちのこと、まもってくれたから……」
「名前は?」
「……アニェス、ねえちゃん」
小さな、それでも集まった子の中で一番大きな少年が、言葉に詰まりながらも答える。
少女を抱きかかえた少年も、優しく問いかけ、口の中でそっと「アニェス……」と紡いだ。
「――ごめんな、みんな。お兄ちゃんがずっと不甲斐ないばっかりに」
「うぅん」
事情は知らされていた小さな少年たちは、優しく首を振るも、謝った彼は申し訳なさそうに微笑む。
「……ありがとう。ちょっとだけ、アニェス姉ちゃんを預かってもらえないか?」
「……どうするの、ゼインにいちゃん?」
ゼインと呼ばれた少年は、少年たちと目線を合わせる。
「大丈夫。お兄ちゃんが全部、何とかするから」
「でも……」
きっと、同じ言葉を掛けた子たちもいたのだろう。
それでも未だ悲劇が続いているのだ。
そんな状況にあって、少年たちは信じるに信じ切れなかった。
「じゃあ、簡単な約束から。――他のお兄ちゃん、お姉ちゃんもいっしょに連れ戻してくるよ。そして、アニェス姉ちゃんも、ちゃんと見送ってあげよう。ね?」
「……ぅん」
少年たちがどこまで知っているのか定かではないが、少なくとも、非情な行いが日常的に行われているのは理解している様子だった。
一人、現状をついさっき知ったばかりのゼインは、柔らかな表情とは裏腹に、腸が煮えくり返る思いでいた。
この惨状を生み出した相手に対して、そして、気付かずただ日々を浪費していた己に対して――。
静かな怒りはその瞳も焦がす。
彼の瞳を覗き込んだ年上の少年は、不安げな様子のまま、震える小指を差し出した。
「……やくそく、だよ?」
「――あぁ、約束だ」
自分の小指を絡め、ぎゅっと一度だけ振る。
抱えた少女を近くの長椅子に置き、少年たちに託した。
「アニェス姉ちゃんは任せたぞ、ユーグ」
「……うん。ちゃんともどってきてね、ゼインにいちゃん」
軽く手を上げて笑うと、彼らに背を向けて歩き出す。
ゼインの瞳には幽鬼が宿っていた。
◆◆◆
目的地である研究室の扉を、蹴破る勢いでこじ開けたゼインは、中の惨状に一瞬足を止めた。
それも束の間、一層顔を憤怒に染め、部屋の中にいる生きた人間と対峙した。
「――おい。お前の研究から、子供たち全員を解放しろ」
「おやゼイン。目が覚めたと思ったら、聞き分けのないことを言いますね。これは必要な犠牲なんですよ」
男は片眉を上げただけで、ゼインの話を歯牙にもかけない。
その間にも、目の前に座る子供へ何かの薬を投与する。
途端、叫び出す少女。
悲鳴というよりは咆哮に近いそれは、少女の姿を物語っていた。
「やめろって言ってるだろ!!」
「――はぁ。貴方には理解できないでしょうが、これは彼女が自ら申し出たことですよ。それを無下にするなんて、それこそ間違っているとは思いませんか?」
「それはお前が他の子供たちを盾にしているからだろっ!!!」
声を荒げたゼインに、男は少しだけ驚いた顔をした。
助手として加わっていた女性も目を細めて様子を窺う。
「まさか、貴方がそこまで知っているとは思いませんでしたよ。この一年、ずっと呆けていただけじゃなかったんですね」
「知らなかったよ! 今の今まで、ずっとな!!」
矛盾したことを話すゼインに、内心首を傾げつつも、男は話を進める。
「なら、分かるでしょう。たかだか子供一人騒いだところで、何も変わらないと」
「付け加えるなら、この孤児院を出入りできるのは私とエタンだけ。他の人たちにはできないことよ」
冷たく言い放つ女性を横目で睨みつけるゼイン。
幼い子供たちを人質に取られた彼ら彼女らの言い方に憤慨し、刺すような眼差しを向けるも、女性はさして気にした様子もなかった。
「だから、取引だ」
「ほう――」
向き直った少年は、怒りのあまり目が据わっていた。
「――俺が全部引き受ける。薬だろうが機械だろうが手術だろうが、どんなことだろうとな。それと、助手もしてやる。被験体が務めれば、さらに研究も進むだろ」
口から出まかせ――とは思えない気迫だった。
その瞳は覚悟を決めた目をしており、見ているほうが、その圧力に呑み込まれそうなほどだった。
それに、今は被験体のデータを客観的に見ていたが、最近少々停滞気味だった。
比較のため試験数を増やしはしたものの、どれも似たり寄ったりの失敗ばかり。感想を聞こうにも、大抵の相手は口を噤んで無言になるのが多かった。
若干八歳の餓鬼に助手が務まるものかと笑い飛ばす女性だったが、男――エタンは考える仕草をして目を細めていた。
何を思ったのか、彼はゼインの提案を呑むことにした。
「――いいでしょう。貴方が皆の代わりとなるのであれば、ね」
「どんな実験でも付き合ってやる。代わりに、俺が生きている間は他の子たちに手を出すな」
「ふむ……。まぁ、それも呑みましょう。――ただし、下準備のための投薬は続けさせてもらいますからね」
「体に害をなすんじゃないだろうな?」
「さぁ、どうでしょうね」
意味ありげに笑うエタンだったが、現状、ゼインが引き出せる条件はここまでだった。
悔しそうに奥歯を噛みしめていたが、舌打ち一つ残して頷くしかなかった。
「交渉成立ですね。早速――と言いたいところですが、貴方は準備も中途半端ですからね。少々手荒ですが、段階をいくつかすっ飛ばして始めましょう」
「待て。その前にこの子たちを解放してからだ」
つまらなそうに鼻を鳴らし、「準備が終わるまでですからね」と言い残して部屋の奥へ消えるエタン。
ため息を零してその後をついて行く女性を見送ると、ゼインは部屋に残った子供たちに駆け寄る。
「……ごめん、来るのが遅くなって」
「……うぅん。げんきになってよかった。……でも、もう、わたしも、みんなのところへ――」
それだけ言い終えると、少女も力なく項垂れる。
急いで体に触れるも、すでに脈動は失われていた。
「くっ――」
他の子たちも似たり寄ったりだった。
ゼインが近づくまで残っていた灯も、風に吹かれて飛んで行く。
最期を見届け、また一人、また一人と子供たちに歩み寄るゼイン。
中には、彼が近づく前から静かになっていた子もいた。
そんな彼ら彼女らを、ゼインは久しぶりの理力で運ぶ。
子供たちの大きさに作られた雲のような揺り籠。
赤紫色のそれへ一人一人丁寧に乗せ、彼らを待つ子供たちの元へと連れて行った。
◆◆◆
「ゼインにいちゃん!」
ゼインの姿を見つけたユーグが、彼に駆け寄る。
その後ろに続く少年少女たちを見て、再び涙をぽろぽろと零していた。
「……ごめん、俺が遅かったばっかりに」
「ぅぅん、にいちゃんの、せいじゃ、ないよ……」
首の動きと一緒に滴が飛び散る。
彼らの泣き声が廊下に木霊する。
それを聞きつけた他の子供たちも、その場に駆け付けた。
「ジルおにいちゃん!」
「ポーラねえちゃん!」
「キトリーちゃん!」
口々に見つけたこの名前を呼ぶ。
ここに集まったのは、全員五歳以上の子だけ。
他は皆、面倒を見ている五歳の子数人と一緒に、部屋の奥で固まって嵐が過ぎるのを待っていた。
「お前たちも、何が起こっているのか知っているのか……」
「うん……。ゼインおにいちゃんは、どうしてしってるの?」
一人の少女が純粋な疑問を口にする。
ゼインはそっと頭をなでつつ、目線を合わせてこう答えた。
「他のお兄ちゃん、お姉ちゃんから聞いたんだ。みんなを頼むって、言われてな」
「そうなんだ……」
悲しそうに呟きながら、少女は心配そうにゼインを見つめる。
「……ゼインおにいちゃんは、大丈夫なの?」
「――あぁ、みんながいるからな。絶対、力をつけて戻ってくるから」
未だ心配そうに見つめていたが、ゼインはすっと立ち上がり、横たわる少年少女を弔おうと告げ、外へと歩いていった。
孤児院の一角、広い庭の隅に移動する。
少し離れるように伝え、地面に手をかざすゼイン。
「……こんなことぐらいしか、してあげられないけど」
目を伏せて後、力強く手を握りしめる。
白っぽい赤紫色の靄が地面を覆うと、たちまち子供を隠せるぐらいの穴が生まれる。
その中に一人一人丁寧に入れていくと、上からそっと土をかぶせる。
本来の埋葬方法は火葬なのだが、この場の子たちだけでは不可能だった。
すべての土を盛り、その上から近くにあった大きな石を乗せていく。
大小バラバラなそれを転がらないように固定する。
最後に、皆揃って黙祷を捧げ、涙のまま孤児院へと戻っていった。
入り口でゼインは子供たちの背中を見送る。
「ゼインにいちゃん……?」
「俺はこっちだ。みんな、元気にするんだぞ」
まるで今生の別れのような言葉に、ユーグたちの顔が曇る。
自分の失言に気付いたゼインは、「あー……」と、視線を彷徨わせて次の言葉を探していた。
「ゼインおにいちゃん!」
そんな彼に、一人の少女が助け舟を出した。
名前を呼びながら近づいた少女は、桃色の髪を揺らしながら、小さな手を差し出す。
「――やくそく!」
涙を湛えながら突き出す小指に、彼は眉を落として前屈みになる。
「そうだな、約束だ」
「……ぜったい、だからね。ぜったい、かえってきてね……」
指を絡め、ゆらゆらと彼女の気が済むまで揺らす。
それを見ていた他の子たちも、その少女に続く。
十数人と約束を取り交わし、最後にユーグが指を差し出した。
「……がんばってね」
一人だけ、これからのゼインを励ます言葉を掛ける。
目を丸くしたゼインだったが、すぐさま破願して指を合わせた。
「――あぁ。ユーグも、俺がいない間、みんなのことを頼んだぞ」
「うん――」
最後の一人と約束を交わすと、ゼインは皆に見送られながら研究室へと向かう。
彼の姿が見えなくなっても、少年少女はその場に立ち尽くしていたのだった。
◆◆◆
――その日から、ゼインの地獄は始まった。
彼の宣言通り、すべての実験を一人に対して行うのだ。
数人分の投薬は当たり前。苦痛も今までの比ではない。
機械に繋がれるのも日常茶飯事。
頭や手足、腹にまで、用途の分からないものを付けては痛みに堪え、また次の機器を取り付けられる。
体に直接機械をねじ込まれもしたが、彼は奥歯を噛みしめるだけで弱音は吐かない。
実験の趣旨は始めに口頭で伝えられたが、何がどうなって、どんな作用をしているのか、幼い彼が理解できる由もなかった。
それでもなお、彼は必至に食らいついた。
悶絶して声にならない叫びを上げながら、一区切りがつくと、さっきの単語はどういう意味か――、この作用は何を引き起こしているのか――、と、まるで新米研究者のように質問を重ねていく。
エタンは面倒臭がりつつも、一つ一つ端的に答えていた。
ゼインが実験に参加して、一か月ほどが経過した。
その頃になってから、とある変化が見られた。
というのも、今まで言葉の意味や実験の解説を求めていた彼が、自ら提案するようになったのだ。
始めは子供の戯言と受け取っていたエタンだったが、何度も続くうちに、ほんの些細な提案を気晴らしに試してみることにした。
すると、どういう訳か、今までより良い結果の数値が観測されたのだ。
「――何をしたのですか?」
「言っただろ、そこの数値を変えてみろって。ただそれだけだ」
「おかしいですね。魔力の浸透圧からくる属性の均衡とその反発のバイアスなんて、まだ教えていないはずですが?」
「そんな長ったらしいことは知らん。ただ、魔力の動きを視ていたら、そっちのほうがいいと思っただけだ」
吐き捨てるゼインにエタンは目を細める。
彼の言葉は、実験中も常に魔力の動きを追っていたということ。
あの苦悶の表情からは想像もつかなかった。
そして何より、最近停滞していた研究の糸口になるかもしれない、とエタンは内心ほくそ笑む。
(これは、予想以上の拾い物だったかもしれませんね……)
「――いいでしょう。今はそのぐらいにしておきますが、後でしっかりとレポートとしてまとめさせます。その前に、色々と知識を詰め込む必要がありますが――」
「望むところだ」
「結構」
エタンは満足げに頷くと、準備があると言って奥の部屋へと消えていった。
その後ろ姿を睨みつつ、ゼインは研究室を後にする。
奥の部屋はまだ、ゼインの入室を許可していない、エタンの大事な個人ラボだった。
「これは、案外目的を達成できるやもしれませんね――」
独り、薄暗い部屋の中で妖しく光る瓶を見つめるエタン。
「在庫はあまりないですが、拒絶反応を起こしさえしなければ、彼からその因子を抽出できるはず。多少の劣化は避けられないでしょうが、そこは数で補えばいい。そのためにも――」
今はまだ時期じゃないと、メインディッシュのための下ごしらえを開始する。
カチャカチャと忙しなく器具を動かす中、彼の高笑いだけが木霊するのだった。
マイルドさを意識したら、意外と実験風景が簡素に……。
まぁ、あまり詳しく書きすぎると、R18指定されそうですので仕方なしですね。
実験部分をだいぶ端折ったため、次でラストにできそうです。




