50話 心の枷が外れるとき
聖法歴1019年9月23日
――彼と鉢合わせたのは、本当に偶然だった。
「お前も変わったな、オーギュスト」
「そうかな。私はいつもこんな感じだったと思うけど」
――平然としているが、内心はこの場をどう凌ごうかと頭をフル回転させていた。
「はっはっは、そんな訳ないだろ。あのオーギュストが、唯々諾々と人間風情に従うなんて、――昔のお前が知ったら発狂するだろうよ」
「そうかな? 案外、笑って受け入れると思うよ」
――周りは人気がない森の中。彼と出会うシチュエーションとしては最悪もいいところだ。
「ないな。なんせお前は、俺と同じ――」
彼の言葉はそこで途切れた。
理由は至極簡単。
新たな登場人物が現れたからだ。
「――それは何だ?」
「なんだこいつ――?」
二人の声が重なる。
どちらも相手に対して似たような認識を持っていた。
片方は存在そのものに疑問を持ち、もう一方は相手の力に疑問を抱く。
目を細め、眉をひそめ、互いを睨みあう。
一触即発な空気が漂っていた。
……正直なところ、彼と相対するには早すぎる。君も十分強いけど、相性は最悪と言っていい。何せ、君は切り捨てられないだろうからね。
私の呟きは、喉元でどうにか留められた。
「二人とも、いった――」
火花を散らす間に入ろうとした途端、幕が切って落とされてしまった。
◆◆◆
「――っ、大丈夫か、ゼイン!?」
一瞬で後ろに飛び退った彼は、その双眸を赤紫に変える。
彼の雰囲気が一変したことに気付くと、向こうは片眉を上げた。
「ほう? ただの人間があれに気付くとは、大したものだ。やはり私の抱いた違和感は間違っていなかったようだ」
「……」
興味をそそられたようで、ゼインをしげしげと眺めだす。
対するゼインは警戒心を最大限引き上げ、相手の出方を窺う。
「つくづく解せんな。見た目や感じる魔力は下等な人間のそれだが、内に秘めたものが全く視えん。何の『混ざりもの』か、判断できんな」
一人ゼインを分析し、余裕を見せる彼は、再び攻撃を仕掛ける。
今度は動じず、軽く腰を落とした姿勢のまま、魔法ですべて叩き落していた。
「なぁオーギュスト。お前なら、あれのことをよく知っているのではないか?」
「――残念だけど、君に教えられることは何もない。それに、私も彼のことはそこまでよく知らないからね」
おどけて肩を竦める。
私の答えに彼は面食らった様子で目を僅かばかり開く。
何か言いたげな眼差しを浮かべていたが、ゆっくりと目を閉じてゼインに向き直った。
「餓鬼、貴様の口から話す気はないか? 今ならそれで許してやろうではないか」
「お前に言う筋合いはない」
にべもなく断ると、彼は大袈裟に落胆してみせた。
「――残念だ。私の標本として飼ってやろうと思ったが、所詮は下等種族。検体として役立ててやろう」
「死ぬのはお前のほうだ」
ゼインが威勢よく返すも、彼の実力を舐めた訳ではない。むしろ、最大限に警戒していた。
「ふむ。なら、最近の流儀に則って挨拶でもしてやろう」
そう言い放った彼は、本来の姿を露わにする。
人の姿から悪魔の姿へと変貌を遂げた彼は、体格そのままに浅黒い強靭な肉体を曝け出し、瞳を妖しく光らせる。頭にそびえたつ立派な二本の角が、彼を上級悪魔であると告げる。
普段は魔力の節約のため、人間とそう変わりない姿をとる私たち悪魔が、生来の姿をする。それは、一種の敬意の表れであり、同時に無慈悲な死刑宣告でもあった。
この姿になった上級悪魔を倒すには、最低でもランクS帯の英傑が三人は必要になる。それも、名声を抜きにして、単純な戦闘力で見積もった状態のランクで、だ。
今期でいえば、「使徒」と「軍勢」、「無影」になる。「複写」と「行燈」、「堕墜」はギリギリ力不足だから、残っているのはこの三人になる。それでも正直なところ、不安でしかない。そのぐらい彼の実力は高かった。
「――私は正一位『群魔』のモラクス。貴様を屠る者だ」
「……」
ゼインは皺を一層深くする。
告げられた言葉を図っているようだった。
「ふむ、獣にしては道理をわきまえているようだな。この名乗りも、捨てたものではないようだ」
彼は感慨深げに頷く。
「ちっ――」
挨拶は済んだと、モラクスの攻撃がゼインに降り注ぐ。
雨のように激しく打ち付けながら、逃げるゼインを追って地面に溝を作っていった。
土煙が晴れる。
後に残ったのは、無数の棘。
人差し指サイズの鋭い凶器が蛇のようにとぐろを巻いていた。
「躾のなっていない獣には、鞭を与える他ないだろう」
ゼインが名乗らなかったことに対する仕打ちのようで、冷めた目を向けていた。
視線の先、離れた場所でゼインが手を付けて睨みつける。
次の瞬間、彼はモラクスの目の前まで移動し、掌底を放つ。
轟音と共にその場を離れるゼイン。
彼の攻撃は、モラクスの生み出した大木に防がれ、それを横たえたのみ。
モラクス本人は、木の後ろで悠然と佇んでいた。
「流石、知能のない獣。膂力だけは見事なものだ」
嘲るような笑いを浮かべるモラクスに、ゼインは無言を返す。
再び飛び掛かるゼインの目の前に、今度は蔓が巻き付いた人型が現れた。
思わず私は目を見張る。
それに向かってゼインは掌底を放った。
「――っ、ダメだゼイン!!」
遅いとは分かっていても、私は制止の声を上げた。
彼の攻撃によって迎える未来に、無意識に奥歯を噛みしめる。
固まって動かない彼を見ていると、最悪の想像が掻き立てられる。
ところが、私の予想に反して、人型植物は欠損なく形を保っていた。
振りぬかれた彼の掌は、寸でのところで停止していた。
「――ほう。野生の勘か何かかね。そのまま殺せばよかったものを」
モラクスの言葉がそれの正体を指し示していた。
ゆっくりと這う蔓が、その中身をゼインに開示する。
「外道が――」
「なに、私に歯向かった相手へ慈悲を与えるほど、優しくはないのでね。むしろ、活用してやっていることに、感謝して欲しいものだよ」
中から現れたのは一人の女性。
年齢は定かではないが、彼に囚われてからどれだけの時間が経過したのか、その体が物語っていた。
ミイラのように乾ききった肉体のまま、強制的に命を生き永らえている彼女は、五感を失ってなお、すすり泣くような表情をしていた。
自ら命を絶つこともできず、彼が死を与えることもしない。
モラクスは“歯向かった”と言うけど、実際のところはどうだか。彼は自分の気分を損ねたというだけで、囚われた彼女のような扱いを平然とする男だ。些細なことで罰と称して責め苦を与えるのだ、本来であればここにいていい悪魔ではない。
なぜそんな悪魔が野放しなのかと言われれば、完全に魔界の――そして私の落ち度だった。
今でこそ魔界から地上界への出入りは厳密に管理されているが、二千年ほど前までは自由に行き来できた。
界を渡るには専用の“路”を作る必要があるのだが、それを「盟約」が結ばれた際、片っ端から潰していった。今あるのはそれ以降に作られた“路”のみだけだ。
……ただ当然のことながら、それを快く思わない悪魔もいた。そういう連中が幾つかの“路”を隠蔽し、破壊されたと偽装した。
「盟約」の効力はどの“路”を通ろうが発揮するとはいえ、登録外の悪魔が地上界に出てしまうのは問題だった。
そうした悪魔を取り締まり、魔界に送り返すのが私の役目なのだが、目の前の彼――モラクスは桁が違う。
魔王クラトルと一対一でも戦える能力を秘め、それでいて魔界では自分の領域に引きこもり、滅多に姿を現さない。その場所がどこにあるのかは未だ不明、好き勝手に地上界を行き来する厄災のような存在だった。
考えている間にも、ゼインは果敢に攻める。
そのたびに別の人質を差し向け、彼の手を止めさせる。
やっぱりこうなったか――。
想像通りとはいえ、これは仕方ない。
ゼインのことだ、悪人でもない相手に踏ん切りがつかないのだろう。
……彼の心の負担を減らせるか分からないけど、その責は私が背負うよ。
「――ゼイン、彼らを解放してやってくれ。君は私に命令されただけだ、君の所為じゃない。……死も、救いになるのだから」
「――っ」
私の言葉に奥歯を噛みしめるゼイン。
その様子をつまらなそうに見つめるモラクス。
「――がっかりだ、オーギュスト。お前はそこまで落ちぶれたのか」
「君は昔のままだね、モラクス」
彼の相手はもうしないことにした。
どれだけ強かろうと、独りよがりでは誰もついて来ない。
長く生きているのにそれすら分からないとは、何とも残念な男だよ。
最後に視線を向けると、彼は苛立ったように顔を歪めた。
口を開いて何か言い募ろうとして、彼は目の前の光景に釘付けになった。
何度目か、ゼインの目の前に現れた虜囚。
姿を見せた男性の首元を、ゼインはそっと掴む。
途端、彼は紫炎に包まれた。
「……ふふふっ、あははははは! そうか、そういうことだったのか!! 道理で視えん訳だ。貴様の内に秘めたるものは『偽神』の権能だったのか!!!」
合点がいったと、一人哄笑するモラクス。
その表情には歓喜が溢れ、目も燦々と輝いていた。
「……彼の軛から外そうとしているのかい、ゼイン」
私の独り言は、モラクスの高笑いに隠れた。
◆◆◆
ゼインの力を欲したモラクスは、次から次へと人型を投入する。
その数はどれだけになるのだろうか。
視界を埋め尽くさんばかりに繰り出される彼らは、今までの犠牲者の数を表していた。
他にも、生きた人間そのままの人や、半分植物になりかけた人、果ては顔以外樹木にされ、その枝や蔓を手足のように動かしながら迫る人まで見受けられた。
あまりの数に、私は撤退の二文字が頭をよぎる。
たとえゼインだとしても、この人数を浄化するのは無理だ。
ただ殺めるだけなら可能性はあるが、今度はモラクスの魔の手が迫りくる。
改理の権能を使ってまで魂を輪廻に戻そうとする心意気は買うが、そこまですると、ゼインの身が危なかった。
「ゼイン! もう十分だ、君は一度引いてくれ! 後は私が何とかするから!」
私の叫びは彼に届かない。
ちらりとこちらを見ただけで、すぐ彼らに向き直る。
彼らから繰り出される攻撃を躱し、モラクスの横やりも避け、一人一人に肉薄して浄化していく。
しばらくは平然と続けていたゼインも、ものの数分で息が上がり、額に汗を浮かべていた。
「なかなかやるではないか。その権能は五つの内のどれだ? 生憎と、私は『力の恒星』以外知らないものでな」
ゼインを睥睨するモラクスは、余裕の笑みを浮かべていた。
さっきまで襲わせていた人型たちも、今は彼の傍で待機している。
片やゼインは、私の隣で息を整えつつも、モラクスを睨みつけていた。
「ゼイン、もう十分だ。君がこれ以上無理をする必要はない。君の帰りを待つ人が沢山いるだろう」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
またしても私を一瞥しただけでモラクスに視線を戻す。
どうしても動かない彼に、私は残酷な一言を告げる。
「――ゼインがいなくなったら、誰がニネットを守るんだい?」
「分かってるっ!!」
彼が声を荒げる。
歯噛みする彼は、何かに嫌気がさしたように顔を歪める。
始め、私に対して怒りを露わにしたのかと思ったけど、握りしめた拳は何か、覚悟を問うように自らの体に押し当てていた。
「なるほど。そいつを手籠めにすれば、貴様も私に従うかね?」
モラクスの言葉が引き金になった。
先ほどまで力を込めていたゼインが、ふっと力を抜く。
一瞬、諦めたのかと思いもしたが、それは間違いだったと気付く。
彼の目は、今までに見たことないほど冷淡で刺すような恐ろしさを秘めていた。
「……この力だけは、使いたくなかったんだがな――」
彼のか細い独り言が聞こえてきた。
何とか聞き取りはしたものの、意図を尋ねる前に俯いてしまって、表情を見ることができなかった。
しばしの沈黙が訪れる。
微動だにしないゼインに、思わず声を掛ける。
「どうしたんだい、ゼイン?」
私の問いかけにも答えず、顔を伏せたままだった。
ふと、彼からきらりと光るものが落ちた。
見間違いかと思ったが、次第にそれが地面を濡らす。
空を見上げると、少し前まで顔を覗かせていた太陽は雲に隠れ、暗雲が立ち込めていた。
どこかでギリッと、噛みしめる音が聞こえてきた。
視線を下げると、彼が胸を押さえ、苦しみだしていた。
「――大丈夫か、ゼイン!?」
慌ててしゃがみ込み、彼の顔を見上げると、くすんだ赤紫の瞳から涙が溢れ、何かを堪えるように顔を歪めていた。
明らかな尋常ならざる様子に、私は彼の体を揺さぶった。
「……最悪の気分だ」
私の問いの答えなのか、ただの独り言なのか判断がつかない。
原因も分からず、ただひたすらに心配することしか私にはできなかった。
「どうした、茶番はもう終わりかね?」
退屈そうなモラクスの声が響く。
ゼインが震える呼吸を整える。
数度の深呼吸。
最後に一度、大きく息を吸うと、目をゆっくりと閉じた。
静かに吐かれる息。
一時の凪。
小さく呼吸すると、ゼインは勢いよく顔を上げる。
見開かれた双眸は紫紺に染まっていた――。
忽ちゼインに魔力が集まる。
急激な魔力の波に、モラクスにも驚愕が広がった。
奥歯を噛みしめ、口を歪に半開きにするゼインは、頬を伝う涙に構わず、モラクスに肉薄した。
「なっ――!?」
彼の速度を目で追えなかったモラクスが声を漏らす。
反射的に腕を動かしたものの、彼の掌底を防ぐことができず、体が目にも止まらぬ速さで吹き飛ぶんだ。
これしきの事で倒されたりはしないだろうけど、かなりの痛手にはなったはずだ。その証拠に、モラクスの周りを取り囲んでいた人質たちが力なく倒れる。きっと、余計なことに力を回すことを止めたのだろう。
「まさか、これほどとは……。益々貴様が欲しくなった」
土煙の奥、木々に受け止められるように背を預けていたモラクスが、腹に刻まれた打撃跡を忌々しげに眺める。
上級悪魔だけあり、肉体も頑丈だった。
そんな彼を尻目に、ゼインは倒れ伏す被害者たちを見つめる。
彼らにそっと手をかざすと、まるで蕾が芽吹くように一斉に紫炎が燃える。
妖しく揺らめく炎たちは、ゼインを取り囲み、踊るように舞う。
束の間の景色だったが、最後に立ち昇る炎はどこか優しげで、彼を励ますようにも見えた。
ゼインはすべて浄化しきると、ゆっくりとモラクスを振り向いた。
その瞳に映るのは虚無だけ――。
既に彼はモラクスを視ていなかった。
「――ッ、貴様! 下等種族の分際で!!」
「長命種だからなんだ。長く生きていて、やってることは子供のそれだぞ」
頭に血が上ったモラクスが、ゼインに吶喊する。
上級悪魔の肉体と膂力、それと、彼の膨大な魔力を併せ持った強力な攻撃。
数多の攻防も、駆け引きも、最早、私の目では早すぎて捉えられない。
ただ、結果だけはすぐに分かった。
ゼインの右腕が、モラクスの心臓を貫いていた。
私が制止の声を上げる間もなく、彼は紫炎に包まれ、声も上げられずにこの世から姿を消したのだった。
◆◆◆
「――すまなかった、ゼイン!」
モラクスを倒した彼は、その場から一歩も動かず、立ち尽くしていた。
私は近寄って謝罪を口にした。
しばらく頭を下げていたが、何の反応もないことを不思議に思い、恐る恐る顔を上げる。
「――っ」
彼はゆっくりと目を閉じ、そのまま倒れ込んでしまった。
「危ないっ!」
何とか支えて顔を覗くと、彼は死んだように動かなかった。
浅い息遣いと脈を確認して生きていることだけは分かったが、異常事態なのは明白だった。
すぐさま転移で本部に戻り、彼の容態を診てもらう。
彼の頬には、閉じられてなお、涙が伝い続けていた――。




