第1話 生き残った彼
いつも通りにしようと思うほどに緊張する。
香奈を隣に乗せている時はいつも安全運転を心がけているが、今日はいつも以上に注意を払いながら運転をしている。絶対に事故があってはならないし、レストランまでの道を間違えてもいけない。
「今日の店はさ、島崎に教えてもらったんだけど、肉料理が旨いって言ってたよ」
「島崎君が教えてくれるお店って、いつもお勧めがお肉じゃない?」
「あーそうかも」
雄一は助手席の香奈とこれから向かうレストランがどんな店で、どういう経緯でそこに決めたかを語っていた。そうして何か喋っていないと雄一は落ち着かない。今日は彼女に大事な話をしたいと伝えてあるからだ。
付き合いの長い恋人同士で大事な話と言えば、プロポーズと相場が決まっている。雄一は後部座席にあるジャケットのポケットに彼女に送る指輪を入れてある。この日に向けて雄一は何度もシミュレーションをしてきた。
信号が赤に変わり、雄一は車を止めた。傘を差しながら横断歩道を渡る人を見ながら、深呼吸をして気持ちを落ち着けようとした。大丈夫だと自分に言い聞かせながら隣に座っている香奈をちらりと見た。彼女は雄一の視線に気が付くと笑いながら声をかけた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
信号が青に変わった。雄一は左右を確認してから、車を発進させた。そして交差点に入った瞬間、そこでぶつりと雄一の意識は飛び、混濁した闇の中に彼の精神は落ちていった。
『本日午後六時ごろ、東京都新宿区の交差点にてトラックと乗用車による衝突事故が発生しました。警察の発表によると、五十代の男性が運転していた大型トラックが信号無視して交差点に進入したところ、直進していた乗用車と激しく衝突したものです。この事故で、乗用車を運転していた会社員の男性は意識不明の重体となり、現在も病院にて治療を受けています。また、助手席に座っていた橋田香奈さんは病院に搬送されましたが、まもなく死亡が確認されました。トラックの運転手からは基準値以上のアルコールが検知され、酒気帯び状態及び信号無視が事故の直接の原因とみられ、警察はトラック運転手の大庭彰浩容疑者を現行犯にて逮捕しました』
雄一が目を覚ましたのは、事故の次の日だった。彼の枕元には両親がいて、意識を取り戻した彼を見て泣いて喜んでいた。雄一はしばらく何も考えられず、ただぼうっとしたまま医師による検査を受けた。
自分の状態、周囲の人々を徐々に理解できるようになると、重要なことを思い出した。
「なぁ、母さん、香奈もこの病院にいるの?」
雄一の目は未だ虚ろだったが、相手の表情を捉える程度のことはできた。顔を向けた先の母親の顔がみるみる暗くなり、止まっていたはずの涙が再びぽろぽろ流れ始めた。
「泣いていても分かんないだろ答えてくれよ」
すると母親の背後に立っていた父親が前に出ると雄一の顔をじっと見ながら口を開いた。
「香奈さんは、亡くなられたんだ」
その言葉が本当かどうかを確かめたいという雄一の言葉に押されて、医師の了解を得て、雄一と両親はとある部屋に通された。台の上にシーツがかぶせられ、一目で誰かがそこに寝かされていると分かった。
雄一は片手と片足を怪我しており、歩くのに難儀したが、父親に体を支えてもらいながら台に近付き、シーツをめくろうとした。
「損壊が激しくて、見ない方が良いかと」
傍にいた人間にそう言われ、雄一は手を止めた。そして、彼の脳は入ってくるものを処理するどころか記憶すらせず、虚無へ放り込むだけの装置となりはて、雄一は人形のようにそこに立ち尽くしていた。
雄一の退院、香奈の葬式が終わり、周囲が静かになった。雄一はしたいこともすべきことも分からなくなり、部屋のソファに座っては何もせずに一日が終わっていた。
ピンポーン。
来客のようだ。雄一は両親が様子を見に来たのかと思い、足を動かした。インターホンを確認すると、島崎がいた。
島崎をリビングに通し、ちゃぶ台の傍に座布団を敷くと、そこに座るよう言った。弱々しい声で、何をするにも最小限度のエネルギーで動いている雄一を、島崎は心配するような目で見た。
「飯、ちゃんと食ってるのか?」
「うん、まぁ」
「今日の晩飯は?」
「まだ、これからかな。何を食おうかな」
雄一は無理やり笑顔を作ろうとしたが、それはぎこちなく、島崎は痛々しい彼の姿を見ていられなかった。それでも、今日はある目的があって来た以上は引き下がれないと島崎は自分に活を入れた。
「酒はもういいのか?」
「うん、医者には問題ないって言われた」
「なら飲もう」
そう言って、島崎はビニル袋からビールとつまみを取り出すと、ちゃぶ台の上に広げた。二人で飲み食いするには多いように思えたが、雄一は島崎のそんな気遣いが心にしみて、「ありがとう」と礼を言った。
二人は香奈を悼んで献杯すると、ちびちびと飲み始めた。島崎は雄一が仕事を休んでいる間に会社であった出来事を彼に語って聞かせた。どんなにつまらないことでも大げさに話しては雄一から笑顔を引き出そうとした。
雄一はそんな島崎の思いやりが嬉しくて、徐々にふさぎ込んでいた感情が表に出てくるようになった。ただ、それは楽しさや嬉しさではなく、彼女を失った悲しみだった。
「香奈、香奈」
雄一は彼女の遺体と対面してから、脳があらゆることを拒絶していて、悲しむことすらできなかった。そうして放心した日々を送っていたが、ここにきて堰を切ったように涙が溢れてきた。
用意した酒が半分以上なくなった頃には、雄一はただ悲しみに明け暮れるのではなく、自責の念に囚われていた。
「どうして、俺だけ生き残ったんだ」
「そんなこと言うなよ。お前だけでも生きていてくれて、俺は嬉しいよ」
雄一は手に持っていた缶ビールを飲み切ると、その缶を握り潰した。
「香奈は、俺だけ生き残ったことを怒っているよな」
「そんなわけないだろ。お前が生きていてくれて、彼女は喜んでいるよ」
雄一は焦点の合わない虚ろな目でちゃぶ台を眺めていた。
「いっそのこと、香奈が俺を殺しに来てくれればいいのに」
「馬鹿な事言うなよ。彼女がそんなことをするわけないだろ」
雄一は項垂れ、開けていない缶ビールに手を伸ばした。島崎は流石に飲ませすぎたと反省し、彼の手を押さえた。
「飲みすぎだ。今日はもう休もう」
「あと一本」
「ダメだ。残りは置いていくけど、飲むなら明日以降にしろ」
雄一はしばらく黙っていたが、やがて「うん」と言って手を引っ込めた。そして、島崎は空き缶を持ってきたビニル袋に集め、それ以外のごみをゴミ箱に放り込んだ。
そうやって島崎がテキパキと片付けている横で雄一は床に寝転がりぼうっとしていた。島崎はちゃぶ台を布巾で拭いて、そこに水を入れたコップを置いた。
「水飲めよ。俺は帰るからな」
雄一は体を起こし玄関まで島崎を見送った。
「今日はありがとう」
「良いよ。だけど、変なこと考えるなよ」
島崎が真剣な目で雄一を見ると、雄一はよろつきながらも頷いて見せた。
「元気になったら、会社に出てこいよ」
そう言うと島崎は部屋を出て行った。雄一はドアを開けたまま島崎に手を振り、彼が廊下の角を曲がって見えなくなると、静かに部屋の中に戻った。
さんざん泣いてすっきりしたのか、雄一は出社することにした。復帰一日目は休んでいる間の状況を確認し、彼の代わりに仕事をしてくれた人たちからの引継ぎで終わった。
帰宅時、電車に乗り込むと雄一はスマホを見た。当たり前だが香奈からの連絡はない。いつもなら仕事が終わるタイミングにお互いにメッセージを送り合うが、そんなことはもうできない。期待していたわけではないが、それでも雄一は沈んだ目でスマホを見た後、それをポケットにしまった。
駅を出て、茫然と歩いているうちに、自宅に着いていた。雄一は夕食を何も買っていないことを気付き、島崎が置いていったつまみと酒を夕食代わりにすることにした。
ビールを飲みながら、スマホやパソコンに保存されている香奈の写真や動画を眺めていた。画面の中の彼女の姿を視覚に収め、動画から流れる彼女の声を聴覚が捉える。初めはただ眺めて、聞いているだけだったが、自然と手が触覚を求めた。
彼女はこの小さな画面の中にしかいない。彼女に触れたい、抱きしめたいという願望が雄一の中で大きくなっていった。平面ではなく、立体として、彼女と触れ合いたい。
雄一はそう思って手を伸ばして何かを触れようとするが、それはただ空を切るだけだった。そして何本かのビールを空けて、酔った頭で彼女に触れる方法がないかを考えた。
「3Dプリンタで作れないか」
彼女の姿を3Dプリンタで再現する。その発想は雄一の体と精神をはつらつとさせた。彼のまどろんだ目は何かに向かって突き進むように爛々とした。
深い考えがあるわけではなかった。ただ、何かすがるものが欲しかった。受動的に映像を見るだけでなく、行動を起こしたかった。
雄一は酔い覚ましに水を一杯飲み、冷静になると、ただの3Dプリンタでは人のようにならないことを思い出した。そこで、人の皮膚のようなものをプリントする方法を調べ始めた。
近年では軟質材料を造形する3Dプリンタや材料が販売されている。それらを試すのも手だが、もっと人の体に近いものはないのか、様々な検索キーワードを入れて調べた。どれだけの時間が経っただろうか、雄一の充血した眼が一つの検索結果で止まった。
「生体3Dプリンタ?」
恐る恐るそのページを開くと、どこかのオンラインショップのページのようだった。
「オンラインショップ・ストレンジフューチャー?」
左上にショップ名が表示されているが、見たことのない名前とロゴだった。サイト自体は一昔前のホームページ作成ツールで作ったような安っぽいもので、このサイトが昔からあるように思えた。
雄一はサイトのあやしい雰囲気を訝しがりながらも、生体3Dプリンタの商品説明を読んだ。画像を見る限り、それは大きいだけのただの3Dプリンタのようだった。
『これまでの3Dプリンタでは造形が困難だった生体材料が、本製品を使うことで造形することができます。筋肉、骨、内臓、更には脳に至るまで、脊椎動物の生体組織であれば何でも造形可能です。材料も市販されている動物の肉でOK! あなた好みの生体フィギュアを作ってみてはどうでしょうか?』
商品説明を読むと胡散臭さが倍増し、似非科学商品を売っているサイトなのかと思った。しかし、本当に人の体のようなものを造形できるなら試してみる価値はある。価格を見ると、それほど高いわけではない。むしろ、できることに対して安すぎる。
「本当にできるなら」
雄一は気が付くと購入ボタンを押し、画面に支払い完了と表示されたページが出ていた。それを見ながら雄一はこんなものを買っている精神の異常さを痛感する冷静な自分と、これで香奈を作れると期待するおぞましい自分がいることに気付いた。
数日後、雄一が仕事から帰ると、はかったように呼び鈴がなった。雄一はインターホンに出るとそれは荷物の配達員であることが分かった。時間を見ると二十時を回っている。こんな時間に配達に来るなんて珍しいなと思いつつ、ドアを開けた。