嫁に逃げられたので、地の果てまで追いかけてみようと思います
目が覚めると、隣に嫁の姿がなかった。
篠崎譲、28歳。俺には結婚して3年になる嫁・美紗がいる。
美紗とは高校時代に出会ったわけだから、彼女との付き合いはかれこれ10年以上になる。
世のカップルは「3ヶ月の壁」を乗り越えられず破局することが多いと言うが、俺たちに関してはそんなこともなく。3ヶ月の壁などハードルを飛び越えるようにいとも容易く跨ぎ、気付けば10年経った今でもラブラブイチャイチャしていた。
俺の1日は美紗に「おはよう」と言うことで始まり、美紗に「おやすみ」と言うことで終わる。それが当たり前なのであって。
だからこそ、開口一番美紗に「おはよう」と言えない現状は、異常……いや、それどころか緊急事態といえた。
……落ち着くんだ、俺。一度深呼吸をしてみよう。
美紗が隣にいないからって、誘拐や拉致監禁などという最悪の可能性を瞬時に脳裏によぎらせるな。
もしかしたら、珍しく俺より早く起きているだけかもしれない。うん、きっとそうだ。
そう思い、俺はリビングに向かうのだが……そこに美紗の姿はなかった。
「美紗!?」
お風呂にトイレに、更にはクローゼットの中までも。俺は室内を隈なく探す。……美紗は、やはり見当たらない。
「美紗……どこに行ったんだよ?」
美紗のいない人生なんて、ボールのないサッカーの試合と同じだ。水の張られていないプールと同じだ。
つまり、全くもって意味を成さないということで。
一人途方に暮れていると、ふと俺の視界に一枚の手紙が入ってきた。
ダイニングテーブルに置かれたその手紙を、手に取り、俺は一読する。手紙には、こう書かれていた。
『あなたはいつも、私を愛してくれている。家事だって、そう。全部あなたがやってくれているじゃない。私はいつだって、その愛に甘えてしまっている。だから……私たち、少し距離を置きましょう』
この手紙を読めば、美紗が自宅にいない理由も判明する。彼女は……出て行ったのだ。
このまま俺と一緒に過ごしていたら、ダメ人間になってしまう。クイーンオブニートになってしまう。美紗はそう考えたのだろう。
まったく。そんな心配、杞憂だというのに。
俺のやっていることなんて、ほんの少しだけだ。
朝美紗より早く起床して、朝食を作るだろう。それから家を出るまでの間に、室内の掃除をする。仕事から帰ってきたら、お風呂を入れて、夕食を作り、1日分の洗濯を済ませてしまう。俺の中では、畳み終わった洗濯物をタンスにしまうまでが洗濯だ。
加えて最近は、なかなか寝付けない美紗の為に子守唄を歌ってあげてるっけ。
自分の1日の行動を思い返して、俺は気が付く。……美紗の言う通り、家事の一切を俺がやってるな。
別に家事は好きだし、俺が働いている分美紗が休めていると思えば不満なんかこれっぽっちもないんだけど。
しかし美紗は、それを「甘え」と捉えたようで。要するに、自立する為の期間が欲しいということか。
「美紗……お前の気持ちは、よくわかったよ」
彼女の気持ちは理解した。理解した上で……クシャッと、俺は手紙を握り潰した。
うん、知ったことかそんなもの。
俺は美紗と一緒にいたい。離れたくない。
「おはよう」も「おやすみ」も、「いってらっしゃい」も「おかえり」も、毎日言って欲しい。
まだ美紗に「おはよう」を言えていない現状は、俺にとって猛毒でしかなかった。こんな日常があと数日続いたら、間違いなく俺は寂死してしまう。
俺はスマホを手に持つと、上司に電話をかける。
朝早いにもかかわらず、上司は数コールで電話に出てくれた。
「課長、おはようございます。実は急な話で本当申し訳ないんですけど……一身上の都合で、超長期のお休みいただきます。余ってる有休、全部つぎ込んで下さい」
美紗を探すのに、何日かかるかわからないからな。貯めておいた有休を、ここで一気に消化してやる。
「待ってろよ、美紗」
たとえ地球の裏側にいようが、銀河系の彼方にいようが、必ずお前を見つけ出す。そんな覚悟を胸に、俺は外に出るのだった。
◇
人探しの方法は、いくつも存在する。
現代社会において最もポピュラーな手法といえば、SNSの活用だ。
俺は美紗の投稿をチェックする。
流石に自分の居場所を書き込むような真似はしていない。しかし、写真さえ添付されていれば十分だ。
背景として写り込んでいる看板や道路の案内標識で、彼女の居場所を特定することが出来る。
俺は写真から得た情報をフル活用し、美紗の現在いる場所を突き止める。
……ふむ。恐らくここは、隣の県だな。
居場所が判明したら、善は急げだ。美紗が移動する前に、俺も現地へ向かう。
現地に着いた俺は近隣住民への聞き込みを重ね(めっちゃ不審がられた)、美紗の宿泊している旅館を見つけ出すのだった。
数分後。
旅館の一室で、愛し合う夫婦は感動の再会を果たすことになる。
「美紗! 迎えに来たぞ!」
「ちょっ! どうしてここにいるのよ!?」
バンッと、勢いよく旅館の襖を開けると、、予想だにしない俺の登場に美紗は心底驚いていた。
「ていうか、何で部屋に入れたのよ!? まさか旅館の人に黙って入ったわけじゃないわよね!?」
「そんなわけないだろ? 俺は美紗の夫であって、犯罪者じゃない」
「たった数時間で居場所を突き止めるあたり、若干ストーカー気質があると思うけど?」
ストーカーとは、失敬な。全ては愛ゆえだというのに。
俺は鞄の中から、綺麗に折り畳まれた一枚の紙を取り出す。それは……俺と美紗の婚姻届だった。
「婚姻届を見せて、「こいつ、俺の嫁です」って言ったら通してくれた」
「婚姻届を持ち歩くな!」
美紗は俺から婚姻届を奪い取る。
「どこの世界に婚姻届を常備してるバカがいるのよ? ……って、これコピーじゃない」
「原本を持ち歩いて、万が一失くしたり盗まれたりしたら大変だもんな」
因みにコピーだけでなく、スマホの中にデータとして保存してあったりもする。
「本当……こんなものまで持って、何で追いかけて来たのよ」
ハァと、美紗は溜息を吐く。
「私はね、あなたに依存したくない。あなたの隣に立って、一緒に歩いていきたいの」
「自立する為に一旦俺と距離を置こうとしたんだよな? 手紙に書いてあった」
「わかっているなら、どうして……?」
美紗の気持ちを改めて聞いた俺は、彼女に優しく微笑む。そして一言、こう言うのだった。
「取り敢えず、キスしようか」
「今のシリアスな流れと文脈からどうしてそうなる!?」
こちとら朝から美紗に触れられていないんだぞ? まずはキスだ。その次にキスだ。それからようやく話し合いに移るとしよう。
口では嫌々言いつつも満更ではない美紗と、ひと頻りキスを堪能する。
その日俺は、彼女と一緒に旅館に泊まっていくことにした。
翌朝。
目を覚ますと、またも隣に嫁の姿はなくて。
代わりに枕元に、一枚のメモ書きがあった。
『追いかけて来ないで下さい』
俺はそう書かれた手紙を取ると、真っ二つに引き裂く。
よし! 美紗を探すとしようか。
◇
次なる美紗の潜伏先は、探す必要がなかった。高校時代の同級生から情報提供があったのだ。
なんでも美紗が突然転がり込んできて、困り果てているらしい。
同級生にこれ以上迷惑をかけない為にも、俺は一刻も早く美紗を迎えにいくことにした。
ピーンポーン。
玄関チャイムを鳴らすと、中から同級生が出てくる。
しかしてっきり美紗が俺の胸に飛び込んできたものだと勘違い俺は、勢い余って同級生に抱き着こうとしてしまった。
「美紗! 会いたかったぞ!」
「やめろ! 抱き着くな! 唇を尖らすな! 私は美紗じゃねぇ!」
10秒かけて平静を取り戻した俺は、同級生の自宅に上げて貰った。
「随分あっさり入れてくれるんだな」
同級生とはいえ、彼女も女性。一人暮らしの部屋に、男を簡単に入れるのはどうかと思う。
「それだけ参ってるってことだよ。……喧嘩やDVならともかく、要は「大好きすぎて死んじゃうから一緒にいれない」って言っているようなものだろ? そんなんで生活サイクル崩されるこっちの身にもなれっての」
俺への文句(同級生から言わせれば、実質惚気)を吐き出す美紗の顔は、それはもう「ごちそうさま」と言いたくなるくらい緩み切っていたらしい。そんな話を聞いたら、こっちの顔まで緩んでしまう。
「それで、美紗は?」
「買い物に行かせてる。ただあいつに会わせる前に、お前と話しておこうと思って。……美紗は暫く距離を置きたいと言っているが、あんたはどうするつもりなんだ?」
「まずは美紗と色々したい」
「人の部屋で盛り始めたら、全裸だろうが追い出すぞ?」
「追い出されたって、なんら問題ない。いつとかどこでだとか、そんなものどうでも良い。大切なのは、美紗がそこにいるという事実だ」
「格好付けているところ悪いけど、今のあんたの発言、単なる変態のそれだからな?」
変態発言だろうが、美紗に対する発言ならば全て許される。全ては、愛故に(愛という単語は万能なのである)。
「冗談はさておき、あんたこれからどうするつもりなのかよ? 美紗に逃げられて、彼女の居場所を突き止めて、そしてまた逃げられる。そんないたちごっこを、いつまで続けるつもりなんだ?」
同級生の言うことはもっともだった。
俺は美紗をどこまででも追いかけるつもりだけど、本音はやはりずっと一緒にいたいのだ。
二人の愛の巣で、可能な限りイチャイチャしたい。
そりゃあ俺が過保護すぎる自覚はあるさ。だからダメ人間になる前に出て行こうと決心した美紗の気持ちも、理解出来る。
でも……俺にだって、譲れない思いがあるわけで。
「俺はいつまでも、たとえ地の果てまでも美紗を追いかける。俺が美紗の気持ちを理解しているように、彼女が俺の気持ちに気付いてくれるまで」
そして俺の気持ちに気付いてさえくれれば、きっと美紗は我が家に帰ってきてくれる筈なのだ。
「……これは二人の問題だ。あんたの中で答えが出ているのなら、私は口出ししないよ」
「だから早く美紗を連れ帰れと?」
「そういうこと。……ほら、お姫様のお帰りだ」
同級生が玄関を指差すと、そこには両手で買い物袋を提げた美紗の姿があった」
「譲、何でここに!?」
「私が連絡したのさ」
同級生が、あっさり自白する。
「ちょっと! 余計なことしないでよ!」
「こうでもしなきゃ、お前何日も居座るだろうが!」
本当に何日も泊まるつもりだったのか、美紗は図星を突かれて「うっ!」とたじろいだ。
俺はそんな美紗に、手を差し出す。
「「おかえり」は言わない。お前の家は、ここじゃないんだから。……さあ。俺たちの家に、一緒に帰ろう」
「……っ」
買い物袋を置き、一瞬俺の手を取ろうとした美紗だったが……すぐにその手を引っ込める。
本当、頑固なお嫁さんだ。そんなところも可愛いんだけど。
しかし、これはもう少しで落ちるな。そう判断した俺は、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「今夜はお前の好きな料理を作ろう。お風呂だって一緒に入ろうぜ。久しぶりに洗いっこしようか。寝る前は子守唄の代わりに、お前への愛を囁いてやる。何時間でも、な」
これこそ、俺の必殺の口説き文句。因みにすぐ近くで同級生が「うわぁ……」と漏らしていた。
同級生にキモいと思われたって、構わない。重要なのは、美紗にどう思われているのかだ。
美紗の反応はというと、
「そういうことじゃないって、何度言っているのに。……バカーーーッ!!!」
俺に手紙を投げ付けて、美紗は同級生の家から走り去る。
俺は投げられた手紙を、開いてみた。
『本当! お願いだから探さなーー』
「断る!」
俺は手紙を読み終える前に、破り捨てるのだった。
◇
同級生の家からも逃亡した美紗が、今度はどこに向かうのか?
俺はもう、SNSや友人への聞き込みでの情報収集を行わなかった。
美紗のことなら、誰よりもわかっている。
彼女が次どこへ向かおうとしているのか、予想がついていたのだ。
「頑張れよ」と励まされて同級生の家をあとにした俺は……自宅へ戻ってくる。
俺の読みが正しければ、美紗はここにいる筈だ。
鍵を開けて、自宅に入ると……果たして美紗は帰ってきていた。
何度も居場所を突き止められているのだ。美紗に驚いた様子はなく、「やっぱりか」と呟いてみせた。
「灯台下暗しと思ったんだけどね。見つかっちゃったか」
「どこに行こうが、美紗の居場所なら匂いでわかる」
「いや、変態か!」
「因みに今日のシャンプーはいつもと違うやつだ」
「本当に変態だった!」
人の名推理を、変態発言扱いするんじゃない。
「本当、譲はいつもそうよね。変態でストーカーで、あとたまに愛が重く感じる。だけど……そんな欠点を帳消してもお釣りがくるくらい優しくて、いつも私を想ってくれて。いつのまにか私は、あなたがいないと生きていけなくなっている」
「……それの何がいけないんだ?」
「対等じゃないと言っているの。現状、私があなたに一方的に依存しているだけ。その証拠に、私がどこにいようと、あなたはすぐに見つけ出す。でも……きっと私には無理だと思うな」
それに関しては、激しく同意する。
「そうだろうな。そもそも俺は、お前の前からいなくならない。だからお前が俺を探す機会も必要、一切ないんだ」
「そういうことを言っているんじゃないって……」
「何でわかってくれないの?」と美紗は溜息を吐くが、俺は全て理解しているつもりだ。
寧ろわかっていないのは美紗の方で、だからこそ会話が食い違う。思いがすれ違う。
……仕方ない。
俺も自分の気持ちを、曝け出してみるか。
「……依存しちゃダメなのか?」
「え?」
「俺がいないと生きていけないと言ったな? だけど、それは俺も同じだ。俺も美紗がいないと、生きていても楽しくないんだよ」
美紗が俺に愛されることに慣れてしまっているというのなら、俺は美紗を愛することに慣れてしまっている。過剰なまでに。
だけど俺は美紗と違い、このままで良いと思っている。もし美紗との関係が終わり、彼女を愛せなくなったとしたら……それこそ俺は、本当に生きていけないと思う。
実のところ、自立しなければならないのは俺の方なのかもしれない。
「甘えて良いんだ。依存して良いんだ。思う存分寄りかかってくれ。俺はそんな美紗を、支えたいと思っている」
「……その言葉、嘘じゃない?」
「当たり前だろ?」
一生……じゃ俺の大きすぎる愛は受け止め切れないな。永遠に、誓うとしよう。