下
その財閥には2人の息子がいた。
1人はお披露目も済んだ本妻の息子。もう1人はヒステリックな本妻を避けて囲われていた儚い美しさをもつ妾の子ども。
愛人であった母を突然の事故で亡くし、その妾腹は幼い頃に本家に引き取られた。義弟として、ひっそりと与えられた離れに最低限の世話人をつけられ、数年は慎ましく暮らせていたが、成長して兄と比較され始めると平穏に生活していくのは難しくなっていった。
私が住み込みの世話役として雇われたのはちょうどそんな折だった。
6歳離れた兄は、容姿には恵まれなかったが頭脳明晰で、いつも柔和な笑みを絶やさない評判の良い若者だったが、それは表面上に過ぎず、気に食わないことには恐ろしく冷淡になれる怖い男だということに、身内に片足を踏み入れてからだんだんと分かるようになった。
愛された美しい娘の面影を色濃く映した義弟の方は、他人の自分にさえも庇護欲を誘う儚げな兎のように可憐な少年で、見方を変えれば、いたぶって憂さを晴らすには格好の獲物でもあった。彼は自分の立場を幼いながらに理解しており、見ていて可哀想になるくらい怯え、小さくなって暮らしていた。
一度間違えて脱衣所で鉢合わせてしまい、色白の細い身体に斑らに残る、無数の痣を一瞬で見つけたことがある。一体誰に、何故こんなことに、いつからこのような目に…矢継ぎ早にしようとした質問は無言のまま全身で拒否されてしまった。大丈夫なのかという、気遣いの言葉をかけるのが精一杯で、それには微笑みで返された。全てを諦めたようなその笑顔は、彼の当時の年齢を思うと、今でも胸が張り裂けそうになる。
離れと本家はそれなりに距離があったので、どういう接点を持ってそうされるのか、目に触れるところを徹底的に避けて残る疵痕が陰湿さを物語った。それだけではない、いくつもの理不尽さに少なからず憤りを抱いていたが、一介の雇われ者ではなす術がなかった。
上手に立ち回らねば自分はともかく、さらに彼を不利な立場にしてしまう。
ある日、廊下を急いでいると何処かの部屋からガツンと音がして足をとめた。
嫌な予感がして部屋を探し、いかがされましたかと言いながらノックもせずにドアを開けると、そこには「うう」と腹を押さえて床で呻く義弟と、能面のような顔でそれを見下す兄がいた。
「輝也君!!!」
現行を押さえられた嬉しさを隠さずに、急ぎ駆け寄って彼を抱き起こして支え、今までずっと言いたかったことを問い叫んだ。
「一体何があってこんなことをされるのですか!
暴力は本当にいけません…!!」
言い逃れの出来ない状況で、彼は取り繕う気はないようだった。虫ケラでも見るかのような目で、心底憎そうに
「出しゃばるな」
と低い声でゆっくり言う。
下を向いたままの輝也君の震えが、抱いた肩から伝わって、怒りが込み上げてきたが、努めて冷静に言い返す。
「私はあなた方の教育係も兼ねておりますので…このようなことは看過できません。ことの次第ではお父上にご報告差し上げねばなりません。」
「得意の色仕掛けで抱き込んだのか?母親が母親なら子も子だな」と吐き捨てられる。
その言葉には反応して、輝也君は潤んだ目で視線を兄に向けた。
「なんだその目は」
昏い顔をしてそう言い、みぞおちを思いきり蹴りつけようとしてきたので、背を向けて庇った。靴の先が背中に食い込んで激痛が走った。このか細い身体に、今までこんな暴力を振るっていたのかと思うと悔しくて涙が出そうになる。
「迎さん!!僕が悪いから退いてよ…!」
「退いて…」
泣きながら叫ぶ彼を、しっかりと抱いて庇い続けた。こんな状態で退けるわけがない。しかも兄には止めてと言わないのだ。靴の先やら底やらで何度も蹴られだんだん痛みが麻痺してきた。
向こうも疲れてきたのか、いったん攻撃が止んだところで、その隙によろめきつつも、なんとか彼を引き上げながら立ち上がり、出入口に向かおうとした。
「待て。父上に何を言う気だ」
後ろから私の襟首をぐいと掴み上げて噛み付くように低く吠える。
「 ありのままを述べるだけですよ。彼の身体の痣のことも含めて…」
言いかけたところに、腹に拳骨を入れられた。やはり見えるところは殴り付けないんだと、妙に納得しながら、グゥと情けないうめき声を上げて身体を折った。尚も痛めつけようと私のシャツを掴みかかったところに、
「迎さんは関係ないよ!」と、輝也君が叫んで間に割り入った。
予想外の行動だったためか、細い身体でぶつかったにしては兄の方が大きくよろめいた。運悪く、よろめいた先に、真鍮の飾棚があり、出っ張りの部分が後頭部にぴったりはまって嫌な音が響いた。彼はズルズルと背中からずり落ち、そのまま床にだらしなく伸びて動かなくなった。
頭の下の絨毯が血でどす黒く、小さくだがジンワリと染まっていくのをみてぎょっとした。横を見ると当然とはいえ、可哀想に、輝也君は私以上に慄き震え動揺している。
「ぼく…僕こんなつもりじゃ…」
ますます真っ白な顔になって掠れ声で呟き、私を見つめた。
「大丈夫だから落ち着いて…
正当防衛だったんだ。状況を確認するからまずは落ち着こう…!」
優しく背を撫ぜながら言葉を掛けたが聞こえている風には見えなかった。何故このとき落ち着くまで待ってやらなかったのかと、ずっと後悔をすることになる。私も大概動揺していて、本家の息子を放置する訳にはいかず、脈をとったり呼吸を確かめて救急車を呼んだりする手筈が済んだ頃には、輝也君はすっかり姿を消していたのだった。
使用人が言うには、着の身着の儘飛び出して行ったそうだが、人目を魅く容姿に加えて普段から屋敷を出ない彼がまさか、そのまま行方不明になるとも思わず、初動が遅れ、その結果、何処にも彼を見つけることは出来なかった…。
それが、迎の知る事柄の全容だった。
「…どうされているのかと、ずっと気にかけておりました…。
命あって、健やかに過ごされているのならば、まずは安心いたしました。
現当主は今も彼のことを許しておらず、話題に登ると過剰に反応いたします。総督の手元の写真をお見かけし、思わずお声をかけてしまったようなんです。
この度のことは、過去のことも含めて責任を持って当主の代わりに私が確認することになりました。
まさか、月にいたなんて…。
見つからないはずです…」
話はいったん区切られた。
目の前の青年の話を聞きながら、あの夜の月夜の涙を思い出していた。
あのとき月夜は、自分が愛されていなかったのだと、愛されたい子どもだったのだと、無意識のうちに感じていたのではなかったのか…。
『僕ね、いますごく幸せなんだ』
月夜はそう言っていた。未だ記憶を取り戻せていないはずなのに。彼の境遇を今と重ね合わせ、目頭が熱くなった。
「この後はどうするおつもりですか」
アキータが無表情に問う。
「それはもちろん、地球にお戻りいただきます。
現当主となった義兄とは上手くいっておりませんでしたが、あの時とは状況も変わっております。もうあんな風にはさせません」
「しかし、貴方のご主人には、まだわだかまりがあるのでしょう?」
「残念ながらその通りです…。ただ失踪の原因がご自分にあることは理解されております。それが世間的に不味いということも。
当主になられた今、昔のようなちょっかいをかける余裕や時間はありません。お住まいも完全に別となりますし、私もそれなりの立場につきましたので、万が一のことはないようにお守りいたします」
アキータと顔を見合わせた。あんなに恐れていた話だというのに、現実味を感じず、まるで他人事のように聞いていた。全く頭が働かなかった。私が何も言わないので、アキータが重ねて返す。
「先程にもお話ししたとおり、月…いや輝也君は、記憶に問題が残る不安定な状態です。お話は理解しましたが…事を上手く運ぶためにも時間を少しいただきたい…」
「もちろんです。そちらの事情もおありでしょう。私はしばらく滞在する予定ですので、都合が着きましたらご連絡ください。
輝也君との面会を心待ちにしております。」
半ば放心状態でアキータの家から職場に向かった。始業時間には間にあったが、酷く時間が経っているような気がした。
「おかえりなさい」
いつものようにホールの片隅から月夜が声を掛けてきた。咄嗟に反応できず、少し間が空いてしまう。不思議そうに顔を傾けるので、慌ててただいまと言った。今朝聞いた話が一日中頭の中をループしていて、私はもうなんだか泣きそうな気持ちになっていたのだ。
「少し休む」
秘書に荷物を預け、月夜にまた後でと声をかけて自室に入った。何か私に話しかけようとしていた気はするが、不味いことを口走ってしまいそうで気づかないふりをした。
思ったより長い間佇んでいたようだ。
扉をノックして、月夜が心配そうに顔を出した。
「サルーキ大丈夫?お水、飲む?」
手元に用意された水を見て、断ろうとしていた気持ちが萎えた。
「ああ、ありがとう」
「明かりもつけないで…」
水を載せたトレイを手近の棚に置いて、部屋の照明を点けてくれる。部屋は明るくなったのに、私の顔がひどく青ざめているのに驚いたのだろう。駆け寄って私の腕を掴んで見上げる。
「秘書を呼んだ方が良い?顔色が悪過ぎるよ…」
前髪をかき分けて私をみる心配そうな顔に、堪らなく愛おしくなって思い切り抱きしめた。月夜の辛い過去を、今さらだとしても温かく包んでやりたいと思った。おずおずと背中に手がまわって抱きしめ返される。胸の奥がまたじんわりと熱くなる。
「月夜
大好きだ」
「僕も…
サルーキ、僕もサルーキが好き…」
もう、口づけても嫌がらなかった。思わず寝台に縫い付けて、夢中になって貪った。不器用ながら月夜が私に一生懸命応えようとしているのがもどかしくも愛しくて、さらに夢中になった。お互いが求め合っている感覚が心地良くてずっとそうしていたが、使用人が夕餉をどうするのか聞きに来て中断された。
お互い照れ臭くなって笑いあった。なんだかもう、月夜のためになりふり構わず何でも出来る気がした。
「食事にするか」
最後にぎゅっと抱きしめた。
「今朝、ミカ総督が来たんだよ」
食後に紅茶を飲んでいると月夜が話しだした。
「総督が?
今朝?何故また…?」
「何故来たのかはわからなかった。また遊びに来るって言ってた」
では今朝アキータに呼ばれなければ行き違いになったということか。どういうつもりなのか、毎晩遅くまで政務をしているだろうに、何でもない話のためにわざわざ屋敷まで来るとは…
「何もされなかったか」
さらりと聞いてしまった後で自分にギクリとした。
月夜は何を言われたか分からずに小首を傾げた後、顔を赤くした。
「何をされるっていうの?」上目遣いで睨んで来る顔が可愛いと思い、余計に恥ずかしくなる。
「いや、すまない、何でも無いんだ…」
語尾が小さくなった。
「サルーキと同じこと言ってたよ。
僕が笑顔だと嬉しいんだって。」
同じであるものか、と語彙を荒げそうになるのを堪えて逡巡した後にやっと、そうか、と言えた。皆そう思うさ、と頑張って微笑んだ。
内心は全く穏やかではなかった。月夜に対してそう思うのは誰しも当然だと思うのに、私以外が、私のいないところでそんなことを月夜に直接言うのは腹立たしいと思ってしまう。
最近の総督の、月夜に対する態度は私を不安にさせる。そのうえ、地球からの迎えは一筋縄ではいかなそうだ。月夜を手元に置き続けるために何をなさねばならないのか…。
自分の窮地に、今さらながら気づいた。
******
あれから数日経つが、輝也君には未だ会えていない。なかなかその連絡が来ないのだ。彼を確認するために訪れた何某という親睦パーティーの会場で、一瞬見たきりである。私が知る彼からは想像もできない、屈託のない笑顔を見て本当に驚いた。少年から青年へ美しく脱皮しつつあるのも分かった。それも、青年と言って良いのかわからない性別を超えたような容姿だった。
月で与えられている細々とした任務をこなしながら、本当に会わせて貰えるのだろうかと不安を募らせていた。
それでも、こうして現実に彼の存在を噛み締められると、希望が私を引き上げてくれる。
あやふやになりつつある記憶も蘇る。
あの失踪の日…
他人なのだからと抱きしめてもやらなかった自分にずっと後悔してきた。頭を撫でるなり、手を握ったりするなり、せめて一人でも味方がいると安心させてあげるべきだったのだ。愛されているという確かなものを、何処かで与えるべきだったのに…
不甲斐ない自分を責めた。
そのために様々な努力を重ね、精神的にも、自分の立ち位置的にも力をつけて月までやって来たのだ。
そうこうするうちに、本来の目的である陳情の順番が来て、総督閣下と話をする機会に恵まれた。輝也君の義兄である当主が運営する会社の、現在独占している月との取引について機械的に報告し、日本滞在の折でのお礼やら何やらを形式的に伝え、検討すべき課題を受け取り、こちらからの要望を述べ、質疑応答があらかた終わった。
先日の都合をつけてもらった輝也君の話をしても良いだろうか…と機会をうかがっていると、執務席に肘をついた総督が口を開いた。
「月夜を連れ出して欲しくはないな」
「え…?」
「何故今さら地球なぞに戻らなければならないんだ?地球では皆が月に住みたがっているのだろう?せっかく月に居場所があるんだ、そんな必要はないだろうに」
予想もしていないところからの反論に驚き過ぎて、否定も肯定もできずに固まってしまった。
「哀しい記憶を掘り返すのには賛成できないな。私は月夜を気に入っているのでね」
笑顔だったが、その厳しい眼差しはよく考えろと言っていた。
******
サルーキに好きと告げた日から数日、アキータの訪問が増えた。珍しく先日は泊まっていって、朝食の場で「やあ」と声をかけられたときは本当に驚いた。そんなことは今までに無かったことだ。昔からの腐れ縁だとは言うものの、息の合った、付かず離れずのバランスの良い距離感と、同年代である2人の気安さに居心地の悪い気持ちになった。アキータのことはむしろ好きなのに、なんだかあまり面白くない。
しかも、なぜ最近彼が出入りしているのかと、秘書にそれとなく聞いても言葉を濁してはっきりしたことを言わない。自分が寝入ってからサルーキと密談めいたことをしているようだった。仲間に入れて欲しいアピールをしてみたが「大事な話をするんだよ」とやんわり拒否されてしまった。
「お休みなさい」
少ししょげながらそこでは大人しく従った。サルーキは僕を優しく抱き寄せて、額にキスを一つ落とし、おやすみと言ってくれた。それでも、自分を除け者にする2人への対抗心が押さえられず、寝室を抜け出してこっそりと聞き耳を立てに書斎へ戻ってみた。
そうして、聞こえてきた話の内容は予想外過ぎて、心臓が波打った。
「…というわけで、迎氏を牽制はしてくれたみたいよ。あのまま帰ってくれるようなら気を揉むことはないけど、難しそうだね」
「なぜ総督に話したんだ」
サルーキは苛立った様子だった。
「味方は多い方が良い。彼には権力がある。とはいえ、公人である以上出来ることと出来ないことがあるからね、こうなってくると月夜くんの身分証明書を作ったのは痛いな…
星間重複国籍…というよりは、国籍偽造の罪になるのかな?」
渋い顔をしてアキータがぶつぶつと言った。
「お前が責任を感じる必要はないんだぞ」
「あのとき、あの場へ連れだしたのは僕だからね、責任の一端は感じるよ」
自分が原因の話だとは思わなかった。
罪に問われるような問題を話し合っているのを聞いて、耳の後ろを流れるどくどくという血の音が響いてきた。
「それから、敵を知らないとね。経済番組のインタビューに応じていたのを見つけたよ」
アキータが、手元のモニターを操作して壁一面のスクリーンが切り替わった。
ヒュと喉が鳴った。
画面には、地球に住む月夜の義兄がしたり顔で進行役と話しているのが写っていた。
あの眼
何度も罵られたあの声…
「あ、ああ…」
突如、身体がビリと痺れ、訳の分からぬ恐怖に襲われてしゃがみ込んだ。激しい頭痛と吐き気に目眩までして、そのまま意識を手放した。
断片的な過去を悪夢のように見ながら、辛すぎて仕舞い込んでいた記憶が、数日かけて夢から現へと姿を変え脳裏に蘇ってきた。精神の糸のようなものがあるならば引きちぎられるような感覚だった。
義兄に執拗に絡まれ、疎まれ、なす術なくいつも小さくなっていた自分。憂さを晴らされるだけの存在で、出来る限り目立たぬよう俯いていた自分。
初めて義兄に反発したあの日、自分のしでかした愚行に途方にくれ、衝動的に屋敷を飛び出してしまった。戻ろうとしても足が震えて叶わず、取り返しのつかないことをしてしまった恐ろしさに泣きながら、当て所もなく彷徨い歩いた。人目のある街を避けて、気づけば大戦後も焼けずに残った霊山の入口にいた。そこは本家の所有地で、怪しげな何かが行われているらしいから近づかないよう、迎から度々言われていた場所だった。自分には関係ないと思ってぼんやり聞いていた場所…。
もう、ほとんど死んでも良いような投げやりな気持ちだったのだ。どうなろうと構わなかった。迷わずに足を踏み入れ、草生い茂る山道を闇雲に歩いた。
日が暮れ、寒さに身体が思うように動かなくなったとき、目の前にコンテナが見えた。中を覗くと植物が山のように植えられている。多少の寒さは凌そうだと、踞れるスペースを探し落ち着いたとたん、疲れからか、すっかり眠りについてしまった。その後の記憶は未だ曖昧だ。途中、衝撃で意識を失い、その間、幾度か耐えきれない寒さにうなされていたことは薄ら記憶にあるが、息苦しさに目を開けたくはなかった。
何度目かの覚醒の後に、空腹で這い出た先で、自分を捕えた男は美しい翆色の瞳をした長身の男だった。
自分が何者かも分からず、此処が何処かも分からず、何をすべきなのかも分からず…何が自分に起きているのか、何もかもが全く訳が分からないうちに、突如として新しい生活が始まった。此処が月だとも信じられなかったが、いつも夜空に地球が見える環境では納得するしかなかった。
連れられた先は豪奢な屋敷で、常に優しげな翆色の瞳が自分を気遣ってくれた。サルーキと名乗る赤の他人がなぜ自分を引き取ったのかわからず、その過剰なもてなしの真意を恐れて、ひたすら無関心を装っていた。
そのうちに、彼に裏表がなく、ただただ自分のことを気遣い、純粋な好意からいろいろなことをしてくれているだけだと分かってからは、優しい言葉をかけられる度に胸の奥がきゅうと苦しくなった。そのときは何故か分からなかった。
今は分かる。自分の知らない経験だったからだ…。
サルーキに甘やかされたこの数年間で、すっかり忘れていられたのに…
*******
月夜はなかなか目を覚まさなかった。
一瞬目覚めては言葉にならない何かをつぶやいて、また眠りにつくことを繰り返していた。
いつかは知らせなければならなかったが、あんな風に知られるとは迂闊だった。
私たちの話を聞きに戻るとは思わなかった。何かを察していたのだろうか?
うなされ続ける月夜の傍で手を握ったり髪を撫でたり、大丈夫だと優しく声をかけることしかできない自分が歯痒かった。
「月夜…」
背後に人の気配がして振り向くと、迎が立っていた。
「こんな風に拒否反応を起こしてしまう月夜を、貴方は地球に連れ戻すおつもりですか」
心中が荒れている分、不思議と却って冷静になれた。
「このまま月で過ごして欲しいと思う我々は我儘なんでしょうか
月夜の幸せを考えるのなら…」
迎は黙ったままだった。これまでの彼の態度からは、無理矢理月から連れ出そうとするのではなく、心から月夜を心配しているようにしかみえなかった。
「貴方は何か当主に弱味でも握られているんですか」
つい、聞いてしまった。
驚いた様子もなく、哀しみの滲んだ表情で、彼は力なく微笑んだ。
「本当に輝也君がここで幸せだというのなら、私は必要ないんでしょうね。貴方がしていることは、そっくりそのまま、私がしてあげたかったことなのですから…
私はずっとあの子が笑っている顔をみたかった…
私が、そうしてさしあげたかったんです…」
最後は声も小さく、震えて聞き取りにくかった。泣くのを我慢しているようにも見えた。
「今日はいったん帰ります。お見舞いに伺ったのですが、私に出来ることはないようですから…
改めてまたお伺いします」
思えば、彼もいつも冷静だった。声を荒げる事もなく真摯な態度を崩すこともない。以前会ったときと同じように、静かに部屋を去っていった。
「御前も少しお休みにならないと、倒れてしまいますよ」
入れ違いで秘書がやって来た。
「ああ、分かっているよ。 …でもな…」
熱のせいで汗ばむ額に張り付いた前髪をかき分けてやりながら、やるせない気持ちだった。目が覚めたら、お前の脅威は取り除いたよと安心させて、これまで以上に甘やかしたいと切に思った。
数日後、迎が我が家を訪ねてきた。案内した執務室にはアキータもいる。
「私は輝也くんの安否確認のために依頼されて来ましたが、同時に判断をするつもりでもいました。彼にとって1番良い選択は何か、考えた末に私も腹を括ることに決めました」
「いいだろう。月夜の意思を最優先することが条件だ」
そういうと迎は笑顔を見せた。
「貴方が味方になるなら実際、輝也という人間はいないと報告するだけで何も問題はない気もするけど。正式な身分証明書もあることだしね」
そう皮肉を言ってアキータはニヤリと笑った。
それは逆なのだ。証明写真の月夜は世の中に2人といるような顔ではなく、さらに身分証明書が万が一にも偽装とばれたならそれこそ、法的に月夜を取り戻す事は不可能となる。確かに、相談するには総督は権力を持ち過ぎていた。
「写真の青年は勘違いでしたと言っても、書類等を求められたら、うまく切り抜けられるかどうか分かりません。輝也君がどうやって不法輸送に紛れ込んでいたか分かりませんが、その辺りにも難癖をつけられかねません。
問題は…そもそも、輝夜君にこうやって月にまで干渉出来ることなんです」
「つまり…
物理的に彼からその力を削いでしまえば良いと?
であれば、何かしらで失脚でもしてもらおうか?」
と、悪い顔で笑いながら言えば
アキータも、そりゃあ面白いなとのってくる。
この提案には少なからず私怨も入っていた。月夜にあんな恐ろしいことをしておいて、彼ばかりがのうのうと生きているのは大層気分が悪かった。
迎は私の発言に片眉を上げた。
「彼の不正の証拠があると言ったら?」
ヒュウとアキータが口笛を鳴らした。
「正式に雇用されて以来、ずっと機会を狙っていました。輝也君のためになることならと少しずつ証拠を集めて準備を重ねていたんです。
使うなら今しかありません」
迎は淡々と帳簿の写し等をスクリーンに吐き出して、現在独占している事業に専門性がないことを説明し、複数の同業者を指して一般競争入札の必要がある輸送事業を不当に随意契約で行っていることや、月夜と初めて会った例の賭場で行なわれている不法輸出入への関わりなど、大きなものから小さなものまで事細かに悪事を晒していった。
アキータも加わり、上奏するための書類作成と同時にメディアへのリークを行った。長い作業が始まった。
「ふん、そういう話ならサインをしなければ良いだけだ」
総督は事も無げに言った。月全体に関わるデメリットが無ければ問題はない。むしろ今回の件ではメリットの方が大きかった。
「しかし、こんな大それた内部告発なぞして、迎氏に不都合なことはないのか?」
「私はかぐや…いえ月夜君を助けたくてしがみついていただけですから。あの人にも会社にも、未練も何の義理もありません。来たるべき時が来たなら職を辞する心積もりでした」
急に投げやりに言い直した。
「なんだったらバックれたって良いんです」
総督はハハと豪快に笑った。
「気に入ったよ!取材があれば上手く立ち回ろう」
後は、月夜の回復を待つだけだった。
******
長い悪夢の果てに目を覚ますと、サルーキの顔があった。
「月夜…!
私が分かるか?」
唇がカラカラに乾いて、思ったように口を動かせず、とりあえず頷くと、途端に抱きしめられた。
「ああ、良かった
良かった…」
サルーキの瞳が涙であふれていくのを茫然と見た。そんな姿は初めてだった。
「ご、めん、なさい…」
上手く声が出せず、ほとんど吐息のようだった。
「迷惑…かけたでしょう」
「ああ、そうだぞ、本当に…お前が寝込んでしまって、生きた心地がなかった 」
ぎゅうと力を込められた。
「御前、もうその辺で…病み上がりですから…」
秘書も笑顔で後ろから現れた。
「1週間も?」
「そうだ。だから点滴なんか打つ羽目になって…」
なんだかすっかりやつれた針の刺さる腕を見た。反対の手はずっとサルーキに握られている。力強く、温かい大きな手だった。
「辛かったろう、先ずは体調を戻さないとな、本当は今日からステーキでも食べさせたいくらいだ」
「御前…!」
「冗談に決まっている」
サルーキがそんな冗談を言うのも初めて聞いた。アキータあたりが言いそうな…と、思ったところで寝込んでしまう前の光景が浮かんだ。急に胸が締め付けられるように苦しくなって肩から震え出した。なんだか視界が暗くなっていきそうなのを、サルーキが握っていた手をぐいと引っ張り僕を抱き寄せてくれた。
サルーキは目配せで秘書を部屋から出て行かせ、僕を抱きしめたまま優しく耳元で言った。
「月夜、お前のいない世界は私には辛すぎたよ…何も出来ない自分は情けなくて、寂しくて、死んだも同じだった…
だから月夜には、ずっとここに、私の隣に居てほしい。お前に何があったとしても…」
最後の物言いは引っ掛かった。サルーキは何を知ったのだろうかと思い、体を離して思わず口走ってしまった。
「僕が…人殺しでも…?」
「そうだ」
即答だった。
まるで2人だけの世界にいるかのような瞬間だった。互いの目線は合わさったまま、夢の続きかと錯覚するほどに。
「お前は理由なく人を手に掛けるような人間じゃない。そうだろう?
お前の義兄の事ならば、頭を打っただけのことだ。その後も普通に生きている。月夜が気に病む必要は全くない。」
「どうして…そんなことをサルーキが…」
「迎という男を覚えているか?彼がお前に会いたいと言って、今、月陸に来ている。彼からおおよその事情を聞いたんだ」
「そうなの…?本当に?」
「嘘など言うものか。全部分かったうえで言うんだ。
私が幸せにするから…。だから今までどおり…」
抱きしめられたまま額から頬に優しく口づけられ、ずっと握られていた手をとられて、そこにもキスを落とされた。エメラルド石のような美しい瞳で縛り付けるかの如く僕を見つめるサルーキに、傷ついた記憶が上書きされていく…。
ぶわりと胸が熱くなって、涙が溢れた。言葉はなくても、僕を包み込むサルーキの身体に、もうあんな辛いことは、思い出さなくても良いと、そう言われているようだった。
「サルーキは…いつも、僕を甘やかすよね…」
嗚咽をこらえながらやっとの事でそう言うと、いつかのように額を合わせて微笑んだ。
「そうすると心が嬉しさに震えるんだ。お前にそれが見えたら良いのに」
「気障過ぎる…!」
サルーキは、そうか?と目を細め、声を上げて笑った。誰が僕をサルーキと会わせてくれたんだろう。静かに頬を伝う涙が止まらなかった。
******
「輝也くん…!世話役をしていた迎です!
ずっと…ずっと、お会いしたかった…!」
彼はみるみる瞳を潤ませ、月夜の前で立ち尽くして人目を憚らずに涙をこぼした。
「私を覚えてくれていますか?」
「迎さん…
今は、ちゃんと、分かります…
あの時、黙って逃げてしまってごめんなさい…僕を庇ってくれてありがとう…」
誰の制止も間に合わず、迎は月夜を思い切り抱きしめた。
「…私こそ謝らせてください!あの屋敷で辛い思いをさせたままにしたことを…
ずっと後悔していました…こうやってお話できる可能性を信じて、私はずっと貴方のお義兄様につかえてきたんです」
「迎さん…」
私の知らない過去が、月夜に涙を滲ませていた。
「輝也君、私は地球から、貴方を迎えに来たんです」
迎を抱きしめ返そうとしていた月夜の腕がとまった。すかさず、私は言った。
「月夜、お前は選択できる。月に残りたいなら、私がなんとかする」
「サルーキ…!」
小さく叫んだあと、向き直って月夜は迎の顔を見た。
「…義兄さんはもうすっかり無事なの?」
「はい、精密検査もしましたが、ただの打身と診断されていました。本当に、打ちどころが悪かっただけだったんですよ。」
「そう…」
「義兄さんのもとに戻って、僕は何かしなければならない?」
その質問に、迎は少し顔を強張らせた。多分義兄は月陸間独占禁止法の罪に問われ、失脚は免れないだろう。会社は存続するだろうが、血縁のある月夜には何かしら影響があるかもしれない。どう言うべきか迷っているのがありありと感じられた。
月夜はじっとそんな迎の顔を見続け、そして哀しげに儚く笑った。
「許されるなら、もうあの家には帰りたくない。迎さんはわかっているよね?
結果論かもしれない。でも、僕はあの時逃げ出して、運良く死なないばかりか月にまで来られて、そしてサルーキに拾ってもらった縁を本当に奇跡だと思ってるんだ。
この縁を大切にしたいと思ってる…」
迎はもう一度月夜を抱きしめた。餞別だ。止めるのは野暮だろう。今度こそ月夜は彼を抱きしめ返し、耳元で囁いた。
「僕はもう誰かを不快にさせたり、迷惑をかけたりしたくない。迎さんも、もう解放されてください…
あんな風に逃げてしまった僕のこと、ずっと考えてくれていてありがとう、忘れてしまっていてごめんなさい」
「いいんです。でも、今までの分まで幸せになると約束してください。
見届けられないのは残念ですが、貴方から直接お話を聞くことが出来るだけで…此処に来た甲斐がありました…」
迎は、月夜の肩越しに私を射るように見ながらそう言った。迎がしたかったことを全て、いやそれ以上のことを、これからは私が月夜にしてやれるのだ。そうできる自分を誇らしく思うと同時に、逆の立場である迎の心境を思って哀しい気持ちにもなった。
「実を言うと…
あのとき、もし月夜が月を去ると言ったらどうしようかと思っていたんだ」
屋敷の、中庭を眺める定位置でいつものように、月夜を腕の中に閉じ込めて囁くと、黙ったまま私を見上げてから月夜は意外なことを言った。
「僕は…
僕の何が義兄さんの気に障るのかが、ずっと気になってた。あの日々はとても辛かったから…。でも尋ねられるような立場じゃなくて…
サルーキに付き添ってもらったら、勇気を出して、ちゃんと訊けるかなと思ったりしたよ」
倒れて、悪夢を見ていたときの話だった。
「でも、前にミカ総督に言われたことを思い出したの。
『理由なんか必要か』って。『人の好き嫌いなんてものは感覚だ』って、そう言われたの。本当に、何でもないように」
「そんな単純なことなら…そんな風に思うようにしたなら…僕が義兄さんに囚われ過ぎるのは意味のないことなんだって思えたんだ。」
「総督にそんなこと、いつ言われたんだ。私は月夜を愛しい理由ならいくらでも言える!」
総督のことをリスペクトしているような月夜に憤慨して言うと、彼は珍しく声を上げて笑った。
「僕は理由なんかないよ、サルーキ!こうしてくっついてるだけでとても安心するんだもの!
大好き、サルーキ…」
私の腕に頬ずりして言う月夜に、私は動悸が激しくなった。顔が真っ赤になっているに違いない。動揺して固まっている私の頬に短く口づけして
「幸せだよ」
と月夜は美しく微笑んだ。
********
天空に小さく白い月が浮かんでいる。時折り霞のような雲が薄墨を落としたように流れてはところどころ月を隠していった。あそこに人がひしめき合って住んでいるとは到底思えなかった。
当社が第六次移植以降の月陸間輸送に関わることはなくなった。もはや私が生きている間にあの月へ行くことはないだろう。私が年老いてしまえば、時代に何が起きてるのなんか判りゃしないようになって、こんな気持ちになることもないだろう。
早くそうなれば良いと投げやりに思った。
輝也君は月に残り、2度と戻って来はしない。
私は、ここから君の幸せを祈るよりない。あの優しい彼と幸せに暮らしていれば良い…そのために私が役に立ったのなら、あのとき手を離してしまった償いは充分できたのではないだろうか…。
静かに涙が頬を伝った。
2度と会えないのは死んでしまったのと同義だ。最近の若者が月に住む人を揶揄して天上人と言うらしいが、まさに天上人となってしまったのだと思うよりほかない。
後から後から涙は湧いて、全ての景色は滲んで見えなくなった。
完
自己満足の極みです。
読んでくださってありがとうございました。
たまにシリアスなのを書きたくなりますが基本的にはコメディーよりです。
最近創作の時間が楽しくなってきました。
別の私の作品をも楽しんでいただきたいと思います。よろしくお願いします!!!