上
腐れ縁の友人の誘いで、たまには付き合わないと逆に煩わしいからついていった会場だった。乗り気はもちろんまったく無かった。だから、縁とはこうやって結ばれていくのかと、今でも何故そのときそこに居たのかと、不思議な気持ちになる。
何かを熱烈に欲しいと思ったのはそれが初めてのことだったように思う。特に関心を持つものがなかった私は、自分でも自分を持て余していた。
3度か、あるいは4度の四大陸を巻き込んだ大戦を経て、地球の3分の1には人が住めなくなって久しい。大規模な月面移植は始まるべくして始まり、私はその第五次移植に捻じ込まれて現在は月陸ステーションで暮らしている。誰もが住めるわけではない。政治的な優遇措置を得られる者、必要となる莫大な費用を負担出来る富裕層が優先的に可能とされた生存戦略である。
厳しい開拓時代が一通り落ち着いたあとで、私は悠々とここで過ごすことを許された。大戦前の詳しい地球のことは多分私の曾祖父くらいの年代しか知らないだろう。月に腰を落ち着けた今は映像でしか知り得る術はないし、私に懐古趣味は無かった。
腐れ縁の友人の名はアキータという。学生のときから付かず離れずの距離を保ちつつ、いつも何処かで顔を突き合わせていて、その流れで同時期に移植民となった。私とは違い社交的で人付き合いの多い、悪く言えば俗人でもある彼は、月に来ても同じ様にすぐ、あまり良くない遊びを覚えて、いかがわしげなクラブに出入りしていた。趣味のよくないと勝手に蔑んでいたが、実際に何をやっているかはよく知らない。興味は無かった。
いつも釣るんでいる友人が捕まらないとアキータは私のところにやってきた。私を遊びに連れ出そうとしては失敗して我が家で秘蔵の酒を呑んでいく。害をなす者では無く、私を外界へと繋ぐ潤滑油のような存在だった。
「なあ、頼むよ。何もしなくて良いんだ。1人では行けないが、誰を連れて行っても良いものではない。それなりの人物でないと…後生だからさ」
それなりの人物と持ち上げられて、重い腰を上げた。一度付き合えば、しばらくはそれをネタに誘いを断り易くなると、打算で応じたのだ。迎えから始まり、会場への煩雑な手続きまで全て彼に任せたくせに、このときばかりと世話を焼くので私は不満気だった。仕事以外では屋敷に閉じこもりがちで、外での勝手が分からないのにもイラついた。
「サルーキ、こっちだ」
手招きされて無機質な廊下を曲がり、一見なんの変哲もない金属扉を開くと、中はブラックライトに照らされ、50平方くらいの部屋の中、暗がりに行儀良く人々が座っているのが見えた。照明の具合で人の顔はよく見えず、客によっては中世ヨーロッパを気取ったようなマスクらしきものを付けている者もいた。
「悪趣味だな」
ひとりごちて、示された椅子に座る。意外に座り心地が良くて妙な感心をしていると、催しが再開された。
「なあ」
肩を小突かれて自分が居眠りをしていたのに気づく。
「さっき支配人に聞いたんだが、別のホールでお前が収集してる地球の植物の競りがあるらしい。見ていくか?」
「私の退屈ぶりはそんな、あからさまだったか」
「ははっ
そりゃあな、でもせっかくだから楽しみたいじゃないか」
アキータのこういう爽やかな前向きさは好ましい。
我が屋敷の中庭は、先に移植した祖父の代から収集している地球の植物で溢れていて、今や愛好家に一度は見てみたいと言われるくらいの規模になってしまった。アキータは植物に何の興味も無いのにお優しい申し出だ。しかし、珍しくこんなところまで出向いているのだから、何か良い拾い物でもあるかもしれない。見に行くのは薮坂ではなかった。
支配人自ら、カプセル状の温室を案内してくれた。こちらは北ヨーロッパ地方のなになに、あちらは南アメリカのなになにと1つ1つ丁寧に説明する。良く勉強しているなと感心しながらも、少し甲高い声が耳について集中出来ず、特有の土の匂いを嗅ぎながら、何とは無しに眺めていた。なかなかの種類に量である。
「こちらは日本で採取された竹ですね、大体地球からは数本、数株ずつが多いんですが、竹林としてそれなりのボリュームで手に入れました。なかなか類を見ないと思いますよ」
仰ぎながら話す支配人の後ろに、アキータと並んでついて歩いた。他のカプセルと違い、こちらは地面にすでに腐植土が敷き詰められていて、その上に青竹が植っていた。土ごと掻き出してきたならとてつもない労力だろう。このまま購入すると一体いくらになるのか…ただ、我が家の庭にはこの手のものはまだない。ミスマッチ過ぎるか…、アジア風な一画を作っても良いか…そう、ぼんやりと考えていた。
「笹の匂いは落ち着きますよね、清涼感があって…」
支配人の説明は続いている。
何か音がした気がして振り向いた。何も無い…だが何だか胸が騒ぐ。立ち止まって地面を眺めた。アキータがすかさず気づく。
「サルーキ、何か落としものでもしたのか?」
足元のすぐ先にある竹林の茂みから、何かが這い出てくる音がするのを私は呆然と見つめた。ひときわ大きいガサリという音と共に、茂みの下から真っ白な腕が、その腕に続く頭部がよろよろと現れた。力なく起き上がった顔と目が合った。
「うわっ!何だよソレ?!」
アキータの叫び声に怯えて、茂みの奥に逃げ込もうとするその腕を掴んで引っ張り出した。驚くほど細く、軽かった。完全に無意識の行動だった。私はこういうとき手を出さない人間だった筈なのに。
「あなた、だれ?」
掠れる声でそう言って、その子は私の胸に倒れ込んだ。少年なのか少女なのか判別つけられないが、こどもには違いない。
振り向くと、口を開けた間抜け顔のアキータと引き攣った苦笑いをした支配人が並んで私を見ていた。
とにかく医務室に連れて行かせ、ベッドに寝かせつけさせた。薄汚れた身なりが少々こざっぱりしただけで、恐ろしいくらい美しい顔立ちなのがよく分かった。簡単な診察で、栄養失調気味なのが判明し、点滴を受けている。倒れたのは空腹の所為だった。
「どうも、地球から忍び込んできた不法移民みたいだね。この賭場から抜け出せても、身一つでこんな状態じゃあ、月で生活なんてできやしないよ。ツテでもあったのか知らないが」
医務室にいた医者のような者が言う。
「どんな事情かは知らないが、無茶したよね。このまま強制送還になるのかな?」
アキータは、今日の気軽なお楽しみが面倒に巻き込まれてつまらなさそうにしている。
「強制送還?」
「そりゃそうだろう。身分証も無い得体のしれない者が月で暮らせる訳がないよ」
「…栄養失調にまでなって、空腹でこんなになって、やっと月に辿り着いたのに、無慈悲過ぎやしないか」
私の言葉にアキータは初めて見るモノのように私を見て言った。
「どうしたんだ、サルーキ?植物でもないのに、この子の面倒でも見る気なのか?」
「面倒を見る…
そんなことが出来るのか?」
ぽつりと呟いたが、部屋にいた医者のような老人も、支配人も、先程のアキータと同じような目で私を見た。
「お…お望みならば出来ないことはありませんよ。あの、その…、このことを内密にしていただけるならば、手段は無いわけではありません…。」
「支配人、あなた無責任なことを言わないでくれないか…!」
食って掛かりそうなアキータをぐいと腕で制して、本当ならば話を詰めようと支配人に向かい合った。アキータのマジかよというため息が聞こえた。
手続きには数日を要した。主に病原菌を始め、持病やアレルギーの有無といった身体検査のほか、彼を我が家に合法的に迎える書類作成等のためだった。
支配人曰く、金持ちに囲われる不法移民の中には、届出をせず、ペットのように愛玩される者がほとんどだと言われたが、私が頑としてそういう輩とは絶対に一緒にして欲しくないと条件をつけたため、大層面倒なことになったらしい。見返りに私は竹林をそのまま購入することにしたので、支配人もそれ以上何も言わず、従順に準備をしてくれた。
迎えるまでの時間は待ち遠しく、彼の部屋を設えることにいつに無く張り切ってしまった。本当に、この熱量はどこに仕舞われていたのか、屋敷の者が私のテンションに目を白黒させているのがわかった。家具、家電、照明器具、部屋を飾る絵画…3Dカタログからいくつも取り寄せてはシュミレートして納得いくまで吟味した。彼の名前も。
アジア人特有の外見をもった彼の名前をどうしてもオリエンタルにしたくて、昔の文献を漁った。平仮名、カタカナ、漢字が並んだ辞書と格闘し、アジア系の秘書の1人に教えを乞うて月陸移民局に申請した。
「お前、自分の名前は聞いたかい?月夜というんだよ。日本語の響きは美しいだろう?」
突き当たりにある彼の部屋に向かう廻廊を歩きながら説明したが、彼の目線は植物の蔓延る中庭にしか向いていなかった。
「それからここがお前の部屋だよ」
上目遣いで私を見る彼の瞳には喜びも驚きも無かった。無関心さに拍子抜けしてひっそりと傷ついた。部屋を彩る家具も一級品だったが、彼にその価値は意味がなかったのか、話題になることもなかった。
「私のことはサルーキと呼んでくれ」
ふうん、といった風情で部屋に踏み入り、彼は先ず窓からの景色を眺めた。夜空に、うっすらと地球が見えていた。
月夜と名付けたが、彼は月のシステムのことなど何も知らなかった。自身の名さえわからなかったのだ。医師の判断ではこちらへの移送途中に何か物理的なショックでもあって、記憶を喪失したのではないかということだった。そもそもが、地球から来たのではないかもしれず、怪しいことこの上ないと、アキータは最後まで難色を示していたが、引き取りの日の月夜を見て黙ってしまった。彼の記憶の月夜は、ぱさついてボサボサの髪をした薄汚れた不法移民だったのだ。
おずおずと職員の後ろから現れた彼は、絹のような濡羽色の髪と同じ色をした瞳で上目遣いに我々を見た。私が事前に用意して送った、白い襟付きのコットンシャツに、タフタ生地の黒いパンツを履いていて、それだけで少し良いところの子どもに見えた。溢れそうな瞳とバランス良く整った鼻筋と薄めの唇。白く、肌理のこまかい肌。少年だったが、少女のような儚さがあった。折れてしまいそうに細くのびた首も、上着から除く手首も、何もかもが華奢で、庇護欲を誘った。
アキータと共に車の後部座席に座らせた月夜は、我が家に着くまで一言も話さなかった。それは何かを思い詰めたような表情にもみえた。
呆けたような顔でアキータはまたと言って、最寄りのステーションで私の車を降りて行った。
彼の失われている記憶については、大層気になるが、先ずは右も左もわからない彼の信頼を得て、穏やかな日々を過ごすことが大事だ。
「月夜、不自由はないかい」
「月夜、どんな食べ物がお気に召したのかな」
「月夜、庭に咲いた花を見ないか」
「月夜、暇をしていないか」
私は毎日何かしらご機嫌を伺った。卑屈な態度に見えないこともなかったが構わなかった。私は月夜の関心を得るために必死になっていた。最初は無関心を装われ、そうでなければ胡散臭そうな態度を取られていたが、そのうちに私に卑しい気持ちはないと理解してくれたのか、次第に私の望んだ穏やかな反応になった。どうかするとそれでも空気のような存在ではあったが、話しかければ能動的に従ってくれるまでに落ち着いた。使用人達は皆、これまでと全く違う、彼に対する私の態度に戸惑いながらも、彼自身の独特な雰囲気も相まって、月夜を丁重に扱ってくれた。
そのうちに月夜は文字を読むことを覚えた。暇つぶしに、我が家の書斎にある美しい絵本を見せたところ、興味は示したが、月で扱う公用語が分からない事が判明した。読みたいなら、勉強させてやろうと言うと頷くので、教えるのが得意な使用人を募ってABCから始めさせた。家庭教師を雇うことを考えなかったわけではないが、何となく外部の人間を介すことを避けたくて悩んでいたところ、秘書がアドバイスをくれたのだ。最近はよく中庭の東屋か、庭に面したサロンに居座って、画集を眺めたり青少年向けの小説を読んでいる。
家に持ち帰った仕事の合間にサロンを覗くと、月夜はやはり、何やらを夢中に読んでいた。一瞬迷ったが、一緒に休憩しないかと声を掛けた。彼は小動物のように起き上がって頷いた。使用人に用意させた、アッサムの入った温かいカップを両手で回しながら口を開く。
「サルーキはぼくを我が儘にさせるよね」
「そう?でも私は君を甘やかしたくて、何でもしてあげたいと思うんだよ」
ふうんと、いつもの調子でソッポを向く。でも、こうした会話の後で彼の耳が少し赤いことに気づいてからは、気取らずに正直にモノを言うようにした。そうすると、言葉や表情に出ていなくても、月夜も正直になっている気がしたからだ。
私の無機質な日常は大きく変化した。胸の内が膨れ上がるような高揚に左右されるのは悪くなかった。
月夜、と呼ぶと振り向いて、たまに、はにかんで笑うことさえもあった。そんなときには、私の心臓は掴まれたように痺れて呼吸が困難になる。顔が赤くなった様な気がした。この感情は何なのか、その度にいつも戸惑ってしまう。
半年ぶりにアキータが訪れた。
「サルーキが少年に入れ揚げて大変なことになっているって巷では言われてるんだけど」
「それが何か問題でも」
動揺を見せた気がして心中で狼狽えた。昔の自分の態度を思い返しながら、努めてなんでもないように応える。もはや以前の自分が分らないようになっていた。
「いや、だからね、皆関心があって、一目見ようと躍起になってる。月夜をどこかでお披露目したりしないの?」
「予定はない、するつもりもない」
「ま、そーか…引き取った経緯がアレだものね…」
彼らと月夜の接点は今のところアキータでしかない。何故か少し気持ちがザラついた。彼のことだから悪いようには言わないだろうが、その界隈で有名になるのに良いことはない。
「今日は、月夜には会えないの?」
「いや、多分何処かで本でも読んでるんだろう」
気の利く使用人が知らせたのか、そのタイミングでドアが開いた。
「アキータ?久しぶりだね」
「月夜、なんか大きくなった?目線が変わったね」
「ふふ」
その笑顔はアキータには過分だろうと苦言を言うと、アキータは首をすくめた。月夜の顔が赤くなった気がするが気のせいだろうか。そう、月夜の背はこの半年で10センチも変わった。良いモノを食べさせているせいか、キチンと肉がついて、骨張った身体も健康的にふっくらとしてきた。始めに用意した服も靴もあっという間に買い換えねばならなかったが、それは、自分の服を買うよりもずっと楽しい買い物だった。何しろ、何でも似合うのだ。外商が持ってくるお勧めを何着も着せてみせること、それに月夜が照れ臭そうにしているのを見ることは、何よりも心が踊った。
月夜が嫌がったこともあって、私は外出を全くさせなかった。幸い屋敷は広く、充分な中庭もあって、私たちの間に幽閉という意識はなかった。月夜を誰かに見られる可能性は露とも無かったが、アキータの言っていた噂は一人歩きし、それは月面での最高権力者である総督閣下の訪問にまで至った。私にそれを断ることは出来なかった。
鍛えられた体躯に、黒地に金の縫取りの軍服が凛々しく似合う。高身長も相まって本当に威圧感がある総督は、白い歯を見せて朗らかに挨拶した。
「やあ、サルーキご無沙汰だな」
「閣下、わざわざ御足労いただくなど…恐れ多い…」
「ここへ来なければ、一生会えないと思ってな。お前が大切にしている養い子は、今日はどうしているのだ」
「あいにく、はやり風邪をひいてしまい熱で伏せっております。申し訳もございません…」
しれっと嘘をついて誤魔化した。いつまでのらりくらりと躱せるのか、厄介なことになった。
****
最初は悪戯ごころからの好奇心だったが、頑なに養い子と会わせようとしないサルーキに対してだんだんと意地になり、姑息な方法で忍び込むようにサルーキ邸へ来てしまった。
約束のない訪問に屋敷の者は静かにうろたえ、丸わかりな時間稼ぎのために私は応接室で待たされた。部屋は中庭に面しており簡単に外に出られる。地球から輸入された植物がふんだんに植えられ、木々が暗闇をさらに暗くしていた。何かの花の香りがひっそりと、どこからか漂っている。ああ、これが皆が噂する有名な庭かと眺め、期待せずにポーチを降りた。
少し歩いてすぐ東屋を見つけ、興味をそそられて入口にまわってみる。
そこに彼を見つけた。
星の瞬く夜空の下で寛ぐ姿は、まるで発光しているかのように私の目に眩しく映った。誰に言われなくても、彼がその養い子に違いなかった。
画集か何かを読む俯いた顔に、私は磁力のような何かでもって惹きつけられるように動けなくなった。女性ではなく、かと言って男でもない性を越えた美しさは、過去に学んだヨーロッパの、まるで1枚の宗教画のようで、立ち尽くして見惚れてしまった。
ふ、と
こちらに気づいて視線を上げ、彼は黒い目を見開いた。少し怯えたように、そして訝しげに
「貴方、誰?」
と尋ねてきた。
こちらを値踏みするような顔つきでさえも美しいなと感心しながら、しかし、慌てて名乗る。
「私はサルーキの知人でね、行き違いがあってご不在中にこちらに伺ってしまったんだ。君はサルーキが大切にしてる子だね」
うっかり養い子などというと不敬かと、言葉を選びながら言う。
「大切な?
そう…」
そう呟いて僅かに変えた表情は、彼が私の言葉に嬉しく感じているのだと分かった。微笑ましいのか、それとも羨ましいのか、複雑な気持ちになって近づいた。
「私はミカ・ドゥーイン。君の名は?」
「ぼくは…」
言いかけて、はたと止めてしまった。
「名乗っても良いのかしら サルーキに聞かないと…」
驚いたことに、月夜は私に名乗らなかった。そればかりか
「サルーキの知人かもしれないけれど、紹介されてない人とこれ以上は話さない。さよなら」
と、書籍を携えながら口早に言い、未練など微塵もなく、さっと私の前を通り過ぎて、屋敷の方へ立ち去ってしまった。
「参ったな」
ため息をついて頭を掻いた。こんな屈辱は生まれて始めてだ。月面の総督になる以前から、美丈夫で上に立つ資質を持った自分は、誰からも敬意と憧憬を持って扱われたし、それこそ今や、この月で頂点に立つ私に無関心を装う者さえいないと言うのに。
無様にこそこそ会いに来たのだって、私らしからぬ愚行なのだ。そのうえ、尋ねられたからこそ、こちらから名を答えたというのに、向こうは名乗りもしないなど失礼極まりない。こんな風に振られるなんてあり得ないことだ。もっと怒りが沸いてもいい。にも関わらず、そんなことを気にしないほどにまた会いたいと思った。あの瞳にちゃんと自分を映して欲しいと。あんな歳の離れた少年にこんなことを思う自分は本当に気が触れたとしか思えない。
「参った…」
私は来た道を戻り、いなくなった私を焦って探していた給仕達に不作法を詫び、そのままサルーキが戻るのを待った。実に2時間も待っていた。
帰って来たサルーキは見たこともない顔で私に挨拶をした。その珍しい顔を見られただけでも良しとするか?否、冗談。
*****
「閣下…!!先ずはお待たせいたしましたことをお詫びいたします。…しかし今宵はお約束を…」
しておりましたかと尋ねる前に遮られた。
「いや、無作法なのは私だから良い。
しかし、もう良い加減にお前の養い子を紹介してもらおうか。先ほど顔を見たが、お前に紹介されねば話も出来ぬと断られたわ」
一瞬息が止まってしまった。穏やかな雰囲気ではあるが、面白くないと思っているのが如実に伝わってきた。時間が遅いことを口実に断ろうか、それとも腹を括って彼を紹介しようか、逡巡していたのを見透かされたのか、牽制してきた。
「いつでもいいぞ。今でもいい。明日でも」
不遜な態度でニヤリとしながら言う。
明日、改めて場を設けて時間を掛けるより、今紹介してほんの一瞬で終わらせてしまおうととっさに計算する。
「ただ今呼んで参ります」
月夜に紹介したい人がいるからと、客間へと手を引くと
「お客様に会うの?珍しいね」
と私を見上げて言う。確かにそうだ。アキータ以外を紹介したことなどない。そもそもアキータとは共に出会ったから1番事情を知っている。初めて誰かを紹介するようなものだ。急に面白くない気持ちが明確になった。これまでにも感じていたもやもやの正体はこれなのか、だがもう後には引けない。
連れていくと、総督はこれ以上ない満面の笑みで自らを名乗り、握手までして次の約束を取り付けた。可哀想に、月夜は私の袖を握りながら、どう答えるのが良いのかを問うようにたびたび私を振り返ったが、私にも何が正解か分からず助けてやることは出来なかった。
それからはもう、珍しい菓子が手に入っただけの口実で、総督ともあろう者が頻繁に屋敷を訪れるようになってしまった。これまで全く我が家に来たことがなかったとは思えない気安さで。
総督が来ると月夜は私の側にひっそりとやってくる。始めは構われたくなくて部屋に引きこもっていたが、総督が遠慮なく彼のところに行っていろいろ話をするものだから、助けを求めて私の側に来るようになった。月夜の代わりに私が答えるのがほとんどで、不敬を買うのではと恐れたが、これまでに機嫌を損ねることはなかった。しかしこのままで済むわけにはいかないだろう。
総督の煩わしい訪問が招いた嬉しい誤算は、その代わりに月夜が私に分かりやすく懐くようになったことだった。仕事から帰って来ても、以前は私が様子を見に行くか、使用人に呼びに行かせるまで何処かでうたた寝しているか、本を読んでいるかしていたのが、出迎えるようになっていた。
玄関ホールの片隅からぽつりと「おかえり」と言うのに、外套を預けながら「ただいま」と返す私の顔は、なんとなく誰にも見せたくない。そうした最初の日の秘書の顔には、イケないものでも見たかのような動揺があった。あれは居心地が悪かった。
そのうちに私が屋敷にいるときには、気づくとそばにいるようになっていた。
「サルーキ、明日は休みなの?」
「最近私の都合をよく聞くね?何かあるのかい」
「別に」
目を伏せて口を尖らせる表情が可愛い。月夜は女性ではないのだが時折りみせる仕草や表情にどきりとさせられる。
「総督はもうしばらく来ない?」
「だと良いがな…わたしにも分からん。本当はそんな暇などないくらいお忙しい方の筈なんだが…」
心配顔の月夜を見ながら
「気に入られてしまったなぁ、月夜」
と、苦笑して彼の髪を弄る。
「…」
少し不満げな顔をして、月夜はそっぽを向いた。
「どうしたんだ?」
先程と同じように「別に」と言って、そっぽを向いたまま身体を預けて来た。長いこと、こんな風に人と密着することを許してはいなかったな、と気づいた。心地よい重みを受け止めながら、月夜の白い滑らかな肌を間近に感じ、触れたい、抱きしめたいという気持ちに駆られた、と思った瞬間に正にそうしていた。自身に驚いたが、戸惑いすぎて彼の背中に回した腕をどうすることもできず、そのまま抱きしめてしまった。私の腕の中にすっぽりと収まる体が少し軋んだが、月夜はじっとされるがままになっていた。
「サルーキ」
彼が囁やくように呼ぶ私の名前が耳に触れて、ぞくりとした。思わず彼の頬を両手で包むと、濡れたような黒い瞳が吸い込むように私を見ている。そこには美しさしかなかった。身体の奥底からじわりと滲むように熱くなるこの感覚には未だに慣れない。
「月夜」
そう呼んで、気がつけばくちづけていた。嫌がりはしないが驚きもなく、月夜の反応はいつもと同じように無反応だった。この行為に意味は無いと思っているのかもしれない。それでも私の身体は熱を持ち、再び口を吸った。温かな内側に触れてぞわりとする。
「お前が愛しいよ」
一言伝えて、離れた。私は少し、震えていた。
その日の夜は眠れなかった。眠ろうとすると、そのときの胸の奥がざわりとした感覚と月夜を思い出して顔が赤くなる。ほかごとを考えて眠ろうとするが、気づくとまた同じことを繰り返し、寝返りばかりうって朝を迎えた。
その日からしばらく、月夜と私はよそよそしくなった。月夜がこれまでのように積極的に近づかなくなったのを悲しむ反面、ほっとしている自分がいる。敢えて自分から近づくこともしなかった。いつものご機嫌伺いも使用人を通した。気になって遠目で様子を見ることもある。だが、互いの目が合うと思わず視線を外してしまい、そんな自分に心底動揺した。鼓動が大きくなって落ち着かない日々が続いた。
「御前、近頃の月夜様のご様子が気になりまして…」
書斎に夜、珍しく秘書が来たと思ったら、遠慮がちにそう言った。身に覚えのある私は、また居心地が悪い…。
「そうか…」
2人して沈黙する。
「あー、月夜は何か言っているのか。」
「何も仰りはしませんが、明らかに寂しそうにしておられます。
お食事の量も、減っておりまして…」
胸が痛んだ。私の、この説明のつかない感情に私だけが振り回されているわけでは無かったのだ。
「何かございましたか?」
「いや、何もない」
…訳ではないが、正直に言うにはハードルが高すぎた。
「よく様子を見てやってくれ」
そう言って下がらせた。しばらく迷ったが、彼が完全にいなくなったのを見計らって月夜の部屋に向かった。ノックをしても返事がないのでそのまま部屋に入ると、寝台の上に座っていた月夜と目があった。
「サルーキ…!
何かあったの?こんな時間に来るのは初めてだね」
少し顔を赤くして、掛布から出てこようとする月夜を制して寝台の上に座る。
「そうだね
お前が眠れてないんじゃないかと思ったんだよ。やっぱり起きてたね」
「寝るところだったよ」
「そうか、なら良かった」
私の意図がみえないからか、戸惑いながらこちらを見る。私も様子を見に来ただけだったから、話題を探した。そのまま去るにはなんだか勿体ない気がした。月夜としばらくこんな時間を持てていなかったと気づいた。
「月の生活はどうだ、お前には辛くないか」
「辛くなんか…みんな、良くしてくださるし…
サルーキも…」
見上げた瞳が潤んでいて泣いているのかと思った。
やはり可愛いと思う。いろいろなことにこだわっていることが馬鹿らしくなり、以前の、正直な言葉を伝えていた時分を思い出した。
「お前が幸せになるようにいつも思っているよ」
「私は最近態度が悪かったな、明日からはいつもどおりだから、安心してお休み」
目を丸くして私を見る月夜に微笑んだ。月夜の瞳から涙がつるりと一粒、溢れ落ちた。
「どうして泣くんだ」
驚いて胸に抱く。こんなに心を痛ませていたのかと苦しくなり、ごめんなと指で涙を拭いながら謝ったが、尚も涙は流れた。不謹慎にもそれを美しいと思ってしまう。肩を抱き髪を撫でる。
「嬉しくて…
いつも感謝してる…」
「そうか、それなら良いんだ。」
しばらくそうした後、そっと肩を離すと目の周りを赤くしながら儚げに微笑み返された。
「ごめんね、泣いちゃった」
その笑顔に口づけたくなったが、懸命に堪えた。そのせいで少し強張ったのを気取られないか心配した。何かをせずにはいられず、額をくっつけてもう一度お休みと言った。
月夜のつぶやくような小さな「おやすみなさい」を聞いて、私は部屋を出た。
月夜への愛おしさが溢れて、どうしようもなく胸が熱かった。幸せというのはこういうことなのだろうか。
******
明らかに何かが変わった、と感じた。
数年に一度しかないとは言え、毎回胸糞悪くなる地球への出張から戻ってみれば、出遅れていた自分がさらに距離を離されてしまったことに気づいた。
訪問の予定を告げると何かしらで断られることが分かって以来、サルーキの都合を予め手に入れてアポ無しで訪問していた。数回こんな事を続ければ受け入れざるを得ないとサルーキも察する。お行儀は良くないが、咎められる不作法でもないから渋々受け入れてくれているのだろう。サルーキのことは、自分のことが可愛い、数いる貴族院の奴等と同じだと思っていたが、だんだんそうでもないと思い始めていた矢先だった。サルーキの秘書は、月夜様が来てから大層お変わりになりましたと言っていた。
そしてまた変わったのだろう。
地球土産を持って行ったサルーキ邸で、私は2人の距離感を見せつけられていた。
「サルーキ、お前、顔が緩んでるな」
何を言われたかわからない顔で私を見る。そして慌てて口元を隠して赤くなった。
「緩んでなどおりません」
向かい合わせのソファで、サルーキの隣には月夜が、それはそれは寛いで私の土産の菓子を頬張っていた。
「総督、ありがとうございます。美味しいです」
「そうか、それは良かった。悩んで選んだ甲斐があったというものだ」
それを聞いてサルーキは居心地悪そうにした。そうなるように敢えて言ってやったのだ。くそ、腹が立つ。一緒に暮らしているのだから仕方がない。いつも優位になる私の地位や肩書も、月夜にとっては何の意味も無い。不思議とこの美しい少年に惹かれている。あの瞳が自分だけを見てくれないかと期待せずにはいられない。タチの悪い何かの魔力のようだ。
*******
随分と時期が空いたが、第6次移植が始まると総督は言った。月面での生活圏が広がったことを示している。先日の出張ではその優先順位で揉めたそうだ。
地球の状態は向上しつつあるが、どうも月に住むというステイタスが出来上がっているらしい。月と地球との移送に関わる様々な利権は相当なもので、それも一役買っているという。
「馬鹿らしいことだ。」
総督のため息には沈黙で答えた。
「お前も例外なく忙しくなるからな」
「承知しております」
恭しく首を垂れて従順に頷いた。
「ところで出張中に、月夜の写真を見ていたらな」
「閣下?!いつの間にそんなものを…」
思いつかなかった…。私でさえ持っていないものを。彼は懐からスケルトンスクリーンをチラリと見せながら言った。
「覗いて来た関係者の1人が月夜に会いたいと言うんだ」
何を勝手な事を…!と、喉まで出かかったがすんでで飲み込んだ。総督には何も伝えていない。不法移民だとか、特殊な場所で見つけただとか、記憶が全く無いだとか…。あのとき作らせた身分証は完璧だった。
「私は保護者では無いと言ったんだが…行方知れずの親族に似ていて、可能性があるならどうか会わせてくれと懇願されてしまっては、はっきりと断れなくて困っている。どうも、ただの懸想では無いようだし、それなりの家の者なのでな」
胸が騒いだ。
月夜が私の元に来てからもう2年は経つ。いろいろなことを後回しにも、あやふやにもできないくらいの時間が経っている。
月夜がもし自ら望んで月に来たのではなかったとしたら。アキータの言っていたような、素性の不確かな人間ではなく地球にいなければならないような人間であったとしたら。
なんと言っても記憶がないのだ。月夜を手放さなければならない未来が垣間見えた瞬間背筋が凍った。
「サルーキ?聞いているのか?
お前にとっては微妙な話かもしれんが…」
訝しげな総督に気付いて、なんでも無いように振る舞う。
「断る理由はありませんから。ただ、月夜とも相談します」
「そうだな、詳細はまた追って連絡する」
「かしこまりました」
静かに答えて部屋を辞した。
あの夜以降、良好になっていた月夜との関係を考えると、なかなかに話しづらかった。屋敷に戻り、ポーチに直に座って庭をぼんやり眺めていた。木々の先の夜空には、いつものように地球がうっすらと見えている。
「サルーキ、どうかしたの?」
背後から手を回して抱きつかれた。最近、スキンシップに遠慮が無くなって、すっかり懐いた猫のようだ。愛しくなって腕に抱き直す。
「総督の仕事場に月夜も行くことになった。日取りはまだ先だけどね」
「僕も?行かないといけないの?」
「今回は行かなければならない」
月夜は眉を寄せた。
「絶対に?」
「残念ながら」
「断るとサルーキが困るんだよね?」
答えなかったが、それが答えだった。
じゃあ行くよ。私の腕の中で頬を寄せてつぶやく。
「ありがとう、良い子だ」
抱きしめる力を強くする。微笑んで見上げる月夜を離したくないと思った。
月夜を危険に晒させたくないという私の希望が通って、例年今頃に行なっている名目上の親睦パーティーに、月夜と2人で出席することになった。月夜には濃紺のスーツを用意した。艶のある黒い髪と光沢のある素材が映えている。銀糸の細かいストライプが入ったシャツに黒の細いタイを締めた。
「素敵だよ」
分かりにくくはにかんでいるのが、すっかり分かるようになっていて、そのことに優越感を感じる。
「あと、これを」
月夜の腕を取り、ステンレス製のシンプルな時計を手早くつけた。
「遅くなったが、誕生祝いだ」
月夜を見つけた日を誕生日ということにしていたが、先日のいろいろで、2人の間が気まずくて渡しそびれてしまっていたものだ。本当はずっと前に用意していた。月夜の手首に映える華奢なデザインのものを。いつも身につけて貰えるものを。
声もなく、目を見開いて手首に光る時計を眺めていたが、急に瞳が潤んだかと思ったらポトリと涙を零した。
「嬉しい…大事にする」
予想外の掠れた声でつぶやいた。喜んで貰えて嬉しいというよりも、なんだか切なくなった。クリスタルのように睫毛に張り付く涙を、ハンカチでそっと押さえてやる。
「また泣いちゃった」
柔らかく微笑む月夜に胸が疼いた。
「そんなに喜んでもらえて嬉しいよ。
お前は泣き虫だったんだな」
言いながら、心がざわつくのをとめられなかった。
月陸に一棟しかない高級ホテルの宴会場の一室が会場だった。屋上テラスにも出られる最上階で、眺めが良い。2人並んで歩いているといつもと違う視線が気になった。
「総督も良い仕事をする」
気づけば背後にアキータがいた。
「サルーキが月夜を連れて出席するというから、来場者多いみたいよ…ってやだなぁ、睨むなよ。僕はこの件は一言も言っていないんだ」
ぴょこんと私の後ろから月夜が顔を出した。
「久しぶり、こんばんはアキータ」
「やぁ、月夜、元気そうで何よりだよ。正装、似合ってるじゃないか」
「ありがとう」
はにかんで答える月夜を温かい目で見るアキータに、ぶっきらぼうに言う。
「今日もそんなに長居はしない」
「じゃあ帰りは一緒に乗せていってもらおうかな。僕はこういう公なのは苦手なんだ。わかるだろう?」
流し目でアキータが言うのでフッと笑った。確かに彼にはアンダーグラウンドな場所の方が似合っている。ご婦人達が堂々と詮索に寄ってくるので、私もアキータも常ならば敬遠している会だ。
「離れるんじゃ無いよ」
月夜に念を押して総督に挨拶に行く。
「やあ、月夜、見違えたね!」
私に一瞥もくれず月夜に話しかける総督にムッとする。月夜は淡々と、笑顔もみせずに、ご招待くださってありがとうございますと答えた。
「君の初めての正式な外出先に選ばれてとても嬉しいよ!」
総督は全くめげずに肩を抱いて笑顔で話しかける。
これにはアキータも驚いたようだ。小さく口笛を吹いて、ホントにご執心なんだねと私にだけ聞こえる声で言う。それ以上何も言うなよと目で制したが、
「遠慮しなくて良い、何か取ってやろう。月夜は好き嫌いなどないんだろう」
と、月夜の肩を抱いたままビュッフェに連れて行く総督を見ては無理だった。嘘だろう?!良いの、アレ?振り向いてコソコソと私に噛みつく。こんなに焦っているアキータを見るのも久しぶりだ。
「良いわけないだろう、注目されたくないのに…」
「いや、サルーキが連れてる時点で注目はされてるよ、あんなに綺麗な子なんだし… ま、確かに総督が連れてたら注目度2倍…3倍?」
「馬鹿なこと言ってないで連れ戻してきてくれ」
「なんで俺が…」
「注目されたくないと言っているだろう。目を離さないでくれよ」
大きなため息をついてアキータは彼らの後を追った。
遠目に、3人が料理を前にあれこれ言っているらしいのを見て、アキータに任せて良いと判断してから、もう一度場内を観察する。月夜に対して他と違う反応をする者がいないか、会場に入ってから私はずっと気配を探っていた。たまに何人かの招待客が私のところに挨拶にきたが、総督と変わらない身長の私が表情なく見下げると、皆長居はせずに去って行った。
しばらくしてアキータが月夜を伴って戻ってきた。
「総督は挨拶があるんだって」
そうか、と月夜の髪をくしゃりと撫ぜた。
「今回も地球からのお客人が来ているんだろう?総督の憂鬱そうな顔は移植で揉めでもしてるのかな」
「アキータの情報源はいつもどこからなんだ」
「僕ともっと飲みに行ってくれれば教えるんだよ?」
鳶色の巻毛を揺らしてにっと笑う。食えない男だ。その視界に入る月夜の顔が少し暗いことに気づく。
「月夜?人酔いしたか」
「いつまでここにいるの」
私の肩に手を掛け、耳に口を近づけて囁いた。総督に挨拶したので義理は果たしているが、件の関係者がどう接触してくるのかが分からず思案する。月夜に影響があるかわからぬ者と対面させるなんて考えたくない。彼は繊細だから、なるべく負担にならないよう勝手に観察して欲しいと伝えた要望が、どのように作用しているのか不明なままだった。好きな時に帰れと総督からは言われている。
「月夜がここに飽きるまでだ」
と冗談めかして言ってみたら
じゃあもう飽きたと、真顔で答えられてしまった。
「お前はブレないなぁ」
苦笑して、帰るかとアキータにも声をかけた。私達には恒例でも、月夜にとっては初めての筈の豪華なビュッフェも、煌びやかな会場も、窓から見える月陸ステーションの華やかな夜景も、何一つ興味をひかないのかと思うと、わたしの家に来たばかりの無表情だった月夜を思い出してしまう。会場の受付係に帰ることを言付けてシャトル型のエレベーターへ向かった。
突然、急に、背後にざらつくものを感じて振り向いた。離れた廊下の真ん中で、アジア系の青年が真っ青な顔でこちらを見ていた。会場からこの廊下まで慌てて走ってきたような乱れた様子を見て、私は見送るはずだったエレベーターに2人を押し込んでそのまま乗り込んだ。押された拍子に誰かがきゃっと声をあげ、その瞬間に下降し始めた。
アキータが何か言いたげだったが、人が密集した中で語りかけてくることはしなかった。私の心臓は張り裂けそうに波打ち、黙っている分、それは身体中に鳴り響いていた。
「かぐや君!」
あの青年が背中越しに叫んだのが聞こえていた。たぶん、そう、私が名付ける前の月夜の名前なのだろう…。記憶を無くしている月夜の関係者ならば、真っ先に歩み寄らなければならない。しかし私は何かを考えるより先に、月夜を抱き抱えるようにして屋敷に逃げ帰って来てしまった。帰宅中、緊迫した表情の私に月夜が心配して声をかけてくれたが、何も言えずに、ぎこちなく微笑むことしか出来なかった。あの一瞬で判断できたのは小綺麗で誠実そうな顔つきの、アジア系の青年…だった。
横に座る月夜を胸に抱き寄せた。私の様子がいつもと違うからなのか、月夜は頬を寄せて来た。上目遣いで私を見る。
「どうしたのサルーキ?
もしかして誰か僕を迎えに来たの?」
月夜の言葉に凍りついた。声を絞り出す。少し掠れた。
「何故そう思う」
「誰かが僕を呼んでいたような気がしたから…」
月夜はもぞもぞと私の腕から両手を出して首に回し、抱き締め返してきた。私は益々動揺する。さらに月夜はか細い声で囁くように言った。
「何処にも行きたくない…
サルーキのそばにいたいよ」
身体中の血が沸騰したかのようだった。
強く抱きしめ返して答える。
「もちろんだ!お前が居たいだけ居れば良い…ずっと居て良いんだ…」
何ということだ。月夜の口から私の望む言葉が聞けるなんて…。あの青年の事を調べなければならない。出来るだけ早く、正確に…。総督経由で何かを決められる前に…。居てもたってもいられない逸る気持ちとは裏腹に、腕の中の月夜をいつまでも離したくなかった。首に巻きつく月夜の腕は緩まなかった。触れ合う場所に温もりを感じながら月夜の背中を何度も撫でる。
「僕ね、いますごく幸せなんだ
サルーキ…」
あの時と同じ状況にまた胸が震えた。意識せずに再び彼に口づけていた。しかし以前と違ったのは、月夜がひどくうろたえたことだ。真っ赤になって少し嫌々の態度を取る。
「ああ、ごめんよ月夜」
初めての仕草に不意を突かれて顔を離し、だが、突き放されるのを恐れてふたたび力強く抱きしめた。月夜は嫌がらなかった。艶やかな黒髪に口を埋めて、好きだと思わず呟く…口にすると愛しさが溢れてきた。私の知らない感情の連続だ。
両手で顔を挟み、額、目元、頬、唇を避けて顔じゅうに触れるだけのキスをする。されるがままになっていたが、目を潤ませながら少し笑ったのを見逃さなかった。
「おいで」
背中と膝裏に手を入れて抱き抱えて寝室に運んだ。彼を優しくかき抱きながら眠りについた。離れ難くてそうしてしまったのだ。月夜も安心しきって私に身体を預けてくれる。ふわふわと地に足がついていないような落ち着かない気持ちでありながら、心は満ち足りていた。誰かと一緒に朝を迎えるのは初めてのことだった。
庇護しているという大義名分の裏には、常に私のエゴで彼を囲い込んでいるかもしれないという罪悪感が少なからずあった。だから、月夜から直接私の側に居たいと言ってもらえたことは、心の霧が晴れたようだった。私の独りよがりではないのだと、胸を張って思える。
私の生活は月夜を中心にまわっていた。
早朝、意を決して総督の館に向かった。朝の執務前の時間を狙ったのだがアキータからの通信で挫かれた。音声だけを切り替え、不機嫌に言う。
「この朝早くになんだ?私はこれから用事がある」
「昨日気にしてた青年のこと、詳しく知りたいなら家に来たら良いよ。どうする?」
「アキータ、お前…!!」
時間はあった。私はアキータの住まいへ進路を変えた。
件の青年がまさにそこに居るとも思わず。全く、どんな伝手を使ったのか、アキータの機動力には恐れ入る。
彼は迎と名乗った。
*******
目を覚ましたとき、月夜はサルーキの寝台の上だった。人の温もりを感じながら眠る…それは、かつてない安心感に包まれた夜だった。いつも、そう、いつも自分は1人だった。急に心細さを感じて起きあがった。サルーキはいない。すっかり冷え切った彼の跡をさすって、居なくなってだいぶ経つんだろうと推察した。
「おはようございます」
サルーキの秘書が着替えをもって現れた。
「総督がいらっしゃっていますよ。」
「え…?
サルーキはいないのに?」
そういうと秘書は眉を寄せて申し訳ありません、回避できませんでした。と心底悔しそうに応えた。勝手に来たのだから知ったことかと、ゆっくり着替えながらサルーキの温もりを思い出していた。一つ大きなため息を吐いて応接室へ向かった。嫌いではないが、ぐいぐい話してくる総督にはまだ慣れない。
「おはよう、月夜!」
笑顔と白い歯が眩しい。
「おはようございます、、総督…」
気が削がれてボソボソとこたえた。
これから仕事に行くのか、総督はいつもの黒い軍服を着ていた。別に戦闘があるわけでは無いけれど威厳が増すだろうと得意気に語っていたことがある。それを一緒に聞いていたサルーキは微妙な顔をしていた。
「昨夜はあまり時間が取れなくて済まなかったな、楽しめたか?」
「料理は、美味しかったです…。でも僕、あまり外に行くのは得意では無いので…」
前々から言っていたと思うのに、総督は意外そうな顔をした。
「まぁ、月陸には特段観光するような場所はないしな。月夜は読書が好きらしいが、今どきの若者のようにバーチャルシネマや4Dゲームに興味はないのか」
「僕、それを知りません」
何故それを知らないのかは追究されず、それなら、と、どっかと月夜の隣に腰を降ろしてハンドサイズのスクリーンでプロモーション映像を見せてくれる。それは彩色豊かで惹き込まれたが、体験するために外出しようとまでは思えなかった。
「総督は、何故僕を構うの?」
息のかかるような距離で楽しげにしている、月陸での最高権力者に尋ねてみる。
「何故かな?でも理由なんぞ必要か?」
優しく微笑みながら総督は何でもないように応えた。
「容姿や性格を言えば納得するのか?違うだろう?俺は、人の好き嫌いなんてものは感覚だと思っている。理由なんて後付けでしかない。
俺はとにかく月夜を可愛がりたいと思ってしまうんだ」
月夜の首根っこを押さえてわははと豪快に笑う。
「お前が笑うと俺は嬉しいぞ」
勢いに呑まれて両の口の端が上がった。
「総督、俺って言うんですね」
「だいぶ気安くなったろう?」
総督の満足そうな顔は、自分と二十近くも歳の離れている立派な社会人だというのに可愛らしいと思った。しかし同時に暗澹とした気持ちが過る。心の何処かで、水を差されたかのように、何かがツキンと音を立てた気がした。
サルーキが居ないとは思わなかったのだと言ったが、それは表面上の恐縮ぶりで、総督は悪戯っ子の顔をして、また遊びに来ると風のように去って行った。
珍しく手を振り返し、自分のような若輩者にもきちんと返事を返す、総督の礼儀正しい豪快さは好きだな、と思いながら彼を見送った。
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下へ続く