目覚めは穏やかな朝、冬の音色とともに
槍の書(未執筆)と密接にかかわるものです。
試験的なものを含んでいるため、内容は後日加筆される可能性があります。
厚い木の板をノックする音で目が覚めた。
「あ、あのっ!お、おはようございます、お嬢様!」
ドアの向こうから、召使いの声がする。
名前は、確か。
「……アンリね」
端から足を落とすようにベッドの上を滑る。
「今起きるから、少し静かにしてちょうだい」
ガタ、と音が聞こえた気がしたが、返事もなく静止しているのだろうと思うと少し加虐心が煽られた。
はて、何人目だったかしら。
取り換え引き換え。
5人からあとは数えてない。
というのも、一目見ただけで追い返したこともあったのだから。あの時の顔は、今でも忘れられない。きっと一番印象に残っているのはあの子ね。名前も知らないけれど。
寝間着の肩紐を外して、姿見の前で足元に落とす。寝ぼけた頭はそれ以上の行動を拒否した。
「アンリ。入ってきて服を着せてちょうだい」
「……はっ、はいっ!?ただいま!」
大慌てでドアを開いて入ってきたのは、紅潮した顔に困り顔のあどけない少女。
しかしながら、いつもと様子が違うような気がした。
「お召し物にご希望はございますかっ!」
これだから新人は、と肩をすくませる。
何を言っているのかしら。
「今日はお父様の貴賓の方々と朝食会でしょう?昨日のうちに予め服を用意していたはずよ」
「えっ……?」
私の言葉にぽかんと口を開けて固まるアンリ。
はて。
「あ、あの、その。貴賓の方々との朝食会は、もう昨日、終わっておりますが……」
「えっ……?」
それ以上に固まったのは私のほうだった。
「今日は、お嬢様にご用事はございません。夜会もありませんので、一日ごゆっくりお過ごしになれますかと」
おずおずと語るアンリの向こうの姿見に映る自分の顔は、寝起きにしてもあまりにひどい顔をしていた。
昨日の記憶が全くない。
「あ、あのお嬢様、動かれるとうまく梳かせませんっ!」
腰まで届く長い金の髪を、不慣れな手つきでブラッシングしていくアンリをさらに困らせるように、私は頭をひねっている。
実に丸一日の記憶が欠如していた。いつもならば嫌味の一つもかけているドレッサーの前で、眉を顰める自分を鏡越しに見つめている。
聞けば、昨日は少し様子が変だったらしい。どんな風に?と聞くと、それはその、と返してくるばかり。彼女にとって何か不都合があるのかしら。
「そういえば、昨日就寝なさる前に、『寝ぼけていたらドレッサーの引き出しを見るように言ってくださる?』とおっしゃっていましたが」
そういわれて、普段自分では開けないドレッサーの引き出しに目を移す。
「……変ね」
わずかに開閉された痕跡のある引き出しがすぐにわかった。
ノブを引いてみると、中にあったのは紐で丸められた羊皮紙。
「これのことかしら?」
「ですかね?」
興味津々といった表情で、手に取ったそれをアンリも肩越しに見つめる。
「お手紙ですかね」
「最近なにか受け取って?」
「いえ」
「そうよね」
蝶結びをほどいて羊皮紙を開くと、文字列がびっしりと並んでいた。
「はわ……どこの言葉ですか、これ。丸いのと角ばったのと複雑な文字が並んでますね」
瞬間、ずきりと、頭痛が走った。
それは目の奥、喉の奥、胸の奥へと、まるで剣を飲み込むようにずしりと広がっていく。
「お嬢様……?」
そう、普通ならば。
「あ、あの、お嬢様、大丈夫ですか!?」
息ができないように、胸元を抑えながら頭を強く横に振る。
「お嬢様!」
これは何なのか。
あろうことか、謎の文字列を私の頭は鮮明に読み上げていく。
『きっと君はこれが読めると思う』
誰。
『だから、もし僕がその時に居合わせなかった時のためにこれを残す』
何を。
『君の父はリシッパ卿の炭鉱の利権を狙っているようだ』
どくりと心臓が波打つ。
『もしシーア君が大切な友人であるならば気を付けたほうがいい』
何を勝手に。
『君の父は残虐だ。君のことも道具にしか見ていないだろう』
お父様が?
『次の夜会から動きがあるとみている。フラギ夫人とその周囲に気を付けて』
それは……
「イズミお嬢様!」
「はっ!?」
イズミ。
我に返った私の全身を、今度はその言葉が駆け巡ってめまいが襲った。。
イズミ。
イズミ。
イズミ?
何、イズミ?
違うわ、私はイズミ・フォン・シュルフェーズ!
そう。
そんなはずがないの。
イズミの名前の前に言葉があるなんて!
『いずみー!』
懐かしい声が聞こえた気がした。
『くすくすいずみん!』
胸の奥を突くような、優しい響きが鐘を打つ。
「くす……」
「くす?」
心配そうにアンリの顔が、懐かしい顔に重なった。
「く……っ!」
『肺』が。
『酸素』を求めた。
『フルート』が空気を求めるのに応えるように。
「くすくすって──」
涙が。
「いうなあああああああああああああああ!!!!!!」
「!?」
ドレッサーの上のものを薙ぎ払い、吐き出した感情が部屋の隅の豪奢な布がかかった鍵盤楽器に駆り立てた。
「わたしはっ!わたしにはぁっ!」
引きずり降ろすように乱暴に布を床に投げ捨て、鍵盤蓋を上げる。
「え、ええ?お、お嬢様!?」
「ちゃんと、私には『楠木』って苗字が──」
少しだけ鍵の幅が違う楽器に、慣れた指が食らいついた。
「あるんだってばぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
止めどない涙が頬を伝い、振り乱す髪に飛び散って、きらきらと朝陽を舞う。
「そ、そんな、お嬢様……」
鍵盤の上を踊る指先が、穏やかな朝に不釣り合いな旋律を城内に響かせていく。
「お嬢様、楽器が、弾けたのですか……!?」
アントニオ・ヴィヴァルディ作曲。ヴァイオリン協奏曲、四季の第四曲。
この世界の誰一人として知るはずのない曲。
『冬』。
我を忘れて弾き狂う私の頭に流れ込んでくる、懐かしく、温かく、悲しく、苦しい記憶たち。
──ああ。
──私は。
──楠木、いずみ。
どうして、こんなところにいるのだろう。
その日。
楽器嫌いで有名だった貴族令嬢の部屋から、この世のものとは思えない独創的で旋律的な曲が響き渡った。
イズミ・フォン・シュルフェーズ。
楠木いずみ。
私は、目を覚ましてしまった。
17年前の、女神との約定を果たすために。