最悪 ― DOT BLOOD
こんなタイプの怖い話、聞いたことがないしもちろん経験もない。パソコンの画面から血が滲み出るという、どう考えても自分自身の頭がおかしくなったとしか思えない現象。黒みがかった赤の点から、血が流れだしてくる。ホラー映画でテレビから出てくる髪の毛や砂嵐ならわかる。何故血なんだ。そしてなぜ俺のパソコンなんだ!
森井良太は、業務中であろうかパソコンのキーボードを只管にカタカタと勢いよく音を立てて入力している。システムエンジニアになって五年、元々プログラミングの才があった良太は会社に属さず、単独で仕事を請け負うようになっていた。一日に長くても十二時間はパソコンの前に座って入力作業をしている。しかし、そんな状況が続いていたもので、視力が低下して度が強い眼鏡が必要になっていた。目の霞み具合も日に日に酷くなっている。
この日はお得意先の化粧品メーカーの営業企業のセキュリティの確認の為に出向していた。どうやら、セキュリティソフトが作動中の時に赤い斑点が画面に出てきて仕事にならないという、最早クレームとも言える案件だった。ただ、原因はセキュリティソフトではなく会社内ネットワークに繋がっているメインPCの不具合だった。これは俺に関係ないだろと内心毒づいたが、大口の取引先であった為無下には出来ず、ほとんどサービスでこのメインPCの復旧作業を行っていた。
「すみません、うちの部長が無理難題言って・・・」
作業をしている傍ら、取引先の社員である大鳥玲子が差し入れにペットボトルのお茶を良太に差し出した。
「あ、ありがとうございます。・・・いえいえ、これぐらいどうって事ないですよ」
良太はお茶を受け取る為、作業を中断する。
「それでも、こんなエラーとか聞いた事がないですね。ウィルスならまだしも、今のところ外部から不正アクセスされている形跡もありませんし・・・」
不思議な話だった。ウィルスに感染して、広告が強制表示されるアラートが大量に出てくる悪戯ならよく耳にするし、酷い時はパソコンごと中のプログラムが破壊される。しかし、これに関しては画面に表示されているだけ。しかも液晶に赤い点が表示されると、まるで液晶に焼き付いているかのように表示が消えない。背景が白の時だけにしか起きず、これを会社内のパソコン全てに起こしている。ここまで来るとこれをやらかしたやつは、そこそこ高度なプログラミングができる人物になる。
「昨日残業していた社員のコが言ってたんですが、モニターから赤い液体みたいなのが流れてきたとも言っていました。さすがに疲れてるんじゃないの、と言っておいたんですが」
玲子は少しため息をつく。
「モニターから液体?それってモニターの故障ですね、そこまでくると」
良太は作業を再開しながら答える。
すると、画面右下のインジケータよりアラートが表示される。五センチ四方の小さなウィンドウだったが、真っ白である。何も記載されておらず、クリックしても何も表示されない。
「・・・随分変な故障の仕方ですね、これは会社内のパソコン全てを購入し直す事も検討して頂いた方がよろしいですね」
中断ではなく、良太は完全に作業を止めた。これ以上調べても無意味と判断した。
「そうですか・・・、では部長の方にもそう伝えて検討してもらうように致します」
玲子は少しうんざりした表情をした。そんな表情をしているあたり、部長はどうも面倒くさい人物のようだ。
「今後困った事がありましたら、私の名刺にある番号に連絡を下さい。その時また対応させて頂きます」
良太はメインPCからウィンドウを全て消して、玲子にそう伝えた。
しかし、やはり最後に出てきたアラートだけはどうしても消せず、良太はもやもやしたまま、オフィスを後にした。
良太が帰宅した頃には、夜の八時となっていた。あの化粧品会社の訪問対応の後、良太が開発した顧客管理システムのソフトを購入したいという企業がいたので、販売の契約に漕ぎ着け、独立してから最高額の取引を決めたのだ。いつもならこの時間に帰宅するのは遅い方だが、今日の結果には大満足だった為遅くても苦にはならなかった。明日は敢えて休みでもいいなと良太は思ったが、ここで電話が鳴る。登録されていない番号だった。誰だろうと思い電話に出ると、昼間訪問した化粧品会社の玲子からだった。
「夜分遅くに申し訳ありません、大鳥です」
良太は電話に出て少し気分が沈んだ。
「いえいえ、大丈夫ですよ。如何されましたでしょうか?」
良太が聞くと、玲子は少し慌てて、否、何かに怯えながら話しかけてきた。
「あの、本当に申し訳ないお願いなのですが、会社まで来て頂けませんでしょうか?会社のパソコン全部が触れなくなってしまっていて、他に頼る人がいなくて・・・」
良太は何かを察し、わかりました、今から三十分かかりますと伝え、すぐに家を出た。
良太はその会社に到着するが、鍵がかかっておらず、違和感を覚えるがそのままオフィスに入る。
「到着しました、どういう状況ですか?」
良太は玲子がいるのを確認し声をかけるが、玲子は怯えきっていて返事が出来ない。パソコンから目を背けながら指をさして震えている。良太は指さされた先を見ると、モニターが赤くなっているのに目を留めた。
真っ白な背景に、真っ赤な文字が表示されていた。“DOT BLOOD”と書かれている。ただ、かなりおかしかった。その“DOT BLOOD”の文字から、赤い液体が滲みだしている。画面の描画はなく、物理的に滲み出ていた。良太はおそるおそるその液体を触る。生暖かく、鉄臭い。血だ。
「これ、なんですか・・・」
近くにあったティッシュを何枚もとって手をぬぐいながら、良太は玲子に問いかけた。
「退勤直前です、社内の消灯作業してる最中に、画面がこれになってから・・・」
玲子はワナワナと震えている。昼間に感じた凛とした雰囲気が見る影もない。
「ひとまず出ましょう。電気はそのままにして、鍵だけかけていきましょう」
良太は玲子の腕を引き、オフィスを一緒に出た。
「少し落ち着きましたか?」
良太と玲子はファミレスに立ち寄った。最早避難であるが。玲子が震えすぎて歩くのも困難な状態で、会社からすぐ近くのファミレスで落ち着くまで入ることにした。
「何とか・・・」
ホットコーヒーをゆっくりすすりながら、玲子はか細く答えた。
「なんだったんでしょう・・・」
玲子の小さな問いかけに、良太は何も答えれなかった。もうこんな状況になると、システムエンジニアの範疇どころか、普通の人間には手に負えない。IT機器で超常現象なんて永久専門外である。
「こんな事お願いするのは申し訳ないのですが、朝まで一緒にいて頂けませんか・・・?」
玲子のか細い声に、良太は頷くしか出来なかった。自分だって同じような状況になったらそうして欲しい。
良太はなるべく、玲子に楽しそうな話を心掛けた。バカ話もしたりした。普段マジメで堅物と言われていた良太だが、こんなに砕けたノリをするのも随分久しぶりだった。大学生以来だろうか、久しくこんな感覚を忘れていた。これに玲子も徐々に落ち着いてきたのか少しずつ笑顔になってきていた。話し出して気づけば、夜中の一時となっていた。
「にしても朝までとなると随分時間があるから、ファミレスに居続けるのはしんどいですね、繁華街を少し歩きませんか?」
良太の提案に、玲子は乗った。
繁華街をゆっくり散策をした良太と玲子は、とあるバーに入った。どうやらオカルトバーとしてマニアな人気があるらしい。ここなら何かわかるかも知れないと思った良太は、解決の糸口を見つけようと玲子に提案した。落ち着き出していた涼子は、当初の凛とした雰囲気を取り戻していて、迷う事無く良太の提案を承諾した。
バー自体は至って雰囲気は普通だが、ところどころにオカルトバーらしく、それらしいグッズやオカルトものの書物が大量にあった。雰囲気が普通と感じれたのは、マスターが至って普通の人間、と言った感じだったからだ。だが、
「先程、パソコンで何か怖い目に遭いましたか?」
マスターにそう問いかけられ、二人は困惑した。玲子に至っては、注文した酒入りのグラスを倒して零してしまっていた。
「大丈夫ですよ、作り直しますから。・・・」
マスターは慌てる事なく、テーブルを拭いてカクテルを作り直す。
「どうしてわかったんですか・・・?」
良太は恐る恐る聞いた。
「んー・・・、一見さんにはいきなりこう言うお話はしないんですが、私普通に見えてしまっていまして・・・。お二人に何か憑いて来ていたので」
マスターの発言に二人は目を丸くした。何を言っているんだ、この人は。よく"見える"と自称して来る輩はよくいるが、このマスターはピンポイントで、パソコンで怖い目に遭ったのかと聞いて来た。ただの自称じゃない事は明白である。
「森井さんが思われた通り、確かにこれはタチの悪いイタズラです。しかもこんな手段を使ってまで怖がらせると言う事は、大鳥さんが何か恨みを買われていますね」
マスターは淡々と話し出す。注文でしか話しかけていないのに、普通に名前を自然に当てられた。いよいよもってただの自称じゃない。
「この中に入ったので、憑いていたモノは一旦離れているので安心して下さいください。ここのお酒を飲んだ後、反動は起きますが過ぎたらもう何も起こらないでしょう」
驚く二人を他所に、マスターは話し続けながら、作り直したカクテルを玲子の前に置く。
「私が、恨まれてるとは、どう言う事ですか?」
玲子は訝しげにマスターに聞く。
「あなたの元恋人でしょうか、同じ会社にいらっしゃいますね?その方は無意識に妄執に囚われていて、生き霊を飛ばしたようです。現象が止まったら、その人とはどんな形であれ、決着をつけた方がよろしいですね。もちろん、法律の範囲内ですよ」
ここでマスターがにこやかになる。このタイミングでにこやかになられては余計にリラックス出来ない。
「わかりました、こう言うのも何ですが、もう対策はありますね」
何か察したのか理解したのか、玲子もにこやかに答える。良太だけは何も分からず少しながら疎外感を感じた。ここでマスターが良太な向き合う。打って変わって、異様に真剣な表情だった。
「本当に怖いのはすぐ近くにいます。パソコンの現象が起きなくなっても本当に気をつけて下さいね」
ただその一言で終わった。
バーを出る頃には、外は白み出していた。朝が来た。
「朝までお付き合い頂いてすみません、ありがとうごさいました」
玲子に深々と頭を下げられた。
「いえいえ、明日は休むつもりだったので、問題はありませんよ。今日お仕事はどうされるおつもりですか?」
良太は眠気を堪え切れず、欠伸をしぬがらこたえた。
「さすがに休みます。先程マスターのお話を聞いて思い当たる事があったので、解決して来ます」
玲子は笑顔で答える。昨晩怯え切ってきた表情がとても思え返せない程、綺麗な笑顔だった。
良太はようやく帰宅した。帰宅途中で玲子から連絡があり、仕事は休む事が出来、仮眠をしてからその元彼に会いに行くそうである。良太は何故か少しモヤモヤしていた。玲子は幾分か綺麗な顔立ち、佇まいをしていて、良太の好みの女性だった。これで寄りを戻すとなったら少し残念だな、なんて思っていた。まあ、タイプな女性と一晩、良いムードとは言えないながらも過ごせたんだからそれで良しとしようと思い、そのまま寝室に向かおうとした。
ここで、良太は作業室のパソコンの起動音が鳴ったのを耳にする。朝に起動する設定にしていなかったのに、何故着いたのか。違和感を感じた良太は、作業室に入った。ここで良太は公開した。
昨晩見た真っ白の画面に、"DOT BLOOD"と赤黒い文字で描画されていた。視認した直後、文字から赤い液体が溢れ始めた。
これか。良太は恐怖しながら現象を理解した。これは誰だって怖くなる。昨晩は何故か見えていなかったが、玲子はこれを見て恐怖していたのだ。
血が滴り出している中、真っ白な画面、"DOT BLOOD"の文字の奥に、男の姿があった。表情で言えば憤怒。怒りに顔を歪めているようだ。男はただただ、良太を睨み付けている。
我に帰った良太は、慌ててパソコンの電源を切ろうとキーボードとマウスを触り出すが、全く反応しない。画面の男は睨み付けたまま、しかしジワジワと顔が近くなっていた。
パニックになった良太は叫びながら、パソコンの電源ケーブルを乱暴に引き抜いた。しかし、パソコンの電源が落ちない。モニターには男の顔が近づいて来る。
そして、モニターから男が、モニターから溢れた血に塗れながらゆっくりと飛び出してきた。良太は腰を抜かし、床に這いつくばりながら部屋から逃げようとした。
近付く男。
這う良太。
「なんで・・・、何で俺なんだ!」
怒鳴り付ける良太。しかし、血塗れの男は憤怒の形相を変えないまま、モニターから全身を出した。
男の全身は異様に白く、極端に痩せていた。服もとても白いが、ズタズタに切り裂かれている。目は憤怒、怒っているのかと思いきや、眼球が半分近く飛び出ていた。
この異様な姿に、良太はただただ怯えるしかなかった。かなり近づかれ、距離を詰められると共に良太の意識は遠退いて行った。
良太は目を覚ました。ベッドの上にいた。作業室の床ではなく。
ハッとした良太は勢いよく起き上がり、周囲を見渡した。あの白い血塗れの男はいない。しかし玲子がいた。
「鍵閉めなきゃいけませんよ!」
玲子に諭され、良太は呆気にとられた。なぜ彼女がここにいるのか、それよりも何故家を知っているのか。
「あれ、どうして自分の家を知っているんですか?」
良太は当然の疑問を素直に玲子にぶつけた。
「名刺に書いているじゃないですか。連絡しても繋がらなかったので、お伺いしたら鍵が開いてて、部屋で倒れておられたので・・・」
玲子の返答に、良太はそこは納得した。名刺に事務所として自宅の住所を記載していた事すら忘れていたとは、どれだけドジなんだ俺。
「そう言えば・・・、思い当たる事は、何とかなったのですか?」
もうひとつ気になる事だった。今朝方バーから出た時、帰り際に玲子が言ったこと。
「はい、その事で電話したんです。最近後をつけられたり捨てたごみ袋が破られたりと嫌がらせがあったんですが、全て元カレの仕業だったんです。それと、以前聞いた事があったのが、ストーカーが生霊を飛ばすという話を聞いた事があって、元カレにしっかり詰めてあきらめさせればなくなるかなと思いまして」
玲子は一気に話し終えた。どうにも昨日の凛とした雰囲気とは微妙に違っていた。笑顔ではあるが、少し影がある。
「どう言って元カレさんをあきらめさせたんですか?」
良太の質問に、玲子は少し顔を赤らめながら答えた。
「好きな人が出来たから一切付きまとわないで。次何かしてきたら警察に通報するよ、って」
この答えに、良太は納得した。しかし、
「ストーカーには逆効果になり得そうですが、大丈夫なんですか?」
この諦めさせ方は、逆効果になり得る。相手が逆上し、対象者に手をかける事だって有り得る。
「そこは理詰めで大丈夫ですよ。私現役の営業ですから、詰めて黙らせるのは得意です」
玲子が答える。だが、どうにもおかしい。
「それに・・・、森井さんだったら守っていただけそうだから」
ん?俺が?良太は目を丸くした。さり気無く告白された。仕事一辺倒だった良太には予想外過ぎる事象だ。
「あ、ご飯用意しますね!すみません、勝手にキッチンを借りて。すぐ用意しますね」
玲子はにこやかに立ち上がり、部屋を後にした。
良太はドギマギしていた。彼女なんて中々出来た事ないのに、告白されるとか未だかつてなかった。だが、気分は悪くなかった。中々に良いではないか。こんなにテンションが上がったのは久しぶりだ。
そこで、この件が落ち着いた事を伝えるべく、良太は昨晩行ったバーのフライヤーを鞄から取り出し、フライヤーに記載された番号に電話をかけた。マスターはすぐに応答した。
「もしもし、朝早くにすみません、昨日はありがとうございました」
開口一番に良太は店を出た後どうなったかを告げた。しかし、
「あなたの問題がまだ終わっていませんね」
マスターは相変わらずの淡々とした口調で返した。
「今通話なので、率直に申し上げます。あの時は生霊と申しあげましたが、その生霊の本体は既に亡くなっています。霊は大鳥さんに対して怨んでいて、森井さんには警告しておりました。え、もしかして大鳥さんもそちらにいらっしゃいますか?」
やっぱりこの人には何でも分かるんだな、と良太は呑気に思ったが、マスターの声色が随分と険しい。
「そうですよ、よく分かりましたね。今料理して頂いてます」
良太がそう答えると、マスターが何か諦めたかのように話し出した。
「今すぐ逃げて下さい。霊は彼女に殺されたと言っています。霊はあなたに対して、彼女には近付くな、と警告しておりました。どんな理由づけでもいいので今すぐそこから離れて下さい」
良太は血の気が引いた。幸せ気分に満たされていた十分前とは打って変わり、霊に遭遇した時以上の恐怖を感じた。
すると部屋のドアが開き、玲子が顔を覗かせた。手元には、鈍い光を放った金属製の尖った先端が覗かせていた。
原題:血の滴るパソコン('08) 高校生の時に構想したものを、三十三歳の感性で改稿しました。