8
最初に動いたのは知朱の方だった。
指揮者のように掲げた右手を、ジッパーか何かを閉じるように横にスッと引いた。彼女の細い指が際立つような繊細な動きである。
一見なんの意味合いも無いような奇妙な動作。
だがその瞬間――コリーダスが『何か』を避けるように凄まじい勢いで姿勢を低くした。
「ふッ」
そしてそのままの姿勢で、コリーダスは前方へと――知朱の方向へと前進する。――否、それはもはや突撃と言っても良いような殺傷力を伴った『攻撃』だった!
「くひゃひゃひゃひゃ!」
知朱はそれを見て、弾けるように後方へと跳ね飛んだ。コリーダスの攻撃を避けるためならば横へ飛ぶべきであるところを、あえて後方に。それはつまり、彼女が回避ではなく反撃を選んだという事だ。
スッと。
今度は右手ではなく左手が振り下ろされた。決して激しい動作ではない。だが、それによって引き起こされた破壊は劇的だった。
「ッ!!」
コリーダスは突進に急激なブレーキをかけ、後ろへ数歩後退する。そしてそのわずか数瞬後――彼が立っていた地面がズタズタに引き裂かれた。石造の床がえぐれているのだ、彼がその場所に居たらどうなっていたのかなど、考えるまでもない。
そこで。両者ともに動きを停止した。
両者ともに後退したことにより、二人の間の距離は当初以上に開いている。その距離は十メートルほどといったところか、コリーダスにとっては望ましくはない距離だ。
だがそれは当然の成り行きであると言えるだろう。原理はまだこの時点では明かされていないが、手を振るうだけで離れた位置にいる存在をバラバラにして見せた知朱の攻撃範囲は中から遠距離。対して、コリーダスの操る双剣は一般的な剣よりもやや短い近距離での戦いを想定をされた物だ。
基本的に、よほど近い場所で戦いが始まらない限りこの有効射程による有利不利は揺るがない。当然その差を埋める手段をコリーダスは持っているが、それをするのは相手の手の内を更に明らかにしてからでも遅くないと彼は判断していた。
「なるほど殺人奇術か。私も見たことも聞いたことも無い技術――いや奇術ではあるようだが、種がわかってしまえばどうということも無いな」
「む……。何か分かったとでも言いたそうだね」
「見ていれば一目瞭然だ。お前は『その指に取り付けられた糸を操って周囲の物を切り裂いている』。どのような素材の糸で、どのような振るい方をすればあのような事が出来るのかはわからんがな」
知朱はそれを聞いて、もともと浮かべていた笑みを更に強くした。ご明察、という事だ。
「くひゃひゃひゃひゃ! その通り! アタイは殺人奇術師、倉畑知朱。この指で操る糸を使って人を殺す」
「ふん……。だが、その糸が見えてしまえば鞭と対して変わらない――奇術と呼んでいいかもわからないな」
そう挑発するコリーダスに対して、知朱は怒るではなく意外そうな顔をした。
「む……。お前は勘違いしているよ。アタイの刺殺術は見えない物に切り裂かれるから奇術なんじゃない、むしろ、見えてからの方が本当の殺人奇術だ」
そう言って、知朱は再び両腕を自らの顔の高さに掲げ、今度はその両腕を同時に動かし始めた。指揮者のような体制と表現するならば、いよいよ演奏が始まったと表現できそうな、そんな勢いだ。
単純に計算してもその攻撃の頻度は片腕の時と比べて二倍――だがその攻撃の精度は一切失われてなどいない。過去数回の攻撃は、知朱にとって全力からは程遠い様子見であったのは明らかだった。
「……ッ」
右から、左から、上から、下から。あらゆる方向から繰り出されるそれらの攻撃をコリーダスはギリギリの所で避けていく。わずかなミスや一瞬の躊躇があれば、即座に知朱の糸に絡み取られバラバラにされてしまうだろう。だが、コリーダスの顔に焦りの色は見られない。
そうだ。
全力を出していなかったというのは、何も知朱に限った話ではない。コリーダスとて、最初から全力を晒すような危険な真似をするはずがない。
「フゥ――ッ」
知朱による連撃のわずかな合間に、コリーダスが大きく息を吐いた。そして、正面からの攻撃をかわすのと同時に再び姿勢を低くする。
だが今回は更に低い。
陸上選手が取るクラウチングスタートの体勢を更に低くしたような体勢。そこから、放たれた矢のようにコリーダスは前に疾駆した。
「――!」
知朱がコリーダスの真正面へと向けて糸を放つ。
遠距離攻撃を放つ敵に向かって突進する事のデメリットは、相手の攻撃の速度に自分が移動する速度が相対的に加わってしまい、本来以上に回避に余裕がなくなる事だ。止まる余裕など存在しないがために、攻撃を受け流すか横に回避するしかない。
だがその状況で、コリーダスはそのどちらも選ばない。
「シィッ!!」
そんな気勢と共に、彼は上へ、『天井に着地した』。
いや、違う。コリーダスは凄まじい勢いで跳躍し、その慣性力で上に着地したように見えるだけだ。いずれは重力に従い地面へと落ちてくるだろう。
だが、その前に彼は再び跳躍する。今度は壁へ――そして今度は床へと、彼は縦横無尽に跳躍し続ける! それも前進し続けながら――
そのままコリーダスと知朱の距離が詰まるまで、そう時間はかからなかった。当然だ、後ろ向きに後退し続ける知朱と跳躍し続けながらとはいえ前へ走っていたコリーダスでは勝負にすらならない。
これで――有効射程の差は消え去った。
「……」
「終わりだッ!」
そう叫んでコリーダスが凄まじい速度で剣を突き出す。
そして――驚愕したのはコリーダスの方だった。
「馬鹿な……」
彼の剣は知朱を突き刺す事が出来ず、届きすらもしなかった。阻まれているのだ、クモの巣のように編み込まれた糸によって作られた壁に。
「『糸の壁』だ。お前の攻撃ではアタイには届かない」
「くッ……」
走っていた勢いを殺さず、コリーダスはそのまま知朱の横を通り過ぎるようにして走り抜ける。せっかく接近できたその距離をあえて離れたのは、知朱の追撃が放たれていたからだけではない。
今、知朱は親指を除くすべての指から一本ずつ放たれている糸をそれぞれバラバラに操っている。にも関わらず、その精度は両手の時と比べて下がっていない――糸の巣を編み込むなどという離れ業を考えると、むしろ上がってさえいるように錯覚してしまうだろう。
一つの攻撃ではなく、二つの攻撃ですらなく、八つの糸による同時攻撃。今度は、攻撃の頻度が八倍だと考えるのはあまりにも短絡的な結論だ。それらの糸すべてが一人の意思によって完璧に統率されている以上、その連撃の完成度は想像を絶する。
ゆえに、コリーダスは悟ったのだ。
もはや自分では、それらの攻撃を避けきる事ができない――。
「言ったはずだろう? アタイの殺人奇術は見えてからが本番だと。腕を振ったら人が死ぬ、なんて――そんな陳腐な技じゃない」
言いながら、知朱は八本の指をせわしなく動かし続けている。そしてそれに呼応するように辺り一面に糸が張り巡らされた。これでようやく、殺人奇術師――『刺殺者』倉畑知朱の全力である。
「許してくりゃれ――なんて言わないさ。アタイは今からお前を殺して、それだけだ」
「いや、まだだ」
「む……?」
「まだ、私は負けてなどいない」
そう言って、コリーダスは地面に剣を突き立てた。そして突き立てたそれらの剣をつかみながら、再び姿勢を低くし突進の体制をとる。全力で放たれようとしている自らの体を、剣をくさびにして抑え込んでいるかのように。
地面が、彼の脚力で軋んでいる。
「……」
そして、警戒しながらそれを見る知朱の前で、コリーダスはその剣を引き抜いた――瞬間。
コリーダスは知朱の目の前から消えていた。知朱に見えないほどの速度で動いたからではない。それはコリーダスの切り札だ。あまりの魔力消費量のせいで使えば暫く動けなくなってしまう最後の手。
彼は、次元を跳躍し知朱の背後に移動していた。瞬間移動、と呼ぶこともできる彼の術である。
「おおおおぉぉぉ!!」
コリーダスは雄たけびを上げた。見えない背後からの攻撃であれば、もう気が付いても遅い。
「……」
その考えは間違ってはいなかった。間違っていたのは、背後ならば知朱に見られないという、思い込みだ。
「刺殺する」
そう言って『コリーダスに背を向けたまま』知朱が腕を広げると、八本の指から射出されていた糸の先端部がコリーダスの体に突き刺さった。腕に、足に、突き刺さったそれらは縫い上げるような軌道で幾度もコリーダスの肉体を突き刺していき、彼をその場に貼り付けにした。
さながら、クモの巣に掛かった虫のように。
「わ……わたしは……」
――負けたのか。
殺されるのか。こんなところで。
人間と戦うために生まれてきて、人間を殺すために生きてきた。魔人の勝利の為と思い、あらゆる努力を惜しまなかった――それなのに。
ただの一人すら殺すことができず。
目の前の人間にかすり傷一つ負わせることができず。
何も成せないまま……。
希望があるとすれば、目の前の女が自分よりも圧倒的に強いという事実だけだろうか。彼女が魔王となれば自分よりもはるかに多くの人間を殺すのだろう。
だけど、この女の目が映している物は――
「……」
無言で知朱が腕を振り上げると、辺り一面に更に多くの血が飛び散った。
もはやどんな形を成していたのか想像もできないようなバラバラの肉片を、もう興味は無いと言わんばかりに後ろに残して、知朱は反対側へ歩き始める。
「やっぱりお腹が減ったな。……食堂はこっちだったっけ」
そんな事を呟きながら。