うかつ系ずぼら魔女(鈍感)とすれっからし系猫かぶり少年(純情)の顛末
twitterの「#魔女集会で会いましょう」タグがあまりに楽しすぎてかっとなってやった。
今のところ後悔はしていないが、やっつけ仕事でいちゃいちゃに至れなかったことが心残りである…。
もっとあざとい系ヒーローにしたかったのも心残りである…。
むしろ顛末に至れていない気すらして心残りである…。
若干後悔し始めた。
あと、男性側の過去に軽い性的虐待(あからさまな描写はない、はず)があるので、そこは自己責任で。
その森には、「美しいけれど恐ろしい」と噂される魔女が住んでいた。
「ふむ?」
ソファの上で丸くなっていた黒猫のチルが器用に片目を開けて扉の向こうを見やる。
「ナンナ」
名を呼ばれた魔女は手元の魔導書から視線を上げ、相棒の金色の目を見つめ返した。
「気づいてるよ」
ため息をひとつこぼし、いかにも面倒くさそうに肩をすくめる。
「放置しちゃだめ?」
自分の領域である森に何者かが踏み入ったことはわかっているのだが、どうせ放っておいてもここに辿り着くことなくのたれ死ぬ。
正直見に行くのも億劫だ。
だが、起き上がったチルはうーんと伸びをすると、あきれたようにこちらを見返した。
「この森に踏み入ったということは、魔力持ちということだろう。あとで厄介なことになっても知らぬぞ」
いつだって冷静な彼の言葉に、ナンナは再びため息をこぼしてうめいた。
「めんどくさーい」
彼女は、縦のものを横にすることすら面倒くさがる、とにかくずぼらな魔女だった。
食事を作るのが面倒くさいので空腹が限界に達するまではキッチンに立たないし、調理らしい調理はしない。基本、素材の味を最大限生かす方向(洗って切る)だ。
服だって、大きな汚れがつくか匂いに敏感なチルに苦言を呈されるまで洗わない。
掃除も同じく。共有部分はチルの目が光っているのでまだましだが、自室は足の踏み場もない。
魔力を帯びた「魔女の命」であるはずの長い赤毛もろくに櫛を通さないのでくしゃくしゃだし、栄養不足と運動不足のせいで贅肉・筋肉ともになくがりがりだ。好奇心のままに落ち着きなくあちこちを向く鮮やかな緑色の目だけが生命力に満ちている。
「とにかく長命で頑丈」という魔女の生命力がなければとっくに死んでいてもおかしくないダメ魔女――それがナンナ=エイフィーだった。
人付き合いも面倒くさいので、適当な噂を流して周囲の村の人間が森に近づかないようにしていたし、森自体にも惑いの魔法をかけて普通の人間が立ち入れないようにしてあった。
つまり、チルの言うように森に踏み込む人間は「普通」ではないのだ。
「あー、しかたない。でも、めんどくさいー……」
今、面倒くさいのも嫌だが、あとから余計に面倒くさくなるのはもっと嫌だ。
好きなこと(魔法研究)だけやって生きていたい、とぼやきながら、ナンナはやっと重い腰を上げた。
侵入者の気配は、先ほどから森の入り口を少し入ったところから動いていない。
ほうきにまたがってそこまで飛んだナンナは、宙に浮いたまま地面を見下ろして首をかしげた。
「チル、あれ、なんだと思う?」
肩の上の黒猫に訊ねれば、彼は金色の目を細める。
「行き倒れ、というやつではなかろうか。しかも子どものようであるな」
チルの言うとおり、侵入者は地面に倒れ伏してぴくりとも動かないし、その身体は大人のものにしては華奢でちいさい。
歳は十に届かないくらいだろうか。ナンナと張り合うくらい肉付きの薄い身体に、仕立ては良さそうだが汚れた服を着ている。漆黒の髪は首筋辺りまで伸びていて、ここからでは性別まではわからなかった。
地面に降り立つと、ほうきの柄の先でつんつんとわき腹の辺りをつつく。
「死んでる?」
死んでいるなら、このまま放置でいい気がする。死体は森の動物たちがきれいに片付けてくれるだろう。
そう思ったのだが――。
「う、んん」
うめき声を上げて、それはもぞりと動いた。
「えー、生きてるのか」
想定外だ。
どれ顔でも見てやろう、としゃがみこんだところで、うつ伏せだったそれがわずかに顔を上げてうっすら目を開いた。
意識が朦朧としているのだろう。焦点は合っていないようだったが、ぼんやりとナンナの顔を見る。
その目は、黄金みたいに美しい金色だった。
チルの目の色と同じ、ナンナが世界でいちばん好きな色だ。
「どうするのだ、ナンナ」
黒猫に問われ、反射的に答えていた。
「拾う」
チルが意外そうに、でもおもしろそうに喉を鳴らす。
「ほぅ。お前にしては珍しい」
確かに、万事を面倒くさがるナンナにしてはありえないと言っていい選択だった。
「師匠から、そろそろ弟子を取れと言われているし――」
独り立ちをして五十年経つというのに弟子をひとりもとっていないナンナには、師匠から定期的に催促の手紙が届いている。ナンナと違って面倒見のいい彼女は早く孫弟子が欲しいようだ。
魔力持ちのこの子どもならば、魔女の弟子になる資格くらいはあるだろう。
「それに、これ、チルと同じ色をしてる。捨てられない」
黒い毛並みに、金色の目。
大好きで、大切な相棒。
子猫の頃ナンナに拾われた黒猫は「ふむ」とうなずいた。
「つまり、これは私の弟分、というわけか」
うれしそうに尻尾をぱたん、と動かしている。
ああ面倒くさい、と内心でぼやきながらも、ナンナは再び意識を失った子どもの頭をそっとなでた。
苦労してほうきに子どもを乗せ(己の体力のなさを呪った)家まで帰ってくると、ナンナは久しぶりにキッチンでまともな食事を作った。もちろん洗って切るだけではない、というだけで、手の込んだ料理ではない。
適当に煮込んだ押し麦のお粥と、貯蔵庫にあった野菜をそれっぽく煮込んだスープだ。すこし煮込みすぎた気もするが、行き倒れは胃も弱っているだろうから、まあいいだろう。
現金なもので、子どもは食べ物の匂いを嗅ぐと目を覚ました。腹の中でドラゴンでも飼っているのでは、というような音をさせながらも、行儀よくテーブルに座っている。
目の前に粥とスープの皿を置いてやると、うかがうようにこちらを見てくる。
「あの、これ……」
「食べていいよ」と許可すると、あっという間に一杯目を空にした。よほど腹が減っていたらしい。おかわりをついで出してやると、またがつがつと食べ始める。
たぶん、少年だ。
たぶん、というのは、彼の顔立ちがあまりに繊細に整っていて美しく、体つきも華奢で、声変わりもまだで、「美少女」なのか「美少年」なのか判断に困ったからだ。
「お前、名前はなんと言うのだ?」
子どもの隣の席に座っていたチルが訊ねる。猫がしゃべったことに驚いたようだが、目を丸くしただけで少年は「なんで」と口にしたりはしなかった。
肝が据わっているのか、細かいことには頓着しない性格なのか、はたまたこれまで疑問を返すことを許されない生活を送ってきたのか――おそらく最後だろうな、とナンナは思う。
彼の金色の目は、注意深く周囲を探り続けている。ナンナの家の様子、ナンナやチルの機嫌、自分の置かれた状況と、自分がとるべき行動を常に考えて落ち着きなく視線が動いている。
こういう子どもを見るのは初めてではない。森に引きこもる前――師匠の家に居た頃、街には彼のような「大人に搾取される子ども」がたくさんいた。たぶん、そんな場所から逃げ出して、それでも帰るべき場所も行くべき場所もなくて、彼はナンナの森に迷い込んだのだろう。
「僕は、リオ、です」
「そうか、私はチル。今日からお前の兄貴分となる者だ」
髭をぴん、とさせて胸を張る黒猫に、リオと名乗った少年は目を瞬かせた。
「……兄さんと呼んでもいいですか?」
少し考えてから告げられた言葉に、チルは照れたように顔を洗いながら「許そう」と答えた。とてもうれしそうで、鼻先がぴくぴくしている。少年もわずかに口元を緩ませた。
「あなたは?」
チルに向いていた少年の視線が、彼の正面に座っていたナンナを捉える。
「ナンナだよ」
短く自己紹介してから、先回りして付け加えてみる。
「あ、でも、君は私の弟子になるんだから、『師匠』って呼んでくれてもかまわないけど」
リオはまっすぐナンナの緑色の目を見つめながら、ゆっくりと確かめるように教わった名を口にした。
「ナンナ」
呼び捨てか、と思ったものの、別に目くじらを立てるようなことでもない。
「ナンナは、僕を、弟子にしてくれるんですか?」
「そう。君は今日から魔女の弟子」
リオは金色の目を細めて、ナンナの真意を確かめるようにゆっくり問いを重ねる。
「僕は、何をすれば、いいですか?」
何を、と問われ、ナンナは首をかしげる。ええと、自分は師匠の元で何をしていただろうか。むしろ、師匠は自分に何をしてくれていただろうか。
「うーん、そうだな。勉強、かな」
師匠のところではとにかく勉強して、暇なときには遊んでいた記憶しかない。課題さえこなしていれば、師匠はナンナが自由にふるまうことを禁じたりしなかったし、むしろ率先していっしょに遊んでいた。
ナンナはそう答えてから、「あ!」と手を打つ。
「家事もやってくれると助かる!」
師匠もナンナに家事を手伝わせようとしたのだが、面倒くさがりの彼女が逃げ回ったせいで途中放棄したのだった。
ナンナの返答にリオは拍子抜けしたように肩の力を抜いて、それからほほえんだ。
「わかりました、ナンナ。これからよろしくお願いします」
リオはとても優秀な弟子だった。
来たばかりの時にはろくに読み書きもできなかったというのに、ぐんぐんと知識を吸収して、半年後には難解な魔導書すら読みこなすようになった。保持している魔力量はそれほど多くなかったので、ナンナの得意とする大規模魔法や召喚魔法は修得できないかもしれないが、そのかわりに魔法薬の調合に才能を見せた。
加えて、家事においてもその優秀さは際立った。彼が来て半年、家の中およびナンナは常にぴかぴかに保たれ、晴れの日には洗濯物がはためき、食卓には朝昼晩とあたたかくておいしい食事が並ぶようになった。
ナンナの家は、いまや八つの少年によって切り盛りされていた。
リオ自身、ナンナとチルとの暮らしに馴染み、少しずつ自然なふるまいを見せるようになってきている。
そんなある日のことだった。
「ナンナ」
深夜、夜更かしをして新しく買った本を自室で読みふけっていたナンナは、細い声で呼ばれた自分の名前に視線を戸口へ向けた。そこには、寝巻き姿のリオが立っている。
「どうしたの、リオ」
手招きすると、おずおずと部屋に入ってきてナンナの前に立つ。椅子をすすめれば、素直にちょこんと腰を下ろした。そのまま黙り込んでいるので、ナンナは本の続きを読み始める。
しばらくの間、部屋にはページを繰る音だけが響いた。
「……怖い、夢を見ました」
ぽつり、とリオのこぼした言葉に、ナンナは一瞬手を止めた。
「すこし、いっしょにいてもいいですか?」
ナンナの森に来るまでの彼の人生が、けっして安楽なものではなかっただろうことは、うすうす気づいていた。もしかしたら、その頃のことを夢に見るのかもしれない。
「いいよ」
本を読み続けながら承諾する。リオは安堵したようにため息をこぼし、テーブルに頬杖をついてナンナの手元を見つめた。
ただ黙っていっしょにいるだけの、不思議な時間だった。
本を切りのいいところまで読み終わると、ナンナはずっとそばにいた弟子に声をかけた。
「私、もう寝ようと思うけど、リオはどうする?」
そろそろ眠気が復活したのではないか、と声をかければ、彼はちらりと上目遣いでこちらを見上げた。
おい、ずるいくらいにかわいいな。
「いっしょに寝たら、だめですか?」
そんな顔でそんなことを言い出す。
思えば、ちいさかった頃のナンナも雷の夜には師匠のベッドに突撃したものだった。
「ん。おいで」
それほど大きなベッドではないが、ガリガリの女性と子どものふたりならば問題あるまい。
ベッドに並んで横になって布団に包まる。少しもじもじしていたリオだったが、そっとナンナにすり寄ってきた。警戒心の強い生き物がなついたみたいで、ちょっとくすぐったい。
自分でも手を伸ばして、ぽんぽんとゆっくりリオの背中を叩く。
「ナンナ、あたたかいですね」
ぽつり、とつぶやいたリオの声は、少し湿っているみたいだった。
「君もあったかいよ」
そこには突っ込まず、それだけ答えた。
ふたりぶんの体温で布団の中はぬくぬくで、何を恐れることもないくらいに幸福で安全な気がした。胸元の辺りから幼い寝息が聞こえてきたのを確認して、ナンナもゆるゆると意識を溶かした。
弟子なんて面倒くさいと、そう思っていたけれど、庇護すべきものがあるというのはそう悪くない。眠りに落ちる寸前、何となくそう思った。
その日から、ときおり「また怖い夢を見ました」とリオがベッドに潜り込んでくるようになったが、ナンナはそれを甘受した。
時が流れるのはあっという間だ。
ソファに座り、クッションを抱えたナンナは、外から帰ってきてそのまま忙しそうに働いている弟子を眺めながらしみじみそう思った。
「今日は、先日の魔獣退治のお礼にジャムやピクルスをもらいましたよ」
保存食は助かりますよね、と言いながら、鞄の中から取り出した瓶詰めをキッチンの収納場所に収めていく。
「あ、あと兄さんに、って塩分控えめの魚の干物ももらったので、夕飯に出しますね」
声をかけられ、ナンナの隣に座っていたチルがうれしそうに目を細めた。
そういうやりとりをしていると、種族は違えど本当の兄弟みたいだ。
「今度は豊作の魔法をお願いしたいとリゾ村の村長が言っていました」
数年前から、リオはナンナが面倒くさいから、としてこなかった近隣の村々との交流を自分が矢面に立つことで開始した。村人からの依頼を受け、対価に金銭や食物をもらう。
おかげで、魔女仲間からの依頼だけで食いつないでいた頃よりもナンナの家の台所事情はずっと豊かになった。
本当によくできた弟子だ。
「ナンナ? どうかしましたか?」
じっと見つめすぎたせいか、報告の口を止め、リオは苦笑しつつこちらを見つめ返した。
「いや、君も大きくなったなぁ、と思って」
魔力を持つ者はある程度成長すると身体の老化が止まるが、彼は今のところすくすくと成長している。ちょっと成長しすぎた感もある。
背丈はナンナより頭ひとつ分大きいし、あいかわらずほっそりとはしているけれど、体格は骨ばっていて間違っても「美少女」には見間違えられない。「美女」でもない。
美青年、ではある。
チルによれば、近隣の村々の女性からよく贈り物をもらっているらしい。
「リオ、君、今いくつになったんだっけ?」
「僕ですか? 二十三になりました」
いつの間にか成人していた。
手元に置きすぎたかもしれない、と反省する。
「君さぁ、そろそろ独り立ちを――」
「僕が出て行ったら、ナンナの面倒は誰が見るんですか?」
ナンナが師匠のもとから独り立ちしたのは、二十歳のときだった。リオもそろそろか、と思ったのだが。
言葉をさえぎられ、しかも痛いところを突かれ、ナンナはもごもごと言い募った。
「いや、君が来る前は私もひとりで何とかやってたし」
君が出て行っても何とかなる、と言おうとしたのに、リオは思い切り顔をしかめた。
「あれは、とりあえず生きてた、っていう状態です」
「………そうとも言うかもしれないが、まあ、生きてはいた」
気まずくて目をそらすと、彼のこぼしたため息が耳に届く。
「やっと、十五年かけてやっと、少しだけ抱き心地のいい身体になってきたところなのに」
そのあとに続いたぼやき声ははっきり聞き取れず、ナンナは視線を彼に戻す。
「何か言った?」
いいえ、とにっこり笑って――何かをごまかすときリオはこの表情をするが、その「何か」を今まで暴けたことはない――首を横に振ってから、彼は寂しげに、そして困ったように眉を下げた。
「それに僕、今でも悪い夢を見るので……」
そう。子どもの頃から始まった習慣は、今でも絶賛継続中なのだ。
昔はナンナの腕の中にすっぽり収まっていたリオだが、今では逆にナンナをすっぽり包みこんで眠っている。
「あれもさ、もうそろそろ、いい加減にやめない?」
以前から言おう言おうと思っていたがタイミングがつかめなかったのだ。いい機会だから、とナンナは切り出す。
「君、私より魔法薬の調合上手なんだし、いい感じの睡眠薬でも作りなよ」
人には向き不向きがあるが、リオには間違いなく魔法薬作りの才能があった。ナンナは人並みにしか作れないが、リオの作る魔法薬は魔女や魔法使いの間でも有名だ。
彼ならば自分の安眠を守るための薬くらい簡単に作れるはずだ。
「抱きつかれると息苦しいし。あと、くせなのか知らないけど、やたらと鼻先を首筋に押し付けてくるのやめて。くすぐったいから」
一気にそう言い切ると、リオの眉がしょぼんと垂れる。
「そう、ですよね。ナンナには迷惑、ですよね……」
思った以上にさびしそうにされ、ナンナはあわてた。
「いや、あー、うん。ほら、ベッド狭いし!」
リオだってひとりでゆうゆう眠った方がいいに決まっている。
そう納得させようとしたのだが、彼は何を思ったのかぱっと顔を明るく輝かせた。
「じゃあ、ナンナの部屋のベッド、大きいものに新調しましょう!」
前々から年代ものだと思ってたんです、と笑う弟子に、ナンナはぶんぶんと首を横に振った。
「違うそうじゃないどうしてそうなる」
だが、リオの耳には届いていないようだった。
おかしい。絶対に何かがおかしい。
そんな気がするが、何がおかしいのかは自分でもはっきりわからない。
ため息をひとつこぼして頭をかいていると、隣のチルが呆れたようにつぶやいた。
「結局のところ、ナンナはリオに甘いのだな」
どうにも否定できなかった。
「ねえ、兄さん」
自分の部屋のベッドの上で丸くなっている黒猫に、リオは至極真面目な表情で問いかけた。
「どうやったらナンナは僕の気持ちに応えてくれると思いますか?」
彼のものと同じ色をたたえる目が、ちらりとこちらを見てまた閉じた。
「私にするように、ナンナにも素の姿を見せて素直に告白すればよいのではないか?」
身も蓋もないアドバイスに、リオはむくれる。
「それができたら、苦労はありませんよ」
それをするには、自分は臆病で、汚すぎる。
リオは貧民街の生まれだった。
母親の顔ももうはっきり覚えていないが、彼女はおそらく春を売る女性で、自分は彼女と客の間に望まれずにできた子どもだった。
幸か不幸かリオは美しく生まれついた。物心がつくかつかないかの頃に母親に初めての客を取らされた。それしか生きる道を知らなかった母は、リオにも自分と同じことをさせた。
まだ幼かったリオは、自分が何をされているのかよくわからなかった。ただ、客のべったり粘りつくような視線と、べたべたと触れてくる手は大嫌いだったし、たまにいる乱暴な客も嫌いだった。
それでも、それすらまだましだったと知ったのは、母が流行り病で亡くなってからだった。
いちおうの保護者を失ったリオは、あっさりと人買いに捕まって、金はあるけれども道徳心とは縁遠いある中年女性に売り飛ばされた。
そこでの生活は、リオにとって苦痛でしかなかった。
衣食住は保障されていたが、自由はなかった。与えられた部屋で、与えられたものを食べ、与えられた服を着た。「主人」の望む言葉をしゃべり、望むようにふるまった。どんなことを求められても「はい」しか許されなかった。逆らえばひどい折檻が待っていた。
自分はこのまま人形として一生を終えるのかと思っていたが、変化は唐突に訪れた。
リオの評判を聞きつけた「主人」の知人が、リオを譲り受けたいと言い出したのだ。その人は「主人」よりもお金を持ち、さらに権力と地位を持ち、やはり道徳心を持ち合わせていなかった。
「主人」はしぶったが、逆らうことはできなかった。リオは物のように次の「主人」へ渡されることになった。
だが、リオはそんなのごめんだった。「主人」が新しくなろうと、どうせやらされることはいっしょなのだから。
だから、従順を装って数年ぶりの外へ出た瞬間死に物狂いで逃げ出した。
「主人」は華奢な男の子が好きだったから、あまり食べさせてもらえなくて、すぐにお腹が減った。それでもまた閉じ込められて、自分を他人の好きにされるなんてもう耐えられなかった。
行き倒れてもいい。飢え死んでもいい。
逃げて、逃げて、逃げた。
もう無理だ、と思ったとき、あたたかい空気を感じて、そこに飛び込んだ。
次に意識を取り戻したとき、そこには緑の目に赤い髪をした美しい人がいた。
顔の美しさ、という意味ならば、「主人」もそれなりに美しかったけれど、その人の美しさは――何と言えばいいのか―――自由を体現した美しさだった。
どこにも抑えつけたものはなく、雰囲気はやわらかく、しなやかだった。
『生きてるのか』
一瞬、死後の世界に来てしまったのかとも思ったが、彼女の言葉に自分がまだ生きていることを知った。
生きてるのか、と安堵と落胆が胸に満ち、また意識が遠ざかっていった。それでも、ふわりと自分の頭に触れた手の感触に少しだけ安堵が勝った。
それからの日々は、驚きの連続だった。
ナンナは最初に言ったとおり、リオに勉強することしか求めなかった。家事はナンナに任せておくとろくなことにならないと早々に悟ったので、自分で積極的に習得した。
ナンナもチルも、リオに何かを強制したり、リオから何かを奪おうとしたりしなかった。たまに叱られることはあったけれど、良いことをすれば褒められ、礼を言われ、むしろ多くを与えられた。自由にふるまっても怒られなかった。甘えても許された。
怖い夢を見てベッドに潜り込めば、ナンナはただ安心させるように背中を叩いてくれた。
女性とひとつのベッドにいる、という点は「主人」と過ごした夜と変わりないのに、ナンナは「主人」とは全く違った。彼女といれば安心できて、深く心を預けられた。
でも、いつからだろう。それに物足りなさを感じるようになったのは。
ナンナといると、どきどきする。いっしょのベッドにいると、さらにどきどきする。自分のどきどきに気づかず、健やかな寝息を立てている彼女を見ると、悔しい気分になる。
あんなに嫌悪していた行為なのに、リオはかつての「主人」が自分自身にしたようにナンナの素肌に触れたかった。
悶々とする気持ちをそらすように、ナンナがやろうとしなかった近隣の村々との交流を率先してするようになった。
それまで狭い世界で生きてきたリオにとっては初めてのことの連続で戸惑ったが、人の意を汲み取ることにかけては鍛え抜かれている。すぐに不特定多数の人ともうまくやれるようになった。
そうやって同年代の青年たちと話していて、自分がナンナに覚えている感情は別に悪いものではなく、当たり前で自然なものらしい、ということを知った。どうやら、それは人々に「恋」と呼ばれているようで、「恋」は「欲情」に通じることが多いらしい。
「好きな子には触りたくなるもんだよ」というある青年の言葉に、リオは激しく同意した。かといって、好きだからと一方的に盛り上がって「欲情」をぶつけるのはマナー違反だ、とも教わった。
その青年は現在リオの親友であり、ナンナとのことを相談する師でもある。
「話を聞く限り、森の魔女さん、お前のこと子どもとしか思ってなさそうだもんなぁ」
まあゆっくりがんばれよ、という師の言葉を胸に現在は開き直って無防備なナンナと同衾できる現状を堪能しているが、できることならばもう一歩――いや、二、三歩は――いやいや、正直に白状すればホップステップジャンプくらいの勢いで関係を前進させたい。
「これはもう、ナンナに読めない言語で婚姻契約書でも作って、騙し討ちにするしか――」
「知識面であれと張り合おうとするのは至難の業だと思うが。ああ見えてナンナは学問面と魔法の才能について言えば一級品なのだ」
「……知ってますよ」
自分の身の回りのことにはずぼら極まりないナンナだが、知識と才能は欠点を補って余りある偉大な魔女だ。
「それだったら……」
ぶつぶつと策をめぐらせる弟分を横目に、チルはあくびをこぼす。
確かに彼の相棒たるナンナは偉大な魔女だが、ただ一点、致命的な欠点がある。
彼女はうかつなのだ。
一度ふところに入れたものにはとにかく甘いくせに、深く考えることもなく直感的に、簡単に他者を自分の領域に踏み込ませる。それが自分よりも弱い生き物だと思ったのならばなおさらに。
雨の中、親に捨てられて息絶えそうになっていたチルしかり。
自分を好きなように扱おうとする大人たちから逃れ、行き倒れていたリオしかり。
自分の情の濃やかさを自覚せず、自覚したとしてももう遅い。そのときには、切り捨てられないのだから。
猫だと思って拾ったそれが虎の子で、成長して噛み付かれようとも、だ。
だから、リオの取るべきもっとも効果的な戦略は、今までどおりナンナのそばにいることだ。彼女の隣にいるのが当たり前になるくらい深く深く関わりあって、それから愛を告げればいい。ナンナは渋い顔をするかもしれないが、きっとため息ひとつこぼして受け入れるだろう。
何せ彼女は面倒くさがりやだ。悩むのも面倒くさがるはずだから。
そのことにリオはまだ気づいていない。チルも話すつもりはない。
どうせあと二十年もすればリオも気づくだろうし、気づかなくとも百年もすれば、我慢の限界でリオが押し倒すなり、お節介大好きなナンナの師匠が出張ってくるなり、何らかの変化があって決着がつくだろう。
時間だけはたっぷりある。
今は全身を包む眠気の方が大切だ、ともう一度あくびをこぼし、チルはゆるゆると眠りに落ちていった。
のちに、森の魔女の噂は形を変える。
森には美しくやさしい魔女が住んでおり、その隣には美しく献身的な弟子がつねに控えている、と。
まあ、たぶん、めでたしめでたし。