(1)雲
男が一人、山の森の中を走り回っていた。こんな夜更けに男が山を駆けまわっているなんて、怪しいとしか思えない。月明かりが男を照らし出す。白いシャツに灰色のズボンを履いていた。シャツは泥と草がついていて、汗で濡れていた。ズボンも枝にひっかけたせいか、所々破けていた。男はシャツのボタンに手をかけ、一番上からボタンを二つほど外した。
闇の向こうから犬の吠える声がした。男は背後からの犬の声を見ると、また急いで森の奥へ走って行った。
だが声はどんどん近づいてくる。森の向こうに月明かりが見え、そこに向かって飛び出した。だがそこは滝のてっぺんで、目の前には崖、背後は犬に囲まれてしまった。何匹物犬はじりじりと男に近づいていく。男は犬と距離を取ろうと数歩下がった時、片足を崖に落としてしまい、そのまま滝つぼに向かって男は落ちてしまった。
泳げない男は必死にもがいた。とにかく水面に顔を出そうと暴れるが、水流に飲まれ水の奥底に引きずり込まれる。そのうち肺の中の空気も出て行き、鼻や口から大量の水が押し寄せた。男の身体は息を吸おうとし水を吸い込んだ。男の身体は重くなり動かなくなっていき、意識も薄れて行った。男が最後に見たのは、白い雲だった。
真っ暗だった意識が明るくなっていき、瞼は自然と開いた。眼に差し込んだ光は眼球の神経に突き刺さり、酷く刺激が走った。男が目元を押さえて辺りを見回していると、傍らに一人の手が見えた。白くて細い、女のような手だったが、節のあるその指や手の甲は明らかに男のものだった。その手はゆっくりと男に近づき、男の顔に触れた。
「大丈夫……ですか?」
柔らかい、若葉のような少年の声だった。
光に目が慣れてきて、ゆっくりと手をどかした。男の様子を心配そうにうかがう人間の姿が目に映し出される。最初に目が留まったのは、白い雲のようにフワフワな髪だった。次に灰色の大きな目、整った顔、そして細い首や体だった。女のように細くて白かったが、肩幅などはやはり男だった。
「大丈夫ですか? えっと……何か要りますか?」
その人間は困ったように何度も聞いてきた。
男はしばらくその人間を見ていたが、
「水を貰えないか?」
そう頼むと、人間は急いで立ち上がって部屋を出て行った。着ていた服はずいぶんみすぼらしく、原始的な格好だった。
人間は木製のコップに水を入れて持ってきた。男はそれを飲み干すと、大きなため息をつきながらコップを返した。
「えっと……あの……」
人間は困ったように男の顔を覗く。
「あの、いいかな」
男は平然とした様子で人間に話しかけた。その声は低く、耳を流れるように通る声だった。
「あぁ、よかった……。一応喋れた」
男はほっとした様子で喉元を押さえた。
「君、名前は?」
男が尋ねると、人間は恥ずかしそうに慌てて身なりを整えるふりをした。
「えっ、あっ、えっと……わたっ……ぼ、僕は……」
人間は肩を縮こませ、上目遣いで男を見ると、
「雲千……つっ、紡織 雲千……だよ。じゃなくて! です……」
雲千はさらに体を小さくさせ、顔を真っ赤にしてうつむいた。
「雲千か」
「で、でもね、本当はもっと長いらしいんです! けど、僕、何も覚えてなくて……」
雲千の大きな目から涙がにじみ出す。
「な、泣くなって」
男は困った様子で雲千を見つめる。
「俺を助けてくれたみたいだな。こんな立派なシルクの服まで着せてくれて」
男は感心した様子で着ている服を見つめた。男の中では古い時代の服で、少し不思議そうに服の形状を眺めた。
「しるく? それ、いっぱいありますから、差し上げますよ」
雲千はよくわかっていない様子だが、無垢な笑顔で答えた。
「触った感じからでも十分にわかる。最高級シルクだ」
「そーなんですか……」
雲千は首をかしげながら男の着る服を見つめる。
男は布団を剥いで立ち上がると、
「世話になったな、雲千。その名を覚えておこう。私には大事な任務がある、だからもうここを離れなくてはならない」
「あ、もう行くんですか?」
「あぁ。ところでここはどこだ? 私は城に向かいたい」
「おしろ?」
雲千は壁に貼られた古い地図を眺めながら、
「あぁ、お城! クァルツ城に行くんですか?」
男は無邪気に答える雲千の言葉が少し引っかかった。
「随分古い呼び方をするんだな。今はクリスティア城と呼ばれる事がほとんどだ」
「そう……なんですか」
雲千はどこか寂しそうな顔をした。
「でも、ここからお城まで数日かかります。特に山を下りるのは時間がかかりますし、山から城下町まで馬車もありませんし、それに」
雲千は立ち上がると、うつむきながらそっと目を合わせて、
「この山は嫌われてます。山賊か逃亡者しか来ない山ですし、こんなところから来たなんて知られたら、人間たちに何て言われるか……」
雲千が腹の前でモゾモゾと動かすその手をよく見ると、左腕は今の時代では少し粗末な義手でできていた。
「君、義手なのか」
男が義手に興味を向かせると、雲千は恥ずかしそうに急いで背後に腕を隠した。
「や、山を登る途中で落ちて壊しちゃって……! その時、体も大きく壊れたんですけど、目が覚めたら治ってて。でも片腕だけは失ったままで、どうにか街で安い物を入手して、中に魔法石と妖精を入れてどうにか動かしてます」
雲千の左腕は別の生き物のように背後から現れると、急いで右腕に掴まれて背後に押し戻された。
「話をそらしてしまったな。城まで過酷というわけだな」
「あ、そうです……」
「困ったな……」
男は額に手をやり大きなため息を溢した。
「でも、霧の出た日は一瞬で行けますよ!」
「霧?」
男の顔が晴れる。
「でも、この時期は霧が出にくいですし」
雲千がそう言うと、男はまた額に手をやった。
「あの、犬に追いかけられてましたよね。なんか筋肉マッチョな、怖そうなのに」
「あぁ、まぁ、そうだな」
「その時は霧が出てたので、犬が家の近くまで来て怖かったんですよ。普通はこの森に住む生き物くらいしか来れないのに」
雲千は少し嬉しそうに話す。
「それだと、まるで君の家には普通じゃ来れないみたいな言い方だな」
「えぇ、そうですよ。この家にはそう簡単に来れないんです」
「どうしてだ?」
「霧に包まれているからです」
「どうして霧に包まれているんだ?」
「それは僕が職……」
すると雲千は急いで自分の口を押えた。
「ど、どうした?」
男は驚いた様子で尋ねる。
「ご、ごめんまふぁい……こえいじょうはいえまへん……」
雲千はもごもごと答える。
「まぁ、君も人に言えない立場があるのだろう」
男はため息をつきながらその場に座った。
「でも、あと数日すれば霧が出るはずですよ」
「そうなのか?」
「ここ最近天気悪いですし。近くの川なんて水があふれて土や木が流れてたんですよ。辺りの地面はぐちゃぐちゃになってましたし」
雲千は顔をしかめて手を横に振った。
「だから、霧が出るまでこの家でゆっくりしてていいですよ。何もないですけど」
雲千に言われ、男は家を見回した。家に廊下や部屋は無く、自分が今いる大きな部屋だけで、その真ん中に大きな機織り機が置かれていた。玄関の横に小さく暖炉があるだけで、後は家具も何もなかった。
「君、こんな家にどれくらい住んでいるんだ?」
雲千は笑顔で、
「100年くらいですかね」
その言葉に男は驚いた様子で雲千の方に振り返った。
「君、20代じゃないのか? もしやエルフか何かの……?」
「いえ、僕は妖精じゃありませんよ! あ、貴方を取って喰ったりなんてしませんからね、絶対に! だって僕、何かを食べるってここ20年くらいしてませんもん!」
「20年!? 君は一体何者だ!?」
雲千はまた口を押えだした。
「ごめんまふぁい……こたえられまふぇん……」
雲千は肩をかすかにふるわせて答える。
男は立ち上がり、部屋をしばらく見渡すと、ゆっくり歩き出して部屋中を見て回った。灰で詰まった暖炉を見たり、機織り機に顔を近づけて見たり、押入れを見つけて開けて中を覗いたりもした。だがこの家には本当に生活に必要なものがほとんどなく、男はさらに難しい顔をした。
「えっと……ご飯でしたら、一応作れますよ。簡単なものですけど……」
雲千は様子をうかがうようにそっと話しかける。
男は押入れの奥から茶碗を2つと皿を一枚、匙を一つ見つけて持ってきた。
「食器はこれだけか」
「あ、懐かしいですね! 街で仲良くなった女の子と遊んだ時に貰ったんです。でも次に会った時には女の子は結婚していて……。寂しかったですけど、強そうな男の人と楽しそうに赤ちゃんを抱っこしてましたから、それはそれで嬉しかったのを覚えてます」
雲千は茶碗を手に取ると、着ている服の裾で汚れを拭きとった。
男は茶碗を眺める雲千の前に座り、膝の上で手を揃えると、
「雲千、霧が出るまでこの家に世話になりたい。こんな何もない私だが、無事城に帰られれば十分な褒美を贈ろう。だがもしかしたら、この家に渡しを狙った輩が来るかもしれない……」
「褒美? じゃあ金属が欲しいです! 機織り機が壊れてしまって、どうにか木材で部品を補っているんですが、そろそろもうダメそうで」
雲千は困った様子で機織り機を見つめる。
「いいのか、こんな私が世話になってしまって……。断っても良いのだぞ?」
「断ったら寂しいじゃないですか。やっとこの家に迷い込んできてくれたんですよ?」
雲千は嬉しそうに手の平を合わせて言うと、急いで訂正するように、
「別に、迷い込んできてくれたおかげで人間が食えるとか、そういうのじゃないですからね!? 僕、ご飯食べませんから! いやでも、たまに食べたくなって食べるけど……!」
焦る雲千に、男は思わず笑みをこぼした。
「あぁ、わかっている」
雲千は何か思いついた顔をすると、
「まだ貴方の名前を知りませんね。名前を知らないとここで暮らすのに不便です」
「いや、私には名乗れない理由が……」
「教えてください! 僕の名前は雲千です!」
「もう知っている」
雲千があまりに輝く目を向けるため、男は仕方ない様子でため息をフッとつくと、
「東雲だ」
男は肩眉を上げて微笑んだ。
「しののめ、しののめ!」
雲千は嬉しそうに東雲の名前を何度も言う。
「そんなに何度も呼ぶな……」
東雲の顔はだんだん赤く染まっていき、興奮気味の雲千の頭を押さえた。
「けど、できればシノって呼んでもらいたい。この名前は少し特殊でな、シノの方が民衆と近い名前で紛れやすいんだ」
「わかりました、えっと……シノさん」
「さんはつけないでくれ」
「わかりました、シノ!」
雲千は嬉しそうに頬を染めて笑顔を見せた。