濡れた男
「濡れる男」
彼が幽霊かどうかが分からない。
今日の天気は一日雨。問題の二人は雨の中をかわいらしい花柄の折り畳み傘一本で喫茶店「スリジエ」までやってきた。ぼくはここで二年、アルバイトをしている。そして今日も一日シフトが入っている。お昼を回ったあたりで本日二組目の客を窓際の四人掛けの席に通し、水はセルフサービスであること、メニューは壁に貼ってある紙を見るように告げ、その場をあとにした。
ここは通常、キッチンに調理担当が一人、フロアに一人で回している。お店自体はそこまで狭くない。四人掛けが五席、カウンターが五席、二人掛けが三席で、それぞれのテーブルに番号が振ってある。それだけ広いのならどうしてたった二人で、というのは、この通り、閑古鳥が年中鳴いているからだ。
雨ともなれば、一日に一組来るか来ないかくらいだと覚悟していたのに、まさか二組も来るとは。一組目は既に帰ってしまっていたので、実質貸し切り状態だが。
雨の日は、よく出る。何がとは言わないが、出る。
全体的にセンチメンタルな気分になるからだろうか。人は雨が降ったり、秋になったりするとすぐ感傷的になる。
二人の様子をそっとうかがう。男性はぼーっと窓の外を眺め、女性は窓の下の壁にとりつけられたメニューを見ている。男性も女性もそこそこ若い。二十代前半といったところだろう。
ぼくがどうしてこの二人組を気にしているのかというと、もしかしたら、この男性は、死んでいるかもしれないからだ。
ぼくには、じつは、死んだ人が見える。
それも、普通の生きている人間と何ら変わらない状態で見える。
死んだ時の恰好だとか、死因が分かるような見た目だとか、そういうことはあまりないのでグロテスクなものが常時見えているわけではないのだが、なにぶんぼくにしかみえていないので周りに「あの人死んでる人っぽくない?」などと聞いても熱を測られるだけなのだ。
この間も、電車でおばあさんに席を譲ろうと声をかけていたら、それが実はこの世のおばあさんではなかったようで、ぼくは誰もいない空間にむかって「どうぞ」「あの、荷物だけでも」と言い続けていたということがあった。ちなみにそれは、たまたま近くに座っていた友人に止められて気づいた。
死んだ人に特徴があればいいのだが、血を流しているのもいれば、満員電車に乗っていても不自然でないようなのまで様々なのだ。しかも、こちらからは何もアプローチできない。触れないし、声も聞こえない。だた見えるだけで、なにもできない。
その人達が着ている服や小物が、死んだ時のものなのかといわれると、そうでもない。その証拠に、海水浴などで水死した人の幽霊は浜辺にうじゃうじゃいるがそのほとんどが服を着ている。もちろん水着の幽霊もいるのかもしれないが、そういうのは、本物(生きて海水浴をしに来た人)に紛れてしまってぼくには判別がつかないのだ。
死んだ人がどこにいくのか、小さいころに何度も聞いたことがある。お母さん、お父さん、姉ちゃん、おばあちゃん、おじいちゃん、ひいじいちゃん(ずっと生きてると思ってたけど幽霊だった。どうりで縁側から動かない訳だ)。
最後のひいじいちゃん以外はみんな口をそろえてこう言った。
「あの世へいくのさ。お前も、いい子にしてないと地獄に落とされるよ」
あの世と地獄は同じ場所なのか?
というか、「お前も」ってことは他に地獄に行った人を知っているのだろうか?
いろいろ聞きたいことはあったが、そう答えるってことはみんなは死んだひいじいちゃんが見えてないってことが分かったし、ぼくはこの普通じゃない秘密を墓までもっていくことにした。
いや、洒落とかじゃなくて。
ところで、向かい合って座る二人の男女。
どうして男の方を幽霊かもしれないと思ったのか、順を追って説明しよう。
まず、二人が入店した時から。
がらんという音がして、ぼくは読んでいた本を落として椅子から飛び上がった。
普段雨の日にお客さんなんてめったにこない。まして今日は、来るか来ないかの客が既に一組来て帰ったあとだったから、よほどのことがない限り入り口のベルが鳴ることなんてないと思っていたのだ。
とにかく、仕事だ。自給分は働かないと。
さわやかに笑って、大きな声で挨拶。
「……っしゃぃっせー」
笑顔は間に合ったが、しばらく黙っていたせいでのどに何かつっかかったような声しか出なかった。
お客さんは二人だった。若い男女で、反射的にカップルかと思う。しかし、女性の後に入って来た男性を見てぎょっとした。
身長は低くないし、顔立ちもまあまあ。ちょっと無精ひげが生えかかっているけど、不潔というよりは疲れている印象を受ける。なんだか顔色も悪い。着ているものも、パーカーにジーンズと至って普通だ。
ただ、水が滴るほど全身ずぶ濡れだった。
不思議なのは、彼女の方がまったくと言っていいほど濡れていないことだった。ぼくはそっと入り口から外を覗いた。そこには、女性用の折り畳み傘が一つ。サイズからして、人ひとりぎりぎり入るくらいのようだった。
ぼくは最初に全人類の男を代表して、心の中で
「おいおい、彼氏も傘にいれてやれよ」
とつぶやいた。が、ぼくの中にある紳士的な部分がため息をつきながら、
「違うさ。傘が小さいから、彼女が濡れないように自分は濡れたんだよ」
と言った。
そのときはそれで納得したのだが、二人を席に通してから違和感がなぜか付きまとった。
なんとなく、見えてはいけないものが見える目を持ったまま二十数年も暮らせば分かるようになるのだ。お互いに合わない視線や、交わされない会話。一人分の傘。彼氏が濡れているのに、なにも言わない彼女。
もしかして、この女、一人で来たつもりなのではないか?
そして今に至る。
ぼくはさっきから二人の様子を覗き続けている。別に興味があるとかないとかじゃない。断じて。ぼくは自分の仕事がしたいだけだ。本当に。
……それにしても、二人はどういう関係なのだろう。
頭を振る。いかんいかん。よそはよそ、うちはうち。ちょっと違うか。
どうせ、注文を聞きに行けば幽霊かどうか分かる。そう思っていると、キッチンから情けない声がした。
「ごめーん、飯田君」
はい。飯田君です。
「ちょっと手伝ってー」
え。
「あの、ぼく注文とらないといけないんですけど」
「高いとこにミキサー入ってんの。取ってー」
しぶしぶキッチンに入る。めったにミキサーなんて使わないだろうに、何するつもりだろう。
「注文は私がとっとくね」
そう言ってこのお店のオーナー兼キッチン担当の未希子さんはさっさとフロアに出ていった。
一方のぼくは棚の最上段に向かって手を伸ばし、つま先立ちでバンザイしてみっともなく震えながら、真実が分からなかった悔し紛れに心の中で毒づいた。
――ぼくとあんた身長変わんねえだろ!
冷静になってみると、僕が彼女に投げたブーメランが僕自身を傷つけただけだった。
「注文とっといたよ、ほい」
指先は引っかかるのに取り出せないミキサーとの戦いに、お玉をひっかけるという方法で勝利したぼくを待っていたのは、未希子さんの非情な一言だった。
「なんでした」
「紅茶と、ケーキだって」
「ジーザス……」
ぼくは天を仰ぎたい気分だった。これじゃ、二人か一人かわからない。彼女一人で紅茶とケーキかもしれないし、二人でどちらかひとつずつかもしれない。とはいえ、
「なになに、なにが『おお神よ』なの」
「紅茶とケーキ」という注文内容に突然ショックを受けた僕をきらきらした瞳でみつめる彼女に聞くのはなんだか癪だ。
ぼくは客席に目を向ける。結局、彼は幽霊なのだろうか。気になる。
紅茶の入ったポットと空のカップ、それからケーキを盆にのせて彼らの元へ向かう。
彼女はこちらをちらりと見て、薄く微笑んだ。男性の方は未だに窓の外を見たままで、相変わらずびしょびしょだった。
「……紅茶と、本日のケーキです」
彼女の方は軽く会釈してくれたが、それに返す余裕はない。紅茶とケーキは、どちらともとれるように、机の真ん中に並べた。
「ごゆっくりどうぞ」
礼をして、定位置に戻る。戻りつつ、もういいか、と考えていた。
幽霊かどうか分かったって分からなくたって、ぼくには関係ないじゃないか。
幽霊が見えたって、良いことなんてない。それに、信じてももらえない。自分の言ったことを信じてもらえないということが、どんなに悲しいことか、一番良く知っているのはぼくだ。何事も、諦めが肝心。
雨脚が弱くなってきた。窓の外が少しずつ明るくなる。夕方には晴れるらしいから、もしかしたら虹が見えるかもしれない。
彼氏が幽霊かもしれないカップルは、小一時間ほどで席を立った。つられるようにぼくもレジへと向かう。
すると、意外なことに、彼女は何もせずに店を出ていった。残った彼氏はレジの前で立ちどまる。ということは。
「死んでなかった……」
「は?」
口に出ていた。彼氏の方は驚いた顔でぼくを見ている。まずい。笑ってごまかす。
「ええと、紅茶と、ケーキで、五百七十円です」
「……あの」
「あ、領収書ですか?」
「違います、さっきのどういうことです」
「……不快な気分にさせてしまったなら、申し訳ありません」
慌てて頭を下げる。
「そうじゃない。死んでなかったって、どういうことですか」
「……ええと」
どう言い訳するかで、ひどく悩んだ。死んでなかった、という言葉をカモフラージュする理由。うーん……。
だめだ。思いつかない。ぼくは諦めが早いのだ。
「あなたが、幽霊だと思ったんです」
ぼくは立ったまま、びしょ濡れの彼に向き合って、実は死んだ人が見えること、彼女は濡れていないのに彼氏が濡れているからおかしいと思ったことを話した。
「だから、生きてたーって思ってつい……」
「……」
黙って話を聞いていた彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「僕は死んでません」
「でしたね。ほんとよかったです。幽霊なんて、見ていていいものではありませんから」
「でも、あなたは今日幽霊を見ましたよ」
どういうことか、一瞬わからなかった。
でも、彼の目に涙が溜まっているのを見て、まさか、とつぶやいた。
「つい、一週間ほど前です。僕は彼女と会う約束をしていた。雨が降っていました。彼女は待ち合わせの場所に来なくて、僕も彼女も傘を持っていなかったからお互いの会社の中間地点で落ち合うことにしたんです。あのとき、濡れることなんて気にせず、僕が迎えに行けばよかったんだ」
ぼくはずっと、彼が幽霊だと思っていた。
「彼女は、雨の中、僕が待つ場所まで歩いて行こうとしていたんです。その途中、横断歩道で、信号無視のトラックにはねられました」
先に店を出た彼女は、扉の外に待ってはいなかった。ぼくには見えていたけど、彼は最初から、びしょ濡れで、たった一人で、店に来ていたのだ。
恋人を失った男は照れくさそうに髭をこすりながら笑った。
「雨が降ると、どうにも思い出してしまって。感傷的になってしまうんです。もう待ってる彼女はいないのに、あの日こうして雨の中を走り出せていたらと、思ってしまうんです」
どうせ、幽霊が見えるなんて信じてもらえない。何を言ったって、お前おかしいんじゃないのといわれるだけ。幽霊のほうにだって、ぼくの声は届かない。彼らは、思い入れのある場所に留まったり、愛する人をそばで見守るだけだ。
「……彼女は、傘をもっていなかったと言いました?」
気がついたら、自分の涙でずぶ濡れの彼に話しかけていた。
「ぼくがさっきみた彼女さんは、小さな折り畳み傘を持っていました。花柄のです」
「……僕が傘を忘れると、それを二人で使っていたものもそれだ」
信じられないという顔の彼に、どうか信じてもらえますようにと祈りつつ、話を続ける。
「あなたは雨が降るたび、そうして、迎えにいけなかったことを悔やんで雨に濡れているんでしょう。でも、彼女はそれを望んでいないんだと思います。
今までの経験上、死んだ人は死んだ場所や死んだときの格好にはあまりこだわっていないんです。それよりも、生きていたとき一番好きだった場所や人のところに行きます」
ひいじいちゃんは、庭師だった。自分のうちの庭もきれいに世話していて、それの全体が見える縁側がなにより好きだった。
「彼女さんは、あなたが店を出るときに姿を消しました。でもそれは、雨が上がったからでしょう」
「どういうことですか」
「彼女さんはもう、あなたに、濡れてほしくないんですよ。だから雨が降ると、その日持っていなかった傘を持ってあなたの周りをうろつくんです」
外から光が差し込んできた。そのうち、窓についた水滴も乾くだろう。
彼が帰ったあと、入り口のドアから外に出て、クローズの看板を出す。店内に戻ろうとしたときふと空を見上げると、やっぱり虹が出ていた。
その真下、道の向こうに誰かが立っているのが見えて、思わず立ち止まる。
花柄の、小さめの傘を差して、ぼくに微笑みかけた彼女は、そのままどこかへ歩いていった。




