1・夢
夢を見た。
夢だとわかる夢だった。
そして、目が覚めた時。
夢だったという事実に気付いて、
私はひっそりと泣いていた。
気が付くと私、鍋島政志は教室の中にいた。中学の制服に身を包み、自分の席に座っている。
目の前に空席の机一つ置いてある以外は、何もないがらんどうの教室だった。
空は清々しいほど青く、どこまでも飛んで行けそうなくらい晴れ渡っている。西日に射されて朱色に染まる室内とで、奇麗なコントラストを生み出していた。
私の影が、長く右へと伸びていく。同時に、目の前の空席でも影が長く伸びていった。
そこに誰もいないことなど気にした風もなく、私は口を開く。
「終わったか?」
誰もない教室中を言葉が反射して、あっちこっちに響いていた。
しかし、響きには答えが来る。
「もう少し待ってて」
鈴の音がなるような、少女の声だ。りーんと響いて、形が固まっていく。
そっか。と短い返事を私がするころには、前の席で背を丸めた女子生徒が現れていた。
机の上のノートに向かって、小さな手を一生懸命動かしている。
何をしているのかは知っていた。日誌を書いているのだ。今日は私と彼女が日直で、これが最後の仕事ということになっている。
几帳面な彼女は、こと細やかに今日のことを書くだろう。理科の実験でふざけた田村が塩酸をこぼしたことや、国語の教師が話を脱線させて授業にならないことなど。クラス花壇の状態やら紛失物のリストまで。
なんでも完璧主義だった。何一つ妥協しないで、周りから笑われようとも手は抜かない人だった。
「よし、終わったわ」
「そっか、おつかれさま」
彼女の声を合図に、私が席から立ち上がる。
椅子を逆さまにして机に乗せると、それが床の中に吸い込まれて消えた。これで、残っている席は一つだけだ。
「帰ろうぜ」
声をかけながら日誌を手に取る。ぺらぺらとめくったページは、クレヨンで塗りつぶされたようにむらのある黒だった。唯一、彼女が書き込んだ部分にだけ鮮明な文字が躍っている。
閉じた日誌を窓から投げた。
青空に浮かんだ夕陽が照らすグラウンドには影しかない。真っ暗な地面に着地して、日誌はずぶずぶと沈んでいく。鮮明な文字たちが悲鳴をあげて、粉々に砕け散っていく。
「どうした。帰らないの?」
振り向いた先で、彼女はまだ座ったままだった。立ち上がる気配もなく、俯いたまま机の表面と睨めっこをしている。
不思議に思って近付くが、彼女が私に顔を向ける様子はない。覗き込むようにして顔を近づけても、夕方の影で表情まで見ることは出来なかった。
沈黙が続く。
何かしらの反応が欲しかった私は、何か答えがあるまでじっとしていた。
数秒だったかもしれないし、数年だったかもしれない。時間が止まったような気もしたころ、ようやく彼女は顔をあげて困ったように笑って見せた。
ただそれだけだった。
何を言うでもない。行動で示すわけでもない。ただ眉根をさげた笑みを見て、私はなぜか納得していた。
「ああ、そうか。お前、居残り組なのか」
じゃあ仕方ないかな、と私の声が続ける。
居残り組が何なのかは全く分からない。だが、その言葉が妙にしっくりときた。
他愛ないやり取りを何度か繰り返し、それじゃあと手を振って廊下へ出る。
リノリウムの廊下では足音が何重にも響いて、歩いている場所が天井なのか床なのかわからなくなってくる。
歩調は次第に速くなり、いつの間にか走り出していた。一度も曲がらず、音の響く中をまっすぐに駆け抜けていく。
どれぐらい走ったかもわからない。かけらも疲れなかったので、どこまでも走っていたはずだ。
やがて終点は見えてきた。
ドアがある。まっすぐな道の真ん中を、遮るようにして教室ドアが置いてある。
その見た目を、私は知っていた。
躊躇なく開けば、教室の中には二つの席が置いてあった。それ以外はなにもない、がらんどうの教室だ。
席には人が座っている。背中を丸めて、熱心に手を動かしている少女だった。
私はいつものように自分の席に足を向け、彼女の後ろの席に着いた。
「俺、お前のことが好きだから。付き合ってくれ」
「うん、いいよ」
唐突に飛びだした私の言葉を、顔もあげない彼女の声が受け入れる。
からかわれているだけかもしれない。冗談だと思われた可能性だってある。それでも、このときの私は嬉しさで叫びだしたい気分だった。