魔女の七つ星レストラン
※この作品は、『冬の童話祭2012』参加作品です。
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雨が好き。
普通、雨が降った日は外に出るのが億劫になる。空は分厚い雲に覆われてどんよりとするから、キレイな服も何処となく色褪せてしまって映えないし、傘を差していると明るい笑顔もよく見えない。
だから人は、雨が降るとあまり外に出たがらない。
でも、七瀬ヒカリは雨が好き。
雨の日は、外に出ない人達には分からない、いろんなものがあるから。
高いところの枝や陸橋から落ちる雫を傘で受けると、胸の中がくすぐったくなるような音が響く。人が周りにいないから鼻歌を歌っても恥ずかしくない。ちょっと肌寒いけれど、そのぶん、立ち寄った喫茶店の紅茶がおいしい。
だから、七瀬ヒカリは雨が好き。
「今日はちょっと道を変えてみようか!」
飼い犬のタマチもたぶん雨が好き。雨が降っていたって、散歩に誘うと喜ぶから。
ヒカリとタマチが並んで歩くその道は、今まで数えるほどしか通ったことのない細道。
右手側には、大きな豪邸を囲う塀がずっと続いている。そして反対側を見ると、小さな建物が一列に並んでいる。
そんな、全体的に灰色っぽい道の奥へ、ヒカリとタマチは入っていった。
ピンクの中に黒猫が一匹描かれた、お気に入りの傘がよく目立つ景色。だからヒカリは、この灰色の細道もあっという間に好きになった。
並んでいる建物の中にはお店がいくつかあって、でも、見る限りではみんな閉店中。
一体なんのお店なのか。通り過ぎる看板の一つ一つを順番に見ていくと、ヒカリは一軒のお店の前で足を止めた。
煙を吐き出す、短い煙突の付いたとんがり屋根の小さなおうち。横長のまあるい看板に描かれた文字は『コローレ』。
看板の真下には深緑に塗られた木製扉があって、店の窓は曇っていて中が見えないけれど、明るいオレンジの光が漏れ出ていた。
そして入り口の脇にある立て看板には、ティーセットが柔らかなタッチで描かれている。
きっと喫茶店だ。
「こんなところにお店があったんだ…………今日のお茶はここにしようかな」
タマチに話しかけながら、ヒカリは深緑の扉に手をかけた。入り口は随分と小さく造られていて、ヒカリはちょっとだけ身を屈めた。
軽く開いた扉から中に入っていくと、暖色を基調とした素朴なデザインの店内が目の前に広がった。
決して広くはない店内。
お店の半分は客席。そしてカウンターで区切られたもう半分は、火の気がない厨房だ。
席数は少ない。窓際に二人用の席と、お店の中央に大きなテーブルがあるだけ。床には腰掛けの代わりとして丸太が六つ並べられていて、まるで小人のおうちに迷い込んでしまったかのよう。
なんだか、お店というよりも一家団欒のための食卓みたいだ。
テーブルの上には三叉のろうそく立てがあるけれど、火はついていない。やっぱり閉店中なのかな?
「すみませーん! お店やってますかぁ!?」
ヒカリが元気良く声を出すと、厨房の更に奥から「はーい!」という声が聞こえてきた。
でもその声は、どうやら子供の声みたいだ。
「いらっしゃいませぇ!」
やっぱり子供だった。
ワイシャツと紺色のズボンをキレイに着こなして、その上から白いマントを羽織っている男の子。頭の上には、真っ白なトンガリ帽子を乗せている。
「おやー、初めてのお客様ですねぇ」
外見は六歳くらいの幼い子なのに、この子が店番なのかなと、ヒカリは首を傾げた。
「オーナー! お客様ですよー!」
男の子が厨房の奥へ向かって叫ぶと、のんびりとした足音と共にまた人がやって来た。
「分かってるから、いちいちでっかい声を出すんじゃないよぉ」
その人は、ヒカリのお母さんよりもずっと年上に見えるおばさんだった。もうすぐでおばあさんになりそうなくらい。
でも、背筋はピンと真っ直ぐに伸びていて、背はヒカリのお父さんよりも高かった。
おばさんは真っ黒な服を着ていた。テントみたいに大きな黒いスカートだし、上着だって襟もカフスも全部黒。
そして、男の子と同じように真っ黒なマントを羽織っていて、頭には黒いトンガリ帽子。
男の子とお揃いだ。
「あの、ここは喫茶店ですか?」
ヒカリが尋ねると、おばさんは白いエプロンを腰に巻きながら言った。
「外の看板を見てきたんだろう? もしコンビニをお探しだって言うなら、店を出て左に真っ直ぐだよ」
「い、いえ! ちょっとお茶が飲みたいなって」
すると、今度は男の子がにこにこしながらヒカリを見て言った。
「まあまあ、お茶だけと言わずに料理も是非どうぞ。オーナーの料理はほっぺたが落ちるくらいおいしいですよ」
そう言われると、急にお腹が空いてきた。だったら、ついでに何か食べていこうか。
ヒカリは近くの丸太椅子に腰を下ろし、メニュー表を探した。
その時だった。
「おいばあさん! 食いにきたぞ!」
勢いよく開いた扉の音と乱暴な口調が突然店内に響いて、ヒカリは思わず肩を竦めた。
ずかずかと聞こえる足音がヒカリのいるテーブルに近づいてくる。「食いにきたぞ!」って、まさかおばさんを食べにきたんじゃないのかな。そう思うくらい乱暴な声。
その声の主が、足音をヒカリの隣で止めた。
「なんだ、先客がいるなんて珍しいな」
「あたしゃ“ばあさん”なんて呼ばれる歳でもないよ! 今度言ったら何も食わせないからね!」
おばさんが言い返すと、背後から小さく舌打ちが聞こえた。
どんな人なんだろう? ヒカリはおそるおそる後ろを振り返ると、
「なんだよ? 何見てるんだよ?」
そこには二本足で立つ一匹の猫がいた。
ボロボロで靴紐の解けたブーツを履いた足。ギラギラと光るバックルのベルトを巻いた腰。ずるずると床を引きずる黒マント。
仁王立ちするその猫は、長い髭をゆらゆらと揺らしながら、頭の上のテンガロンハットを被り直した。
「猫……さん?」
「何だお前? 猫じゃ悪いかよ!?」
「い、いえ! 全然!」
再び舌打ちをした猫さんは、ヒカリの隣の席に座った。いや、座るとテーブルに届かないので、椅子の上に登って立った。
「ペテローネ、いらっしゃいませ!」
男の子が言うと、猫さんは鋭い視線を向けながら言った。
「おいヒューイ! 早くばあさんに料理を出せって言え!」
あ、この猫さん、また“ばあさん”って言った。
ヒカリがちらりと厨房を覗き見ると、眉間に皺を寄せたおばさんがこちらをじっと見ている。
猫さんは、もしかしたら本当に料理を食べさせてもらえないのかも。
「…………食わせるもんがない」
おばさんの一言に、猫さんも「あっ!」と声を上げた。気が付いたみたいだ。
「いや、今のは!」
「食材がないんだよ」
「え?」
おばさんの言葉に驚きの声を上げたのは、私と猫さんだけではなく、男の子もそうだった。
「いやいや、参ったね。うっかりしていた」
おばさんが頭を掻きながら言う。
すると、隣の猫さんが大きな声で文句を言いながら、椅子から落ちてじたばたと暴れ始めた。すぐさまおばさんが「暴れるんじゃないよ!」と怒り出す。
しかし、ヒカリもおばさんの作る料理に期待を寄せていた分、食べられないと分かった途端にお腹が鳴ってしまった。
視線を落とすと、タマチも残念そうにぐったりと寝そべっている。
食べたかったなぁ。
「オーナー、なんとかなりませんか?」
男の子がそう言うと、おばさんは腕組みをしながら天井を見上げた。
しばらくの間、おばさんの唸り声が店内にこだまし続ける。私もおばさんの声に合わせて、唇を尖らせながら唸り声を上げてしまう。
すると、おばさんは突然両手を打ち鳴らし、にっこりと笑った。
「そうだ。あんた達、食材を集めといで」
「え? 私がですか?」
ヒカリは、おばさんと目が合うのと同時に、そう返事をした。
「頼むよぉ、料理を食べたいだろう?」
「え、うん……まあ、いいですけど。何を買ってくればいいですか?」
ヒカリの返事を受けて、おばさんは更ににっこりと笑いながら、もう一度両手を叩いた。
すると、花火みたいな光が突然テーブルの上で弾けた。そして、光の後には筆とパレットが現れた。 一体どこから出したんだろう?
「こいつを使って集めるんだよ」
おばさんの言っていることが分からないでいると、おばさんは筆とパレットを手にとって、私の傘に近づいた。
そして一言。
「この傘、かわいいね」
「はい、お気に入りなんです」
「そうかい」
そう言いながら、おばさんが右手の筆を使って傘のピンク色を撫でた。
すると、筆にはいつの間にかキレイなピンク色の絵の具がべったりとついていて、おばさんはそれをパレットの上に乗せた。
とっても不思議な光景。ヒカリは、言葉も出ないまま驚いた。
「こうやって色を集めといで。そうさねぇ……七色もあれば充分だよ」
「色を集めればいいんですか?」
「うちの料理は色から作るのさ」
おばさんはパレットと筆をヒカリに手渡した。
その後ろで、猫さんが急かすように言う。
「さっさと集めて来い! 俺は腹ペコなんだ!」
「ペテローネ、あんたも言っといで」
「なにぃ!? なんでだよ!?」
「二回目の“ばあさん”を見逃してやるって言ってるんだよ。食いたきゃ働きな」
猫さんが悔しそうに目を細め、歯を食いしばった。
それから一度舌打ちをすると、突然タマチの尻尾を掴んで引っ張った。
「タマチッ!」
ヒカリが呼び止めるも、猫さんは容赦なくタマチを引き寄せる。それから両前足の肉球を打ち鳴らすと、なんとタマチの体がふわりと浮かび上がった。
ヒカリが驚いていると、猫さんは空飛ぶタマチの背中に跨って、店内を飛び回る。
おばさんは、面白そうに笑いながら言った。
「じゃあこうしよう。先に七色集めてきた方に料理をご馳走してやるよ」
「ふん! 料理を食うのは俺だ。先に行くぞ!」
猫さんとタマチは、そのまま店を飛び出していった。
ヒカリが唖然としたまま立っていると、後ろから男の子がヒカリの服を引いた。
「じゃあ、お客さんには僕がお供しましょう」
男の子は頭の上で両手の平を打ち鳴らし、自分の体を光らせた。
すると、光に包まれて輪郭だけになった男の子の体は、みるみるうちに形を変えていった。
二メートルくらいの長い体はまるで蛇のよう。真っ白でスベスベした体はマシュマロみたいに柔らかい。唯一の体毛は、イルカのような顔の周りにある鬣だけ。
今まで見た事もない、初めて見るその生き物の姿は、蛇なんかじゃない。
そう、まるで竜みたい。
「きれい」
「ヒューイに乗っておいき。ペテローネに先を越されちまうよ」
おばさんが優しく言った。
ヒカリは竜にそっと跨ると、竜はまるで風船のようにふわふわと浮かび上がった。
「思い入れの強い物ほど、いい味の色を持っているよ。さあ、とっとと行っといで!」
おばさんの言葉を合図に、私と竜はお店の玄関から勢いよく外へと飛び出していった。
外の雨はすっかり止んでいた。
ヒカリと竜は、雨があがったばかりの街の上をふわふわと飛び続けた。
左手にパレットを持ち、右手で筆を握り締めて、ヒカリはおいしそうな色を探して視線をキョロキョロとさせる。
どんな色がおいしいのだろう?
道路を走る真っ赤なスポーツカーはどうかな。とってもかっこいい。
恋人同士で分け合っているソフトクリームは? ヒンヤリ甘くておいしそう。
あ、とってもキレイなお花を見つけた! 黄色い花びらは蜜の味?
色を探しているだけで、ヒカリの口の中は涎でいっぱいになった。
ふと、公園の方に視線を向けると、下から何かが浮かび上がってきた。
「あれ? なんだろう?」
竜に言って近づいてみると、地上からのんびりと浮かび上がってやってくるのはピンク色の風船だと分かった。
風に弄ばれてふらふらと動き回る紐を掴み、ヒカリは上昇する風船を捕まえた。
それから真下を見ると、公園の中央で空をじっと見上げている一人の女の子がいることに気付いた。
ヒカリと竜は、風船が空に上るのとは逆に、ふわふわと地上目掛けて降りていく。
近づいてみると、公園にいる女の子は、目に涙をいっぱい浮かべていた。
「あたしのフウセン……」
ゆっくりと降りていったヒカリは、捕まえた風船を掲げながら、女の子に笑いかけた。
「おーい! これはあなたの風船?」
ヒカリの笑顔を見た女の子は、泣くのを止めて頷いた。
「はい、もう飛ばさないでね」
ヒカリは竜から降りると、掴んだままの風船を女の子に差し出した。
女の子は嬉しそうに笑いながら風船を受け取ると、今度はヒカリのことをじっと見つめてきた。どうやら気になるみたいだ。
「おねえちゃんはお空を飛んできたの?」
「うん、むこうの方からちょっとお出掛けしにきたんだよ」
ヒカリがレストランの方角を指差すと、女の子は目をきらきらと輝かせながらその方角を見ていた。
女の子には竜の姿が見えていないみたい。
「ねえ、魔女のおねえちゃん」
「魔女? 私が?」
ヒカリは魔女と呼ばれてとても驚いたが、何も知らない女の子からしたら、空を飛んで突然やって来たヒカリは確かに魔女だった。
女の子は続ける。
「あのね、お願いがあるの」
「なあに?」
「あのね、一度でいいからあたしも空を飛んでみたいの」
「空を……?」
ヒカリはうーんと唸り声をあげながら、首を傾げた。
空を飛びたいなんて、なんて可愛らしい夢なのだろう。きっと彼女くらいの歳の子ならば、だれもが願う夢。ヒカリも幼い頃の自分を思い出していた。
「ようし、そういうことなら!」
ヒカリは筆とパレットを一旦降ろし、女の子の前で難しい顔を作りながら呪文を唱えた。
「チチンプイプイィ…………やあっ!」
そして勢いよく、両手の平を打ち鳴らす。
しかし、そこには花火のような光も起こらないし、女の子が浮かび上がることもない。
しばらくじっとした後、ヒカリは言った。
「今、あなたの風船に魔法をかけました。一緒におうちまで、お空を飛んで帰りましょう!」
そう言うと、女の子は満面の笑みを浮かべながら頷いた。
ヒカリは竜の背中に跨ると、竜の顔の横でそっと囁いた。
「お願い。女の子の体を持ち上げて」
すると、竜はマシュマロのような体から細くて白い腕を伸ばし、女の子の脇を抱え上げた。
「うわぁ! すごーい!」
風船を高々と掲げた女の子は、今、自分の体がゆっくりと地面を離れていったことに感動して声を上げた。そして女の子よりも高いところに浮いているピンクの風船は、確かに女の子の体を持ち上げているようだった。
「さあ、このままおうちまで帰りましょう!」
ヒカリの合図とともに、女の子の指差す方向へ、ヒカリたちは飛んでいく。
しばらくの間、町の上空は可愛らしい声で騒がしくなった。
ヒカリのパレットには赤い色がのせられた。
それは、一緒に空を飛んだ女の子の冷めない興奮の色。目をキラキラと輝かせながら感激する彼女の、真っ赤に染まった頬の色。
まるで新鮮な完熟トマトみたい。
その他にも、ヒカリのパレットにはキレイな色が次々と乗せられていった。竜と共に向かう先々には、素敵な色が待ち構えていたからだ。
川原を通りかかった時、白球が大空へ舞い上がってきた。そしてそれを見上げるのは、大きく万歳をしながら歓声を上げる泥んこ球児たち。彼等の心を震わせたそのボールの色を、ヒカリは貰うことにした。
また、町の中心にある時計塔の下では、若い男の人が美しい女性にオレンジ色の手帳を贈っていた。その幸せそうな二人の笑顔がとても素敵で、ヒカリはその手帳の色を幸せとともに分けてもらった。
空を飛んで祖母の家まで行ってみると、祖母が大事に育てているアジサイが花を開かせていた。可愛らしい薄紫の花は、祖母に「一生懸命育ててくれてありがとう」と言っているような笑顔に見えたので、そんなアジサイの気持ちを汲み取るつもりで、筆を滑らせた。
そうしてヒカリのパレットには、次々と色が乗せられていった。
この色を使って作るおばさんの料理は、一体どんな味がするのかな。
竜の背に乗って空を飛んでいたヒカリは、胸のワクワクを感じながら次の色を探していた。
その時だ。
「おい、色は集まったのかよ」
声がした方に視線を向けると、そこにはタマチに乗った猫さんがいた。
猫さんを乗せたタマチは、ヒカリの顔を見るなり嬉しそうに舌を出していた。しかし、猫さんが落ちてしまわないようにと、その場を動かずにいる。
「もう少し掛かるかな」
ヒカリがそう答えながら猫さんのパレットを見ると、思わず「あっ」と声を上げてしまった。
何故なら、猫さんのパレットにはまだ色が一色も乗っていなかったからだ。
「猫さん、どうして色が集まっていないの?」
「ふん、なかなか美味そうな色が見つからねえんだよ」
舌打ちをしながらそっぽを向いた猫さん。タマチも飛びつかれてしまったのか、ぐったりと耳を倒してしまった。
「そう…………でも、頑張って探そう」
「色を見つけないことには、ばあさんの料理も食えないしな」
あ、またまた“ばあさん”って言った。ヒカリは思わず周囲を見渡してしまう。もしかしたらどこかで聞いていたりして。
再び猫さんの方を見ると、猫さんもヒカリの方をじっと見ながらぽつりと呟いた。
「お、いい色があるじゃねえか」
猫さんの視線は、じぃっとヒカリのパレットに向けられている。
「素敵な色が幾つもあったの。おいしそうでしょ?」
ヒカリがそう言って見せると、猫さんはうんうんと頷きながら、涎を垂らしていた。
そして、こんなことを言うのだ。
「おい、俺のパレットとお前のパレットを交換しろ」
突然そんなことを言うので、ヒカリはびっくりしてしまった。でも、すぐに首を横に振る。
「ダメだよ。これは私が集めた色だもの」
「うるさい! その色をよこせってんだい!」
「ダメったらダメ!」
しつこく迫ってくる猫さんは、何度も断り続けるヒカリに苛立ってしまったようで、パレットと筆をタマチの頭の上に置くと、両前足の肉球を打ち鳴らした。
「そりゃ!」
「え! ちょ、ちょっと!?」
猫さんの手拍子と共に、ヒカリと竜はずるずると高度を下げていった。
空を飛べないように魔法を掛けられたみたいで、ヒカリと竜は近くのマンションの屋上に降りることしか出来なかった。
ヒカリと竜が屋上に降りたことを確認すると、猫さんは素早く近づいてきて、自分の筆を振り抜いた。
「これでどうだっ!」
猫さんの筆が竜の体を掠めると、竜はみるみるうちに小さくなっていき、形すらも分からなくなって、遂にはキレイな銀色の絵の具となって、猫さんの筆に貼りついた。
「ああっ! 酷い!」
「お前が色をよこすって言うなら、ヒューイは返してやる。だけど断ったら、俺はさっさと色を集めてヒューイごと食っちまうぞ」
猫さんは並んだ歯を大きく見せるようににんまりと笑ってから、ヒカリの目をじぃっと見た。
「そんなぁ」
自分の集めたパレットは渡したくない。
ここには自分が素敵だと思った色が乗っている。
ここには誰かが感動したという証が乗っている。
ここにはたくさんの強い思い入れが乗っている。
それらはきっと、それぞれがとても瑞々しくて、新鮮で、上質なもののはず。ヒカリにとって、とても大切なもの。
それなのに、こんなにも悲しい気持ちで手放さないといけないの?
だけど猫さんの言うことをきかなければ、ヒカリを乗せてきてくれた大切なお友達が、猫さんに食べられてしまう。
そんなのはイヤだ。
だからヒカリは、自分のパレットをゆっくりと差し出した。
すると猫さんは、ますます笑みを強めて、髭を揺らしながら何度も頷いた。
「よしよし、それでいいんだよ」
そう言いながら、猫さんは自分のパレットに乗っている銀色を再び筆で掬い取り、それを空中に向けて振った。
筆から撥ねた銀色の絵の具は、下に落ちるよりも早く、眩しく光りだした。そして徐々に大きくなり、形を作っていき、あの竜の姿となった。
その光景に視線を奪われていると、差し出していたヒカリの手からパレットが乱暴に取られてしまった。
「あっ!」
「ふん! いいぞぉ、美味そうな色だ…………じゃあ、お前にはこっちのパレットをやろう」
猫さんが、自分の持っていた空っぽのパレットを投げ渡してきた。
それを受け取りながら、ヒカリは猫さんに向かって言う。
「酷いよ!」
「うるさいやい!」
しばらくの間ヒカリと猫さんの言い争いが続いていると、いつの間にか、空にはどんよりとした雲が集まり始めていた。
そして、足元に黒い点が幾つも現れ始めてきた。
「また雨?」
雨は徐々に強くなってきて、ヒカリと竜は慌てて走り出し、屋上の雨除けの下に入った。
「うわあぁ! くそ! 雨なんて嫌いだ!」
猫さんは、頭の帽子を深く被り直しながら、ヒカリのパレットと筆を持って、タマチと共にその場を離れていった。
「あ、待って! 私のパレット!」
ヒカリの叫び声も虚しく、猫さんの姿はどんどん遠くなっていった。
思わず雨除けから飛び出して、猫さんのことをずっと呼び続けたヒカリは、強い雨に打たれてすっかりとびしょびしょになってしまった。
でも、猫さんは戻ってこない。
それに、ずぶ濡れの服が体を冷やして、寒い。
雨は大好きなはずなのに、ヒカリはちっとも楽しくなかった。
雨は少しずつ弱まっていった。どうやら通り雨だったみたい。
それなのに、今度はヒカリの目に、雨が降り始めてしまった。
それはとてつもない豪雨となった。拭っても拭っても、ちっとも弱まらない豪雨。
「ひどい……ひどいよぉ…………」
寒さで震える体をそのままに、ヒカリは何度も何度も目を擦った。
ふと、背中から何かに包まれる感触があった。
竜が、白くて長い体をヒカリに寄せて、温めてくれていた。
竜の体に身を預けながら、もうしばらくだけ悲しんでいたヒカリ。
それからようやく、少しだけ元気を取り戻した。
「ありがとう」
筆と、空っぽのパレットを持ち直したヒカリは、竜に向かって言った。
「ごめんね。もう大丈夫…………」
それでも、竜は心配そうな瞳をじっとヒカリに向けている。
「本当に大丈夫…………さあ、早く色を集めにいこう」
今度は微笑んで見せた。
すると竜は小さく頷いて、またヒカリを背中に乗せてくれたのだ。
新しい色を探しに行こうと、ヒカリと竜は空へと浮かび上がった。そして視線を真っ直ぐに、進行方向へと向けた。
その時だった。
「あ」
声を漏らした。
そしてその時こそ、今までで一番胸がときめいた瞬間となった。
「…………ステキだね」
きっと家に籠もっていたら、こんなもの見ることが出来ない。
そんな魔法のような瞬間を見せてくれる。
だからヒカリは、雨が好き。
コローレに帰ってきたヒカリが、玄関を開こうとドアノブに手をかけると、
「うおあぁっ!」
ヒカリが扉を引くよりも先に、中から猫さんが転がり出てきた。
ものすごい勢いで飛び出してきた猫さんは、ぐるぐるとマントを振り乱しながら転げていた。
何事かと思っていると、今度は玄関からおばさんが勢いよく身を出した。
「どこまであんたは意地汚いんだい!? あんた、ヒューイを食べよとしたね!?」
「いや、あれは冗談! ほんの冗談だってば!」
「あんたみたいなのには、二度とうちの料理を食べさせるもんかい!」
もの凄い剣幕のおばさんは、とびっきり怖い顔で猫さんを見た後、今度はヒカリと竜の姿に気付いた。すると、まだいらついた様子は見せているものの、声を小さくしてから「入りな」と言って手招きをした。
猫さんをちらりと見やりながら、ヒカリと竜は店の中に入っていった。
店内は、最初に訪れた時とちっとも変わった様子はなかった。ただ、厨房には猫さんが持ち帰ったであろう、ヒカリのパレットが置いてあった。
「ペテローネのやつ、あんたからパレットを奪ったそうだね」
「どうして知ってるんですか?」
ヒカリが不思議そうに訊くと、おばさんはタマチを指差しながら言った。
「こいつが教えてくれたのさ」
「おばさん、タマチと喋れるんですか?」
「竜と暮らしてる女だよ? 犬の気持ちだって分かるに決まってんだろう」
ヒカリは可笑しくなって笑った。
それから、思い出したようにパレットをおばさんに見せた。
おばさんはヒカリの持ち帰ったパレットを見ると、今度は楽しそうににっこりと笑った。
「こりゃあ……いい色を見つけてきたね」
「はい!」
「それじゃあ、さっそく腕を振るおうかね?」
楽しげに厨房へと入っていくおばさんは、舌なめずりをした。どうやらヒカリが持ち帰った色は、本当においしそうな色みたい。
ヒカリがタマチの頭を撫でていると、隣では竜が体を光らせ、最初に出会った少年の姿へと戻っていた。
「七色集まりましたね! おめでとうございます!」
「ありがとう。君のおかげだよ」
「いえいえ、こちらこそお礼を言わなくはいけません。何せ僕を助けてくれたんですからね!」
少年が笑うのと同時、ヒカリはお店の外で転がっている猫さんを思い出した。
「席に着いて待ってな。料理はそんなにお前達を待たせないよ」
おばさんの声が聞こえる。なんてあっという間なのかしら。店内には、いい匂いが満ちていた。
この匂いはきっと、お店の屋根から突き出ている煙突を上り、お店の外まで広がっているのだろう。
匂いを嗅いだ途端、ヒカリのお腹は大きな音を立てて鳴った。
こんな匂い、嗅いでしまったら料理を食べずにはいられない。
「うーん」
「さあお客様! オーナーの料理が運ばれてくるまで、お席にどうぞ」
少年が促す。
タマチもちゃっかりと席に着いている。
おばさんが軽快にフライパンを振るう。
そしてヒカリは、
「ちょっと待っててね」
そう言って、玄関の方へと向かった。
そして扉を開き、外を見た。
「うう…………」
猫さんはまだ転がっていた。そして、呻き声と共に、お腹を鳴らしていた。
そんな猫さんのもとに、ヒカリは近づいてゆく。
そして声をかけたのだ。
「ねえ、あなたも一緒に食べよう?」
「なに?」
猫さんは驚いた。
「い、いいのか?」
「うん。だってすごくおいしそうだよ?」
「お、お前ってやつはぁ…………」
猫さんがぐすっと鼻を鳴らした。
それから、ヒカリと一緒に店へと入ろうとする。
しかし、そこでふと足を止めた猫さんは、ヒカリに尋ねた。
「そういえばお前、あの後どうやって七色集めたんだ?」
不思議そうに訊く猫さん。
ヒカリはにっこりと微笑みながら、片目を瞑って言った。
「雨上がりの空に見える、きれいな七色…………なーんだ?」
そう言いながらヒカリと猫さんは、お店の扉を潜っていった。
とんがり屋根から突き出る短い煙突からは、白くてふわふわの煙が空へと昇っていく。
オレンジ色の光を窓から漏らし、幸せな匂いを漂わせる。
今日もコローレは、おいしい料理を作って、あなたを待つのだった。
<了>




