スワイプする理由
最初は、ただの暇つぶしだった。
講義の合間、友達が「面白いよ」と見せてきた画面を、なんとなく真似しただけ。
写真を選んで、簡単なプロフィールを書いて、右にスワイプする。
それだけで、知らない男から「いいね」が来る。
単純で、分かりやすい仕組みだった。
——私、可愛いんだ。
画面越しの数字が、それを証明してくれる気がした。
現実では、そんなふうに思うことなんてなかったのに。
最初に会ったのは、年上の社会人だった。
写真より少しだけ老けていた。
でも優しかった。
カフェでコーヒーを飲んで、就活の話をした。
帰り際に「また会おう」と言われた。
それだけ。
たったそれだけなのに、その日の夜はずっと機嫌がよかった。
誰かに選ばれる、という感覚が、こんなにも心地いいなんて知らなかった。
二人目は、もっとスマートだった。
会う前からメッセージがうまくて、気がつけば夜のバーにいた。
名前を呼ばれた記憶はないけど、笑っている時間は長かった。
終電は逃した。
このあとの展開分かっている。
頭が十分にまわらない。
ただ、彼を身体をくっつけて歩いていたのを覚えている。
朝、知らない天井を見上げた。
少しだけ笑った。
——まあ、いいか。
駅についてスマホが鳴る。
一文だけだった。
「昨日はありがとう」
とメッセージが来ていた。
それだけで、十分だった。
三人目、四人目と続くうちに、流れはだんだん決まっていった。
夜に会って、軽く飲んで、どこかに移動する。
相手に好意をもてば、一夜を過ごす。
名前は覚えたり、覚えなかったり。
お互い様だ。
次の約束は、はっきりしないまま終わることが多かった。
曖昧なままでいい。
そこが心地よいのかもしれない。
それでも、アプリを開けば、また新しい「いいね」が届く。
それを見ると、全部どうでもよくなった。
——私、まだいける。
そう思えた。
「ねえ、それ、やめたほうがよくない?」
友達に打ち明けたとき、返ってきたのは、思った通りの言葉だった。
カフェのテーブルに置いたスマホを、彼女はちらっと見てから、ため息をつく。
「だってさ、絶対、ちゃんと見られてないよ」
「分かってるよ」
私はすぐに答えた。
分かってる。
そんなこと、最初から分かってる。
夜しか会わないことも、名前をちゃんと呼ばれないことも、次がないことも。
全部。
「じゃあ、なんで続けてるの?」
その質問には、少しだけ間が空いた。
コーヒーの表面に映る自分の顔を見ながら、考えるふりをする。
答えは、もう出ているのに。
「……モテたいから、かな」
軽く言ってみせる。
冗談みたいに。
でも、半分は本当だった。
「今だけだし。こういうの」
そう続けると、友達は何も言わなかった。
ただ、困ったように笑っただけだった。
帰り道、スマホを開く。
新しいマッチングが一つ。
プロフィール写真は、どこにでもいそうな男の人。
特別じゃない。
きっと、この人も同じだ。
会って、笑って、朝になって、それで終わり。
分かってる。
全部、分かってる。
——でも。
指は、自然に右へ動いていた。
その人とは、珍しく昼に会った。
カフェで待ち合わせした。
普通にランチを食べて、普通に会話をした。
名前を呼ばれた。
ちゃんと、私の名前を。
それだけのこと。
だけど、少しだけ戸惑った。
「なんか、緊張してる?」
そう聞かれて、笑ってごまかす。
いつもと違うだけ。
ただ、それだけ。
別れ際、「また会おう」と言われた。
具体的な日付も、その場で決まった。
こんなことは初めてだった。
夜じゃなくて、次も昼。
それが、なぜか怖い。
約束の日、私は少しだけ迷った。
それでも向かった。
昼の街は明るすぎて、どこか落ち着かない。
待ち合わせ場所に彼はもう来ていて、軽く手を挙げた。
「早いね」
「そっちこそ」
そんな普通の会話。
普通すぎて、少し安心する。
食事をして、歩いて、またカフェに入る。
時間がゆっくり進む。
夜とは違う。
焦らなくていい空気。
それが、少しだけ心地よかった。
帰り際、彼は少しだけ言いにくそうに笑った。
「このあと、どうする?」
その一言で、空気が変わる。
意味は、分かる。
分かってしまう。
「……どういう意味?」
聞き返した自分の声が、少しだけ固かった。
彼は少し困ったように、でも軽く言った。
「いや、ホテルとか。近くにあるし」
その瞬間、なぜか笑いそうになった。
ああ、そうなんだ。
やっぱり。
名前を呼ばれたことも、
昼に会ったことも、ゆっくり話した時間も、全部。
ただの順番の違いでしかなかった。
「ごめん、今日は帰るね」
そう言うと、彼は少しだけ驚いた顔をした。
でも、すぐに笑って「そっか」と頷いた。
引き止めはしなかった。
帰り道、スマホが震える。
「今日は楽しかった。また会おう」
短いメッセージ。
昼と同じ言葉。
でも、もう違って見えた。
アプリを開く。
いつも通り、「いいね」が並んでいる。
数も、顔も、変わらない。
変わったのは、たぶん私のほう。
——特別なんて、最初からなかった。
そう思った。
思ってしまった。
それでも。
親指は、止まらなかった。
スワイプする。
画面が切り替わる。
新しい顔。
新しい名前。
新しい「はじめまして」。
その向こうにあるものを、
私は、もう知っている。
それでも、私はまた、そこに触れる。
——これが、私だから。
そう言い聞かせるみたいに、もう一度、ゆっくりと画面をなぞった。
マッチングアプリのニュースを見て思いつきました。




