第6話「『嫌なら嫌と言って』と、言ったじゃない」
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エーデルシュタイン公爵家で執り行われている婚約披露の宴。
その成立宣言の厳粛なる空気を切り裂いたシーナ・アルヴェル子爵令嬢へと、一斉に衆目が集まる。
――暴挙である。神聖な儀式の妨害、それも、王家の名において行われているもの。ともすれば不敬の極みと断じられ、家ですら取り潰しになりかねない。
誰もが想像だにしていなかった出来事に、口を開くこともしばし忘れていた。
それは、ヴィオラもまた同様だった。
――え、何? ちょっと待ったコール? いやいや、気持ちはうれしいけど、だめよシーナ! 空気を読んで!
シーナが身体を震わせながら一歩前に出る。それを契機に周囲にはざわめきと、困惑から転じた冷ややかないくつもの視線がシーナを貫いていた。
「神聖なる婚約披露の儀に、このようなご無礼をお詫びいたします。私は、アルヴェル子爵家のシーナと申します」
だと言うのに、シーナは青白い顔のまま、身体を恐怖に震わせながらも、優雅にカーテシーを決めてみせた。
その双眸には強い決意の光が、爛々と輝いていた。
そこでようやく、儀典官が声を荒らげる。そして、シーナを睨見つけると、壁際に控えていた兵たちを見やって言った。
「し、子爵家の小娘風情が! この場をなんと心得るか。ええい、誰か、早く此奴を――」
「ヴィオラ・エーデルシュタイン様は、ジュリアン王子にふさわしい淑女ではございません!」
儀典官の言葉を遮るという無礼を重ね、シーナが声を張り上げた。
その言葉に、ようやくヴィオラもこの事態に違和感を覚えることができた。しかし、その違和感を口にするより早く、シーナが続ける。
「畏れながら申し上げます。エーデルシュタイン令嬢は私と極めて私的な接触を幾度となく繰り返して参りました。その多くは令嬢の寝室で行われ、私は拒むことを許されませんでした」
――は?
ヴィオラの思考が止まる。シーナは、何を言っている?
「アルヴェル子爵令嬢。お前は今、自分が何を言っているのか理解しているのか? 我が娘ヴィオラの名誉を何の根拠があってそのように謗る。……娘の良い友人であると、思っていたのだがな」
怒鳴るわけでもなく、エーデルシュタイン公爵が淡々と告げる。その声は重く、公爵家の威を多分に含んでいた。
追従するように、周囲からシーナへ罵声が飛ぶ。
シーナが下唇を一度噛み締めるのを、ヴィオラは見た。それはいつも、閨で見る表情と同じもので――、
「根拠ならございます。」
そう言って、シーナはドレスの襟に手をかけると、それをおもむろに引き下げた。
隠れていたいくつもの愛の印が、衆目に晒される。その赤い跡は、まるで鎖のように連なり、シーナを縛り付けているようにも見えた。
「これが、その証でございます」
誰かの息を呑む音が聞こえる。ざわめきが一瞬引いた後、「馬鹿げている」と、これも誰かが言った。
「誰か男とでもまぐあった時のものではないのか」
「そんな跡が何の証拠になる」
「仮に事実だとしても、お前から媚びへつらったのではないか?」
公爵家の取り巻きが口々にシーナを責め立てる。
その悪口雑言を浴びながら、シーナは唇を噛みつつも、乱れた胸元を整える。目尻にはわずかに涙が浮いている。
もはや、場の勝敗は決していた。
――短慮を起こしたわね。本当に馬鹿なんだから。
ヴィオラはシーナの無謀にも通じる勇気を気に入り、側に置いた。しかしその気性が、まさかこのような厳粛たる場で悪さをするとは思わなかった。
――いくら私を取られると思ったからってやりすぎよ。
もはやヴィオラにすらシーナを庇い立てる方法はなかった。
追い詰められたシーナは大きく手を広げ、ついに涙をこぼしながら言った。
「これでも足りないとおっしゃるのであれば、エーデルシュタイン令嬢がどの様に私に愛を囁いたか、事細かにご説明いたします。どの様に私を組み敷いて、どの様にその唇を落としたのかを皆様にお伝えいたします!」
先ほどまでの振る舞いは既に見られない。そこにいるのは周囲に理解を求め、泣き縋る一人の無力な少女であった。
この場を取り仕切る儀典官が忌々しげに首を振る。
「ええい、最早そのような妄言、聞くに堪えん。誰かこの者をつまみ出せ」
その言葉に控えていた兵たちがうなだれるシーナに近づき、
「お待ちください」
と、ヴィオラの横を通り、侍女――リネットが前へと進み出た。
――リネットは、シーナを庇うつもりなのね。
リネットはシーナへの友情故に、この地獄の空気に飛び込もうとしているのだろう。ヴィオラの目にはそう映った。
「リネット、おやめなさい」
だからこそ、ヴィオラは止めねばならなかった。最早どうしようもない。リネットまで失うわけにはいかなかった。
しかし、リネットは一度ヴィオラへ向き直り、床に触れんばかりに膝を折ると、ドレスの裾を大きく広げ、一礼した。
そして、改めて王子をはじめとする周囲の人々にも同じ礼をする。
「侍女風情がこのように口を挟むご無礼、どうかお許しください。私はエーデルシュタイン公爵令嬢の側付き、リネット・ヴァインと申します。ヴァイン男爵家の末席に連なる者でございます」
それは侍女がするにはあまりに堂に入った、美しいニーリング・カーテシーであった。
そして、静かな、しかし凛とした声が響く。
「私もまた、アルヴェル子爵令嬢と同じように、エーデルシュタイン令嬢の御寵愛を頂戴しておりました」
――それは、破滅の鐘の音にも似ていた。
「……どういう意味か?」
公爵が何処か苦々しくリネットに問う。リネットは公爵に視線を向けると、
「そのままの意味でございます。公爵閣下がそうされたのと同じように、ヴィオラお嬢様は私に御手を付けられました」
――は? リネットが、お父様のお手付き?
そのあまりに直截な物言いに、ヴィオラの口が、はしたなくも半開きになる。
「そして、私はアルヴェル子爵令嬢と一緒に、ヴィオラお嬢様のお戯れのお相手をさせられたこともありました」
誰もが言葉を失った。静寂が空間を支配する。ヴィオラはいつの間にか音楽が止まっていたことに、今更ながら気づいた。
リネットが、淡々と続ける。
「アルヴェル子爵令嬢は、おそらく私の名誉のためこの事実を口にしなかったのでしょう。……格好の証人が、こんなにも近くにいるのに」
リネットがシーナを見て、疲れたような笑みを向けた。シーナは涙で崩れた化粧のまま、リネットを呆然と見ていた。
「私は此処に証言いたします。シーナ・アルヴェル子爵令嬢の発言に何一つ偽りはないことを。この私リネット・ヴァインもまた、ヴィオラ・エーデルシュタイン様に関係を強いられ続けていたことを」
今まで、シーナとリネットに集まっていた視線が、ヴィオラに刺さった。父である公爵でさえ、苦々しい顔を向けている。
――拒むことを許されなかった? 強いられ続けていた?
「嘘、嘘よ……」
ヴィオラは何かに押されたように、一歩後ろに下がった。そして、シーナとリネットに向かって、張り裂けんばかりに叫んだ。
「――だって、『嫌なら嫌と言って』って、言ったじゃない!」
その言葉は、時を凍てつかせ、永遠にも思える沈黙をもたらした。
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