婚約破棄された私が触れたものの過去が分かる力に目覚めたら、冷酷騎士団長の孤独な少年時代を知ってしまい、彼に一途に愛されることになった
舞踏会場の中央で、私リディア・ローゼンタールは立ち尽くしていた。
目の前には婚約者のエドワード王子と、彼に寄り添う侯爵令嬢シャーロット。二人の手は、まるで恋人同士のように固く結ばれている。
周囲の貴族たちの視線が、好奇と嘲笑に満ちて突き刺さってくる。
ああ、熱い。顔が、耳が、燃えるように熱い。
エドワードが口を開いた。その整った顔には、一片の罪悪感もない。
「リディア、君との婚約は解消させてもらう。僕が愛しているのは、最初からシャーロットだけだったんだ」
シャーロットが、申し訳なさそうに、でもどこか優越感を滲ませた表情で私を見た。
「ごめんなさい、リディア様。でも、愛には逆らえませんの」
周囲から失笑が漏れる。ひそひそと囁き合う声が、波のように押し寄せてくる。
「哀れね、公爵令嬢なのに」
「やっぱり堅物で面白みがないから捨てられたのよ」
「あの侯爵令嬢の方が可愛らしいもの」
指先が震える。膝が、今にも崩れ落ちそうだ。でも、ここで泣いたら負けだ。絶対に泣いてはいけない。
私は背筋を伸ばし、できる限り平静を装って言った。
「かしこまりました。婚約解消、承知いたしました」
そう言って、踵を返す。一歩、また一歩。舞踏会場を出るまでの距離が、永遠のように長く感じられた。
廊下に出た瞬間、堪えていた涙が溢れた。
視界が滲む。足が縺れて、壁に手をついた。冷たい石壁が、火照った掌に心地よい。
「くそ、くそ」
低く、呪詛のような言葉が喉から漏れた。
「どうして。どうして私は愛されなかったの」
三年間、エドワードの理想の婚約者であろうと努力してきた。王妃教育を誰よりも真面目に受けて、社交界でも完璧に振る舞って。それなのに。
涙が止まらない。掌で顔を覆うと、その瞬間だった。
頭の中に、映像が流れ込んできた。
石壁の、過去。
職人たちが汗を流しながら石を積み上げている光景。何十年も前の、王宮建設の様子。そして時代が流れて、この廊下で密会する貴族たち。喧嘩する召使いたち。走り回る子供たち。
一瞬で、何十年分もの記憶が脳裏を駆け抜けた。
「っ」
思わず壁から手を離すと、映像が途切れた。
息が荒い。心臓が早鐘のように打っている。
「今の、は」
両手を見つめる。指先が、微かに光を帯びているような気がした。
「これは、もしかして」
触れたものの、過去が視える。
そう理解した瞬間、恐怖と同時に、不思議な高揚感が湧き上がってきた。
「これは、力だ」
婚約破棄された屈辱の瞬間に、私は新しい力に目覚めたのだ。
もう王宮にはいられない。そう判断して、私は夜の庭園に逃げ込んだ。月明かりだけが頼りの、静寂に包まれた場所。
噴水のある広場で立ち止まると、背後から気配を感じた。
振り返ると、そこには漆黒の軍服に身を包んだ男性が立っていた。
アシュレイ・ヴァンガード。
王国最強と謳われる騎士団長。氷のように冷たい銀色の瞳と、感情の読めない表情で知られる人物。戦場では敵を容赦なく斬り伏せ、冷酷無慈悲と恐れられている。
「こんな夜更けに、何をしている」
低く、抑揚のない声。感情が全く読み取れない。
私は反射的に、防御するように両腕を前に出した。その時、私の手がアシュレイの腰に下げられた剣の柄に触れてしまった。
瞬間、視界が暗転した。
幼い少年が、牢獄のような暗い部屋に閉じ込められている。
食事も与えられず、水だけで生き延びている。
「お前は出来損ないだ。ヴァンガード家の恥晒しめ」
そう罵る大人たちの声。
少年は泣いていた。でも、誰も助けてくれなかった。
やがて少年は剣を握った。血を流しながら、ひたすら訓練を続けた。認められるために。生きるために。
愛されることを、諦めた目をしていた。
「はっ」
と我に返ると、アシュレイが私の手首を掴んでいた。
その銀色の瞳が、初めて感情を宿していた。驚愕と、そして恐怖。
「今、何を視た」
声が、微かに震えていた。
私は、「ごめんなさい」と小さく呟くことしかできなかった。
涙が、また溢れてきた。でも今度は、自分のためじゃない。
「あなた、ずっと、ひとりぼっちだったのね」
アシュレイの瞳が、大きく見開かれた。
まるで、誰かにそんな言葉をかけられたのが初めて、というような顔だった。
その瞬間、彼の指先が震えた。
私は、衝動的にアシュレイの手を両手で包み込んだ。
氷のように冷たい手。でも、確かに温もりを持った、生きている人間の手。
「大丈夫。もう、あなたはひとりじゃない」
そう言った私自身も、たった今、一人ぼっちになったばかりだったのに。
でも、不思議と、そう言わずにはいられなかった。
アシュレイは、しばらく呆然と私を見つめていた。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「君は、何者だ」
「リディア・ローゼンタールです。今日、婚約破棄されました。そして、触れたものの過去が視える力に、目覚めました」
正直に答えると、アシュレイは少しだけ表情を和らげた。
「そうか。それは、災難だったな」
まさか、王国最強の騎士団長に同情されるとは思わなかった。思わず、くすりと笑ってしまった。
その笑い声に、アシュレイが僅かに驚いたような表情を見せた。
「君は、泣いていたのに、笑うのか」
「だって、おかしいじゃないですか。公爵令嬢が舞踏会で婚約破棄されて、挙句の果てに夜の庭園で騎士団長の過去を覗き見してしまうなんて」
アシュレイは、少しの間黙っていたが、やがて小さく、本当に小さく、口角を上げた。
「確かに、おかしいな」
その微笑みに、私の心臓が大きく跳ねた。
この人は、笑うことができるんだ。
そしてその笑顔は、どんな花よりも美しかった。
「君の力を、俺に貸してくれないか」
アシュレイが、真剣な眼差しで私を見つめた。
「王国には、解決されていない事件が山ほどある。君の力があれば、真実に辿り着ける」
私は、少し考えた。王宮には戻れない。公爵家にも、もう居場所はないだろう。
それに、この人の役に立てるなら。
「分かりました。協力します」
アシュレイは、再び小さく微笑んだ。
「ありがとう、リディア」
名前で呼ばれて、胸が熱くなった。
こうして、私とアシュレイの奇妙な共同生活が始まった。
騎士団の執務室の一角に、私の居場所が作られた。アシュレイが持ってくる証拠品に触れて、その過去を視る。そうして、数々の難事件を解決していった。
最初の一週間は、アシュレイとの距離感が掴めなかった。彼は必要最低限のことしか話さず、いつも書類仕事に追われていた。
でも、私が淹れたお茶を一口飲んだ時、彼は小さく呟いた。
「美味しい」
その一言が、どれだけ嬉しかったか。
少しずつ、彼は言葉を増やしていった。
「リディア、今日は調子がいいか」
「リディア、無理はするなよ」
「リディア、腹は減っていないか」
一つ一つの言葉が、私の心を温めていった。
ある雨の日、私が窓辺で憂鬱そうにしていると、アシュレイが隣に座った。
「何を考えている」
「王宮のこと、エドワード様のことを、思い出していました」
アシュレイは、私の頭に手を置いた。大きくて、温かい手。
「忘れろ。お前を捨てた男のことなど」
「でも」
「お前は、俺の隣にいる。それで十分だろう」
その言葉に、涙が溢れた。でも今度は、悲しい涙じゃなかった。
二ヶ月が過ぎた頃、王宮から使者が来た。
エドワード王子が、私に謝罪したいと言っているらしい。シャーロットとの関係が上手くいかず、私の価値に気づいたのだという。
「断れ」
アシュレイが、冷たく言い放った。
「でも、一応、お会いするだけでも」
「リディア」
彼が私の肩を掴んだ。その銀色の瞳に、初めて見る激しい感情が宿っていた。
「お前は、俺のものだ。誰にも渡さない」
その宣言に、心臓が爆発しそうになった。
「アシュレイ、様」
「俺は、お前がいないと駄目なんだ。お前だけが、俺の過去を知っている。俺の孤独を理解してくれた。だから、お前を失うわけにはいかない」
彼の声が、震えていた。まるで、捨てられることを恐れている子供のように。
私は、彼の胸に顔を埋めた。
「私も、あなたが必要です。もう、どこにも行きません」
アシュレイの腕が、私を強く抱きしめた。まるで、二度と離さないとでも言うように。
「愛している、リディア」
「私も、愛しています、アシュレイ様」
キスは、とても優しかった。
それから数日後、王宮で事件が起きた。エドワード王子が、使い込みの罪で告発されたのだ。実はシャーロットと共謀して、国庫から金を抜き取っていたという。
その調査を命じられたのは、アシュレイだった。
そして私は、証拠品に触れて、全ての真実を暴いた。
エドワードとシャーロットは、王宮から追放された。
謁見の間で、エドワードが私を睨みつけた。
「お前のせいだ、リディア。お前が俺を陥れたんだ」
「違います。あなたが自分で犯した罪です」
シャーロットが、泣きながら喚いた。
「あなたなんて、誰からも愛されないのよ」
その言葉に、私は微笑んだ。
「ええ、あなたたちからは、ね」
そして、隣に立つアシュレイを見上げた。彼は、私の手を握り返してくれた。
ざまあみろ、と思った。
私を捨てた人たちは破滅し、私は最高の伴侶を得た。
半年後、私とアシュレイは婚約した。
騎士団の皆が祝福してくれた。最初は冷酷だと思っていた彼らも、実はとても温かい人たちだった。
婚約式の夜、アシュレイが私を抱きしめながら囁いた。
「お前が、俺の全てだ」
「私も、あなたが全てです」
もう二度と、離れることはない。
触れたものの過去が視える力に目覚めたおかげで、私は本当の愛を見つけることができた。
婚約破棄されて、本当に良かった。
そう心から思える日々が、ここから始まるのだ。
窓の外では、満月が優しく微笑んでいた。
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