エピソード8、赤い砂と青い海
解体作業ポートは、廃棄部品の山だった。
辺り一面、かつての輸送艇や修理ドローンの残骸が折り重なり、まるで金属の墓地のようだった。
月光の届かない薄闇の中、外灯の残り火が断続的に点滅している。
その光が、壊れた装甲板や剥き出しのケーブルを鈍く照らし、風が吹くたびにガタガタと小さく鳴いた。
廃棄区画の外壁には「立入禁止」「分解待ち」の標識がまだ貼られている。
それがもう誰に読まれることもなく、砂に半ば埋もれていた。
人の気配はない。だが、機械の死骸たちは、まだそこに“働いていた頃”の熱をどこかに残しているように感じられた。
その奥、他よりも影の濃い一角に、ひときわ大きな塊があった。
砂をかぶり、半分沈みかけた船体。
白い外板に、かすかに文字が残っている。
〈HANAMIZUKI〉。
「……これか」戸来が呟いた。
風の音に溶けるほどの小さな声だったが、二人にははっきり聞こえた。
「これやな。見かけはボロいけど、一応しっかりはしてるな」佐渡が慎重に船体を叩く。
鈍い音。中はまだ空洞を保っている。
海斗がヘルメットのライトを点け、船体を照らした。
船腹の合わせ目にはまだ新しいシーラント剤が残っていた。誰かが最近、手を入れた形跡。
「つまり、行けるってことっすね」
海斗の声には、かすかに希望が混じっていた。
「行ける。行かなあかん」戸来が短く答える。
その声は、恐れを押し殺した意志の響きだった。
彼らは慎重にハッチを開く。
金属の軋む音が響き、内部から冷たい空気が吹き出す。
それは長い眠りについていた機械の“息”のようだった。
薄暗い船内には、オゾンと油の匂いが入り混じっていた。
照明を入れると、計器類が一瞬チカチカと点灯し、やがて安定する。
まるで船が目を覚ましたかのように、低いハミング音が鳴り始めた。
「電源、生きてる……」
海斗の目が驚きで見開かれる。
「燃料も満タンやな」佐渡がメーターを確認する。
戸来は操縦席に座り、ひとつ息を吐いた。
このシートの沈み方、パネルの古さ──全てが“人の手のぬくもり”を思い出させた。
この船もまた、誰かが生き延びるために作り、壊れ、捨てられたのだ。
「奇跡ってあるんすね」海斗が言う。
「奇跡は、逃げるやつの足元にしか落ちてへん」佐渡が返す。
その言葉に、誰も笑わなかった。けれど全員が、同じものを胸に感じていた。
そのときだった。
外から、光が差し込んだ。鋭く、冷たい光。
ドローンのサーチライト。
外壁に赤いレーザーが走り、砂を焼く音が響く。
わずかに開いたハッチの隙間から、白い光が船内に差し込み、三人の影を壁に投げた。
「急げ!」戸来が叫ぶ。
佐渡が制御盤に飛びつき、海斗がメインスイッチを叩く。
電流が走る音。計器が一斉に点灯する。
その瞬間、外でドローンのスピーカーが警告を発した。
〈未登録機体、識別中。停止せよ。停止せよ〉
だが、もう止まれなかった。
ハッチが閉まる音と同時に、外で爆発音がした。
衝撃が船体を揺らし、天井の金属パネルが一枚はじけ飛ぶ。
警告ランプが一斉に点滅し、機械音が錯綜する。
外ではドローンのレーザーが船体をかすめ、赤い光の筋が窓を横切った。
「燃料ライン異常! 圧力落ちてる!」海斗が叫ぶ。
計器の針が暴れ、警報音が耳を打つ。
「手動で締め直す!」
佐渡は即座に床下のメンテナンスハッチを開け、狭い空間に身を滑り込ませた。
配管の蒸気が噴き出し、視界が真っ白になる。
高温の霧が手袋の内側にまで入り込み、皮膚を焼いた。
「ぐっ……!」
歯を食いしばりながら、佐渡はレンチをねじ込む。
バルブが固く動かず、全身の力で締め上げた。
腕が震え、筋が軋む。
それでも、止まらない。止めてはいけない。
船内に響く、戸来の怒号。
「船長!」
「かまへん! 火傷の数なんて、もう数えきれん!」
その声に、海斗が顔を上げる。
汗と油で曇ったバイザーの向こうに、戸来の背中が見えた。
その姿は、まるで炎の中の影のようだった。
外では再び衝撃音。金属片が船体を叩く。
ドローンが至近距離で照射を開始したのだ。
照明が一瞬明滅し、電力が不安定になる。
「電力ライン切り替え完了! 圧力、安定!」海斗が叫ぶ。
その直後、警報の音がひとつ、静かに止んだ。
赤かった計器のランプが緑に変わる。
戸来が操縦席に飛び戻り、叫ぶ。
「上げろ!」
海斗が点火キーを押し込む。
スラスターが唸りを上げ、重力が船体を引き止める。
一瞬、押し返されるような抵抗があった。
だが次の瞬間、爆炎が地面を薙ぎ払った。
赤い砂が爆風で渦を巻き、視界が真っ白になる。
外の世界が炎と塵の奔流に包まれ、船体がその中を抜け上がっていく。
圧力が変化し、身体がシートに押しつけられる。
骨が軋む。呼吸が奪われる。
しかし、それは確かに“生”の感触だった。
モニターには、地表がどんどん小さくなっていく。
赤茶けた地平線の向こうで、砂嵐が光を反射している。
その景色が、彼らにとっての“墓場”になるはずだった。
エンジンの振動が次第に穏やかになり、船体が静かに浮上していく。
周囲の音が遠ざかり、やがて無音になった。
戸来が短く息を吐く。
燃焼の炎が徐々に収まり、視界が晴れる。
背後で、誰かが小さく笑った。
〈ハナミズキ〉は、赤い嵐の中を突き抜けた。
その瞬間、世界が裏返ったように、音が消えた。
暴風のうなりも、警報の喚きも、全てが遠くへ引き剥がされていく。
代わりに広がるのは、無限の沈黙。
宇宙の静寂は、まるで深海の底に沈んだようだった。
海斗が息を呑む。
「成功……?」
その声は自分の耳の中でだけ響き、すぐ吸い込まれた。
「まだ“空”出ただけや。宇宙はここからや」佐渡が笑う。
だがその笑みには、震えと涙が混じっていた。
火星の影が下へ沈む。
窓の外、赤い惑星がゆっくりと小さくなっていく。
薄い大気の層が光を散らし、地平線が朱に縁取られていた。
あの砂の下には、命の匂いと、息の跡がまだ残っている。
数えきれない名前たちが、記録にも残らず埋もれていった。
戸来はそのすべてを、まぶたの裏に焼き付けた。
──生き延びるということは、見送ることでもある。
海斗はシートに身体を沈め、ぐったりと息をついた。
船体の振動が落ち着き、無重力が訪れる。
指先がふわりと浮き、汗の粒が宙を漂った。
それを見て、彼は小さく笑った。
恐怖の汗も、涙も、区別がつかない。
佐渡は応急パックを開け、火傷した手の甲に冷却ジェルを塗った。
その肌が、まだ熱を持って震えている。
けれどその痛みが、確かに“生きている証”だった。
戸来は操縦席に座ったまま、ゆっくりと外を見つめる。
漆黒の闇の中で、星々が鋭く瞬いていた。
光ではなく、時間そのものが見えるような静けさ。
重力の軛を離れ、ただ漂う。
「宇宙って、冷たいけど、なんか優しいな」
海斗が寝ぼけたように呟く。
「優しいんじゃなくて、興味がないだけだ」戸来が答える。
その声は穏やかで、どこか安堵の色を含んでいた。
「どっちでもいいっす。春海さん、生きてるなら」
海斗の言葉に、佐渡がふっと笑う。
「帰ったら、また怒られるやろな。“無茶ばっかりして”て」
「でも、その“無茶”が命を繋いだ」戸来が言う。
船内の照明が安定し、機器の音が一定のリズムを刻む。
彼らの呼吸が、そのリズムとゆっくり重なっていく。
嵐の残響が、ようやく遠ざかった。
誰も言葉を発さない時間が流れた。
その沈黙の中で、三人とも心のどこかに“地球”を思い浮かべていた。
帰れる保証など何もない。
それでも、「帰る」という言葉だけが、まだ彼らを動かしていた。
やがて、海斗がパネルを見上げて言った。
「船長、航行データ安定しました。軌道修正、完了です」
戸来は頷く。
彼の視界に、青白い光が映った。
それはモニターに映し出された軌道線──
月の引力圏へと向かう一本の細い線だった。
モニターに月の軌道が現れる。
通信範囲にPR圏が入った。
ノイズの海の向こうで、かすかに人工音声が混じる。
最初はただの電波の唸りにしか聞こえなかったが、次第に形を成した。
──〈春海氏、胎児共に安定。母体回復期〉
その一文が届いた瞬間、船内の時間が止まった。
音が、風が、呼吸すらも、一拍遅れて動く。
佐渡はゆっくりと目を閉じ、背もたれに頭を預けた。
胸の奥に、今まで抑え込んでいたものが溶け出していく。
恐怖も、怒りも、後悔も、すべてが静かに崩れて、ただ一つの感情に置き換わった。
──生きていてくれた。
「帰るんやな、ほんまに」
呟きは息と混じって、微かに震えた。
戸来はポケットから小瓶を取り出した。
透明な容器の中で、火星の赤い砂が微かに揺れている。
「思い出は重いけど、これは持って帰る」
その言葉には、軽い冗談のような響きがあったが、瞳の奥は深く沈んでいた。
佐渡が笑う。
「宇宙船の荷物には似合わんな」
「でも、また行くときに思い出せる」
戸来は瓶を指先で転がし、光を反射させた。
その赤が、まるで心臓の鼓動のようにゆっくり脈打っている。
〈ハナミズキ〉の航跡が、ゆっくりと月の引力圏に入った。
外の星々がわずかに歪み、計器がそれを知らせる。
重力のわずかな変化が、彼らの身体に“帰還”の現実を伝えていた。
海斗は通信パネルを覗き込みながら、息を弾ませた。
「もうすぐです……もうすぐ地球圏っすよ」
その声には、少年のような期待と、長い夜を抜けた安堵が混じっていた。
戸来は操縦桿を軽く引き、航路を再調整する。
古い装置の動作音が、かすかに船内に響く。
それが、まるで心臓の鼓動のように一定のリズムを刻んでいた。
窓の向こうに、月の輪郭が見えてきた。
灰色の球体が、光を受けて静かに輝く。
その表面には無数のクレーターがあり、まるで古い記憶の痕のようだった。
彼らが向かうのは、戦いでも、任務でもない。
ただ、“帰る”ということ。
その単純な行為が、これほどまでに重く感じられたのは初めてだった。
船内の照明が一段落ち、視界が暗くなる。
代わりに、前方のスクリーンに新しい光が映った。
青く、丸く、そして眩しい。
モニターに青い星が見える。
地球。
佐渡はその光を見つめ、ぽつりと呟いた。
「春海、見とるか……」
その声は、誰にも届かない。
だが、誰にも届かないからこそ、真実だった。
通信ではなく、祈りでもなく──
それは、宇宙に溶けるための言葉だった。
静寂の中で、船の外殻が小さく軋む。
その音が、遠い心臓の鼓動のように響く。
火星の砂をまだ握ったままの掌が、わずかに震えていた。
佐渡はそれを見つめ、ただ目を閉じた。
──〈こちら月第七ドック、入港許可発行。ドッキングベイ七番を使用〉
通信が割れるように響いた瞬間、海斗が跳ね上がった。
「入港許可、きたっす! 本当に通った!」
歓声が弾け、佐渡が天を仰いで笑う。
その笑いには、涙が混じっていた。
戸来は操縦桿を握り直し、静かに息を吸った。
「了解、ドック七番。〈ハナミズキ〉、帰還する」
その一言が、船内のすべてを締めくくった。
スラスターが微かに火を噴き、船体がゆっくりと減速する。
人工重力の波が揺れ、身体がふわりと前に浮いた。
外壁を滑る金属音。
係留アームが船体を捉える音。
──ドッキング完了。
わずかな振動ののち、静寂が訪れた。
宇宙に、音が戻ってこない。
ただ、呼吸と鼓動だけが、確かに生きている。
戸来は手のひらを見た。
そこにはまだ、赤い粉がついていた。
ハッチ操作のときに付いた火星の砂。
指の隙間に入り込み、取れない。
彼はそれを払おうとして、やめた。
もう少し、このままでいいと思った。
海斗は座席の隙間で、ぎゅっと拳を握り、静かにガッツポーズを取った。
声を出せば涙がこぼれそうで、代わりに息を吐いた。
佐渡は深く息を吸い込み、長く、長く吐いた。
その吐息が、まるで何かを見送るように響いた。
船内の照明が落ち、外の青白い光が差し込む。
その光が三人の顔を淡く照らし、影を長く伸ばす。
無音の世界で、彼らの存在だけが確かにそこにあった。
戸来はもう一度、窓の外を見た。
遠く、火星が赤い点になって揺れている。
あの星の灰の下で、まだ誰かが息をしている。
生き延びる者も、名を失う者も、皆、同じ空を見ていた。
そう思うと、少しだけ胸が軽くなった。
「……宇宙は、見てるんだな」
誰に言うでもなく呟いた。
その声は小さく、しかし確かに、静寂の中に溶けていった。
〈ハナミズキ〉は、月の光の中にゆっくりと吸い込まれていった。
その航跡は、まるで一本の細い糸のように──
火星と月と、そして“生きる”という言葉を繋いでいた。




