エピソード7、砂に消える名前
宿舎へ戻る途中、海斗がふと思い出したように言った。
「船長、日本基地に保護頼めません? 地球人なんだし」
戸来が首を振った。
「この状況はあっちでも把握してるはず、日本基地への荷物積んでたんだからな。今まで、何のリアクションも無いのは──」
「おそらくそーゆうこっちゃろな……」
「そういう事って?」
「日本は資材を無事受け取りたい。GAは事を表に出したない。PRも同じような事をやってるやろし、公表は避けたいちゅうこっちゃな」
戸来があとを引き継いだ。
「で、外交案件扱いになって、俺たち全員、書類の中で死ぬ」
「え? え? どういうことっすか」
「生きてても、“存在しないこと”にされる」
沈黙が落ちた。
火星の風が、遠くで低く唸っていた。
つなぎ止められていた息が、フツリと止まった。
翌朝、宿舎のドアがいきなり開いた。
係官が無表情で告げる。
「明日、三名を首都圏ブロックへ移送する」
「おいおい、いきなりやな。女子の部屋やったら、キャーの声と共にケロリン桶が飛んでるとこやで」
佐渡がベッドから声をかけた。
「それは風呂場限定」
戸来がそれにつっこむ。
「細かいことは言いな。雰囲気伝わったらええねん」
「伝えることだけ言って、出ていったぞ。雰囲気すら伝わってない」
「ちっ、エンドロール観てから席たてちゅうねん」
海斗が呟く。「移送って……尋問の本番ってことっすね」
戸来は即座に悟った。
──これは、“消される”順番だ。
「たぶん移送中に事故が起こる」
「間違いないやろな」
「それって……」
海斗の声が震えた。言葉の続きを口にすることが怖かった。
部屋の空気が、急に冷たくなったように感じた。
酸素循環の音だけが一定のリズムで鳴っている。まるで、誰かの心拍のように。
佐渡がゆっくりと立ち上がり、カーテンを引いた。
窓の外では、赤い砂嵐が遠くの照明をぼやかしている。
基地の外壁を叩く細かい粒が、まるで無数の指で「ここにいるぞ」と囁いているようだった。
「……このままやと、俺らは“データ上で死亡”や。遺体も出えへん。家族にも知らせはいかん」
佐渡の声はいつになく低い。
「死体が無い死。書類の中で死ぬいうのは、そういうこっちゃ」
海斗は唇を噛んだ。
「じゃあ、どうすれば……」
「逃げるしかない」戸来が答えた。
その言葉は、重く、しかし迷いがなかった。
その夜、三人は言葉少なに準備を進めた。
古びた工具箱を開け、最低限の機材を詰める。
携行食、酸素ボンベ、外部通信妨害用の小型デバイス。
どれも使い古され、いつ壊れてもおかしくない。
だが、それでも「無いよりマシ」だった。
海斗が懐中ライトで机の上を照らす。
「本当に、明日出るんすか」
「明日以外に日はない」戸来が静かに言う。
「動くなら、“彼ら”の手が回る前や」
佐渡は手のひらで古い紙地図を叩いた。
「ポートまでのルート、今のAI監視網やと、昼は無理や。夜に抜ける。列車使う」
「列車、止められませんか」
「止められたら、そこで終わりや」佐渡が笑った。
その笑いは軽い冗談のようで、実際は重い決意の裏返しだった。
外壁の気圧警告が、微かに鳴った。
遠くの格納区画で、誰かが機械を整備している音が響く。
その音が、奇妙に心を落ち着かせた。
戸来が短く呟く。
「ここで死ぬくらいなら、空の下で死んだ方がマシだ」
「せやな」佐渡が頷いた。
「宇宙に散るんは怖くない。帳簿に“削除済み”って残る方が、よっぽど怖いわ」
そのとき、停電が一瞬起きた。
照明が一秒ほど落ち、闇の中で三人の顔が青白く浮かぶ。
すぐに非常電源が戻る。
短い暗闇の間に、三人はそれぞれの覚悟を決めていた。
戸来が時計を見る。
「……二十時間後に発車するシャトル列車がある。積み荷は無人扱いや」
「じゃあ、俺らも無人ってことで」海斗が笑う。
誰も笑い返さなかったが、その言葉だけは、確かに勇気をくれた。
火星の夜は長い。
外は風が止み、基地の外灯が砂にぼんやりと埋もれている。
誰もいない通路を、換気音だけが流れていく。
明日になれば、すべてが変わる。
あるいは、何も変わらず終わる。
それでも、彼らは進むしかなかった。
翌夜。
ポート外縁の貨物線をシャトル列車が走る。赤い砂を巻き上げながら、静かなリズムで進んでいく。
三人は荷物コンテナの陰に身を潜めて乗り込んだ。
「いやぁ、奇跡的にここまで来れたっすね」
「奇跡にも理由があるものさ」
戸来の脳裏に、あの女性士官の顔が浮かんだ。
列車の車体は揺れ、低重力のせいで少し浮く感覚がある。
「まるで夢の中っすね」海斗が囁く。
「夢なら醒めんでええ」佐渡が返す。
半分ほど進んだところで、警報が鳴った。
「検問区画接近」
AI音声が冷たく響く。
「やば……! 俺フラグ立てたっすか?」海斗が息を呑む。
列車がブレーキをかける。外からライトの光。
複数のドローンが車体を走査している。
「降りるぞ」戸来が言った。
「ここで!?」
「止まりきらんうちに」
三人は外へ飛び出した。
重力が軽く、体がふわりと浮く。
砂嵐の中、呼吸が苦しい。
遠くでドローンが旋回を始めた。
三人は廃棄素材の影へ滑り込む。冷え切った金属の匂いが、スーツ越しにもわずかに鼻を刺した。
古い推進ノズル、破損した居住モジュールの外殻、焦げたケーブル──それらが風に削られ、赤い砂の中に半ば埋もれている。
無人の墓標のようだった。
上空をドローンがかすめるたび、薄い砂の層が舞い上がり、三人の顔面シールドをざらつかせる。
息を潜めたまま、誰も動かない。
AIの検知光が一瞬、金属片を照らした。白い光が三人の影を浮かび上がらせ、そして通り過ぎる。
風が止んだ。静寂。心臓の音が、まるで環境音の一部のように響く。
「A-6ポートまでもう少しだがな……」
戸来の声は、ヘルメットの通信越しに低く震えていた。
「ドローン避けながら進みます?」海斗が小声で問う。
「この感じやったら、こっちからポートへの道は封鎖されとるやろな」佐渡が唸る。
遠くの空に、うっすらと監視塔のライトが見えた。そこを通れば確実に捕まる。
「やばいっすね。どうします」
海斗の呼吸が早くなる。
この砂の中で死ぬか、それとも、無謀な一手を打つか。選択肢はいつもその二択だった。
「昨日の朝な。取り調べ担当のねーちゃんから渡されたもんあるんやけど。信用してええのかわからん」
佐渡が胸ポケットからメモを取り出す。
赤い砂に濡れて、紙の端が波打っていた。
そこには、『廃棄船改修試験艇〈HANAMIZUKI〉。解体作業ポートD-4。近日、月へのテスト航行予定。燃料、航行用物資搬入済み』とだけ書かれていた。
風がまた吹き、紙がひらりと揺れる。
沈黙。
「廃棄改修試験艇って……」海斗が呟く。
「たぶん、宙族艤装用やろ」佐渡が答える。
「それって、あやしさ盛りだくさんっすね」
海斗は笑おうとしたが、喉が乾いて声にならない。
「それで逃げ出したら、宙族として宇宙に花火咲かして終わりちゅう寸法やろな」佐渡が苦く笑う。
笑い声はすぐ風に攫われ、静寂に戻る。
「あの士官、信用できそうな気がする」戸来がぽつりと言う。
「美人やったからな」
「あー確かに美人っだったすね」
軽口に救われるように、三人の空気がわずかに緩んだ。
けれど戸来の目は真剣だった。
「いやそうじゃなくて、俺と同じものを抱えてる気がしてね」
沈黙が、また落ちる。
遠くの地平で、小さな爆光が瞬いた。誰かの逃亡が、今、終わったのかもしれない。
「よっしゃ。考えててもしゃーない。そのねーちゃん信じよか。美人なら騙されても腹立たんし」佐渡が笑って肩をすくめる。
「腹立てる余裕なく逝っちゃいますよ」海斗が返す。
だが、声にはもう恐怖は混じっていなかった。
「地べたで死ぬより宇宙で死ぬ方が男らしいやろ」
「それ何理論っすか」
「浪花節や」
戸来が立ち上がる。
ヘルメット越しに見える瞳に、決意が宿っていた。
「D-4。幸いこの近くだな」
彼が指さす方向、薄赤い霧の向こうに、崩れかけた整備塔が見える。
その影が、まるで彼らを招くように揺れていた。
「ますますあやしいっすよ!?」
「決まったことに、ごちゃごちゃゆーな。いくで!」




