エピソード6、火星の灰の下
火星の空は、沈みかけの鉄みたいな色をしていた。
太陽が遠いせいで、明るいくせに寒い。
戸来はふと、地球の夕暮れを思い出そうとして──やめた。
ここには“黄昏”という言葉が似合わない。
あるのは、ただの“終わりかけ”だ。
〈ホシノナギサ〉が着陸したのは、GA──大亜細亜共栄連邦の第三外郭ポート。
名前だけ聞けば立派だが、実際は金属片の墓場に屋根をかぶせただけだった。
外壁は砂嵐で擦り切れ、内部は薄い酸素臭が漂う。
低重力のせいで歩くたびに身体が浮き、足音も頼りない。
降りてすぐ、三人は係官に囲まれた。
無表情な連中──灰色の制服、灰色の声。
「航路変更の理由を」
「宙族との接触記録は?」
「宙族以外の船影の目撃は?」
質問のどれもが“答えを求めていない”ことは明白だった。
佐渡は黙り、海斗は落ち着きなく目を泳がせる。
戸来だけが、内心でゆっくり息を吐いた。
── これは尋問じゃない。“確認作業”だ。
“死ななかった奴が、死んだことになってる”ときの、あの儀式。
尋問が終わるころ、火星の太陽は沈みかけていた。
砂の匂いがする風が吹き抜けた。
それはどこか、錆びた血の匂いに似ていた。
「感じ悪ぅ」海斗が呟いた。
「感じが悪いのは、あっちも同じだ」戸来が答える。
「生きて帰ってきた顔してるのが気に入らんのさ」
佐渡は無言のまま歩き出した。
背中が、どこか小さく見えた。
宿舎と呼ばれる部屋は、鉄の箱に等しかった。
ベッドが三つ。テーブル一つ。
天井や壁に埋め込まれた監視カメラが、赤い点を光らせている。
海斗が周囲を見渡してぼやく。
「恋愛リアリティーショーみたいっす」
「男三人やけどな」佐渡が返す。
「誰得番組だな」戸来。
三人とも、笑い方を忘れていた。
佐渡はタブレットを睨んでいた。
通信制限がかかっていて、春海との接触は不可能。
「病状安定」とだけ短い報告が届いたきり、更新がない。
「船長」戸来が口を開く。
「焦っても仕方ない。ここじゃ全てログに残ります」
「わかっとる。でも焦るんや」
その“焦り”は、声よりも深かった。
海斗が指で机を叩く。
「俺たち、なんで疑われてるんすかね」
「簡単だ」戸来が言った。
「船長が……(マイク)宙族顔だからだろ(盗聴)」
言葉の途中で、口の動きで海斗の質問を制した。
「あ? あー、なるほどそれなら納得っす」
海斗はどこかぎごちなさが残った笑い顔を見せた。
「そう。人も国も外ズラは大事だ」
佐渡は立ち上がり、壁際に手をついた。
「……顔変えて出られるんやったら、アンパンにでも変えたるけどな」
「カレーパンの方が似合いそうっすね」
「春海のカレーは美味いからなぁ……」
そう言った船長の背中は、痛いほどまっすぐだった。
火星の日の出は20分ほど遅い。
翌朝。戸来は三番目に呼ばれた。
灰色の部屋。テーブルの上には小さな記録端末。
向かいに座るのはGAの情報士官──女だった。
髪をぴっちり結い、瞳は薄い琥珀色。
名前は名乗らない。
「戸来……訓練学校出身だそうですね」
「ええ」
「かつて宇宙作業アルバイトで事故に遭ったとか」
唐突な言葉に、背中の筋肉が固まる。
「……ご存知だったんですか」
「ええ。デブリの傷をデブリで修復。皮肉が効いてると思って、覚えていたの。私的にはね」
女は笑わないまま、ゆっくり言葉を続けた。
「公的にはあなたは、生き残りです。つまり……“観察対象”」
“観察対象”という言葉が、じっと皮膚に刺さった。
「今回の件も、あなたが“見た”と証言すれば、報告書は重くなります」
「見たかどうか、聞いてるんですか?」
「そうです」
茶番だ、と戸来は思った。見たかどうかより、「見た」と言うか言わないかの確認。
「……宙族の船が二隻。それ以外はなにも」
「レーダーに他の船影は?」
「映ってません」
「宙族だけ?」
「だけです。レーダーに映っていたのなら、記録が残るはずですが?」
沈黙。
女の指がテーブルを三度、軽く叩く。
音が異様に大きく響いた。
「素直ですね」
「慎重なだけです」
「いずれにせよ、あなた方の“安全のため”に、しばらくここに滞在してもらいます」
「安全のため、ね」
「何か?」
「いいえ。そういう言葉ほど、危険なことが多いなと思って」
女の口角が、わずかに動いた。
「興味深い人ですね」
「興味があるなら、ASKsの交換でもします?」
「いえ。地球に恋人を待たせていますので」
「それは残念」
「やはりあなたは生き延びるタイプですね」
その言葉を聞いた瞬間、戸来は悟った。
──この人も、誰かを“見逃した”ことがある。
取り調べが終わり、宿舎に戻ると、佐渡と海斗が待っていた。
宿舎に戻ると、海斗が問うた。
「どうでした?」
「“安全のために滞在を延長”だそうだ」
「それ、監禁って言葉の新訳っすね」
「たぶんな」
佐渡は黙って座っていた。
顔色が悪い。
春海の名を口に出すことすらできないほど疲弊していた。
三日目の夜。
風が強く、宿舎の壁が微かに鳴った。
「……もう待てません」海斗が言った。
「春海さんの状態、確認しないと」
戸来は息を吸い、吐いた。
「通信塔か? 見つかったら終わりだ」
「見つからなきゃいいっす」
佐渡が顔を上げた。
「やるなら今夜や。交代の時間、二十二時二十分」
「船長まで!」海斗が笑う。
「見てられん。もう誰かが動かんと、火星の空気に腐らされる」
外出許可のない夜道を、三人は抜け出した。
貨物ヤードの奥、旧通信塔。
廃棄された端末がまだ動く。
ノイズの中に、かすかな音声が混ざった。
──〈こちら月第七ドック・医療棟〉
「春海……!」佐渡が叫びそうになったのを、戸来が押さえる。
『佐渡春海氏、意識回復。胎児心拍安定。現在集中管理下。経過良好』
短い、冷たい報告。
だがその一文だけで、佐渡の肩が崩れ落ちた。
「生きとる……ほんまに……」
涙は出なかった。
そのかわりに、
佐渡の胸の奥で何かが、固い結び目を解くように緩んだ。
長い呼吸が漏れた。
『ただし、外部通信制限継続。直接連絡は不可』
通信が切れた。
海斗が拳を握る。
「切られたっす」
「上等や」佐渡が言った。
「生きとるだけで、充分や」
風の音が遠くで鳴った。
火星の夜は冷たいが、その瞬間だけ、少し温かかった。
戸来は空を見上げた。
黒と赤の境目に、微かな青い点。
地球──
それとも、〈ユリカゴ〉の燃え残りか。
──何にせよ、まだ生きてる。
その事実だけが、彼らの息をつなぎ止めていた。




