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ユリカゴから宙へ ──漂う星々の記憶──  作者: 真野真名


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6/10

エピソード0、ササメユキの光 ─ 佐渡銀造、二十五歳の軌道 ─



 地球の空港は、宇宙に行く場所にしてはずいぶん埃っぽい。


 朝焼けの光が薄く煙った格納庫を抜け、佐渡銀造は一歩外に出た。溶接の匂いと、焦げた金属の匂いが混ざりあっている。そんな空気を胸いっぱい吸いこむと、少しだけ安心する。


 働いている証拠の匂いだからだ。


 この日、彼は整備士としていつも通り出勤するはずだった。昼までに二号棟の搬送ベイを点検し、午後は久しぶりに地上の友人と飲む約束をしていた。

 だが、予定というのは大抵、予定の形をしてやってこない。


「銀造、頼む、乗ってくれ」


 振り向くと、森真之が立っていた。船長服の袖をまくり上げ、顔はすっかり夜通し働いた人間の色をしている。


「操舵手が間に合わない。多田が地球便の点検で足止めくらった。代わりに、お前に乗ってほしいんだ」


「俺、整備ですよ」

「知ってる。だが、操縦系の資格は持ってるだろ」


 確かに、そうだった。学生のころ、勢いで取っただけの資格。使う機会などもうないと思っていた。

 森はさらに言った。


「お前しかいない。頼む。今日中に出ないと、月のプラットホームが閉じる」


 そのときの森の顔を、佐渡は後になって何度も思い出す。

 あれは、責任者の顔じゃなかった。誰かを守ろうとする男の顔だった。


「……わかりました。臨時で、ですけど」


 そう答えると、森はほっとしたように笑った。

「恩に着る。春海が聞いたら喜ぶぞ」


 船長の娘、春海。当時八歳。前の週に家族で整備港を見学に来ていた。

 人懐こい子で、彼女は佐渡の手を引っ張って「おとうさんの船、つよい?」と尋ねた。


「弱いけど、やさしい船やな」と、冗談まじりに返したのを覚えている。


 ──あの笑顔だけが、今もはっきり思い出せる。




 出発前のブリーフィングは短かった。

 本来〈ササメユキ〉の任務は軌道プラットホームから月基地への定期輸送。だが急遽、地球発進に変更された。

 理由の説明はない。指令だけが届いた。


「軌道上の二隻は予定通り発進済み。こちらは地上から合流せよ。積荷は食料、医療資材、工業部材。量は少ないが緊急指定だ」


 管制官の声は平板だったが、どこか急いていた。

 森は端末を閉じながらぼそりと言った。


「理由を聞いても答えは同じだろうな」

「“機密指定”ですか」佐渡が問う。

「そう。いつもそうだ。上の連中は、命より印鑑のほうが重い」


 横で聞いていた灰原士郎機関士が、タオルで手を拭きながら笑った。

「だから俺たちの仕事があるんだろ。死ぬまで現場だ」


 軽口のようで、少し寂しい言葉だった。

 灰原は三十を越えていたが、どこか少年ぽさが残る男だった。


「銀造、操舵は任せたぞ。お前のほうが勘がいい」

「やめてくださいよ。初操舵なんですから」


 そんなやりとりをしているうちに、船体が静かに浮き上がる。

 〈ササメユキ〉は旧式の地上発進型。音は重く、振動は多い。だが丈夫だ。

 森はそれを「古い犬みたいな船だ」と言っていた。吠える声はうるさいが、いざというとき噛まない。


 外を見ると、地球の海が遠ざかっていく。

 青と灰の境界が、ゆっくりとほどけていく。


 森が呟いた。

「……あの子に、青い空を見せてやれなかったな」


 誰にも聞かせるつもりのない声だった。




 地球を離れてから、十二時間。

 順調すぎる航路だった。灰原が缶コーヒーを差し出しながら言う。


「静かすぎるってのも、逆に不安だね」

「同感ですわ」と佐渡。

 森はモニターを睨んだまま動かない。


 そのとき、通信がぷつりと途絶えた。

 僚船との回線が、同時に沈黙したのだ。


「管制との距離は?」

「維持できてます。僚船だけが……」


 モニターが白く瞬いた。

 光の尾。続いて、衝撃。

 デブリ群──それも自然な軌道ではない。

 弧を描いて突っ込んでくる。


「誘導されてる……誰かが、撃ってる!」灰原が叫ぶ。


 閃光が二度。

 先行する二隻の輸送船が、炎のように砕けた。

 破片が散り、無数の金属片が花のように広がる。


「通信、全断!」

「推進停止、冷却装置遮断。姿勢維持に移行!」


 森の声が響く。

 船体が震え、軋む音が響いた。


 数分後、すべてが終わっていた。

 レーダーには一隻の影だけが残る。


 滑らかな船体。民間船にはない反射。

 艦首には、“宙族”の紋章。


 だが、それはあまりにも整っていた。

 仮面のように整いすぎていた。


 森が低く呟いた。

「軍の船だな。……GA*あたりか」


「なんで宙族のフリを?」佐渡が問う。

「事故に見せかけたい。開発競争を止めるには、事故が一番手っ取り早い」


 森の声が乾いていた。

 その間にも、レーダーの影は遠ざかっていく。

 彼らは“目撃された”ことに、気づいていない。


 〈ササメユキ〉はその日、奇跡的にリストから漏れていた。

 地上発進のため、攻撃対象の名簿に入っていなかったのだ。


 ──助かった。

 だが、それがどういう意味を持つのか、そのときはまだ誰も知らなかった。



 地球に戻ったとき、空は見慣れた灰色だった。

 空気は湿っていて、港の金属壁が汗をかいていた。

 〈ササメユキ〉の外板には、デブリが掠めた跡が無数についている。まるで老犬の顔の皺のようだった。


「報告書、どうします?」

灰原がコーヒーをすすりながら尋ねた。

 森はしばらく無言で、指先でマグカップの縁をなぞっていた。


「……“事故”でいい」

「でも、見たんですよね。軍の船を」

「見た。けど書かない。書いた瞬間に、俺たちは“いなかった”ことになる」


 佐渡は息を呑んだ。

 森の目には、恐怖よりも“確信”があった。


「灰原、多田にもそう伝えてくれ。報告は統一だ」

「了解。でも、あんた、本気で黙るつもりですか」

「本気で生きるつもりだよ」


 灰原は苦笑し、缶を潰した。

「了解。じゃあ、俺も生きたいんで黙ります」


 報告書には、こう記された。

 ──“僚船二隻、微小デブリ衝突による爆発。交信途絶。原因調査中。”


 淡々とした文。だが、その文にすべての嘘と恐怖が詰まっていた。


 報告を終えた夜、佐渡は宿舎で眠れなかった。

 窓の外に、まだ宇宙の黒が張りついているように見えた。

 森船長の部屋の明かりは一晩中消えなかった。



 三日後。

 ニュースに二つの名前が並んだ。


 多田健四郎、灰原士郎。

 “交通事故死”。


 奇妙な偶然にしては、出来すぎている。

 しかも同日、同時間帯。

「そらないやろ……」

 佐渡は呟いたが、誰にも聞かせる相手はいなかった。


 夕方、森が港の片隅で煙草を吸っていた。

 風が弱く、煙がすぐ自分の顔に戻ってきた。

「銀造」

「はい」


「これで、終わった」


 森の手には、封の開いていない公文書が握られていた。

 表には「死亡証明書交付予定」とある。

 差出人欄は空白だった。


「何ですか、それ」

「俺のだよ。まだ死んでないのにな」


 冗談みたいに言って、煙を吐いた。

 その笑い方が、妙に優しかった。


「なあ銀造」

「はい」


「もし俺に何かあったら、春海を頼む。あの子には、何も背負わせたくない」


「……いやですよ、縁起でもない」

「頼む。お前は乗員名簿に載ってない」


 その声が、やけに静かだった。

 何かが決まってしまった人間の声だった。




 翌朝、森船長は姿を消した。

 整備士たちが騒ぎ始める頃には、〈ササメユキ〉の発進記録が残っていた。


 目的地は“点検航路”。

 出発時間は夜明け前。


 佐渡の端末に、短い通信が入ったのはそれから数時間後だった。


 ──『銀造。春海を頼む』

 ──『この船は、もう戻れん。』


 ノイズの向こうで、森の声が微かに笑った。

『人間ってのはな、知らなきゃ幸せでいられたことを、つい覗いちまう。だから俺は、見なかったことにして飛ぶよ』


 通信はそれきり、切れた。

 それが、森真之の最後の言葉になった。


 〈ササメユキ〉は二度と発見されなかった。

 軌道データは途中で消え、残骸も見つからない。


 ただ、月の裏側で一度だけ、古い推進反応が観測されたという記録が残っている。



 春海は母方の実家に預けられた。

 夜になると窓辺で、空を見上げていた。

 「おとうさん、まだお月さまのとこ?」

 佐渡は、その問いにいつも同じように答えた。

 「きっと、帰り道が混んでるんや」


 そのたびに、春海はくすっと笑った。

 その笑い声が、森の笑い方に似ていた。


 港の仲間たちは、佐渡を“寡黙な整備屋”と呼んだ。


 必要以上のことは言わない。だが、困った時は必ず手を貸す。


 酒を飲むと笑いすぎる癖がついたのも、この頃からだった。

 「笑っとかんと、宇宙が黙りすぎるよってな」

 そう言って、グラスをあおった。


 月の光がカウンターに差し込み、酒の表面を照らす。

 そこに、白い船体の残像が浮かぶ気がした。



 年月が過ぎ、春海は成長した。

 やがて佐渡の傍らで航法を学び、通信士になった。

 彼女は父の話をほとんどしなかった。

 ただ一度だけ、酒に酔った夜、ぽつりと言った。


 「お父さん、どんな人だった?」

 佐渡は少し考えてから答えた。

 「弱かった。でも、優しい人やったよ」

 「銀さんに似てるね」

 「そら困ったなぁ」


 春海が笑った。

 その笑顔の奥に、青い地球の光が映っていた。


 夜空に、ひとつ流星が走った。

 それは、かつての僚船の破片かもしれない。

 けれど佐渡には、それが森の“帰り道”に見えた。


 ──人は、消えるたびに空をきれいにする。


 彼はそう呟き、グラスを傾けた。

 月の裏では、今も小さな推進反応が続いているという。

 誰も知らない、静かな軌道。

 〈ササメユキ〉の光が、ほんの少しだけ瞬いた。


 佐渡銀造は、その光を見上げながら笑った。

「なあ、船長。約束、守ってますよ」


 その声は、静かな宇宙に吸いこまれていった。



*GAー大亜細亜共栄連邦

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