エピソード0、ササメユキの光 ─ 佐渡銀造、二十五歳の軌道 ─
地球の空港は、宇宙に行く場所にしてはずいぶん埃っぽい。
朝焼けの光が薄く煙った格納庫を抜け、佐渡銀造は一歩外に出た。溶接の匂いと、焦げた金属の匂いが混ざりあっている。そんな空気を胸いっぱい吸いこむと、少しだけ安心する。
働いている証拠の匂いだからだ。
この日、彼は整備士としていつも通り出勤するはずだった。昼までに二号棟の搬送ベイを点検し、午後は久しぶりに地上の友人と飲む約束をしていた。
だが、予定というのは大抵、予定の形をしてやってこない。
「銀造、頼む、乗ってくれ」
振り向くと、森真之が立っていた。船長服の袖をまくり上げ、顔はすっかり夜通し働いた人間の色をしている。
「操舵手が間に合わない。多田が地球便の点検で足止めくらった。代わりに、お前に乗ってほしいんだ」
「俺、整備ですよ」
「知ってる。だが、操縦系の資格は持ってるだろ」
確かに、そうだった。学生のころ、勢いで取っただけの資格。使う機会などもうないと思っていた。
森はさらに言った。
「お前しかいない。頼む。今日中に出ないと、月のプラットホームが閉じる」
そのときの森の顔を、佐渡は後になって何度も思い出す。
あれは、責任者の顔じゃなかった。誰かを守ろうとする男の顔だった。
「……わかりました。臨時で、ですけど」
そう答えると、森はほっとしたように笑った。
「恩に着る。春海が聞いたら喜ぶぞ」
船長の娘、春海。当時八歳。前の週に家族で整備港を見学に来ていた。
人懐こい子で、彼女は佐渡の手を引っ張って「おとうさんの船、つよい?」と尋ねた。
「弱いけど、やさしい船やな」と、冗談まじりに返したのを覚えている。
──あの笑顔だけが、今もはっきり思い出せる。
出発前のブリーフィングは短かった。
本来〈ササメユキ〉の任務は軌道プラットホームから月基地への定期輸送。だが急遽、地球発進に変更された。
理由の説明はない。指令だけが届いた。
「軌道上の二隻は予定通り発進済み。こちらは地上から合流せよ。積荷は食料、医療資材、工業部材。量は少ないが緊急指定だ」
管制官の声は平板だったが、どこか急いていた。
森は端末を閉じながらぼそりと言った。
「理由を聞いても答えは同じだろうな」
「“機密指定”ですか」佐渡が問う。
「そう。いつもそうだ。上の連中は、命より印鑑のほうが重い」
横で聞いていた灰原士郎機関士が、タオルで手を拭きながら笑った。
「だから俺たちの仕事があるんだろ。死ぬまで現場だ」
軽口のようで、少し寂しい言葉だった。
灰原は三十を越えていたが、どこか少年ぽさが残る男だった。
「銀造、操舵は任せたぞ。お前のほうが勘がいい」
「やめてくださいよ。初操舵なんですから」
そんなやりとりをしているうちに、船体が静かに浮き上がる。
〈ササメユキ〉は旧式の地上発進型。音は重く、振動は多い。だが丈夫だ。
森はそれを「古い犬みたいな船だ」と言っていた。吠える声はうるさいが、いざというとき噛まない。
外を見ると、地球の海が遠ざかっていく。
青と灰の境界が、ゆっくりとほどけていく。
森が呟いた。
「……あの子に、青い空を見せてやれなかったな」
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
地球を離れてから、十二時間。
順調すぎる航路だった。灰原が缶コーヒーを差し出しながら言う。
「静かすぎるってのも、逆に不安だね」
「同感ですわ」と佐渡。
森はモニターを睨んだまま動かない。
そのとき、通信がぷつりと途絶えた。
僚船との回線が、同時に沈黙したのだ。
「管制との距離は?」
「維持できてます。僚船だけが……」
モニターが白く瞬いた。
光の尾。続いて、衝撃。
デブリ群──それも自然な軌道ではない。
弧を描いて突っ込んでくる。
「誘導されてる……誰かが、撃ってる!」灰原が叫ぶ。
閃光が二度。
先行する二隻の輸送船が、炎のように砕けた。
破片が散り、無数の金属片が花のように広がる。
「通信、全断!」
「推進停止、冷却装置遮断。姿勢維持に移行!」
森の声が響く。
船体が震え、軋む音が響いた。
数分後、すべてが終わっていた。
レーダーには一隻の影だけが残る。
滑らかな船体。民間船にはない反射。
艦首には、“宙族”の紋章。
だが、それはあまりにも整っていた。
仮面のように整いすぎていた。
森が低く呟いた。
「軍の船だな。……GA*あたりか」
「なんで宙族のフリを?」佐渡が問う。
「事故に見せかけたい。開発競争を止めるには、事故が一番手っ取り早い」
森の声が乾いていた。
その間にも、レーダーの影は遠ざかっていく。
彼らは“目撃された”ことに、気づいていない。
〈ササメユキ〉はその日、奇跡的にリストから漏れていた。
地上発進のため、攻撃対象の名簿に入っていなかったのだ。
──助かった。
だが、それがどういう意味を持つのか、そのときはまだ誰も知らなかった。
地球に戻ったとき、空は見慣れた灰色だった。
空気は湿っていて、港の金属壁が汗をかいていた。
〈ササメユキ〉の外板には、デブリが掠めた跡が無数についている。まるで老犬の顔の皺のようだった。
「報告書、どうします?」
灰原がコーヒーをすすりながら尋ねた。
森はしばらく無言で、指先でマグカップの縁をなぞっていた。
「……“事故”でいい」
「でも、見たんですよね。軍の船を」
「見た。けど書かない。書いた瞬間に、俺たちは“いなかった”ことになる」
佐渡は息を呑んだ。
森の目には、恐怖よりも“確信”があった。
「灰原、多田にもそう伝えてくれ。報告は統一だ」
「了解。でも、あんた、本気で黙るつもりですか」
「本気で生きるつもりだよ」
灰原は苦笑し、缶を潰した。
「了解。じゃあ、俺も生きたいんで黙ります」
報告書には、こう記された。
──“僚船二隻、微小デブリ衝突による爆発。交信途絶。原因調査中。”
淡々とした文。だが、その文にすべての嘘と恐怖が詰まっていた。
報告を終えた夜、佐渡は宿舎で眠れなかった。
窓の外に、まだ宇宙の黒が張りついているように見えた。
森船長の部屋の明かりは一晩中消えなかった。
三日後。
ニュースに二つの名前が並んだ。
多田健四郎、灰原士郎。
“交通事故死”。
奇妙な偶然にしては、出来すぎている。
しかも同日、同時間帯。
「そらないやろ……」
佐渡は呟いたが、誰にも聞かせる相手はいなかった。
夕方、森が港の片隅で煙草を吸っていた。
風が弱く、煙がすぐ自分の顔に戻ってきた。
「銀造」
「はい」
「これで、終わった」
森の手には、封の開いていない公文書が握られていた。
表には「死亡証明書交付予定」とある。
差出人欄は空白だった。
「何ですか、それ」
「俺のだよ。まだ死んでないのにな」
冗談みたいに言って、煙を吐いた。
その笑い方が、妙に優しかった。
「なあ銀造」
「はい」
「もし俺に何かあったら、春海を頼む。あの子には、何も背負わせたくない」
「……いやですよ、縁起でもない」
「頼む。お前は乗員名簿に載ってない」
その声が、やけに静かだった。
何かが決まってしまった人間の声だった。
翌朝、森船長は姿を消した。
整備士たちが騒ぎ始める頃には、〈ササメユキ〉の発進記録が残っていた。
目的地は“点検航路”。
出発時間は夜明け前。
佐渡の端末に、短い通信が入ったのはそれから数時間後だった。
──『銀造。春海を頼む』
──『この船は、もう戻れん。』
ノイズの向こうで、森の声が微かに笑った。
『人間ってのはな、知らなきゃ幸せでいられたことを、つい覗いちまう。だから俺は、見なかったことにして飛ぶよ』
通信はそれきり、切れた。
それが、森真之の最後の言葉になった。
〈ササメユキ〉は二度と発見されなかった。
軌道データは途中で消え、残骸も見つからない。
ただ、月の裏側で一度だけ、古い推進反応が観測されたという記録が残っている。
春海は母方の実家に預けられた。
夜になると窓辺で、空を見上げていた。
「おとうさん、まだお月さまのとこ?」
佐渡は、その問いにいつも同じように答えた。
「きっと、帰り道が混んでるんや」
そのたびに、春海はくすっと笑った。
その笑い声が、森の笑い方に似ていた。
港の仲間たちは、佐渡を“寡黙な整備屋”と呼んだ。
必要以上のことは言わない。だが、困った時は必ず手を貸す。
酒を飲むと笑いすぎる癖がついたのも、この頃からだった。
「笑っとかんと、宇宙が黙りすぎるよってな」
そう言って、グラスをあおった。
月の光がカウンターに差し込み、酒の表面を照らす。
そこに、白い船体の残像が浮かぶ気がした。
年月が過ぎ、春海は成長した。
やがて佐渡の傍らで航法を学び、通信士になった。
彼女は父の話をほとんどしなかった。
ただ一度だけ、酒に酔った夜、ぽつりと言った。
「お父さん、どんな人だった?」
佐渡は少し考えてから答えた。
「弱かった。でも、優しい人やったよ」
「銀さんに似てるね」
「そら困ったなぁ」
春海が笑った。
その笑顔の奥に、青い地球の光が映っていた。
夜空に、ひとつ流星が走った。
それは、かつての僚船の破片かもしれない。
けれど佐渡には、それが森の“帰り道”に見えた。
──人は、消えるたびに空をきれいにする。
彼はそう呟き、グラスを傾けた。
月の裏では、今も小さな推進反応が続いているという。
誰も知らない、静かな軌道。
〈ササメユキ〉の光が、ほんの少しだけ瞬いた。
佐渡銀造は、その光を見上げながら笑った。
「なあ、船長。約束、守ってますよ」
その声は、静かな宇宙に吸いこまれていった。
*GAー大亜細亜共栄連邦




