エピソード4、赤い航路の途中で
宇宙の景色なんてものは、見飽きるほど単調だ。
星々が瞬く? ウソだ。
窓の外に見えるのは、静止した点の群れ。まるで、永遠に止まった花火だ。
そんな光の海を〈ホシノナギサ〉は音もなく進んでいた。
火星まで、残り七日。
予定より一日遅れている。微小デブリの修理で燃料を少し食ったせいだ。
佐渡船長は「まあ誤差や」と笑っていたが、船内の空気はどこか張りつめていた。
宇宙船の“遅れ”というのは、海の嵐よりも重い。
無限の真空の中で、ほんの少し何かがずれる。
そのわずかな誤差が積み重なって、やがて誰かの命をひっくり返す。
戸来はブリッジの端で、点検ログをチェックしていた。
計器はすべて正常。推進剤も安定。
だが──数値の安定ほど、不安を煽るものはない。
嵐の前ってのは、いつだって静かだ。
ふと、窓の向こうに青い光が尾を引いた。
流星か、デブリか。
どちらにせよ、美しいものは、たいてい危険だ。
火星航路には、もうひとつの危険がある。
宙族──“そらぞく”と呼ばれる連中だ。
略奪者というより、漂流者の成れの果て。
事故船や放棄船を漁り、物資や酸素タンクを剥いで生き延びる。
“盗む”というより“剥ぐ”という表現のほうが近い。
公式には「存在しない」。
各国とも「遭遇報告なし」で統一しているが、実際は八割の船乗りが一度は影を見ている。
中古船や小型艇にとっては他人事ではない。
中には軍船を改造した“宙族船”の噂もあるが、それは──宙伝説の類いだ。
コンソールのランプが点滅した。
「海斗、通信衛星の再捕捉、まだか?」
「今やってます! 微妙にズレてるんすよ。重力波の影響っすね」
「波って言っても、海じゃねぇんだから」
「でも、似てません? ゆっくり揺れてる感じ」
「お前、詩人か」
「戸来さんが言いましたよ、“昨日の話を今日聞いて、明日の惑星に行く”って」
「忘れろ。寝不足のせいだ」
海斗は笑って肩をすくめ、端末を叩いた。
その明るさが、船の照明よりも頼もしい。
戸来は彼を見ながら、ふと昔の自分を思い出す。
〈ユリカゴ〉に乗っていた頃、棚田もあんなふうに笑っていた。
あの時も、最初の二日間は何も起こらなかった。
三日目に“アレ”が視界に入るまでは。
食事の時間。
メニューは相変わらず、再構成タンパクの煮込み。
味は悪くない。香りもある。ただ、歯ごたえがない。
佐渡はカップをかき混ぜながら、ぽつりと呟く。
「昔、月でこんな飯が出たら、贅沢やったけどな」
「今は民間でも出せますからね」
「便利っちゅうのは、あっという間に“普通”になるんやな」
「その代わり、普通が壊れるのも早いです」
戸来が言うと、佐渡は眉を上げた。
「お前、たまにええこと言うやん」
「たまに、ですよ」
船長は笑い、マグを掲げる。
「じゃ、たまの哲学者に乾杯や」
「乾杯っす!」と海斗。
無重力下で浮かぶ泡が、ゆっくり宙に溶けていく。
話題は月面時代へと移った。
佐渡は二十年前、民間輸送の黎明期から船に乗っている古株だ。
月は当時から、国家でも企業でもなく、“雑多な人間の集まり”でできていた。
アメリカ人の隣にロシア人、その隣に中国人。
そのまた隣で、日本人がたこ焼きを焼いていた。
「隣国」って概念が、月では家のドア一枚分だった。
「火星もいずれ、そうなるんすかね」
海斗の問いに、佐渡は少し考えてから言った。
「どうやろな。地球に近い分、まだ“国”の影が濃い。けど、いずれ混ざる。空気みたいにな」
「空気、ね」
「せや。空気は所有できんやろ。吸った瞬間、もう誰のもんでもなくなる」
佐渡は笑い、コーヒーを口にした。
それからの航程は、穏やかだった。
推進剤の配分も安定。船体温度も良好。
──ただ、静かすぎる。
あまりに静かなのは、宇宙では吉兆じゃない。
その夜、戸来は眠れなかった。
照明が落ち、仮想の夜が訪れる。
寝袋の中で目を閉じても、頭の中はエンジン音と一緒に回転していた。
ふと、通信モニタのランプが点滅した。
自動航路監視装置が、微弱な信号を拾っている。
識別コード不明。船籍不明。発信源、進路の斜め前方。
戸来はモニタを操作し、航行データを拡大する。
信号は十年以上前の民間ビーコン形式。
だが、波形の揺れ方が違う。
“助けを求めている”のではなく、“助けを装っている”。
「……いやな感じだな」
思わず口に出した。
その声に、カーテンの向こうで気配が動く。
「どうした、戸来」
佐渡が目をこすりながら顔を出した。
「微弱信号。古い型のビーコンです。航路上に」
「距離は?」
「四千キロ先」
「波形、見せてみ」
佐渡はデータをひと目見て、短く息をつく。
「……宙族やな」
その声は、驚きでも恐怖でもなく、あきらめに近かった。
海斗が寝癖のまま顔を出す。
「なんすか……トラブル?」
「いや、“お客さん”や」
「え、マジっすか!?」
「声のトーン下げろ。まだ遠い」
佐渡は通信を遮断し、静かに言った。
「まだ判断は早い。こっちの推進痕を見つかる距離でもない」
静寂。船体が微かに軋む。
エンジンの鼓動が、いつもより速く感じた。
心臓と同じリズムで。
「海斗、スキャナ精度上げとけ。ノイズ除去を最大に」
「了解……でも、宙族ってほんとにいるんすか?」
「おる。けど、“生きてる”かどうかは知らん。幽霊船みたいなもんや」
「幽霊っすか……」
「襲う理由がある。あいつら、生き延びたいだけや。だから、ややこしい」
戸来は頷いた。
“生き延びたいだけ”──それは宙族だけの話じゃない。
彼自身も、ずっとそれだけで生きてきた。
生き延びるために、誰かを置き去りにして。
波形が少しずつ変化していく。
まるでこちらの反応を試すように。
「船長、ビーコン信号、消えました」
「消えた?」
「はい。完全に。痕跡も消されています」
佐渡は短くうなずいた。
「動いとるな。隠れたか、回り込んだかや」
海斗が息を呑む。
「どうするんすか」
「何もせん。騒ぐとバレる。お前ら寝とけ。見張りは俺と戸来で回す」
海斗は不安げに頷き、カーテンの向こうへ消えた。
佐渡は照明をさらに落とす。
「アレが普通の宙族やったら、まだええんやけどな……」
「普通の?」
「戸来も聞いたことあるやろ。軍船の話」
「子供相手の与太話でしょ?」
「いや、ほんまや。十年ほど前、会うたことある。月航路でな。まあ“会うた”っちゅうより“見かけた”やけど」
「月航路って……ほんとに改造軍船だったんですか?」
「現役や。現役バリバリの新鋭船やった」
「それって……」
「そういうこっちゃろな」
宇宙開発という名の、足の引っ張り合い。
「もし“それ”やったら、逃げるぞ。戦う気はない。ちゅうか、戦えん」
「了解です」
「けど……」
「けど?」
「宙族であろうと、なんであろうと。生きてる限り“人間”や。撃つときは、ちゃんと迷え」
──迷え。
それは、命令というより、祈りのように聞こえた。
戸来はモニタの奥、黒い闇の一点を見つめる。
そこに何がいるのか、まだわからない。
ただ確かに、“誰か”が見ている。
船体がわずかに震えた。
外では、音のない風が吹いている。
──宙族が、そこにいる。




