エピソード37、重なりの向こう側
そこは、認識の限界を超えた世界だった。
窓の外には、星も闇もなかった。
あるのは、流動する光の帯と、意味をなさない色彩の奔流だけ。
上も下もなく、時間すら前後不覚に陥る混沌の海。
〈ホシノナギサ〉はその激流の中を、木の葉のように翻弄されながら進んでいた。
「ぐっ……ううっ……!」
海斗が呻き声を上げる。
彼の感覚は機関部と直結していた。エンジンの過負荷、燃焼室の異常高温、外殻が削り取られていく痛みが、生身の肉体を苛む。
皮膚が焼けるような錯覚。骨がきしむ幻痛。
だが、彼はリンクを切らなかった。
切れば、機関制御が遅れ、船は分解する。
「耐えろ……耐えるんだ……俺が折れたら、ナギサが折れる!」
ココの視界には、現実ではないものが見えていた。
光の渦の中に、かつて失われた船の残骸が漂っている。
そして、そのコックピットに座る少年の姿。
──ナンバー6。
『こっちへおいで、7。ここは静かだよ』
通信機からではない。脳内に直接響く声。
過去の亡霊が、彼女を深淵へと手招きする。
操縦桿を握る手が震えた。そちらへ行けば、楽になれるかもしれない。実験の苦しみも、追われる恐怖もない世界へ。
「……行かない」
ココは歯を食いしばった。
「私は、進む。あんたの分まで、生きて進むって決めたの!」
彼女は亡霊を睨みつけた。
それは亡霊ではない。この空間に漂う残留データの断片が、彼女の記憶と共鳴して見せている幻影だ。
《ノイズ除去。最適航路を維持します》
ミナトの声が、冷水を浴びせるように意識を引き戻す。
ココの視界から幻影が消え、複雑な航路予測ラインが浮かび上がった。
戸来は、混沌の中で必死に「出口」を探していた。
NAG-13は、進むべき意志を求めている。
どこへ行きたいのか。
何をしたいのか。
明確なイメージだけが、この不確定な世界で「道」を固定する楔となる。
意識が溶けそうになる。
自分と船の境界が曖昧になり、自分がただの情報の塊になって拡散していくような感覚。
──だめだ、集中しろ。
戸来は己を叱咤した。
思い描くのは、ただ一点。
木星。
あの巨大な赤い嵐の上。
誰の支配も受けない、自由な空。
「そこだ……!」
戸来の叫びが、システムを通じて船全体に伝播した。
「そこが、俺たちの出口だ!」
三人の意志が、一点に収束する。
海斗の忍耐が船を支え、ココの技術が舵を取り、戸来の決断が道を拓く。
ミナトがそれを瞬時に解析する。
《音声認識、"JUPITER"。座標データ変換。ベクトル修正。出力変数、最大》
NAG-13が真の力を解放した。
混沌の海に、一本の光の道が走る。
確定した未来へのルート。
ナギサは最大戦速でその光の中へ突入した。
強烈な閃光。
すべての感覚が飽和し、白く染まっていく。
抜ける。
戻る。
向こう側へ。




