エピソード33、木星の重力、過去の引力
〈メンバメイ〉を脱出してから数日。
〈ホシノナギサ〉は順調に木星への航路を進んでいた。
通常航行に戻った船内は、穏やかな日常を取り戻しているように見えた。
だが、ココ・ミキモトの様子だけがおかしいことに、戸来は気づいていた。
彼女はシフト以外の時間、ほとんど部屋から出てこない。
食事も簡単なゼリー飲料で済ませ、ブリッジで顔を合わせても、必要最低限の言葉しか発さなくなっていた。
あの脱出劇──「ひとつになる」体験をしてからだ。
夜、船内時計が休息時間を告げる頃。
戸来は整備デッキの隅に座り込んでいるココを見つけた。
彼女は膝を抱え、窓の外の星をじっと見つめている。その背中は、普段の勝気なエースパイロットとは思えないほど小さく見えた。
「こんなところで油を売ってると、海斗に整備係の仕事を奪われるぞ」
戸来が声をかけると、ココはびくりと肩を震わせた。
振り向いた顔は蒼白だった。
「……船長」
「眠れないのか」
「……ええ。ちょっと、ね」
戸来は彼女の隣に腰を下ろした。
冷たい床の感触が伝わってくる。
あの時の感覚が、抜けないのかココは膝に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
「あの感覚……知ってるの」
彼女の声は、震えていた。
「初めてじゃなかった。船と繋がる感覚も、AIが脳に侵入してくる感触も」
「……軍にいた頃の話か」
ココは顔を上げ、自嘲気味に笑った。
「軍なんて立派なものじゃないわ。私は……モルモットだった」
彼女が語り始めた過去は、想像以上に冷たく、暗いものだった。
数年前、GA――大亜細亜共栄連邦――が極秘裏に進めていたNAG-13の適合者育成プロジェクト。
ココはその候補生、「ナンバー7」だった。
優れた反射神経と空間把握能力を持つ子供たちを集め、NAG-13システムとの直結実験を繰り返す日々。
「私には、同期がいたの。ナンバー6。私よりずっと優秀で、優しい男の子だった」
ココの視線が遠くを見る。
「ある日、有人実験が行われたわ。空間の歪みへ突入する実験。彼は……失敗した」
その時のことを思い出したのか、ココの手が自分の腕を強く抱きしめる。
「システムが繋がっていたから、全部伝わってきた。彼の船が歪みに飲まれる感覚。身体が引き伸ばされて、情報に分解されていく痛み。彼が……消滅する瞬間の恐怖までが、まるで自分のことのようの伝わって来たわ」
戸来は黙って聞いていた。
かける言葉が見つからなかった。
「私は怖くなって、逃げ出した。軍を抜け、名前を変えて、民間のパイロットになった。でも……NAG-13は覚えていたのよ。私の生体パターンを。だから火星で、あのシステムは私を受け入れた」
ココは強く唇を噛んだ。
「私は疫病神よ。私が乗っている限り、この船はNAG-13に目をつけられ続ける。また実験場にされるわ。……次の港で降ろして。それが、あなたたちのためよ」
吐き出すような告白だった。
彼女はずっと、この恐怖を一人で抱えていたのだ。
戸来は静かに息を吐いた。
「……海斗」
「うぇっ!?」
突然名前を呼ばれ、通路の陰から海斗が転がり出てきた。
聞き耳を立てていたらしい。気まずそうに頭を掻いている。
「お前、聞いてたな」
「す、すいません。ココさんが心配で……」
「ちょうどいい。お前はどう思う? ココが疫病神だってさ」
海斗は真面目な顔になり、ココに向き直った。
「疫病神っていうか……福の神じゃないっすか?」
「はあ?」
ココが呆れた声を出す。
「だって、ココさんがいなかったら、俺らメンバメイの壁に激突して死んでましたよ。あの機動、ココさんがいたから耐えられたんすよ」
「それは……システムが勝手に……」
「違うな」
戸来が断言した。
「システムは道具だ。使ったのはお前だ。お前が逃げずに操縦桿を握り続けたから、俺たちはここにいる」
戸来はココの目を見据えた。
「お前が発信機だと言うなら、俺たちは受信機だ。どのみち繋がってたんだよ。この船に乗った時点で、俺たちは共犯者だ」
ココが言葉を詰まらせる。
《同意します》
頭上のスピーカーから、ミナトの声が降ってきた。
《ココ・ミキモトの神経接続データは、本船の構造材と極めて良好な相性を示しています。操舵手としての適性は最高ランク。交換は非推奨です》
「……あんたまで」
ココの目から、涙がこぼれ落ちた。
それは恐怖の涙ではなく、安堵の涙だった。
「部品扱いしないでよ……」
彼女は泣き笑いのような顔で、袖で涙を拭った。
「……わかったわよ。降りない。最後まで付き合ってあげるわ」
「そうこなくちゃな」
海斗が笑う。
「ただし」
ココは指を一本立てた。
「次はもっと上手くやるわ。ナンバー6みたいにはならない。絶対に」
「ああ。頼りにしてる」
戸来が手を差し出すと、ココは強く握り返してきた。その手はもう震えていなかった。
窓の外には、木星が迫っていた。
巨大な縞模様。大赤斑が、まるでこちらを見据える一つ目のように威圧感を放っている。
その重力は彼らを逃がさない。だが、過去の引力になら、もう抗うことができる。
三人と一隻は、改めて一つのチームになった。




