エピソード32、条件の実践 ──「ひとつになる」
廃棄シャフトの中は、死んだ機械の墓場だった。
建設当時に使われていたとおぼしき巨大な資材搬入路は、いまや無数の鉄骨や配管の残骸が浮遊する障害物コースと化している。センサーライトが切り取る視界は、次々と現れる障害物の影で埋め尽くされていた。
〈ホシノナギサ〉は、その狭い闇の中を疾走していた。
船体幅と通路幅のクリアランスは、左右あわせて三メートルもない。
通常の操縦ならば徐行ですり抜けるような場所だ。だが、今の彼らにブレーキを踏む選択肢はなかった。
「後ろ、来ます!」
海斗が機関コンソールのモニターにかじりつきながら叫ぶ。
「数は四機。GA――大亜細亜共栄連邦――の自律追跡ドローンっす。速い!」
後部カメラの映像には、暗闇を裂いて迫る四つの光点が映っていた。小型で高機動。障害物を苦もなく回避し、正確にナギサのエンジンノズルを狙ってくる。
「しつこい客ね」
ココは額に汗を滲ませながら、操縦桿を細かく操作し続けていた。
彼女の指先は鍵盤を叩くピアニストのように舞っているが、その表情には余裕がない。
「右舷、障害物接触まで三秒。回避角、修正」
船体が傾く。
直後、船腹を何かが掠める嫌な振動が伝わった。
「シールド残存六割。今の接触で発生器が加熱してます」
「わかってる。でも、これ以上は無理よ」
ココが声を荒らげた。
「この先、構造図だと直角に近いクランクがあるわ。今の速度で突っ込んだら、曲がりきれずに壁とキスすることになる。減速しないと」
「減速したら、後ろの連中にハチの巣にされるだけだ」
戸来が冷静に返す。
状況は詰んでいた。
速度を落とせば撃たれる。速度を維持すれば壁に砕ける。
人間の反射神経と、通常の操艦技術では、この矛盾を解決できない。
戸来は深く息を吸い込んだ。
この瞬間が来ることを、予期していた。
「ココ、海斗。配置につけ」
その言葉に、二人の動きが一瞬止まる。
「……ここでやるんすか」
「ここしかない」
戸来はコンソールのメインスイッチに手をかけた。
「準備条件C、適用。および条件A、移行」
ココが操縦桿から手を離した。
海斗が機関制御パネルの全リミッター解除コードを入力する。
「ミナト。全権はお前だ。俺たちを使え」
《了解。接続プロセス、開始》
ミナトの声が響くと同時に、ブリッジの照明が非常用の赤から、冷徹な青色へと切り替わった。
瞬間、三人の感覚が変質した。
視覚や聴覚といった人間のインターフェースが後退し、船のセンサー情報が脳髄に直接雪崩れ込んでくる。
ヘルメットのバイザー越しに見るモニターの数値が、ただの数字ではなく、自分の身体のコンディションとして知覚される。
「個」の意識が溶けて機械に飲み込まれる恐怖を訴える。
だが、その恐怖すらもミナトは「危機回避のためのパラメータ」として処理した。
海斗が小さく呻いた。
エンジンの燃焼室温度が、自分の胃の腑が焼けるような熱さとなって伝わってくる。冷却材の循環ポンプの振動が、自分の脈拍と重なる。
ココは目を見開いた。
船体の外殻に取り付けられた無数のセンサーが、彼女の皮膚感覚と化した。右舷の塗装が剥がれる痛み、スラスターノズルの角度、空間の広がり。それら全てが、自分の手足の位置を把握するのと同じ解像度で認識できる。
そして、ミナト。
AIの冷徹な演算処理が、彼らの思考の隙間を埋めていく。
《同期率、安定。これより高機動回避へ移行します》
ミナトの宣言に、感情はなかった。
ただ、最適解を実行するという意志だけがあった。
時間が引き伸ばされる。
背後に迫るドローンの動きが、コマ送りのように遅く見えた。こちらの処理速度が、彼らを凌駕している証拠だ。
目の前に、巨大な鉄壁が迫る。
人間なら絶望する距離。
だが、今の彼らは一つのシステムだった。
ココが叫ぶことなく、意志だけで船の姿勢イメージを描く。
──右へ。壁を蹴るように。
そのイメージを受け取ったミナトが、瞬時にスラスター噴射角を計算する。
物理演算の結果、エンジンにかかる負荷が限界を超えると予測が出る。
海斗が反応した。
彼がコンソールを操作したわけではない。熱を感じた瞬間に、「耐えろ」と念じた。その意志が信号となり、冷却系への出力配分をコンマ一秒で書き換える。
戸来は全体を俯瞰していた。
恐怖も、焦りも、すべては船を動かすための燃料だった。
──行け。
三人の意志とAIの演算が完全に重なった。
〈ホシノナギサ〉が、あり得ない挙動を見せた。
減速しない。
コーナーの手前で、船体を横倒しにするように九十度ロールさせる。
そのまま、スラスターを壁面に向けて全力噴射した。
激しいGが三人をシートに押し付ける。
内臓がねじれるような圧迫感。
だが、船は壁に衝突しなかった。
炎の圧力が壁を叩き、その反作用が船体を強引に横へと押し出す。
金属フレームが悲鳴を上げ、船体が歪むような衝撃が走る。だが、それはゴムのようにしなるのではなく、構造限界ギリギリで踏みとどまる剛性の軋みだった。
直角ターン。
追跡していたドローンたちは、その理不尽な機動についていけなかった。ナギサが消えた空間に突っ込み、正面の鉄壁に次々と激突して火球に変わる。
背後で爆発の閃光が瞬いたが、彼らはもう振り返らなかった。
《障害物クリア。出口まで、あと三秒》
ミナトの声が脳内に響く。
前方に、微かな光が見えた。
人工惑星の外壁に開いた、廃棄用の排出口だ。
ナギサは弾丸となって闇を突き抜けた。
光の中へ飛び出す。
視界が一気に開けた。
無限に広がる星々と、眼下に浮かぶ巨大な〈メンバメイ〉の威容。
その静寂の中に、白い船体は踊り出た。
《追跡反応、消失。全システム、通常モードへ移行》
青い照明が落ち、元の暖色系の明かりが戻る。
接続が切れた瞬間、強烈な虚脱感が三人を襲った。
「……っは、あ……」
海斗がコンソールに突っ伏し、荒い息を吐く。
全身が汗でびしょ濡れだった。
「なんだ、今のは……。エンジンの熱が、身体の中に残ってる……」
ココも震える手でヘルメットのロックを外した。
顔色は悪いが、その瞳には異様な光が宿っていた。
「船が……手足みたいだった。考えたことが、そのまま動きになるなんて」
戸来はシートの背もたれに深く身体を預け、天井を見上げた。
指先がまだ痺れている。
だが、不快ではなかった。
「……これが、準備された船か」
人間とAIと機械が、境界を溶かして一つになる。
それは恐怖を伴う体験だったが、同時に絶対的な信頼の形でもあった。
「ミナト、船体の状況は」
戸来が問いかける。
《外殻温度上昇、構造材に軽微な金属疲労。しかし、航行に支障はありません》
《……ナイス操縦でした、パートナー》
そのAIらしからぬ一言に、海斗が顔を上げてニヤリと笑った。
「おだてる機能までついたんすか」
《事実を述べたまでです》
〈ホシノナギサ〉は、ゆっくりと船首を巡らせた。
目指すは、遥か彼方の木星。
もう、追手はいない。
だが彼らは知っていた。この先に待つものが、今の逃走劇よりも遥かに過酷なものであることを。
それでも、今の彼らには確信があった。
この船となら、どこへでも行ける。
「進路セット。木星圏へ」
戸来の号令と共に、白い船は星の海へと加速していった。




